「われらが微賤(いやし)かりしときに記念したまへる者にかんしやせよ、その憐憫(あわれみ)はとこ しへに絶ゆることなければなり」詩篇136篇23節「なやみの日にわれをよべ 我なんぢを援(たす)けん 而(しか)してなんぢ我をあがむべし」 詩篇50篇15節
私は、一九〇四年四月五日に、三重県三重郡西村町字西村で、伊藤柴三郎・よ志の長男として生まれましたので、本年 (1987)もはや83歳になります。弟は3人で、次弟秀一は38歳で早世、四男保は昭和19年11月12日に中国大陸武昌において戦死、現在は三男正勝 が72歳にて九州久留米で余生を過ごしております。
父は私の幼い日、愛知県(現在の春日井市)において、小さな鉱山(亜炭)の経営をしていましたので、物質的な暮らしは比較的豊かでした。
今から7、80年前の日本は、まだまだ全体に貧しい時代でした。そういう中にあって、私は比較的豊かな生活と暖かい交わりのうちに育てられたのです。近所 の人やわが家へ働きに来る人達は、私の父や母を大変大事にしてくれました。
そういうことから、私も、みんなから「ぼっちゃん」 「ぼっちゃん」とかわいがられまして、子供心にもいつの間にか″自分は偉いんだ。自分の家は良い家だ ″という自慢というか傲慢さが、知らずしらずのうちに芽ばえて育ったことがよく分かります。つまり″私どもには、みんなが仕えてくれるものだ″″こちらは いつもみんなに命令すればよいのだ″というような考えであります。当時の日本の社会は、人に仕えるよりも、命令して使う人の方を偉く見ていましたから、そ ういう中で私はうぬぼれて生きてきたわけです。
ところが、私が15歳の新年1月に、父が事業に失敗し倒産して、一度に貧乏のドン底に落ちてしまいました。ほんとうにそれはみじめなものでした。今まで貧 しさを知らず、不自由さを知らず、みんなにちやほやされて生きてまいりましたのに、いっぺんに様変りです。飲み食いするにも乏しくなり、ひもじい目をした ことのない者がひもじい目をしなければならなくなりました。そして家が転落しましたら、あれほどそれまで親切にしてくれた人たちが、もう手のひらを返すよ うに、誰もわが家に寄り付かなくなりました。私の両親にも、また私にも言葉をかけてくれる人もなく、道で会っても知らん顔をする。わが家に来るのはみな借 金取りばかりです。
両親はクリスチャンではなく、この世のご利益追求の神信心でしたから、毎日毎日悔みごと、泣きごとのくり返しで、いわゆる夫婦ゲンカも多くなり、いっぺん に暗い家庭になってしまいました。それはまあ非常に寂しいことになったわけです。私は、自分でいうとちょっと傲慢に聞こえるかもしれませんが、小学校六年間は非常に健康で、六年間の学校生活は一日も 休んだこともなく、また成績はいつでも一番でしたから先生達からかわいがられて、将来、中学校・高等学校・大学へと望みをかけられておりましたし、自分も 将来大学に行って勉強したいという願いを持っておりました。でも15歳の一月に家が倒産して、いっぺんに貧しくなって上の学校へ行く希望がなくなってし まったことは、ほんとうに大きな悲しみであり痛みでした。もうダメだと失望の日夜でありましたが、当時の学校の倫理・修身の時間に、「患難は汝を玉にす」 つまり「貧乏になったのは決して不幸になったことではなく、そこを通ることによって磨かれた玉になる」という教えを受けておりましたから、寂しい境遇の中 から、自分で働いて勉強しようと決心しました。
そこで私は、父の知人のお世話で、ある輸出用品を製造する小さな会社に働きにまいりました。そこには30人くらい働いていましたが、昔のことですから今の ように労働基準法も何もありません。小さなお店では、朝早くから晩遅くまで働かなければなりませんし、働いても働いても収入は少ない。そういう中に身を投 じて、もう失望ばかりでした。肉体労働をしたことのない者が働くのですから、それなりの苦しさを十分に味わいました。それでも主人の了解を得て、夕方6時 から夜9時までは私立育英夜間中学校へ行きました。今の高等学校ですが、昼働いて夜間の学校で勉強する道が開かれて、将来はりっぱな大学を出て、良い社会 人になりたいという願いをもち始めました。
しかし、昼の働きの疲れで、夜の学校はなかなか勉強ができません。すぐ眠ってしまって、よく教師に叱られます。そういうことから学校生活もおもしろくなく なりました。
日本のことわざに「おちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる」という古い歌があります。順境の時にはちやほやしてくれるが、貧乏になり逆境に なるともう誰も目をかけてくれず、心にかけてくれない。来る日も来る日もそういう悲しい境遇の中に置かれてみて、初めて人間の心というものがどんなに冷た いものであるか、頼りにならないものであるかということを、私も15歳で知りました。
そういう悲観的材料の中にあることから、だんだん人生に対して望みを失いました。金がものをいう世の中で、お金がなくなったらほんとうにみじめでダメだと いう失望の状態に置かれて、だんだんと働きもイヤになり、勉強もおもしろくなくて怠けるようになってしまいました。職場ではそんなに教育のある人はおりませんし、まじめな信仰に生きているような人もおりません。ただ、金儲け一心の 30人の人達でありますから、毎日の会話は、明けても暮れても男女のみにくいきたない話ばかり。そこで歌われる唄も、人間の心を汚すような、生活をにごす ような唄ばかり。そういう職場では、いろんな誘惑がまいります。わずかばかりの月給をもらいますと、私よりも前にその店につとめておる先輩の人達は、ある いは酒に、あるいはタバコに、あるいはまた女遊びに私を誘惑しようとします。失望しておりますから、そういう所に行ってやろうかというような誘惑に、まさ に心がくずれようとする危険な状態になったこともたびたびありました。
そういう危険な中の1920年のことでした。私が15歳の秋、もうほんとうに勉強も働きもダメになって、実際非行少年におちいろうとする危機一髪の9月 27日の晩でした。その夜も学校はエスケープし、家を出る時には、「今晩も夜学に行って勉強します」と両親に言って出ましたが、途中で″もう今晩は遊ぼう ″と思い学校には行きませんでした。それまででも、少しでもお金がある時には、学校へ行くような顔をして、実は映画館に人って映画を見ます、学校へ行った ようなふりをして家に帰ってくる、そういうことを度重ねておりました。そして両親をいつわり、また自らをいつわっておりました。今にそういうことが分かっ たら、もう何もかもご破算になる、ダメになるという、罪の生活のはかなさを知りつつも、なかなかやめられないでくり返しておりました。その晩も、私は学校へは行かないで映画館へでも行きたいところでしたが、今にして思えば幸いなことに、その夜は一円の お金もありませんでした。ですから時間つぶしに町をぶらついて、学校の終る9時までを過ごそうとしました。
当時私は、日本で最も大きな街の一つの名古屋市で生活をしておりました。その名古屋市の中心街の大きな建物の並んでいる前を通っておりますと、その大きな 建物の中にはさまれた一軒のかなり大きい日本家屋から歌声が間こえてまいりました。私はその歌声に心ひかれて、″今晩どこかで時間を過ごして遊ばんならん が、お金がないから映画に行くこともできない。ここは何をしているところか知らんが、いっぺん入ってみよう″と思って入りました。
それは実はキリスト教の伝道をしている協同伝道館の伝道集会でした。それまでキリスト教会には一度も行ったことかありません。讃美歌を聞いたこともなけれ ば、説教を聞いたこともなく、また聖書を見たこともありません。何もわかりません。とにかく入って一番後ろのベンチに座りました。
その晩40〜50名の人たちが集まっていました。私は、みんなの顔を見て、一番はじめに″ここにおる人達は何と明るい、いい顔をしてる人達だろうか″と気 づきました。それまで私は毎日、不平と不満と呪いに生きていましたから、暗い顔をしておりました。私の職場の人たちも、「お前はいつも暗い顔をしたやつ じゃなあ。ほんとうにお前は暗い。そしていつもぐちや文句ばかり言う、ちっともかわいげのないやつだ」と言っていました。そういう心の暗さ、罪の暗さがそ のまま出ておる者だと自覚しておりましたから、初めて入った教会の皆さんが明るい、きれいな、きよらかな顔をして歌を唄っている姿に大きい感動をおぼえま した。
目をつぶってじっとその歌を聞くのですが、私には何のことかちっとも分かりません。歌詞も意味も分かりません、初めてですから。しかしみんなが清らかな顔 でうたっているのはどういう歌だろうか? 今まで職場などで聞く歌は、明けても暮れても人間のきたない歌ばかり。ここの歌は何という美しい感じを与える歌 であろうか。いらいらしている私の心を、なんとなく静めてくれるような歌、またよごれておる自分の心が洗われるような感じがする歌、これはいったいどうい う歌であろうかと、分からないままに目をつぶってじっと聞いていると、とてもいい気持ち、深い感銘を受けたのでした。歌が終りましたら、司会をしている方が「お祈りをします」といってお祈りをされました。私は、そういうお祈りは今まで 聞いたことかありません。日本人が神社や寺で祈るお祈りとは違う感じを受けました。お互いにものを言うようなお祈りをして、「それでは今晩、一人の先生か ら神様の恵みについてのお話をしていただきます」と言って、講師を紹介しました。
その講師は、15歳の私から見たらちょうど私のおじいさんになるぐらいの感じの方で、しかもそれは西洋人でした。私はそれまで西洋の人の話を聞いたことか ありません。名古屋には金城学院といって、大変よいミッションスクールがあります。キリスト教主義の女子中学・女子高校・女子大学の学校を創立されたR・ E・マカルピン博士がその晩の説教者でした。(そのことはあとで知ったのですが)。ずいぶん背の高い方でした。しかも何と日本語で話し始められたので、″ 西洋人でも日本語を言うのか″とびっくりしてひきつけられました。
「こんばんは。皆さんよくいらっしゃいました。それでは今晩、イエス・キリスト様のことをお話しします」とおっしゃる。私はイエス・キリスト″という名 前を聞いたのは、その晩が初めてです。歴史の中にイエス・キリストという方がおられたなんて全然知りませんでしたが、その老先生を通してイエス・キリスト のことを聞くことになりました。
先生は口をひらいて、「イエス・キリスト様は2000年前、この世に生まれておいでになったが、どういう目的を持ってこの世においでになったかを、まずイ エス様ご自身のお言葉から聞きましょう。イエス様はこの世においでになった時、ご自分でこういうふうにおっしゃっています。『わたしは世の光である。わた しに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』と」。これはヨハネの8章12節のおことばですが、マカルピン博士はそこをひろ げてお読みになりました、日本語で。
もちろん私には何も分かりません。ただしかし、先生がその後「イエス・キリストという方は、この世界の光としておいでになった。また世界中の人間一人ひと りの心の中に、ほんとうの光を投ずるためにおいでになった。イエス様を心に迎えいれて、イエス様のご愛を通して、神様の愛をほんとうに信じて生きてゆくよ うになると、今どんなに暗い生活をしている人でも、その人は光の生活ができる、光の子として救われることになります。イエス様はこの世の立派な人間を召し 出して救うためではなく、罪の闇路に悩み苦しみ、もうダメになっている人間を、その罪の闇路から救い出して、神の光の子として救い出すために、そしてダメ な子をダメでない人間に救うためにおいでになった、それがイエス様です」そこまで話を聞いた時、私は非常に感動を受けました。
それは、私はその時、すでに闇の子であると思っていたからです。先ほど申しましたように、もうお金がなくなって貧乏になり、もう望みのないダメ人間である とそう思っておった。救いがないと思っておった。ところがイエス様は、こういうオレのようなダメ人間をもダメでない人間につくりかえるためにいらっしゃっ た。毎日、朝から晩まで世を呪い、人を呪い、また両親さえ呪う。そして働きも勉強もいいかげんにして、罪の闇路を歩いて、毎日だんだんほろびに陥っていく 心細い、望みのない、こういう者を救うために、イエス様がこの世においで下さったということを聞いたのですから、非常なおどろきで、私は一生懸命その老先 生のお話を聞きました。「あとしばらくすると、クリスマスがきます。クリスマスは、このイエス様がこの世の中へおいでになった、神の愛の生き たしるしとしておいでになったそのことをお祝いするものです。どうぞ皆さんがイエス様を心にお迎えして、今年はほんとうに良いクリスマスをお迎えなさるよ うに」と先生はお話し下さいました。キリスト教の話は、日本ではなかなかすぐには分からないというのが定評ですが、私はその老先生のお話しでその夜すぐ分 かりました。″イエス様という方は、こんな者を救うためにおいで下さった。それなら私は信じてこの方の救いにあずかりたい″とその晩心に導かれました。
やがてお話が終って「お祈りをします」と言われ、みんなが頭を下げましたから、私も頭を下げました。そしてどういうお祈りがあるかと思っておりましたら、 先生は、「それでは私が今からお祈りしますが、お祈りの前にちょっと皆様におたずねします。今晩この中に、ほんとうの喜びのない人がいますか。ほんとうの 平安を持っていない人がいますか。何とかして、清い、善の生活をしたいと思いながら、反対に毎日毎日闇の悪い方に導かれており、だから何とかしてほんとう の救いをほしいと願う、そういう人はいらっしゃいませんか。もしそういう人があったらちょっと手をあげて示して下さい。私は今晩その方の中にイエス様の光 の救いの命が注がれるようにお祈りします」と、おっしゃった。
その話を聞いた時に私は、頭の先から足の先まで水をぶっかけられるように、ぞっとしました。″この先生はどうして私の心の状態や生活をこんなによく知って るんだろうか? 誰か私のことを先生につげ口したんだろうか。たしかに私のことを言っておる″と。しかし私は″私はきたない人間です。罪の人間です。闇の 子です。どうか救っていただけるようにお祈り下さい″と心の中では願ったけれど、みんながいるからはずかしいので、手をあげることはできませんでした。し かし先生はやさしく2度、3度せまりました。とうとう最後に私は、″もう知られてしまっているんだから決心しよう。今晩イエス様を迎え入れよう。どうぞ私 のためにお祈り下さい″と手を上げました。するとその先生は、順に手を置いて祈ってくださいました。それが1920年9月27日、15歳の夜のことです。 そしてその晩その先生から、その協同伝道館のすぐ近くにある日本メソジスト名古屋中央教会に紹介をいただいて、次の日曜からその教会に行くようになったの です。日曜日の朝の礼拝と、晩の伝道集会に行くようになりました。初め三週間ほどは、教会備え付けの聖書と讃美歌を借りていましたが、だんだんと教会生活を続けていますと、自分の感動 を聖書の中に書き入れたいし、感動した所には赤鉛筆でアンダーラインをひきたいと思い、自分のわずかなお金で旧新約聖書を買い、讃美歌を買って、一生懸命 教会にまいりました。その教会の杉原正義老牧師は私に、「月、火、水、木、金、土の六日間は、わかっても、わからんでも旧約聖書一章、新約聖書一章ぐらい 読み、朝起きたらお祈りして勉強に、働きに行きなさい。また晩休むときには、一日のことを感謝し、何か反省することがあったら悔い改めてお祈りして眠りな さい」と教えて下さいました。
私は言われるままに、旧約聖書の創世記から毎朝一章ずつ、また新約聖書をマタイ伝から、毎朝一章ずつ読みました。でもそれまで全く教会に縁がなく、聖書に 縁のなかった者ですから、聖書を読んでも分からんことがいっぱいありましたが、「分かっても、分からんでもくり返しくり返し拝読せよ」とおっしゃった教会 の先生のことばを忠実に守りました。
教会生活が始まって一ヵ月、ニヵ月、三ヵ月と続いて行く間に、たしかに境遇は今まで通り貧乏で、昼働いて夜の学校に行く大変苦しい生活でしたが、今まであ れほどいやであった貧乏も、働いて勉強しなければならんという苦しみも、いつの間にか忘れさられ、働くことに身が入るようになりました。そして、働きなが ら夜勉強するというのがとてもいいことだという励ましを心に与えられて、働きも勉強もおもしろくなってきました。何となくほのぼのとした希望が与えられる 思いがしてきました。
そういうある夜、学校から帰りましたら父親が、「栄一」と呼びました。「ハイ」と返事をしますと、「ちょっと来い」といいましたから父親の前に座ります と、父親が私に「お前は近頃ちょっと変わったな」と言います。「何か変わったかね?」とききますと、「お前の顔は近頃何だか明るくなってきた。今までお前 は暗い顔をしている子だったが、どうして近頃そんなに明るい顔になってきたのか。それからお前は近頃よく『ありがとう』 『ごめんなさい』と言う。以前は そうでなかったのに、最近はどうしてそういうふうになったのか。何をやってるのか。近頃何をお前は修養してるのか」と、たずねるのです。これはびっくりで した。毎日、朝から晩まで一緒に生活している親子の間で、私はべつにそんなに変わったと思わないのに、父親が私の中に変化を見い出したのです。闇から光 に、不平不満から感謝、そしていつでも自己主張している者が「ごめんなさい」とおわびするようになったと言ってほめてくれました。
私はその話を聞いて、とてもうれしく思いました。初めて福音を聞いた晩、″イエス様は闇の子を光の子に造りかえるためにいらっしゃった″、また″ダメな子 をダメでない人間に救うためにいらっしゃった″とマカルピン博士がおっしゃったが、私のうちにそういうことが現実に出てきているとわかって、ほんとうにう れしくなりました。私は決心して、その年のクリスマス、つまり1920年の12月27日に杉原老牧師から洗礼を受けました。それは初めて教会の集会に行っ てから三ヵ月後でした。そしてそれからいまや68年という信仰の歩みに入れていただいて、ほんとうに感謝しております。
コリント人への第二の手紙5章17節を見ますと、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべ てが新しくなったのである」という約束のお言葉がありますが、私のような者の上にも、それが起こったのです。先ほどお証ししましたように、何も分からない 無学の少年でしたが、イエス様の救いの導きに出会って、貧乏で働きながら夜間の学校で学ぶ生活の中でも、生きる意欲と力が与えられたのです。人生の不幸 は、貧乏や逆境ではなくて、逆境に打ち勝つ力がないことです。人生の苦しみに打ち勝つ力が与えられたなら、それはほんとうに恵みであり感謝であるというこ とが分かって、それから私は将来に大きい希望をもつようになりました。将来は大学に入って、法律かあるいは経済を勉強して、やがては政治家か実業家になり たい、そういう希望で勉強を始めました。
当時私の毎月の収入は、40円ぐらいでした。そのうちの半分の20円は、貧乏になった両親に入れて家を助けヽあとの20円で自分の生活をし、勉強をし、ま た貯金をして将来の大学の勉強の備えをすべく続けました。
そして1924年に私は仕事をやめて京都に出、大学に入学する高等予備校に行くようになりました。ほんとうは東京に出たかったのですけれども、その前年の 1923年の9月1日に東京大震災で東京は潰滅してしまい、多くの学校はみなつぶれてしまいましたので、やむなく東京行きを断念して、京都で勉強するよう になったわけです。
さて京都の高等予備校で勉強していた時、当時の日本メソジスト洛東教会という小さい教会にまいりま した。
そこの牧師の樋口先生は、別に神学校を出た方ではなく、小学校だけしか出ておられない方でした。しかし当時日本のキリスト教界に霊的な面において大きな感 化をのこされた英国のバックストン先生の導きを受けて、日本伝道隊の伝道者として洛東教会にて働いてらっしゃる、非常に霊的に深い先生でした。この先生 は、聖書を神の御言葉とし、大きい集まりでも小さな集まりでも、いつでもイエス様を主とし、イエス様のみ言葉に従うということ、いっさいを信頼して従うと いうことがどんなに大事であるかを、打ち込んで下さいました。祈ることと、み言葉によって生きてゆくことの教育を受けました。まことに感謝でした。
そして1924年の4月から京都で勉強を始めたのですが、毎日曜日には三キロぐらいある所を往復とも歩いて教会に朝早くから行き、日曜学校の教師をさせて いただきました。また、大人の礼拝の一員として、あるいはまた青年会員として、夜は路傍伝道に行って夜の伝道会を助けたりして、とにかく日曜日は全部ささ げて教会活動に励みました。
その当時も働きながらの学生ですから、物質的には貧しかったのです。けれども、樋口牧師を通して、献げものの喜び、とくに10分の1を献げてゆく喜びの教 育も受けましたから、ちゃんと什一献金の喜びも経験し、特に教会生活の中では非常によい交わりが与えられ、また若き良き信仰の友も与えられて、ほんとうに 楽しいときでした。1924年10月末のことでした。ある朝下宿の部屋での密室の祈りの時、マタイ9章35節以下をひ とりで静かに拝読していました。「イエスは、すべての町々村々をめぐり歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをお いやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱りはてて、倒れているのをご覧になって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた。『収穫 は多いが、働き人が少ない。だから収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』と、この御言葉に触れました。
それまでもここを読んだことはあったのですが、″これは私には関係ない。牧師になる人か、伝道者になる人に言われている御言葉である″と思っておりまし た。ところがその朝、この御言葉に深く心が留められて、″救われなければならない人がいっぱいいる。だが救われる人が少ない。それは働き人が少ないから だ。救われなくてもいい人がいっぱいで、救われなければならない人が少ないのではない。すべての人がイエス様の福音で救われなければならないが、実はこの 救いを知らせに行く働き人が少ないから、救われる人が少ないのだ。日本の教会が盛んにならない。だから収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出 すようにしてもらいなさい。それは他人がやるのじゃない。おまえが行くのだ。このイエス様の働きを皆に知らせて、ひとりでも多く救われるように、お前がそ れをしなければならん″という御言葉からのせまりを覚え、本当にその朝苦しみました。
私はずっとその御言葉を見つめて、下宿の一室で祈っておりましたが、すぐ″神様、どうぞそのようにして下さい″と祈れませんでした。″もし牧師になった ら、日本では一般の人よりも収入が少ない。ところが自分の家は破産したままで貧乏である。自分は一家の長男で後継ぎである。だから牧師にはなれん″と。だ が御言葉は″そういう境遇の中からでも伝道者として、福音のために自分の身を献げるように゛とせまってきます。″どうぞそのようにして下さい″とはすぐ返 事ができなくて、私は本当に困りました。そして「神様、どうぞこの御言葉に従えるように、私の心を導いて下さい」と、長いことひざまずいて祈りました。そ して″もう今日はこの主の呼びかけにお従いしますと返事ができるまで、学校へ行くのをやめよう。そして祈ろう″と決めました。
長い間、御言葉の挑戦に心が動かされつつ決断ができずに悩んでおりましたが、午後になって、「主よ、あなたのみこころのままに導いて下さい。あなたが私を 伝道者になさるのがみこころであるならば、私は法律や経済を学ぶことをやめて神学校に行きます」と決心のお祈りができて、本当にほっとしました。それは私 の1924年の秋、10月の終りのある日のことでした。
牧師先生にその話をしましたら、非常に喜んでくれました。しかしすぐ神学校には行きませんでした。″人間の心はしばしば変わることがあるから、もう1年間 教会に奉仕して、志が変わらなければはっきりと行こう″と思い、翌1925年も一年間、学校の勉強をし続けながら洛東教会で奉仕しました。日曜学校の教 師、青年会の役員、そして日曜日の礼拝、伝道夕拝、祈祷会、また牧師にお供をして、ちょうど神学生かやるように路傍伝道でも何でもさせていただいて、従っ て行きました。1926年4月、神戸にある関西学院の神学校に入学を許されて行きました。当時日本メソジスト関係 の神学校は、西の方では関西学院の神学校、東の方では青山学院でしたが、私は西の方でしたから、関西学院にまいりました。しかし率直に言って、当持私は何 も知ひませんでした。神学校というのは、天国のようなところで天使のような人ばかりが集まっているものと思いこんで、希望を持って行きました。
ところが私が入学しました持のその神学校は − まことにそのようなことを言って相すまんのですが ー 信仰的には洛東教会における訓練のような熱い祈り と実践に乏しく、生ぬるい状態でした。神様をかしこみおそれるという、敬虔の修業が、神学校の寮においてもあまり行われておりません。みんな普通一般の学 生と何も変わりません。ですから私はとても失望して、間もなく″もうこんな神学校はやめてしまおうか″という誘惑にかられたことがありましたが、しかしま た祈っておりますと、″自分の気分で神学校を出たり入ったりしてはならない。自分の気に入らないことがあっても、その気に入らないところで主によるよい証し人となっていくこと が大事。人を頼らずに、一対一で主に向ってひとりで祈り、聖書に接して生きてゆくことが大事と示され、神様のあわれみによって神学校の生活も続けること ができました。
神学校3年生の時、私は当時アメリガ南メソジストミッションの日本の代表者、J・T・マヤス博士の日本語のお仕事を手伝って、毎月30円のお礼をもらって いました。神学校は当時、奨学金で生活できましたので、日本語の働きの30円は、私の家へ送金していました。名古屋にある私の家では、もう父は弱くなって しまい、倒産した後、収入は何もない状態でした。しかし弟が二人おりましたので、その二人を当時の中学校(今の高等学校)へ入れるために、私は毎月その 30円を弟たちの学費として送金していたのです。
ところが1928年になって、J・T・マヤス先生はこう言われるのです。「アメリカの経済が悪くなり、教会の経済も少し弱くなってきました。今まであなた に私の日本語の働きを個人的に肋けてもらい月給を30円ずつあげていましたが、もうそういうお金が出なくなりました。やめてもらわなくてはなりませんが、 いいですか」という話。私は、「少なくともあと2年ぐらい、弟の学費の為に毎月30円送ってやらなければならないので困ります」と申しましたら、先生が 「それならば、大阪の西淀川で今小さい家庭集会を個人のお宅でもっています。あなたはそこを受け持って、一週間に一度でいいからそこへ伝道に行って働いて ください。そうしたらミッションから開拓伝道費としてあなたに毎月30円さしあげます」と言われるのです。私は、感謝してお受けしました。当時神戸から大阪の西淀川という所までは、阪急、阪神の二つの電車で片道1時間半かかりました。で すから日曜日の朝早く起きて行き、日曜学校と朝の礼拝説教と夜の集まりをもち、終ってまた1時間半かかって夜の12時頃に神戸の神学校の寮へ帰るという、 そういう生活が続きました。その頃は神様の恵みとあわれみによって、伝道心に非常に燃えておりましたので、日曜日の夜などは集会の前に太鼓をたたいて路傍 伝道をひとりでもしました。「十字架にかかりたる主イエスを見よや」という讃美などを歌いながら、みなさんに集会案内をし、人を集めてきて集会をしまし た。
まだ神学校の学生ですから、どういう話をしたか今よく覚えていません。しかしその家庭集会はいつも人がよく集まりました。1928年の1年間には、28人 の兄弟姉妹が救われて洗礼を受けました。私は神学生ですから、洗礼をさずけることができません。主任者のJ・T・マヤス先生が洗礼をさずけてくださいまし た。1年に28人も教われたので、すぐ教会ができるようになりました。
1929年3月、私が卒業いたしました時、そのまま西淀川教会の牧師としての任命をうけ、それは私にとって大きな恵みでありました。最近1985年の回1 月に、私は58年ぶりにこの西淀川教会の特別伝道会に招かれてまいりました。私はそのとき、58年前の4月3日に初めて西淀川教会で開拓した時のことを思 い起こし、またあの1年間に28人の人が救われて教会ができたこと、そして今なお続いて教会活動があり、今や立派な会堂もできておる様子に接して、もう感 慨無量でした。
その年、西淀川教会の正式の責任伝道師として働きました。まだ按手礼は受けておりませんが、伝道師 として御用をするようになったとき、マヤス先生は、「もう一つ兼務をしてくれないか」と言われるのです。それはその西淀川教会から15キロくらい南の、港 に近い伝道所でした。小さい日本の家を借りて伝道が始まったばかりの築港教会です。「これから開拓伝道をしたいが、あなたはそれも担当してくれないか」と 言われるわけです。私は「ご用をしましょう」とお引き受けしました。
その時マヤス先生は、「日曜日は朝は西淀川教会の責任があるのだから、築港教会は日曜日の朝でなくても午後でも、あるいはウイークデーのいつでもいいから 行ってあげてくれ」と言われました。しかし若い時で元気がいいですから、カラ元気かもしれませんが、「いや先生、私はやっぱり日曜日の朝にします。日曜日 の朝の礼拝は大事ですから」と申しました。「午前10時から西淀川教会の礼拝をするなら、午前中に二つも行けないだろう。どういうふうにするのか」と言わ れましたから、「いや、朝8時から9時まで築港教会に行って伝道し、9時に終ったらすぐに帰ってきて礼拝したらできます」 「それは無理だ」 「無理だと 言ってもやってみないとわかりません。とにかくやってみましょう」と言ったのです。
そして築港教会の兄弟姉妹と相談して、8時から9時までの日曜日の朝の礼拝を始めました。はじめは難しいという意見の人が多かったですが、やってみたら最 初13人の方が集まりまして、それからずっと続きました。築港教会は当時、どちらかというとサラリーマンの若い奥さんが比較的多いところでした。ご主人は 未信者が多く、奥さん方だけが教会へ来て礼拝を守っていたのです。
ところがおもしろいことに、その奥さん方はとても喜びました。「先生、8時から9時までの礼拝はとてもいいです。主人は6日間働いて疲れているので、日曜 日は朝寝をしてだいたい9時頃に起きます。それから朝ごはん。終わると今日はどこへ行こうあそこへ行こうと言いますが、10時から礼拝に行くと言うと、未 信者の主人は機嫌が悪くなるのです。でも9時に礼拝が終ると、まだ主人が寝ておる間に帰って来ますから、主人に何のさまたげもなく毎週礼拝が守れます。ど うぞこの集会を続けて下さい」と言われて、とても感謝をして続けました。
そしてその年、あの小さい教会で、クリスマスに13人の方が洗礼を受け、マヤス先生もとても喜んで下さった。そうやって2年目には築港教会も、教会として 成長をいたしました。その翌年の1930年のことです。マヤス先生は私にまた「伊藤さん、もう一つ兼任をしてくれません か。大阪と京都との間を走っておる京阪電車の蒲生というところに、今開拓伝道が備えられておる。ここは工場街で、労働者がいっぱいおるところですが、どう ぞあなたが行ってやってください」といわれる。そして「これはもう、ウイークデーの何日でもいいから、あなたの都合のいい時に行ってくれたらいい」と。そ の時も私は、若い時でしたから「いや、やっぱり先生、日曜日の朝したい」「朝するといっても、8〜9時までを築港で、10時から西淀川教会、午前中はそれ でもうつぶれてしまう。朝できるはずがない」とおっしゃった。「いや先生、朝の早い電車に乗って行き、朝6時〜7時まで早天礼拝をして、7時に終ったら築 港教会に飛んで行って8〜9時まで礼拝をする、終ったらまた本教会の淀川へもどってきて10時から礼拝、そういうことをしたらできます」 「しかし、そん な朝6時〜7時までに集会をしようたって、それは無理だ。そういうことはできない」とおっしゃいました。
でも私はやりました。その蒲生教会に朝6時の礼拝に行くために、日曜日の朝はいつも3時半に起きました。そして阪神電車の一番の電車に乗って途中まで行 き、途中で市電に乗りかえて行きました。片道約1時間40分から50分かかりますから、私が6時の礼拝を始めるためには日曜日にはどうしても3時半に起き なきゃならない。しかしその土地の人は5時半頃まで寝ておれるのだから、日曜日に勤めに出る人でもとにかく朝早起きし、ごはんをたべて、弁当を持ち、礼拝 に来る。そして礼拝が終ったあと工場に入るようにしました。当時日本はまだ週休制でなく、多くの工場では第一と第三の日曜日は公休、第二と第四は出勤。あ るいは第二と第四が公休ならば第一と第三は出なければならん。ですから何かの都合で公休の日に礼拝に出られないとすると、一ヵ月に一度しか礼拝に出られな い。その一度もまた何か都合があると全然出られない。しかし朝6時〜7時までに礼拝をすると、朝ごはんをたべて弁当を持ち、礼拝が終ってから工場に入るこ とができる。それなら毎週礼拝が守れる。だからとにかく祈ってやろう、と私は決心して、みなに勧めました。「出来ないと思わないで、祈ってやろう。決心を して立ちあがりなさい」と勧めましたら、第一回の早天礼拝には13人集まってくれたのです。
そうしてだんだんと、この早天の6時から7時までの礼拝に人が増えていき、朝ごとに30人ぐらい集まるようになりました。みんなが喜びました。「先生、毎 日曜日に礼拝が守れる。出勤日でも礼拝を守って工場に入れる。今までは公休の日だけしか守れなかったが、本当に感謝だ」と言って喜んでくれました。
その年ので一月、クリスマスに6時〜7時までのクリスマス早天礼拝を持ちまして、やはり13人の人が洗礼を受けました。私は当時まだ伝道師でしたから、主 任者のマヤス先生に朝早く来ていただきました。芦屋から車に乗って来ていただきました。朝6時の大阪はまだまっ暗です。朝日が出ません。洗礼式が終った 時、マヤス老博士はこうおっしゃいました。「伊藤さん、私は日本に伝道に来て30有余年過ぎるが、こんなにまっ暗の朝早く6時から7時までのクリスマス礼 拝に、13人もの人に洗礼を授ける恵みを頂くなんて全く初めてです。本当に感激だ」といって喜んで下さったことを、今でも忘れることができません。
このように、若い私が三つの教会を担当して、毎日曜日午前中に6時〜7時、8時〜9時、10時〜11時半までと、三つの礼拝の伝道を持たせていただいたこ とは、今から考えると、本当に神様の不思議な恵みの導きであったことを覚えます。今もその三つの教会は残っています。代は変わりましたが、今もそこで伝道 が続けられていることは、宣教、伝道のために召し出され献身をすることのできた私にとりまして、本当に感謝にたえない思いです。私の大阪伝道は、そのようにして1928年〜1932年3月までの間に西淀川、大阪築港、大阪蒲生 と三つの小さい開拓伝道、教会設立のご用をさせていただいたことになりますが、1932年4月に私は満州の開拓伝道の任命を受けました。当時日本のメソジ スト教会は、監督によって任命されるという、いわゆる監督制ですから、1932年には当時遠く満州の首都の新京という所へ開拓伝道に行くようにという命令 があったわけです。実はその前年昭和6年(1931年)の秋、日本の軍隊によって満州事変が起き、満州問題がやかましくなりました。そこで開拓伝道が必要 だということで、はからずも私が教会の命を受けたわけです。
しかし当時はすぐ赴任することができませんでした。というのは、満州の鉄道が破壊されたりしていて、治安が悪かったからです。そこで満州に行くことのでき るまで暫定的に山口県の防府市にある小さい教会、防府メソジスト教会につかわされました。そこで牧会伝道をして、満州へ行く道が開けるまで待ち望んで伝道 しろという任命だったのです。
1932年4月から私は当時、徳山町にあった山陽新生会という文書伝道に任命をうけましたが、防府の杉野牧師が病気静養中で間もなく辞任されたため、7月 頃からは防府メソジスト教会にも行ったわけです。
ところが当時その教会はほんとうに小さい教会で、信者さんは5〜6人しかおりません。毎日曜日の礼拝も5〜6人、夜の集まり、祈祷会もほとんどありませ ん。したがって経済的には全くアメリカのメソジスト教会本部のミッション補助によって生きておりました。すでにそれまで42年間ミッションの補助を受けて いる、補助教会であったのです。私は、大阪で三つの教会の開拓伝道で希望に燃えていましたところが、突然この田舎の小さな教会につかわされて、まだ信仰も 未熟でしたから、がっかりしてしまいました。そしてむしろ失望的に、積極的でない伝道、どちらかと言えば早く満州へ行きたいという思いのまま、最初の間は 暗い生活をしておりました。
ところがその防府教会にまいりまして二ヵ月ほど過ぎました時、ある日のディボーションで、ヨハネ伝の21章15節以下の御言葉によって非常に取り扱われま した。ヨハネの21章15節には、復活の主イエスがシモソペテロにお会いになった時、「なんじ、われを愛するか」と三度お問いになっております。そしてペ テロが「あなたを愛します」と答えると、「私の小羊を養いなさい」 「私の羊を飼いなさい」というお言葉が主イエスから次々とペテロに与えられておりま す。そのお言葉で私は、イエス様を愛するということは主の羊である教会の会員を愛することであるということに心の目が聞かれました。″今自分は、大阪の盛 んな開拓伝道から、このさびれた山口県の田舎の小さな教会につかわされて、何だか格落ちしたように感じ、礼拝や集まりの出席者が少ないことに失望し腹を立 てているような状態である。つまり尊い魂を愛していないではないか″と示されたのです。
そこでこういう深い悔い改めの祈りをささげました。「主よ、私は満州に行くことばかりを急いでいました。ここにつかわされた以上、この教会の牧会伝道者と して全身、全力をつくして、この少数の魂のために働くべきでしたのに、集まりの出席者が少ないということのゆえに、兄弟姉妹を愛して励ますよりもむしろ、 いつも腹立ちまぎれの取り扱いや説教をするような、こういう不信仰な者でした。どうぞお許し下さい。私は、たとい満州へ行くことができなくても、今ここに つかわされておりますから、ここに全力投球をして伝道すべきであり、牧会伝道に精進すべきであることがわかりました。どうか導いて下さい」と深い悔い改め の祈りをして、次の日曜日の礼拝説教の中で、その悔い改めの証しをしました。そしてそれまでのきわめて冷たい自分の姿を心からお詫びしました。そんなこと から教会は、日曜日の礼拝の度ごとに人が増えてきて、その教会にまいりまして三ヵ月たった時、もはや日曜日の礼拝には20人〜30人と集まるようになり、 献金も非常に多くなってきました。
当時の教会の主任者は、P・L・パルモア宣教師でした。ある日その主任牧師のパルモア先生が、私に こういうことをおっしゃいました。「伊藤さん、この教会はすでにミッションから42年間、毎月40円の補助を受けてきました。今アメリカの経済が悪くな り、教会の経済も貧しくなって、ミッションではできるだけ補助教会が一刻も早く自給するように願っております。あなたはこの一年間に5円だけ牧師給を増額 して、ミッションの40円の補助を35円にするように働いてくれませんか。来年さらにまた5円増額するというように、年々5円ずつ増額をし、できるだけ早 く40円の補助金をうち切って自給教会になるように祈ってご奉仕して下さい」という相談をうけました。
これを聞いて私は、深く祈りをささげました。そしてやがて何日か後に示されたことは、″信仰の独立は、まず経済の独立からである″ということでした。そう いう示しを受けましたので、毎年5円ずつ牧師給を増額して、何年もかかって40円のミッションの補助を打ち切るというのではなしに、「何を食い、何を飲 み、何を着んと思いわずらうな。まず神の国と正しきを求めよ。さらばすべて必要な物はそえて与えられる」というマタイの6章33節の御召葉に立って、今す ぐ40円の補助を断わって、教会が与えて下さる30円の教会の自給額だけで生きようと決心しました。
そして、教会の役員の方7人をお招きして、「私どもは本年の10月一日から、今までミッションから補助をしていただいている40円を辞退しましょう。私の 牧師給は、70円いただいてる内の40円はミッションの補助であるが、この際ミッションにお返しして、この教会の自給額の30円だけで私は立ちたいと思う から、どうか皆が承知して協力して下さい。そして牧師給30円の自給教会にしようじゃないか」と相談を持ちかけました。しかし誰も賛成しません。役員のす べてが反対でした。「先生がおいでになる間はいいが、先生が転任されて他の人が来られた時、また補助を申し出ても許されんでしょうから、まあそんなことは しないように」という役員の反対でした。
私はその時、役員会に「とにかく30円で自給教会となりましょう。40円は断わるけれども皆さんに急に献金をうんと増額してくれとは言わないから。神様を 信じてやって行きましょう」と、反対を押し切って決定しました。そしてこの教会に赴任して半年の後、1932年の10月1日からミッションからの40円を 全部辞退して、その教会だけの自給の30円で立つことにしました。
しかしその時私は、個人的には経済的に非常な困難な中にありました。毎月70円いただいているうちの30円は、名古屋にいる下の二人の弟の学費のために毎 月送っておりました。私のすぐ下の弟は、私のあとに名古屋金城教会に導かれて熱心な青年クリスチャンになっており、教会にも忠実でしたが、ちょうどその頃 日本が不景気で失業しておりました。私はこの弟と母あてに、「こういう事情で、来る10月1日からアメリカからの補助金40円をお断わりして、教会の自給 の30円で立とうとするから、今まで送っておった毎月30円は送れなくなります。だから二人の弟達が新聞配達でも牛乳配達でも何でもして、自分で勉強する というんならやらして下さい。それができないのなら学校をやめて働くようにして下さい。どうぞ私が今まで送っておった30円送れなくなる事情を理解してほ しい」と手紙を出しました。
その手紙を見た弟はものすごく腹をたてて、すぐ私に怒りの手紙をぶつけてきました。「兄さんは長男で家をみ、親をみる立場です。それなのに主の命によって 献身したとか何とかいって、自由な道を歩いていらっしゃる。このたびも主の導きによるから40円をことわって30円でやるから仕送りができぬという。そう いうことが出来ないというのなら、もう僕は教会もやめる。信仰も捨ててしまう。兄さんはあんまりわがままだ」という内容の手紙でした。私は″これはこまっ たな″と思いました。そしてちょっと心配もしました。
しかし母も手紙をくれました。母は未信者ですが、やっぱり母には母のよいところがあります。母は私のそういう手紙に対して「お前の信ずるようにしなさい。 しかし借金をして人に迷惑をかけてまで自給をしないように」という大変やわらかい言葉のなかにも鋭い内容の手紙でした。それで私も深く祈らされたわけです が、結局六ヵ月目にミッションの40円を断わって、与えられる30円だけで生活することにし、日本メソジスト防府教会は、自給独立の教会として立ちまし た。
ところが「主は生きて備えて下さる」と聖書にあるように、すばらしいことが起きました。その月の下旬にまた次弟から部厚い手紙が届きました。又弟の腹立ち まぎれの手紙がきたかと案じて封をあけてみたら、前の手紙とは全くちがっていました。「この前は本当に傲慢無礼な手紙を書いて腹立ちまぎれにぶつけてごめ んなさい。私は長い間失業して、やることなすこと皆うまくいかないので、神の愛を疑っていらいらしている時にああいう手紙をもらったので、一層腹立ちまぎ れにあのようなことを書いてしまったのですが、実は一週間前、私は一年ぶりに初任給80円の仕事が与えられました。兄さんが40円の補助金を断わったら、 神様はその倍額の80円の初任給で私を新しい仕事に導いて下さいました。本当に信仰の大事なことが分った。もう母のことも二人の弟のことも私が面倒をみる から、兄さんは心配しないで自由に伝道し、どこにでも行ってやって下さい」というお詫びの手紙でした。
″ああ、何んたる感謝か″と、今でもその時のことを忘れることができません。″本当に主は生きておいでなさる。最も困難と思う時に、いつでもいと近くそば にいて、正しい道に導いて、わざをなして下さる″ということを本当に感謝しました。弟はそれから敗戦の翌年、若くしてこの世を去るまで、クリスチャンとし て生き、母と弟の面倒をよくみてくれました。
そうやって防府教会は自給断行をし、だんだん盛んな教会として信仰復興しました。日本の当時の国情は、軍部が力を増してきて、満州国を樹立し、軍部の圧力 の強い時代でしたが、防府教会は盛んな教会となり、私は満州へ行くことをいつの間にやら忘れてしまい、防府教会が最も嬉しい喜びの教会として7年余りを伝 道をいたしました。1934年のことです。私は長年の無理な働きで少し体が悪くなってきました。毎日微熱が出てきて、 だるくて仕事が充分できなくなり、そして結核の診断をうけました。やがて一日おきに喀血するようになりました。日に日に体力がなくなり38キロまで体重が へって、微熱と疲労と喀血のくり返し。前途に非常に不安な思いをもちました。
当時日本は、戦後の福祉の日本と違って、どんなに善人でも清い人でも、自分にお金がなかったら医者にかかることも療養することもできない時代でした。当時 の私は田舎牧師ですし、30円の自給教会ですから、貯えは全然ありません。療養したくても、療養することが全然できません。そういう状態の時、ある日パル モア宣教師は私に、当時のお金で50円をもっていらっしゃって、「あなたは少し体が疲れているから、このお金を持って近江兄弟社の経営している近江サナト リアムに行って、一ヵ月静養していらっしゃい。そうしたらすっかりいやされる。近江サナトリアムを創立し経営していらっしゃるボーリズ先生は、私の親しい 友人です。あなたのことを十分話してあるから、足りても足らなくてもこれで療養させて下さることになっている。だから安心して行きなさい」と、全く思いが けないお話でした。深い感謝と共に、教会のことを役員やみんなに託して、近江サナトリアムに入院をいたしました。
そこの病院は当時日本では珍しく、医者も看護婦も用務員も全部クリスチャン。まことに模範的なサナトリアムで、多くの人びとが療養している理想的な病院で した。そこに私は入れていただきました。そしてよいクリスチャンの院長は、私をねんごろに診察なさって、「この病気はあせってはならない。急いではいけな い。まあゆっくりここで療養しなさい」といってくれました。私はその時、「ゆっくり療養などできない。私の療養はーヵ月分しかお金がないのだから」と、そ う考えておりましたが、結局その病院で九ヵ月ほど入院を続けることになりました。持っていたお金は初めーヵ月分しかなかったのにあと八ヵ月入院したのです が、その間私はどこにも一円も借金することなく、不思議に療養費も与えられたのでした。
現在はもはや何十年も伝道し多少でも働き、いろいろな方々のお世話もさせていただきましたから、万一私が倒れても、たくわえが全然なくても、放っておかな いで助けの手をのばして下さる方があると信じますが、当時はまだ駆け出しの青二才の伝道師で、どれほどの仕事もしておりません。ところが私の入院を聞い て、ある人が手紙を下さる。その手紙の中に10日分ぐらいの療養費の見舞金が入っている。ある人からは一週間分、ある人は半月分ぐらいの見舞金を手紙に入 れて送ってくださる。本当に不思議にそういうことが続いて、合計九ヵ月近い入院をさせて頂きました。まあその時の私の感謝と喜び、神様をどんなに讃美しま したことか、″必要なるものは備えて下さる、神様は生きて備えておって下さる″ということを、しみじみ味わいました。
ちょうど八ヵ月が終って間もないとき、健康もだいぶ回復しました。ある金曜日の午後3時、私がベッドに座っていつものようにお祈りをしておりました。「神 様、一ヵ月で帰るつもりでおったのが、九ヵ月近くも入院させていただきました。その間費用もふしぎに、あの人この人を通し、知っている人知らない人を通し て、支えられてきたことを感謝します。どうぞいやされた体をもって残りの生涯を伝道に励むことができますように」と。当時私は30歳でしたが、ベッドに 座って祈っておるときに本当に大きい感銘を受けました。
ところが祈りの終りのころに、このように示されました。″私がこの病院に預けてある療養費は、明日の土曜日で終わる。もし今日明日の間に幾ばくかの入院に 必要な費用が与えられなかったら、私は借金をしなければならなくなる″。若い日、京都の洛東教会に行っていた頃、樋口牧師からたたきこまれた信仰は、″ク リスチャンは生活のことの故に借金をしてはならない。まず信仰を先立たせ、神の国と正しきを求めていく。そうすれば必ず、必要なものが与えられる″という ことで、その信仰に立たねばならぬと導かれてきました。ですから私の入院費が明日で終るなら、明後日からはどうしようかといろいろ考えました。そしてまた あらためてひざまずいて神様に祈りました。
「神様、私はーヵ月入院と思ってきましたが、療養のために時間がかかって九ヵ月近く、あなたはその間必要なものをすべていろいろな方々を通して恵んで支え て下さいました。私のこの病院における必要な費用は明日で終ります。なお明後日からの療養が必要であるとするならば、どうか借金をしないで療養ができます ように、どうか必要なものをお与え下さい。明日の土曜日の夕方までにどうか必要なものをお与え下さい。たとえ一週間分でも、五日分でも、一日分でも、与え られたらなお療養の必要な体として養生させていただきます。神様、もしも明日中に必要なものが与えられないなら、もはや私はこれ以上療養しなくともよい、 ″もはや汝の病いえたり、床をとりて立ちて任地に帰れ″というみ心と信じます。マルコの2章を見ると、イエス様が病める者の手をとって『汝の病いえたり、 床をとりて家に帰れ』とおっしゃって、彼は直ちにいやされて家に帰った物語りがしるされておりますが、明日までに必要なものがなければ、私は明日の晩は院 長に無理をいって退院させていただきます。そして山口県の防府教会の任地に帰って、明後日は日曜日ですから礼拝説教をさせていただきます。神様、助けて下 さい」とお祈りしました。
人間はやはり弱い者ですから、お祈りした後も何とかして明日中に幾ばくかのお金が与えられたらなあ、というような願いをもっていました。ところが土曜日に は手紙が三通、ハガキが二枚きました。手紙の封を切って中を見ましたが、お金はひとつも入っておりません。みな丁寧な、み言葉による慰めの言葉ばかりで す。私は土曜日の夕方、もう一度ひざまずいて祈りました。
「神様、今日待ち望んでおりましたが、明日からの療養費になるものは、何も与えられません。私はこれから院長にお願いして退院をさせていただきます。そし て明日の日曜日の礼拝には間に合うように防府教会に戻ります。どうぞいやされた者として立ち上ることができますように」と願いました。
そこで院長室をたずねますと、院長さんは私の申し出を間いてびっくりし、顔色を変えて、「どうしてそんな無謀なことをいうのですか。あなたは今この夏の一 番暑い時にこそここで療養して、秋のそよ風が吹いてから退院なさい。何か病院に不満があるのですか。医者か看護婦とけんかでもしたのですか」と、いろいろ 尋ねられるのですが、そういうことは全然ありません。「それならいたらどうですか」とおっしゃるが、私はおるわけにいきません。そこで無理をいって夕刻退 院をしました。
そして近江八幡駅から京都までローカル線に乗って一時間、京都から山陽線の夜行列車に乗りました。急行券を買うお金がないので、普通の鈍行列車に乗り11 時間ほどゆられて、日曜日の朝防府に着き、9時前に教会に到着しました。教会の役員達には何も言ってなかったから、日曜日の礼拝の準備をしていた役員の人 達は、青い顔をしてやせ衰えた体でひょっこりと目の前に立った私を見てびっくりしました。またある人は、「そんな無謀なことを」といって怒りました。だが その朝久しぶりに礼拝説教をさせていただいて、本当に大感謝でした。
そしてそれからの53年間、私は入院したことかありません。すっかりいやされて今日のように健康を与えられ、日本中の伝道に、また中国や海外の伝道にと、 ご用にあずかる健康をいただいて、本当に感謝をしております。
その頃の日本の教会の事情を申し上げましょう。先述のように昭和6年(1931年)9月18日、日 本の軍部によって企てられた満州事変がおり、これを機会に、年ごとに日本の中国大陸への侵攻が強まりました。そして軍部の圧力は非常に国粋的になり、キリ スト教と教会、クリスチャンに対しては非常な弾圧的な様相が濃くなってまいりました。″日本の国体に合わない宗教″むしろ″外国の手先になっている宗教″ あるいは″日本を売り渡す売国奴の宗教″というように誤解されて、だんだんと集会などに圧迫が加えられてまいりました。
やがて1937年7月7日、北京の近くの盧溝橋というところで日本軍と中国軍との間に事変がおきて、それが契機で日本が大陸に侵略の戦争を仕掛けていくよ うになりました。そして一挙に大きな戦争状態になりました。その前年の1936年2月26日には、日本の軍部が東京で大きなクーデターをおこし、当時の日 本の総理大臣や功績のあつい大切な人々を虐殺しました。叛乱状態になり、続いて翌年日支事変になったわけです。
私の伝道地の山口県の防府あたりの若者も、召集されてみな戦場に駆り立てられました。防府教会からも、その事変がおきて僅か三ヵ月の間に、10人近くの青 年達が召集されみな戦場に送られていくことになりました。そのことから私は、この緊迫したまことに危機の日本の状態にあって、若い田舎の青年牧師として何 をなすべきであるか、教会としては何をなすべきであるか、といろいろ祈り、考え考え祈っておりました。
そんな或る日、満州の大都市の奉天で長年にわたり医療と伝道をしたクリスティーという英国人宣教師の書いた書物を見て、私の将来に大きな導きをうけまし た。クリスティー宣教師が、「奉天生活30年」という書物を書いたのを東京大学の矢内原忠雄教授が翻訳しました。矢内原博士は戦後東大のクリスチャン総長 として大きな功績のあった人です。
その本を読みますと、「日本は日清・日露の戦争をして勝つには勝ったが、日本は戦争に勝って中国人の心を失った」という、まことに考えさせられる警告の言 葉がありました。
どういう意味かというと、当時中国では兵隊は略奪・暴行をはたらくことが多く、兵隊になるような者はみな人間の屑である、と一般の善良な中国人は思って、 心では軽べつしておったらしい。ところが日清・日露の戦争の時、日本の兵隊は自分の国の兵隊と違って規律も正しく、略奪・暴行することも少なく、まことに 善良である。″同じ兵隊でもこんなに違うのか。これはこの兵隊を送り出している日本人がもともといいからだろう。戦争はやがて終る。そうすればこの軍隊は 帰るが、あとから来る日本人もいい人だろう″と期待しておった。ところが、あとから来た一般の日本人は、″旅の恥はかきすて″″濡れ手で泡をつかむ″とい う日本の悪い風習をもってきて、略奪・暴行で中国人をいじめた。したがって日本は戦争には勝ったが、反対に後から来た日本人を通して″日本人は本当に頼り にならない″というふうに信頼の心を失った、と書いてあったのです。
私はこの言葉を見て、″やはり私は中国伝道に行くべきである。そして中国の人を導く前に、この戦争の後から中国へ押し寄せて行く自分達の同胞、日本人をま ず伝道しよう。日本人を本当によい、神を恐れるところの人々として送りこまないと、中国の人達に本当に愛想をつかされる。また迷惑をかけることにもなる。 だから最も急務は、まずこの戦争に勝って兵隊のうしろから行く日本人向けの伝道である。私はこれから大陸に行って日本人教会を造り、そこで自給自足する。 そして中国人との福音による交わりをし、福音の架け橋をする。そのことは今の時局に最も大事なことだ″と示され祈りました。そして中国伝道の志を非常に強 く与えられたのです。
1938年の3月、日本メジスト教会の西部年会に私は、「中国伝道にやって下さい」と願いを出しました。すると監督が私をお呼びになって、「防府教会は自 給額牧師給30円という特殊な自給教会で君がよくやっている。今そういう状態の中から君が行ってしまったら、後に君と同じ志の人がくればよいが、そうでな かったら前途が不安になる。だから、中国に行くことをしばらくやめて、引続いて防府教会の伝道をしてほしい」と諒々と説かれました。そこで一応やむを得 ず、監督の命令に従って防府に帰りました。
しかし防府へ帰っても、私の心は″どうしてもこの時局に中国大陸の伝道に行くべきである。日本にとどまっているべきでない″と示されましたので、どうしよ うかといろいろ考えておりました。単独で行きたくても、そういう費用は30円の自給教会の私にはありません。ですからひたすら祈っておりました。或る日、教会の長老の松田さんという方のお宅を訪問しますと、その家のサンルームの机の上に一冊の 女性雑誌がありました。その雑誌を読みますと、すでにその時から30数年前、中国に日本から宣教師として行かれた清水安三先生が、中国伝道30年の間に、 貧しい娘達を教育する崇貞学園というものを興して、中国人のために愛の奉仕をしておられたという記事が、先生の奥さんの物語と共にその雑誌に出ておりまし た。書いたのはご本人の清水先生で、自分を助けて中国に30年伝道をしてくれた亡き奥さんのことを書いておられたわけです。私は何気なくその雑誌のページ を開けて、立ったままで読んでいるうちに非常な感動をうけました。そして、この清水先生と相談して大陸に行くようにしようと決心しました。そして私は2、 3日祈ったあと一通の手紙を書きました。
すなわち「こういう時局に私は中国伝道、それもまず中国に行く日本人を伝道して、よい日本人として中国の人と交わることの大切さを示されて中国へ行きたい と願っています。ところが自分の所属している日本メジスト教会に派遣を願ったが、防府教会は特殊な自給教会であるために許可されません。だが私はどうして も中国伝道に導きをうけたいので祈っております。先生、何とか道を開いて下さいませんか。私は先生に″中国で仕事を与えて下さい″とか″私の中国伝道に補 助をして下さい″とか、そういうことは頼みません。ただ中国で私の腰を下すスポンサーが必要です。よろしいといって保証してくれる人が必要です。そうでな いと外務省が渡航免状をくれませんから、足場だけ与えて下さい。そうしたら私はぜひ行きたいと思います。私にはこういう長所があり、こういう短所がありま す。私の今日までの働きに成功したところはこれこれ、失敗したところはこれこれです。私に対するよい評判はこういうもの、悪い評判はこういうものです」 と、とにかく自己紹介の手紙と、知る限りのことを正直にかいて先生のところへ送りました。それは1938年の春4月のことです。そうやって祈って祈ってお りました。
当時日本の山口県から北京までの通信は、なかなか容易ではありません。航空便でも往復に半月は十分かかります。毎日毎日祈っておりました。その手紙を出し てちょうど二週間ぐらい過ぎたある土曜日の午後、日曜日の礼拝説教のために、教会の牧師館におりましたら、「電報」という声が聞こえて電報が届きました。 開いて見ると「シミズ。オオミハチマンイキフミマワシタ イクコ」という電報でした。郁子というのはご夫人の名前です。私はその電報を見てすぐ分りまし た。″ああ清水安三先生は今北京におられない。近江兄弟社のボーリズさんと関係が深いから、近江に来ていらっしゃる。その留守中へ私が手紙を出したのを奥 さんの郁子夫人が読んで、何か感じるところがあって、その手紙を日本の近江へ廻したからそっちへ相談しろという意味だ″と思って、もうとても手応えを感じ ました。
すぐそこでひざまずいて、「神様、あなたは私を北京へ導いて下さることを信じます。どうぞ導いて下さい」と祈りました。それから二日後、私は列車に乗って 近江までとんで行きました。そして清水先生に初めて出会いました。
そうしたら先生は特別伝道集会の一時間前でしたが、快く迎え入れて下さって、先生の方から「ああ伊藤牧師、あなたの手紙を家内が廻してきたのでよく分りま した。あなたは大陸伝道、北京伝道をするというが、いったい来年からの生活はどうなるのですか」と、質問がきました。私はその時すぐ「先生、来年のことで はありません。今私の一番の問題は、きょう先生を通して神様が北京に来いと呼んで下さるかどうかなのです。もし先生が北京に来いといって招いて下さるな ら、来年のことは神様がよく道を開いて下さると信じます」と、返事をしました。そうしたら清水先生は大声で、「本当にそうだ。来年のことは神様がよくして 下さる。私も30年前中国大陸にきて度々行きづまって困った。もう引き上げて日本に帰ろうと思うこともあったが、夫婦で或いは一人で祈るとき、不思議に道 が開かれた。しばらくの間と思っていたのにいつの間にやら30年たった。来年のことは神様がよくなさるから、ぜひ来なされ」と、その夜即決で北京行が決ま りました。
それで私は防府へ帰り、1937年7月31日で、それまで11年間働かせていただいた日本メソジスト教会を辞任し、単独で北京伝道に行くことに腹を決め、 辞職願いを出して北京行きの準備をいたしました。皆さんに分っていただけると思いますが、自分の教派の本部から派遣されるならば、費用も一切本部が 負担しますから、自分は何も心配はいりません。しかし私のように教団本部を辞任して単独で行くということになると、何から何までいっさい自弁です。しかも 田舎牧師の私には一円の蓄えもない。30円の自給教会を続けていたのですから。そういう中から行くというのですから、ずい分無謀です。しかしとに角その年 の7月31日にやめました。
そしてすぐ東京の教団本部に行って、11年間働かせていただいた感謝のお礼を申し上げ、それから東京、自分の母や弟のいる名古屋、京都、大阪という知友の あるところの訪問、また知りあいの教会を廻って伝道集会を持ちつつ、20日間程旅して防府へ帰ってきました。そうしたら私の留守中に、防府教会の会員やあ ちらこちらにいる私の信仰の知友の方々が、私の北京行の伝道のためにその当時のお金で488円という多額なお金を、餞別としてちゃんと備えておって下さい ました。
大阪のある病院を経営しているクリスチャンの友人は、南大阪教会の会計役員ですが、「君は日本を代表して中国へ宣教師として行くのだから、日本人としての 体面を汚さないようにしてほしい。おれは君の防府から北京までの列車と船の一等の切符代を寄附したいと思う」といって、当時のお金で60円送ってきまし た。その当時、山口県の防府から九州の門司まで列車に乗り、門司から大阪商船の船に乗って中国の天津まで行く。そこからまた北京までの一等の切符代は、通 し切符で55円です。60円下さったから5円余りました。そういう時代の488円というお金が与えられたのです。まあ本当に感謝して、私は初めて洋服をつ くり、書物を沢山買い、中国に行ってもすぐ皆に迷惑をかけないように、十二分に万端の準備をして荷物を先にみな送りました。
1938年の8月25日の朝立って出発することになりましたが、前日の8月24日の晩のことです。北京までの一等の通し切符と現金50円を持っていよいよ あすは出発だなと思っておりました。当時私はーヵ月30円でやっておりましたから、50円のお金があれば中国へ行っても当分生活が出来る、そう思っていた のです。ところがその時、ふと忘れておることを思い出しました。
実は当時教会に、かつては非常に立派な家柄で、その家系からは立派な大臣が出たり或いは陸軍大将が出たり、東京大学の教授が出たりした本家のご主人がおら れました。その方はいろいろなことがあって落ちぶれて、全くみじめな生活をおくっており、親戚一族から見放されて役場の世話になっていました。ふしぎに導 かれて信者になったのですが、その寝たきりのご主人、それを看病する奥さん、まだ成長盛りの子供達、この人たちのために教会は祈り、ずいぶんお世話をしま した。私はある時その方のために、どうしても49円必要になり、教会の岡村さんという会計長老から私が責任をもって借りてその人を支えたことがあります。 教会の岡村さんは愛の深い人で、「ムリをして返さないでよろしい。出来るときでいいから」と長い間なにもいわず待っておって下さいました。ところが私がい よいよ中国伝道に出発するのに、あの人はそのことをひとこともいわない。のみならずご自分も私のために多額の餞別を下さいました。でも、その忘れておった 49円を明日の朝出発するという今夕思い出しました。あの方からあげたとはまだいわれておらぬ。借りているのですから返さねばならない。だから私はその晩 そのお金を持っていって返しました。
そうすると、私は二つのスーツケースに少しばかりの荷物、北京までの一等の通し切符と、50円から49円払ったのこりの1円しかお金がありません。1円し か現金がないというのは本当に困ります。船の中は一等だから、立派なご馳走も出るだろうが、遠い中国大陸まで手持ちが1円では困ることがあるだろうと思う と、大変心配です。それで私はまたひざまずいて祈りました。「神様、私には1円しかございません。これでは困りますからどうか助けて下さい。私は中国大陸 の伝道に行くために皆から488円という餞別を貰いました。しかしそれを全部使ってしまった今、都合が悪くて行けなくなったとはいえません。餞別泥棒にな ります。どうぞ行かして下さい」と、一生懸命に祈りました。
だんだん祈っているうちに、やがてみたまの静かな導きがありました。それまでに、今から岡村さんのところへ行って、もういっぺん事情を話して50円借金し ようかとも考えたのですが、みたまの静かな声が魂に聞こえました。″お前は教会の説教の時いつも、何を食い、何を飲み、何を着んと思いわずらうな。まず神 の国と神の義を求めなさい。そうしたらそれに必要なものは付随してくる、という説教をしていたでしょう。それなのに今中国伝道に行くのに50円借金をして 行くということは、証しにならんじゃないか″という静かな声なき声を聞いて、もう借金に行くことは出来ませんからやめました。
第二には、名古屋におる弟に頼もうと思いました。もう弟はその時かなり豊かでしたから、頼めば50円くらいなら送ってくれるかもしれません。しかし明日の 朝8時に出なければならないのに、今晩7時過ぎになってからでは間に合わない。ですから弟のことはもうあきらめました。
第三番目は、心細くともこのままでとにかく門司まで行こう。その町には合同教会の役員で青年会長をしている、大きな商売をしている人がいる。この人に私は 防府教会の娘さんをお嫁さんにお世話して親しくしているから、あの人にお話しをして助けてもらおうか、とも思いました。しかしこれも第一と同じように、そ の若い人に今まで一度も借金を頼んだことはない。それなのに中国伝道に行くときだけに特別に頼んではあかしにならない、というまた静かなるみたまの細き声 を聞いて、私はもう借金をして出かけることをやめました。
そしてじっとしばらく沈黙しておりますと、どうしてこういうことになったのか、その時気がつきました。今私は知らないが、神様は末の末のことまでご存じで ある。もし私が中国伝道に行って、中国で神様のみ名を汚すような不信仰を犯すことがあるかもしれない。それ故に神様がおやりにならない、とどめなさるとし たら、私はそれに従わねばならない。私には分らないが、中国に行って失敗して神のみ名を汚す恐れかおるから、こうやって行かしめないでとどめようとされる のなら、人から何と悪口いわれても従うべきである。もしそうでなかったら、大胆に信じて1円だけもって切符があるんだから出かけよう……。
その晩決心しました。そして祈りました。「神様、もしみ旨があったらここから助けて下さい。もし私が中国大陸に行って罪を犯して神のみ名を汚す恐れがある からおやりにならないとするならば従います。″餞別泥棒″と皆から悪口いわれても、日本にとどまって働いて餞別を返します。どうぞこの中から導いて下さ い。もし私が中国に行くことがみ旨がないならば、今晩みことばではっきり示して下さい。みことばがないならば或いは私の体に急に熱が出るとか、どこか故障 ができて出発が出来なくなるとか、名古屋におる老いた母が年をとっているから急に健康でも悪くなって、とにかく明日の朝出発ができないという状態になりま したら、私の中国伝道はみ旨がなくてあなたがとどめたまうと信じてやめます。そうでなかったらこれで行きます」と決心をして寝ました。夜中に熱でも出る か、おなかでも痛くなるか、或いは母親の状態が悪いからちょっと出発を見合わせよというような電報でもくるかと思いながら、寝たのです。1938年8月25日の朝起きてみましたら、何も起こっていません。ですから私は出発しました。教 会から防府の駅までは歩いて7分位です。二つのスーツケースを持って、北京までの一等の切符と1円のお金を持って出かけました。途中で時々1円しかない がなあ″と思うと、足が進まぬほどでした。だが防府の駅に着きました。するといっぱいの見送り人がきておりました。本当に驚きました。教会員、日曜学校の 生徒の父兄、教会の幼稚園の父兄、まあずいぶん沢山の人が送って下さいました。
もちろんその人達はみな私に餞別を下さった人ばかりです。ところがその見送り人の中に、教会に全然きていない町民の近所の人が10人くらいいらっしゃっ た。その方々が「先生、遠い所へいらっしゃるそうで大変ですが、体を大事にして下さい。どうぞ途中でお弁当でも食べて下さい」といって私に餞別を下さいま した。
まあ私はその時驚きました。私に対する餞別はもう全部すんでいると思っていたのに、全然教会と関係のない、日頃挨拶をしあうだけの町の人が10人も餞別を 下さった。こういう備えがあるとは全然知りませんでした。感謝していただいて、列車に乗りました。私は生まれて始めて一等車に乗りました。感謝してその 10人の人からの餞別をあけましたら、あわせて30円与えられていました。防府教会で毎月頂いておりました一ヵ月分の謝儀と同じものが与えられたのです。 手持ちの1円と合せて31円、″もうこれで大丈夫≠ニ感謝しての出発でした。
二つ西の駅の「小郡」で列車の窓をあけました。そうすると磯部さんというある会社の支店長さんがその列車に乗ってこられました。その方は未信者ですが、そ の方のお姉さんで小学校の先生をしている方が防府教会の教会員でした。かつてお姉さんが結核になって大変重態になった時、私が入院しておりました近江サナ トリアムの病院へ連れて行きました。病気で亡くなられた時には、火葬場に行って遺骨にして遺族の方におとどけしたことがあります。そのことを磯部さんとい う方は非常に感謝しておられて、まだ未信者でしたが、以後毎年私のところへ感謝の贈りものを下さいました。その方が列車から下りるとき「先生、何かの足し に用いて下さい」といって、また餞別を下さいました。列車が出て感謝してあけましたら、15円入っていました。大金です。手もちの31円に加えると46円 になりました。本当に感謝して門司に着きました。
船が出る1時間40分くらい前でした。九州の兄弟姉妹が沢山私を見送りに来ておりました。そして皆と話をしていると、間もなくそこへ私が二、三度伝道に 行った行橋という町のメソジスト教会の婦人会の会長をしておられた皆川さんという奥さんと、そのお友達が遠いところを見送りにきて下さいました。そしてそ の方々が「先生、お弁当の足しにでもしてください」といって餞別を下さる。私は感謝して自分の船室に入ってお二人の餞別をあけましたら2円ずつありまし た。
1938年8月25日朝8時42分、列車が防府を出る時に10人の方から30円、二つ向うの駅の小郡で磯部さんから15円、船が出帆する前に2人の婦人か ら2円ずつ4円、あわせて49円与えられました。手持ちの1円を加えてちょうど50円になりました。前夜借金返済した49円が、朝から船に乗るまでの間に ぴったり満たされたのです。そして船が出帆しました。涙が流れてなりませんでした。
私はその時、その50円というお金を有難く思ったのではない。″エホバエレ、エホバ備え給う″というあの創世記22章の御言葉が本当に生きていることが分 かった。まことに神は今も生きておいでなさる。備えて下さる。私は中国を何も知らない。中国には誰も友達がない。清水先生以外誰も知合いがない。しかし中 国伝道は神様が祝福して下さると信じることができる大感謝でありました。感謝のうちに東支那海を4泊5日航海して中国大陸天津に上陸し、1938年8月29日の夜中に北京 に着いて、清水先生のところにまいりました。先生は待っておって、大歓迎して下さいました。そして二日過ぎた時、清水先生は私に、「伊藤先生、私がいつも 家庭集会をしている20人くらいのメンバーがおります。これをあなたに委ねるから、どうぞ教会をつくって下さい」といわれてその集会を託されました。そこ で3日目の日曜日に、この2〜30人の人を相手に、中国伝道第一回の集まりをし、これが北京日本人教会の出発ともなりました。
その頃は日本から毎日毎日、北京をはじめ中国大陸に大ぜいの民間人が渡航してきました。中にはクリスチャンの人も沢山おります。そういう人がいろいろな縁 故を通じて北京日本人教会を訪ねて下さいます。北京日本人教会は毎月毎月、いや毎週の集まり毎に5人、10人と増えて、間もなく80人から100人の礼拝 が持てるようになりました。日本からは何の補助もありませんが、行ってすぐ自給自足のできる教会にまで財政的に恵みを頂戴しました。
しかし国際情勢はますます悪化していきます。軍部の圧力も強まり、キリスト教への風当りはさらに強くなりました。礼拝にはいつも特高警察や、憲兵の私服が きて説教のメモをとり、そして「天皇とキリストとどちらが偉いのか、どちらを崇拝するのか」というような意地の悪い質問をしたりします。少しでも何か間違 いがあったらすぐ刑務所にぶち込んで教会つぶしをしよう、伝道をさまたげよう、英国や米国の手先になっている敵性の宗教であるからと、そういう考えで圧力 が加わりました。ですからなかなか説教もしにくかったわけですが、いつもみたまの助けを頂いて伝道は続きました。そして北京日本人教会は、短い時間に非常 に成長しました。
翌年は、北京から列車で8時間程行った先に内蒙古モンゴリヤの首都の張家口という町があります が、そこに月に2回その地におる日本人の信者の家庭に行って家庭集会を始めました。それが後に張家口日本人教会になりました。また、北京から南町方へ列車 で13時間走ったところに石家荘という大きい町があります。その町にも日本人の信者の家庭を開いていただき、月に2度まいりました。そして石家荘日本人教 会ができたわけです。それらの教会は、やがて日本から中国伝道を志してきた日本人の牧師にそれぞれ引きついでもらいましたが、中国における約8年の間に三 つの教会ができました。大へんな軍部の圧力がありましたが、伝道の上にはそのように大きな恵みを頂きました。
1945年8月15日、日本が無条件降伏をしてから日本人の生活は全く様子が変りました。日本人はたちまちみじめになり、それまで日本にひどく痛めつけら れていた中国の人達は、戦勝国として独立を回復いたしました。その時、中国にいた日本人の多くの者は、中国人の復讐を恐れて本当に不安の中におりました。 8月14日までは、「キリスト教は敵性宗教の先駆けをしておる。売国奴、スパイである」といって軽蔑し、いかにも非国民のように扱っておった人達が、いざ 敗戦国民になると、もう手のひらをかえしたように、「先生、いよいよ先生の時代がきましたね」といって愛想をいいます。またある者は、「不安で不安で困り ます。先生何とかいい話を聞かして下さい」といって、あちこちから呼ばれます。敗戦になって日本に引き上げてくるまで私は約一年北京におりましたが、毎日 毎日いろいろなところで家庭集会の伝道が始まり、本当に忙しい日々でした。どこでも集会を開いたら、すぐ多くの人が集まってくる状態でした。
そのようにして、中国伝道約8年の後1946年3月5日に北京を出、天津を経て、その年の3月18日に8年ぶりに九州佐世保に帰ってきました。まあ本当に 何もかもみな失って、ただ親子3人(家庭のことは、後でお話しします)、リュックサックーつ、着のみ着のままで日本に引き上げたわけです。佐世保では上陸 して、一人1000円ずつお金を頂いて、親子3人3000円で敗戦国日本へ帰っての出発が始まったのでおけます。中国大陸伝道のなかで受けた恵みで忘れてならないことがいくつかあります。その一つは、1939 年、つまり昭和14年4月の第一日曜日のことです。当時北京日本人教会の毎週の日曜日の礼拝は100人近い出席者があり、経済的にも非常に祝福されていま した。そして民間人だけでなく、時には兵隊さんのなかにも教会にくる者がありました。
その日は陸軍少佐の人が礼拝にきておりました。私は大へん緊張しました。この人は見た目は非常に柔和な顔をした良さそうな人だが、信者であろうか、あるい は何か探りにきておる人であろうか、非常に心が緊張させられました。そしてその時、笑い話のようですが、今日はこの偉い階級の軍人を感心させる話をした い″と思って一生懸命に話をしたのですが、でもその日の説教はもう実に不出来で、自由と喜びがなくて、礼拝が終って部屋に帰る時にはもうへとへとに疲れま した。牧師が快心の説教ができた時と、まことに不勝利の説教の時、どういう状態になるかは当人でなければ分りませんが、私はその日本当に惨めな思いで牧師 の部屋に帰りました。
夜も伝道集会をしておりましたが、まさか夜はあの人はこないだろうと思っておりました。当時は北京を通って大陸の奥地の前線へ向う軍人が多かったので、通 りすがりに日曜礼拝に立ち寄る人もあったのです。ですから″まさかあの人は夜はこないだろう″と思って、余り準備もせず夕拝に出ました。そうしたらまたあ の軍人がきております。私はその時本当に困りました。今朝この軍人の将校を感動させようと思ったのに失敗し、惨めな説教しかできなかった。それなのにまた この人がおる。いったいどういう話をすればいいのかとても困りました。それで時間稼ぎに讃美歌を幾つも幾つも歌いながら、どうしたらいいかと心のうちで祈 りました。
そしてその時、″ああ、今晩はもう説教はやめて、自分のような者がどのような状態の時にイエス様に出会い、どのような救いを頂き、どのような恵みにあず かったか、そういう証しをしよう″と思い話を始めました。そうすると、恵まれた顔をしたその陸軍少佐は、目を輝かせてニコニコと私の話しにうなずきながら よく間いてくれます。そうだと言わんばかりの答えがはね返ってくる。集会のあとその人は、岩井恭三というクリスチャン将校であることが分かりました。当時 の日本軍人としては珍しく、使徒行伝の10章にあるコルネリオのような熱心な実際のクリスチャン軍人であったことが分って安心するとともに、よき交わりが 始まったのです。
この岩井少佐は、どのような集会にも熱心に来てくれます。礼拝はもとより伝道会も、祈祷会も、家庭集会も、またそのうちに「先生、早天祈祷会をしましょ う」といって毎朝5時半、自分の宿舎から私どもの教会まできて、ゆっくり1時間聖書を読み、賛美をし、祈りをして、私どもを力づける役割りをしてくれまし た。
当時軍隊の中で、クリスチャンであるということはすごく抵抗がありました。クリスチャンであるが故に昇進することがとどめられる、有力な地位にあずかるこ とができない。そういう中にあってもこの岩井少佐は、「私の一番の喜びは、イエス様を証しすることである。この世の地位やそんなものはなんでもない。もし 自分が信仰のため陸軍をやめさせられたら喜んでやめて、すぐその翌日から伝道する者になりたい」とよく証しをなさった。戦争は激しくなり軍部の圧力の強い さなかにあって、生きた信仰に生命がけで取り組んでおる軍人の信者と無二の親友になり、物心両面に支えられ助けられて、私はいかに励ましを受けたかわかり ません。1939年4月に北京ではからずもコルネリオのような信仰のあつい岩井恭三と出会ったことが、それから後の私のみことばへの聴従、信頼について非 常に変えられ、この人の生き方にあやかることができるようにと導かれてまいりました。
本当に神様は″荒野に清水を湧かす″と聖書にあひますが、中国に行ってどんなに困難が多いだろうと覚悟して行ってみたら、あに図らんや、最も困難なところ に荒野に水が湧くような祝福にあずかったのであります。
もう一つのエピソードは、ある日この岩井少佐とかなり長く語らった後、次のことが始まりました。 「先生」 「ハイ」 「あなたは独身でいらっしゃるが、お一人でもこれだけ十分な教会伝道をなさっておられますが、やはり先生は結婚なさることがいいと思 います。教会には婦人の会員が非常に多い。どこの教会に行っても婦人の方が男子の倍以上はおり、また問題の相談事も多いから、やはり先生はー人でおるより も、よい奥さんをもらわれた方がよいでしょう」と結婚をすすめられました。
私はそれまで、先に申しましたように肺病をわずらった身であり、しかも開拓伝道ばかりです。そして与えられるだけのものでいくという主義でしたから、結婚 も何人の方からもすすめられましたが、みなお断わりしてきました。私と同じ信仰に立って、どんなに貧乏しても、どんなに苦労があってもいとわない、伝道の ためには何でもするような人に出会わない限り、結婚はせず独身でいる方がいいと示されておったから、皆さんよい縁談を持ってきて下さいましたが、みな断わ りました。それで時々非難を受けました。″伊藤牧師は望みが高い″とか″思い上がっておる″とか、″より好みする″とか、まあいろいろ非難を受けました。 ところが岩井少佐の信仰には文字通り尊敬し敬服しておりましたから、岩井さんのすすめを聞いた時、何の抵抗もなく私は「ありがとうございます。それならあ なたにお委ねしましょう」といいました。
そうしたら岩井少佐は、「伊藤先生、私の家内の妹は高知県の高岡という町におります。家内の里は父親が市会議員でいろいろと要職におるけれども、土佐は酒 をよく飲むところで、その父親もすごく酒を飲み、何か思うようにならないとうっ憤ばらしに酒を飲むのです。いわゆる酒乱であって、酒乱になると家内の母親 や家族を本当にひどい目にあわせるのです。これを見て家内の妹の三木子というのですが、″自分は生涯酒飲みとは結婚しない″と決心しています。そしてどん ないい縁談を持込まれても一切拒否するので、今度は父親は怒って、「もうお前のようなヤツは勝手にしろ」と言っています。大変まじめな妹です。女学校を出 てから私の家にきて、私の家を手伝いながら信仰を持って、今は実家に帰り自分の家で日曜学校をやったりしています。実家に信者はその妹一人しかいないが、 なかなかよくやっていますから、この妹と結婚したらどうですか」とすすめられました。私は「あなたにおまかせします」といって、おまかせしました。
そうこうしているうちに、昭和17年つまり1942年の秋、私は北京から日本へ教会の会議で上京しました。その時に岩井さんの日本に残っている奥さんか ら、「日本へ帰ったら途中で一度妹にちょっと会ってやってください」といわれました。それで私は、東京から北京まで帰る途中、岡山のある教会の施設の一室 を借りて、この岩井少佐の奥さんの妹である三木子姉妹と出会いました。
日本ではまだその当時は自由に恋愛をして結婚するというようなことでなく、よい仲人がたって世話を受けるというような風習の強い時代でした。私どもは僅か な時間しかありませんでした。まあ正直にいいますが、私はこの姉妹に出会った時、初めて顔を見た時、私の好みの顔とは違いまして、あまりそれ程心を引き立 てられるような思いはしませんでした。ところが日本の当時の風習では、見合いをしたらもう結婚するものと大体決めてかかるようなところがあります。岩井少 佐の奥さんは単純素朴な人ですので、私が夜の汽車で北京へ帰る時、岡山の駅まで送って来て、プラットホームでこういうことを言いました。
「私どもはクリスチャンですから、別に何も結婚の前に結納というものはいりません。しかし妹の三木子の両親も兄弟も親戚もみな未信者だから、田舎では結納 が入らないで結婚すると変に思う。まともな結婚をしていないように誤解されるから、先生、どうぞすみませんが形だけでよいから、中味はいらぬから、お金は 入れなくていいから、結納になるものを贈ってやって下さい」と駅でおっしゃる。
私はその時に、″何とこの奥さんは気の早いことをおっしゃることか、まだ私は決めていないのにもう決まったように思っている″と感じました。当時私は非常 に多額の謝儀を毎月頂いておりました。毎月300円も教会で頂いておりました。当時日本の国内では300円も毎月謝儀をもらう牧師は全然ないのに、中国で 開拓伝道をした私は、それ程祝されておりました。ですから岩井奥さんの結納の件について何気なく、「そうですね。いよいよ話を決めたら100円くらい贈り ましょう。どうぞよろしく」といって列車に乗りました。やがて私は大陸に帰り、北京からさらに張家口日本人教会に戻りましたら、留守を守っていた教会の人 達が迎えにきて下さり、またいろいろ留守中の報告をして下さいました。その中に女子青年会長の関口富子さんという方が挨拶をして、そしていろんな報告の中 に、「先生、教会の信者の中で百貨店を経営している稲岡さんの奥さんは、ご存じのように信仰に熱心な方で、教会にも忠実です。今こういう戦時状態に出てき ている軍人の家族を慰労する上でも毎月犠牲を払っていらっしゃいます。特に岩井少佐のご家庭に尊敬をもっておられて、つい4、5日前に″私は忙しくて手紙 が書けぬから、関口さん、岩井少佐のご家族へ100円程送ってあげて下さい″と頼まれたので、岩井少佐のお宅へ私は、稲岡さんの代理で100円送っておき ました」と言われるのです。「それはいいことをなさいましたね」といって、その報告を間きました。
そんなことがあって数日たった後、日本の岩井夫人から速達がきました。ひろげて見て本当にびっくり。「先生有難うございます。お帰りになって早々100円 の結納金を三木子のために贈って下さって本当に感謝します。私は早速両親を喜ばせるために実家に送りましたら、もう両親からも喜んで手紙がきました」 と。」
まあその手紙を見た時私はがっかり。″何ということか。私はまだ決めてもいないのに。結納を送ったわけではないのに。あの100円は、岩井家に好意をもつ 稲岡夫人というクリスチャンの百貨店経営の金持の奥さんが贈り物をしたものなのに。それを間違えて結納とは。少し岩井夫人は目の不自由なところがあるけれ ども、早合点して受けとってしまって、本当に困ったな″と思ったが、そのことの出来事から私は祈りました。″事情を話して断わることも出来る。だが岩井夫 人の両親は理解しても、結婚が決ったと喜んでいるあの姉妹が、結婚は間違っていたということになったらどんなに失望することか″と、そういうことを考えま した。そしてこれは私がはっきりしないで優柔不断だから、まあ勝手なことですけれども、″神様はこのようにして結納でないものを結納として扱うことをお許 しになった。私の腹を先にお決めなさった。このことは神から出たことと信じて、この姉妹を迎えよう″と決心しました。
そして、私はその月末に教会からいただいた300円の中から100円出して、「これが本当の結納、前のは稲岡さんのお金ですよ」と言って、岩井さんの奥さ んに手紙を送ったら、また奥さんから折り返し、「なんと私はそそっかしいことか。ほんとに失礼をしました」そういうようなお詫びがきました。笑い話のうち に私の家内との結婚が成立しました。しかし私は、″神の備えたもうもの、なさることは折に叶ってよし″と、エレミア哀歌にありますように、家内とのそうい う出会いと結婚について、いま本当に感謝をしています。私の家内と私とは37、8年の結婚生活でした。昭和53年1月22日、日曜日の礼拝の鐘の音を聞き つつ、三木子はすい臓癌で半年病んで先にこの世を去りました。
私の家内は、私と30数年間生活をしてきて、経済的な問題で文句を言ったことは一度もありません。足を引っ張るということは一度もありませんでした。これ は本当に夫としても、伝道者としても幸いなことです。有能な伝道者でも、奥さんが家計の困難を訴えて、御主人の足を引っ張るために伝道が出来なくなってし まうようなことは、間々あります。だが、私は開拓伝道ばかりですけれども、困難の中に家内は一度もどんな貧乏の中にも文句を言ったことかありません。ただ 私が伝道を怠けたり、ぜひ問安しなければならない病人のお見舞いに行かなかったり、そういうのを怠るとものすごく反発することかありました。が、経済問題 については、私は、一切任せっきりで、伝道を続けることができたことを今さらのごとく主と家内に感謝しております。
家内がすい臓癌になりました後、その病床においても、彼女は本当に平和で主の平安につつまれて、静かなときには賛美を歌い祈りました。「今日もおくりぬ主 につかえて、世の日かげうつれども、あまついのち、日に日に近くぞある。御旨かしこみ、いそしめる身に、憩いを告ぐる夕べの鐘」と。健康であっても病んで おっても、静かに御旨をかしこんで主に仕える生涯は安かれ、というあの賛美は家内の愛歌でしたが、そういう賛美を歌って、静かに半年の病床生活をみんなに 愛せられ愛せられて、地上の生涯を終りました。今、「彼は死ぬれども今なお信仰によってもの言えり」です。
私はその後今日まで、いわゆる男やもめですけれども、天国にある家内のとりなしの祈りが響いてきまして、西に東に北に南にと、また、海外にと、伝道の旅路 にも、いつも天国の祈りのとりなしを覚えつつ、やはり、天国との縁が続いている喜びを持って、伝道を続けてきています。神様の成したもうことは実に折に 叶ってよしというお言葉は、私と家内との出会いとその後の生活、この世の別れの時も後も、同じように引き続く恵みであることを覚えて、これもぜひ証しさせ て頂きたいと思います。
さて、1945年8月15日、日本は無条件降伏をしました。そして、中国大陸におりました日本人 は、当時、軍人と民間人が約300万人近くいたそうです。そして先述のように、当時の日本人は特に中国人を虐めた人ほど中国人の復讐を恐れておりました。 しかし神様の深い恵みによって、時の蒋介席総統はメソジストの信者であり、奥さんも共にメソジストの信者であると聞きますが、全中国にラジオを通し命令を 下しました。「中国は勝利をした。しかし我々の敵は日本の軍部であって日本人ではない。大陸にいる日本人300万近くは、一刻も早く日本へ帰りたがってい る。我々はいま協力して彼らを一刻も早く故国へ安全に帰らすことが大事だ。今この時、日本人に暴力を加えることは許さない」と。戦争の歴史の中でかつてな い寛大な取扱いを受けて、何百万という日本人が無事に家に帰ることが出来ました。
1946年3月5日、私達親子三人は北京駅を立って、天津の引揚げ収容所にまいりました。戦争が終って、その3月5日に北京駅を発つまでの八ヵ月ほどの 間、私ども家族は、本当に神の恵みに感謝しました。それまで交わっていた中国人の教会の信者達は本当に親切にしてくれました。
ある会社の重役の方などは、毎週土曜日の晩になると、そっと自転車に乗ってきて、「お米はありますか。お醤油はありますか。食べ物に不足しておりません か。お金はありますか」といって毎週訪ねてくれました。またある大学の先生は、毎週火曜日か水曜日には、8キロぐらいあるところを自転車に乗ってきて、 「何か不安はありませんか。心配はありませんか」といって訪ねてくれます。27歳と28歳になる二人の医学士が毎晩6時から夜11時まで、私どもが避難し ておけます家にきて守ってくれました。彼らは言いました。「先生達のように伝道、愛の働きをしている人にもし、心ない中国人が暴行を加えたら恥ずかしいか ら、私どもは先生を守りたい」と。これには、私も亡くなった家内もしばしば涙を流しました。時々、せめてものお礼にご飯でもあげたいと思っても、「先生達 は、敗戦国になっていつ帰れるか分からんから、手持ちのものをそんなに使わないでよろしい。そんな心配はしなくとも、ご飯は自分で食べてくるから」といっ て、ちょっとの親切も断わって守ってくれました。
いよいよ1946年3月5日の朝、早い北京発の列車に乗って日本へ帰るための天津行きになりました。
その前の晩、二人のこの医学士は、私どもの家へきて荷物作りを手伝い、翌朝早い、まだ暗闇の中を北京駅まで14、5ギロぐらいの道のりを、日本でいう人力 車(北京のヤンチョウというもの)に乗って行きました。今も覚えておりますが、「もしも途中で心ない中国人が暴力を加えたり荷物を奪ったりしたら申し訳な いから、護衛します」といって、一番前に一人の医学士が乗り、その後の車に私が乗って、その後の車に家内が当時まだ1歳の息子の誠をおんぶして乗り、そし てその後の車に大きなリュックサックと手持ちの荷物を積んで、その最後の車にもう一人の医学士が乗って送ってくれました。もう忘れることが出来ない感激で した。いよいよ北京駅で別れるとき、その二人の医学士は私どもにこう言いました。「先生がたは戦争に敗れても帰る故国があります。しかし私達は今、いつ革 命軍が押し寄せてくるか分からない。そのとき、私達はどこに行っていいか分からない不安があります。また先生に会いたい」と言って、抱き合って涙の感謝の 別れをしたことを、もう40年も前ですけれども忘れることが出来ません。あの二人にもう一度会いたいという思いがいっぱいです。
そうやって私達はやがて、1946年の3月14日、天津からアメリカの大きな船に乗りました。まあ、それに三千何百人押し込められてあの東シナ海を3泊4 日航海して、九州佐世保に上陸しました。そして無事に日本に帰ることのできた喜びを味わいましたが、上陸しましたら佐世保から鉄道で門司まで、門司から下 関へ、そして岡山まで来るまでの大きな駅小さい駅は全部、町もろとも爆撃をうけてもう惨胆たる荒れ野になっており、敗戦国のみじめさをしみじみと味わいま した。
さて、私の母と私が引き揚げるべきはずの東京の郊外にいる弟の家には、敗戦になる前からもう音信が 何も出来ませんでした。ですから、生きてるやら死んでるやら何も分かりません。そこで一応家内の里の高知県の田舎の町、高岡というところへ引き揚げまし た。そして四国に移ることになりました。
帰国船の中で、私が日本人教会の牧師をしているとき教会の役員をしておりました、天羽文吉さん夫婦と一緒になりました。彼は京都大学を出、当時の横浜正金 銀行、今の東京銀行の北京支店の中で重要な働きをしていました。彼らは教会役員としてよく私達夫婦を肋けてくれましたが、その人は徳島の人でした。天津か ら佐世保への船の中で彼が私に、「先生、日本に帰ってどこかで働く伝道の場があるんですか?」とたずねました。「場があるもないも、あなたお互いに今引き 揚げていく、引き揚げ移民です。どこへどうしていいか、まだかいもく分からんでしょう」といったら、「もしそうでしたら、私の故郷の徳島伝道に来て下さい ませんか。徳島県は、日本の47ある各府県の中で最も貧乏県です。四国四県の中でも一番貧乏県です。そしてまた、伝道も日本で最も困難なところの一つで す。そういうところですから、もしも日本へ帰って任地がないなら、私達の阿波伝道、徳島伝道をして下さいませんか」というお誘いがあったのです。
私はそのとき、本当は東京で伝道したいと思っておりました。北京で伝道をしているとき、大きな建築会社の経営者で歌代さんという信者がおりました。東京の 昔の青山学院の建物を建てたり、電気設備をした実業家でした。戦争中はいくら呼びかけても忙しいとか何とかいって教会にきませんでした。ところが敗戦に なってペシャンコになって、それまで北京でたくさん築いた財産も何もみな置いて、やがてはリュックサック一つで帰らねばならない運命になりました。そのと き初めて目がさめて、「先生、私は今まで自分の対応の間違っていることが本当に分かりました。今、敗戦国民になってみて、何か一番必要であるかよく分かり ました。いずれは日本へ帰らなければなりません。私には東京に三つ家があります。多分一つの家は戦災で焼けたでしょうが、二つは残っていると思います。 で、私が帰ったら一つ残っている方を先生にあげますから、どうぞ東京で伝道して下さい。私は今度日本へ帰ったら、先生が伝道して下さる家の教会のしもべに なってどこまでもついていきますから、どうぞそのようにして下さい。私の家はこういうとごろです」と、東京の住所をちゃんと知らせてくれました。
そうですから、天羽さんが船の中で、徳島伝道をしてくれと言われましても行く気はあまりありません。しかし「いやだ」とは言えませんから形式上、「それで は御用をしましょう」と言いましたけれども、本心は東京の伝道をしたいという願いを持っていたわけです。やはり私もまだ若いですから宗教的な野心もあっ て、まず東京で伝道して成果をあげて、という人間的な欲望がどうしても働いていました。それでも、一応岡山から高知県へ戻りましてそこから徳島の天羽さん の家に行き、家庭集会を始めました。それが後の徳島兄弟教会、今日の日本キリスト教団徳島北教会になったのです。
天羽さんの家庭集会がだんだんと盛んになってきたとき、同じ北京から小川秀一という牧師が家族をあげて引き揚げ、天羽さんを頼って来ました。私は天羽さん と相談して、「僕はまたどこへでも開拓伝道させてもらうから、この徳島のあなたの家庭集会を小川先生に持ってもらったらいい」といって、小川先生にお願い しました。小川先生はよく牧会伝道して徳島兄弟教会を作り、やがて大阪に伝道に行かれましたが、つい先年亡くなられました。
私はそのように、ひと月にいっぺん天羽さんの家庭集会に高知県から行き、家庭集会や徳島北教会の伝道の開拓時代を助けたりしていました。そのほかには、私 か中国から帰ったということが教会の機関誌に載ったものですから、あちこちの教会から、「おかえりなさい。ぜひうちの教会にきて特別伝道をして下さい」と いうふうな招きがきて、出かけていました。まあ当時、一ヵ月親子三人が生活するのにどんなにしても1000円ぐらいのお金が必要でした。佐世保を上がると きに、一人1000円ずつお金を頂いて、3000円で始まった生活ですが、そういうものはすぐになくなってしまいます。でもふしぎに、引き揚げてから各地 の教会からの招きがあって、毎月親子三人の生活費になる1000円ぐらいは与えられて、家内の里にお世話になっても迷惑をかけずに、必要な費用はちゃんと 支払って生活させて頂くことができました。1946年の9月のことです。私は東京伝道の後神戸まできて、神戸から徳島県の小松島へ渡る山水丸 という船に乗っていました。幸いに、東京の母と弟の家は戦災に遭わないで、無事でした。そこで小松島から徳島へ行き天羽さんの家庭集会をすませた後、高知 県の家内の里へ家内と息子を引き取りに行くべく、この船に乗ったわけです。その船の中で、久しぶりにはからずも賀川豊彦先生に出会いました。賀川豊彦先生 は、戦時中は軍部のひどい圧力を受けて、憲兵隊の刑務所に入れられたり、圧迫を受けられました。敗戦とともに、賀川豊彦先生はいっぺんに世の中へ出て、日 本の救い手になりました。クニノミヤ内閣の相談役になったりして、世を挙げて今度は賀川先生にみんなが心酔するようになりましたとき、先生はその船に乗っ ておりました。
私が「先生」と言って呼びかけたら、「おお、伊藤君、どこへ行く」私は「これこれで、家内と息子を土佐に連れに行きます。東京の家が焼けておりませんから そっちへ避難するよう今連れに行くところです」こう言いましたら、「ああそうか。そりゃあよかったな」 「先生はどこへおいでになりますか?」と聞きまし たら、「僕は戦後初めて郷里の徳島伝道、阿波伝道に行くんだ。君は急ぐかね?」といわれる。「いいえ」と言いましたら、「それなら、おれと一緒に阿波伝道 をせんかね」と言われたのです。″では先生にお伴をして一週間阿波伝道しよう″と決意して、徳島に着きました。
徳島市で、小松島市で、日和佐という町で、それから石井という町で、それぞれ毎日伝道があってお供をしました。最後の日が、阿波の半田という徳島の西北の 小さい町ですが、そこの教会が中心になって小学校で賀川豊彦による特別伝道がありました。当時は戦争直後で自動車も何もない、食べるものも何もない頃です が、荷物を運ぶトラックがあって、そのトラックの運転台に先生が乗って、私達はトラックの後ろの荷台にむしろをしいて応援に行ったのです。
その半田へ行く途中、鴨島の筒井製糸という会社を訪問しました。この製糸会社の創立者の筒井直太郎さんという方は、そのときはすでに故人でしたが、賀川先 生と知り合いでありました。その方の息子さんの筒井康二さんが、いまは鴨島教会の長老で、会社の方も社長をしていらっしゃいますが、その方のお招きで会社 で昼ご飯を出して下さった。当時、その筒井さんは鴨島高等女学校を経営してらっしゃった。戦争が終って、日本の教育指針であった教育勅語も駄目になってし まい戸惑っておられて、できたらキリスト教の感化を受けたいという願いを持っていらっしゃった。そこで賀川先生をここへお引き留めをして昼ご飯を差し上 げ、鴨島学園を見てもらっていろいろ相談をされたのです。賀川先生は「協力しよう」とおっしゃいました。
午後の1時頃に、食事が終わって出発しようとしたら、筒井康二社長のお姉さん − 創立者の筒井さんの長女で、賀川先生の恩師である徳島伝道の恩人のロー ガン先生から導かれて、名古屋の金城学園で昔勉強して、クリスチャンになっておられた ー の筒井磯枝さんが、立ち上がって半田へ行こうとする先生に、 「先生!」といって呼びかけられました。「おお」 「先生、この町にもだれかよい先生がいらっしゃって伝道下さるといいですね」。そうすると賀川先生はそ こにおった私を見て、「伊藤君、君やりたまえ。やらんか?」。私はそのとき反射的に「ええ、参りましょう」といって返事をしてしまいました。そういうふしぎな導きで、とうとうその年1946年の11月にその鴨島へやってきました。その筒井 康二さん宅の応接室を借りて、11月16日に最初の集会を始めました。そのときクリスチャンは、その呼掛けなさったお姉さんの磯枝夫人と私だけ。初めて集 まった人はその他に筒井磯枝さんの御主人、お母さん、筒井康二さん夫妻、中村静枝先生、もう一人は従兄弟の岩城さんの6人でした。この計8人で始まったの が戦後鴨島伝道の最初の集会でした。そして間もなく、ご病気で帰郷されていた石黒美種博士(東大工学部助教授)と鴨島小学校の喜井武一先生も参加して下さ るようになりました。
当時、筒井さんの製糸会社には女子工員だけでも1000人ぐらい働いておりました。私は毎月曜日の晩、会社の広い大きな講堂を借りて、修養会と銘を打って 主として女子工員の方々に、賛美歌を歌い、聖書をひもといて伝道集会を持ちました。そして日曜日には、筒井さんのお宅で、家庭における日曜礼拝を守り、次 第にみんなが集まるようになってきました。
しかし当時は敗戦の日本で、物資は不足しているしみんな衣類なども乏しい。ところが筒井さんのお宅は町で最も立派なお宅である。田舎の町のことですから一 般の人はそういう大きな家の集まりにはなかなか敷居が高くて入りにくい。それで私はまた、筒井さんや皆さんに相談して、「もっとみんなが集まり易いとこ ろ、筒井さんの経営してらっしゃる、町の中にある鴨島学園の幼稚園の一室を貸して下さいませんか。そうしたらみんなが来やすいし、子供も集まり易いから」と。ご承知をいただいて、昭和22年、 1947年の2月の終わりになってから、鴨島町の中心にある鴨島学園幼稚園の一室を借りて集会を持ちました。やってみると、子供もたくさん集まるし、大人 もすぐ3、40人集まって、これはいいなと思っておりましたら、それからわずか十数日過ぎた3月25日、風の強い日に町の中心から火が出まして、鴨島の町 中が戦災と同じように焼けてしまい、その学園も幼稚園も焼けてしまって、集会所がいっぺんになくなりました。
それでまた筒井康二さんにお頼みして、会社の中の大きな部屋を借りて集会を始めましたが、さて会社の門をくぐって会社の中で集会をすると、限られた人だけ しかきません。町のみんなが、会社に関係のある人だけの集会だと思ってなかなか来ません。それで私達は、江川というきれいな水の流れる川のほとりに毎朝5 時半に有志が集まって、「神様、私達に会堂を与えてくだざい」と祈り出しました。雨が降っても川縁で祈り会をしました。そのころは、敗戦国民になったばか りで何もありません。みんなが一本ずつ持つ傘がないから、一本の傘に2人ずつ入ったりして、雨に降られながらでも祈りました。この早天祈祷会はそれから 40年つづいて今に至っております。
日曜日の朝は、会社の中に借りた大きい部屋で礼拝を守り、水曜日は信者の方々や求道者の方々の家庭廻りをして、祈祷会をいたしました。そして、会堂を与え て下さるようにみんなで祈りました。そうしたら、町の中央に割合に新しい大きなお医者さんの家が空き家になっているのを見つけました。その家の二階が広い ので、それを借りました。そして初めは、まだ経済が十分でないので日曜日と水曜日と、朝の早天祈祷会の時間だけ借りてやっておりましたが、どうか全部借り れるようにと祈っておるうちに、その家が全部借りられるようになりました。敗戦直後のことですからだんだん人々が集まってきて、会社の中の婦人集会からも 次第に若手が教会にくるようになって、洗礼を受け、集会が盛んになってまいりました。
鴨島から約一時間西の小さい町に、筒井製糸のもう一つの脇町工場がありました。そちらの工場でも職員や従業員の修養会をいたしました。私は毎木曜日にいっ て賛美歌を歌い、聖書を読んで会社の中で伝道集会をいたしました。また、かつて北京の日本人教会の役員の方で、日本へ引き揚げてから筒井さんの脇町工場の 厚生課の責任者に入れて頂いたKさんというクリスチャンの家庭で、家庭集会を開きました。そして脇町の教会が始まったのです。それは、鴨島伝道が始まっ て、僅か半年後のことでした。
そうやって、鴨島教会もだんだんと大きくなってまいり、そして脇町の伝道もだんだんと前進していきました。ところで、私か鴨島伝道を始めて間もない1946年12月23日、当時南海大地震といって、戦後ま もなく一番の大きな地震がありました。その地震で電灯もつかないようになってしまった夜、あの北京時代の岩井少佐が訪ねてきました。岩井さんは、戦争中に 次第に位が上って連隊長にもなり、陸軍の大佐にもなっておられたが、敗戦になって日本へ引き揚げて来られました。そうしてその2、3日前家内の里の高知県 のお父さん、お母さんに挨拶に行かれましてその帰りに、私が鴨島にいるということを知って挨拶に来られたのでした。びっくりやら大喜びやら。そして一晩、 私達は枕を並べて寝ました。岩井さんに、「これから、どうなさるつもりですか?」と聞くと、「いや、どうなさるもなにもない。いままだ帰ったばかりで、一 切は御手にゆだねます。そういう状態で祈っております」という。
ちょうどそのころ、製糸会社の社長の筒井さんや専務をしてらっしゃるもう一人の筒井さんが、「先生、会社の二つの工場、つまり脇町と鴨島には千人ほど従業 員がいますが、精神修養のために誰かよい指導者になる人を世話をしてくださいませんか」といって、相談を受けておりました。私はいま岩井さんが帰ってこら れて、″この人こそ、そういう役割に本当に適切な人だ″と思って、この社長さんや専務さんに相談しました。そして双方出会ったところがいっペんに気に人っ て、「来て下さい」 「参りましょう」ということになったのです。あの北京時代、私をよく助けて下さった岩井さんは、軍人を止めたらすぐ伝道したいという 気持ちの人でしたから、鴨島にいらっしゃって工場の従業員の精神修養、伝道をし、また自由に教会のご奉仕をしてもいいという条件で、位もいきなり部長級に なって、そして鴨島の伝道を助けられるようになったのです。
1946年の4月になりますと、岩井さんの奥さんも次男、三男、四男、五男、長女の子供五人を連れて鴨島にいらっしゃいました。その子供たちの中で、当時 いっしょに来ました次男は現在、鴨島教会の四代目の牧師です。その前は、22年間カナダの宣教師になって行っておりました。三男は、平塚でやはり牧師をし ております。五男は、シンガポールの宣教師になっており、四男は、松下幸之助さんが所長をしているPHP研究所の常務取締役研修局長として、また教会役員 としてよい働きをしています。一人娘も、櫛田さんという牧師に嫁いで、香川県の坂出市で立派な伝道をしています。そして当時一緒ではなかったが、すでに献 身しておりました長男は、脇町の教会で二代目の牧師をしております。そういうふうで、鴨島の初期に岩井さんの家族が来て、初期の伝道をいろいろ助けてくれ たのは感謝でありました。
ところが昭和24年になって、脇町の家庭集会でご奉仕しておられたKさんという方が、失敗を致しまして、脇町を去って故郷の九州へ帰らなきゃならなくなり ました。教会がさびれて大変困ります。私は岩井さん家族に、脇町に行って信徒伝道者としてご奉仕くださいと願ったら、快く脇町に行って下さいました。筒井 さんの会社の教育部長としての御用をしながら、脇町伝道の振興のためにご奉仕を続けて下さったのです。先に述べましたように、岩井さんの奥さんと私の家内とは姉と妹ですが、郷里が高知県の土佐市で、鴨 島からそこへ行くためには阿波の池田を通ります。そこで乗り換えて、高知まで昔は4時間ぐらいかかりました。池田で急行列車に乗り換えるのに、時には1時 間半も2時間も待たねばなりませんでした。池田という町は徳島県では吉野川上流、山の奥ですが、なかなか立派な大きな町です。私はある時、高知へ伝道に行 くとき、この大きな町に教会はあるかと思って、2時間ほど時間を待っている間町をずうっとまわったが、教会がない。こんな大きな町に教会がない、なんとか してここに伝道をしたいものだと願いました。いい機会があるようにと願っておりました。実は、その町に戦争中まで伝道しておられた牧師さんが他の所へ転任 しておられましたので、「池田に伝道したいが、昔信者の人で知合いがおりましたら、紹介して下さい」といって頼みました。なかなか紹介してぐれませんでし たが、やっと紹介して下さった。ある時、土佐の伝道に行く途中その方を訪ねたら、もうその方はお年で、だいぶ疲れていらっしゃった。「この町は困難で」と いわれる。何か悲観的な話ばかり聞かされたので、私はそのとき、「こういう人を頼っていては伝道はできん。信者でなくても、新しい人に出会いたいものだ」 と思って、一生懸命に祈っておりました。
そんな直後脇町教会で、筒井製糸の工場の医務室に看護婦さんをしていた坂部さんという方が洗礼を受けました。私はその方に洗礼を授けましたが、彼女は洗礼 の後にとても喜んで、「もう先生、嬉しくて嬉しくて、感謝です。こんな喜びを私は自分の両親や兄弟にも知らせたいと思うんですが、しかし遠いところですか ら、なかなかできません」という。「あなたのお国はどこですか?」と聞きましたら、「私は阿波の池田です」 「ああ、いいことをおっしゃった。私は池田に 伝道したいと思っている。あなたが池田の人とは思わなかった。それならすぐご両親のためにあなたの家で集会をしますから、いつでも行きましょう」と申しま した。
池田の坂部さんというのは写真屋さんでして、敗戦になって写真屋も商売繁盛しません。二階には写真撮影用の大きな広間があります。坂部さんは帰ってすぐ両 親にそのことを話したら、来てもらおうということになったのです。坂部姉妹が洗礼を受けてから2ヵ月ぐらいが過ぎて、池田の坂部さんのお宅で初めての集会 をいたしました。それは、昭和24、5年のことです。そうやって池田の伝道に道が開けて、私は毎月一回日曜日の夜、坂部家で伝道いたしました。戦争直後の ことですから、毎回40人、50人と集まり、いっぱいになりました。
その坂部さんのおうちのすぐ前の家に、宮本さんという未亡人のかたがいらした。その方は、おる新興宗教を信じていたのに満足がなかったのですが、初めての 集会で、十字架のあがないと復活の話をよく分かって下さいました。とても喜んで、「こんな素晴らしい喜び、救い、せめてーヵ月にいっぺんでも集会をしてい ただけたらありがたい」ということになりました。初め、一月にいっぺん行きましたが、せめて半月にいっぺんあったらというので、一月に2度行くことになり ました。そのうちに、毎週あったらというので毎週行くようになりました。私が毎週2度行きました。それから、脇町の教会の御用をしておって下さる、当時信 徒伝道者として岩井恭三先生が、私の行かない日を守って下さいました。また鴨島教会の長老で鴨島学園長であった樽見義一先生も、お助けいただきました。
やがて坂部家が大阪に転宅した後は、県立池田高校長の加藤惣一先生宅で2年近く、さらに宮本姉宅で1年余り、そして加茂武雄兄宅で、それぞれ家庭集会を続 けてのご奉仕を受けました。1949年4月には林明牧師を迎えて教会となり、佐藤、野村両牧師を経て、今は亀田牧師により伝道が続けられていて、感謝であ ります。そうこうしておりますうちに、家内の土佐の実家で、家内の兄(岩井夫人の弟にあたります)が非常に 求道の心を持ってきて、うちでも集会を持って欲しいということになりました。
そこで私達は鴨島から、また岩井先生は脇町から一緒になって、初めは毎月一回土佐まで伝道に行きまして、家庭集会を始めました。そのうちに、家内の兄夫婦 は洗礼を受けてクリスチャンになりました。向こう三軒両隣りに毎月一回、それがまた二回になって、求道者ができるようになりました。遠いものですから、鴨 島や脇町からそんなに世話ができんので、日本キリスト教団の高知分区の先生がたに頼んで、教会学校や集まりをして頂くようになりました。やがて土佐福音教 会というものができて、岩井家の長男が伝道に行きまして、9年半、開拓伝道の後を引き受けて基礎作りにご奉仕をしてくださいました。その教会もいま数百坪 の土地と幼稚園を持ちながら、田舎の町で福音の業がなされております。
そのころは次々と伝道が進みました。ちょうど脇町と池田との間に貞光というところかおりますが、当時、貞光と対岸の町の間に大きな橋をかけておりました。 その橋を作る工事の監督や指導者達がその町に参りました。そのころ貞光のすぐ隣りに阿波半田という町があって、そこに鴨島教会員になりました林喜義さんと いう方が結婚して、自分の家庭を開いて毎週家庭集会をもっていました。私と脇町の岩井先生とが毎週どちらかが変わって行き、だんだんと救われる人が起きて きました。ちょうどそういう頃に、東京や長野県や遠方からきた工事関係者の人たちがキリスト教に関心を持ち、貞光から半田の林家の集まりにきていました。 そこで、洗礼を受けるようになった人たちが、貞光でも集会をしてもらいたいという願いを持っていましたので、今度は貞光にも教会を、と思うようになりまし た。
そういうある日、突然、日本の大衆伝道で第一人者といわれているH先生がS先生を連れて、鴨島の私を訪れました。どういう相談かと思ったら「今度、私達の 神学校を出るUというのが貞光で伝道することになりましたから、どうぞよろしくご後援願います」という挨拶でした。それで私は、脇町の岩井先生と相談し て、「すでに貞光には5、6人の信者があり、毎週十数人の家庭集会をもっているが、今度新しい神学校出たての牧師が来るというならば、あんな小さな町に二 つの教派の違う教会がおるということは、栄えにならんと思う。むしろこの際私達は、いまある5、6人の信者とその他の求道者をこの若い伝道者に託して委ね て、この人達を中心に伝道してもらうようにしたらどうか」と相談したら、岩井先生も賛成してくれました。このUという人はH先生の弟子で、説教の仕方もH 先生とそっくりでとても熱心で、貞光伝道がずいぶん盛んになりました。本当に将来どこまで伸びるかと希望を持っておりますとき、よくサタンが働くといいま すが、思いがけない蹉跌が来ました。
そのUさんの弟は大工さんでしたが、家庭の不幸なことから兄の教会に避難してきました。この人は酒は飲むし、時々たんかをきったりすることがあって、教会 の人は恐れる。ことに奥さんと別居していろいろ不幸な状態にありました。しかしU牧師の弟ですから、一緒にいるが、なかなか扱いがむずかしいことも時には あります。そうこうしているうちにU牧師の弟さんは、奥さんを引き戻したいために新潟県の郷里へいって、奥さんの手もとにいた幼児を黙って連れてきてし まった。そうしたら奥さんは戻ってくるだろうと思ってやったのですが、かえって逆効果になった。そして、仕事はない。自分も少しノイローゼ気味になって子 供の世話ができない。いよいよおかしな状態になりました。ある日とうとう手に余って、この弟さんはその幼児を殺してしまいました。まあ、田舎の町でそんな ことをしたから徳島中にこの噂が立って、U牧師はとうとう伝道ができなくなり、とりあえず鴨島に私どもが引き取ってしばらく静まってもらい、またよい機会 を外に与えられるようにということになりました。
ちょうどそのころ、水上仙平という老牧師が、戦時中田舎伝道で難しく、聖書協会の配布人になって徳島県へ回ってこられました。脇町に滞在して何とか伝道し たいという願いを持っておられたから、急きょその方に貞光をやってもらうようにしました。衰微した教会で伝道を続けて頂いて、その先生も亡くなりました。 そしていま、三代目の若い正木先生という方がもう十数年、貞光の伝道をしており、ここにも小さいながらも牧師館を兼ねての会堂があり、土地も建物も与えら れて続いております。
ところで、徳島市は鴨島から18キロ東にあり、徳島県の県庁のある都市です。徳島では、1950年頃林喜義さんが半田から転居してきて自宅を開き、私と岩 井恭三先生を招いて毎週金曜の家庭集会を始めました。2年後林さんが高松へ転任した後は、原田さんという国鉄の方が11年、原田さんが駅長に栄転して愛媛 県に転任した後は、日下さんという方が7年、合計18年の家庭集会をずっと続けました。いつも10数人から20人ぐらい集まっていました。
家庭集会を続けておりまして教えられたことは、家庭集会というものは何年続けても家庭集会で、教会にならないと、成長がないということです。そこで、どう しても主の教会を新しく打ち建てるという必要を示されて、ある時教会の役員会で申しました。また脇町の岩井先生にも相談しました。「我々は、徳島市在住の 信者を鴨島教会と脇町教会から株わけをしよう。徳島の西の方には教会が一つもないから、それを土台に徳島西教会というものを一つ作ろうではないか」という 祈りを持ちまして、そして1970年11月に鴨島教会の徳島在住の信者21人、脇町教会徳島在住の16人をそれぞれ株わけをして西教会を作り、正木正俊老 牧師を迎えて初めから自給自足の教会として独立しました。そして数年前に会堂も与えられて、伝道が続いています。
こういうふうにして、神掃のふしぎな恵みにより、日本で最も貧乏な県の一つ、伝道の困難な地といわれた徳島県に、何も知らずに今から40年前敗戦国民とし て引き揚げてきて、たまたま賀川先生にお会いし、何の縁故もない徳島に来て筒井さんや皆さんに出会って、その家庭を開いて頂いて伝道をしました。そしてい ま、鴨島教会はその後会堂が与えられ、牧師館が与えられて、また労働センターといわれる建物も会堂にくっつけて作るようになり、教会の霊園も与えられて、 本当に恵みのうちに今に至っております。
ただ私は創立以来の伝道者ですから、いつまでも頑張らないようにしなければならん、時世が変わるから適当な時機には代替りをしなけりゃならんということを 示されました。そして鴨島教会創立25年のとき引退して、自由な立場で、超教派で、日本中に福音を伝えるということを許してもらいだいと祈りを持っており ました。長老会にかけましたら承認を得ました。それで昭和48年(1973年)、私は創立以来26年働かせて頂いて、68歳で第一線を退きました。
教会は私のようなものを名誉牧師にして下さいまして、私は自由な立場で、超教派で福音を宣教するという道に入れていただきました。それ以前から、日本キリ スト伝道会という超教派伝道の力ある団体がありますが、そこにも迎えられました。超教派で、北は北海道から南は沖縄まで、ほとんどの県における教会や学校 や病院やいろんなところに行って伝道させていただいて、本当に感謝をしております。
1973年でしたか4年でしたか、ある秋の日、もう私が引退した後ですが、私達の仮住いに背の高い 若い西洋の先生がいらっしゃいました。フィンランドから日本伝道にいらっしゃったヨルマ・ピヒカラ先生です。先生は初対面の私に、「私は、フィンランドか ら日本の伝道にまいりました。神戸の日本語の学校で日本語を勉強して、そして日本語の学校の校長さん、滝本さんにいろいろ相談し徳島県に伝道に行きたいと いう願いを話しておったら、『それなら徳島県の伊藤牧師にあって、相談してみなさい』という話でしたのでまいりました」といわれる。私はそれまで、フィン ランドのことなど考えたことかありませんでした。″遠い遠い国の人がよくもまあこんなところへいらっしゃったものだ″と思い、私も戦時中、中国に宣教師と して困難な中を通りましたから、″大変なことだな。阿波の困難な田舎のいこじな所に″と思いまして、「できることはなんでもさせて頂きます」と申しまし た。つづけて「どこそこへ伝道なさったらいいでしょうとは言いません。先生がまずご自分で徳島県のあっちこっちをいっぺん視察をなさってみて、ここに一番 伝道したいというような導きを受けるところがあらわれたら、おっしゃって下さい。何もできんが、お手伝いはできることはさせて頂きます」と申しました。そ してその日は、短い交わりをしてお別れしました。
そののちにまたお会いしましたら、先生は徳島県の阿南とか鳴門とか、また徳島県の吉野川の川向いの市場とか、そういうところを回り、徳島市から鳴門へ行く 途中に北島という町を見られた。そこに大きな工場が、徳島県では当時一番大きな工場地帯です。ピヒカラ先生は「私は北島で伝道をしたいという導きを受けま した」とおっしゃいました。
私はその時、「ああそれなら、北島には小川さんという人がいますよ」と言いました。
小川さんとは、賀川豊彦先生とも非常に懇意な人で、かつて日本キリスト教団北島伝道所の出発もその家庭で始まったのです。その北島伝道所の荷を負っておら れましたが、不幸にしてその北島伝道所の牧師が一年毎に変わっておりました。ある大学の神学校を出た若手の人が毎年遣わされるが、農村伝道、田舎伝道に、 神学校で十分の教育を受けないこともあったのか、またそういう使命もない人が多いためか、来ても何していいか分からない、ただ日曜日や定例の集まりをする だけで、ここにいる間にどこか都会のいい教会に働きかけて、一年いるとすぐ替わってしまう。5年ほどそういうことが続きました。5、6人替わってしまった ある時、小川さんは鴨島の私の所へわざわざいらっしゃいまして、「先生、どこそこの神学校を出た先生はもう迎えたくない。来てもすぐ都会へ行くことばかり 考えるから、もう無牧のままでいいから、私 達は鴨島教会の礼拝にでも出たいと思います」と言われました。そこで「あなたのところから鴨島へ来るのは大変だから、お宅を開放してお宅で集会しなさい。 私が行きましょう」と言って、初めは一月にいっぺんが、やがて二へんになって、一週間おきに私は小川さんの家庭集会に行っていました。2、3人の信者と数 人の求道者がいて、小川さんの家族も交えていつも5、6人から7、8人の集会を続けているのです。″誰かこの地に根を下ろして、伝道してくれる人がいない かなあ″とかねがね思っておったが、やむを得ず私か汽車に乗ったり、いろいろ不便を通して行っていたのです。
ちょうどそういう時にピヒカラ先生が、「北島に伝道したいと導きを受けました」とおっしゃった。これは天の声、神様の導きだと思ってすぐ、小川さん、中屋 さんという中心の人たち、また集まりの皆さんに相談しました。「一ヵ月に二度の集まり、それも夜の集まりよりも日曜日の朝の礼拝を守るということが大切で す。遠いフィンランドから家族を挙げて、小さい子供を5人も連れながら北島に伝道をと願っていらっしゃる宣教師がおられるということは、これは神様がおつ かわしになったことだから、あなたがたはこの方々と協力して北島に教会ができるように、この先生を迎えてご奉仕したらどうですか」といいましたら、快く 「そうします」ということになりました。そこでピヒカラ先生にお引き合わせをしたわけです。
私は、フィンランドに伝道に行ったとき、みんな大きな家に住んでいらっしゃるのに、ピヒカラ先生達が始めていらした時の日本の家は本当に小さく不自由でし た。しかしその中にあって家庭を開いて伝道して下さった。そして小川さんや中屋さんたちと協力して、短い時間に北島教会、今の吉野川ルーテル教会ができま した。フィンランド宣教師の方々の質素で素朴で熱情を持って、福音のために伝道なさる姿に、私も私の亡くなった家内も非常に感動を受けました。まあ、そう いうことからピヒカラ先生と交わり、後からいらっしゃったバンスカ先生、バルカマ先生ともお交わりを頂いて今日に至っております。
そういう関係で、ピヒカラ先生を通してフィンランドの福音宣教会にも紹介して頂き、家内が亡くなった年の6月から7月へかけて35日間、初めてのフィンラ ンド訪問とフィンランドのルーテル諸教会、各地の教会に伝道のお手つだいに行かして頂きました。35日の間、ピヒカラ宣教師が私をご自分の自動車に乗せ て、5570キロ、町々村々を連れて、全部通訳して回って下さいました。そのあいだ奥さんは、幼い5人の子供さんたちを守りながら留守を守って下さいまし た。そして、いたるところでフィンランドの諸教会の福音宣教会の関係のある方々が、″この世において頼りになるのはイエス様だけ、福音だけである″という 純粋な信仰に生きておられる姿にふれました。この国はお隣りの国との関係で、日本と違って緊迫感もありますが、私は35日間滞在して交わり、しかも「日本 はフィンランドの独立の恩人だ」などというような、思いがけない言葉を頂くような親日感を持っていらっしゃる実態に触れて、私はもう感激でいっぱいでし た。日本へ帰ってきて、いたるところの伝道でそのことを紹介しました。
以来今日まで、フィンランドの教会の皆さんと大変深い主にある交わりを頂き、一昨年の夏もまた半月ほど行かしていただき、3000キロに及ぶ各地の伝道集 会をさせていただいて、感謝にたえません。私はこれまで北海道から沖縄県まで、日本各地の伝道の旅をさせていただきましたが、そのほかに、カ ナダの伝道、アメリカの西海岸、シアトルからサンフランシスコ地区、ロサンゼルスまでの各地の伝道、また韓国、台湾、香港、シンガポールの伝道にも行かせ ていただきました。
そのうちで一番関係の深いのは台湾です。前後19回まいりました。特に台北には日本人が一万人ぐらいおりまして、そこには国際日語教会という日本語の礼拝 をしているところがあります。台湾伝道へ行きその教会にまいる度毎に、かつて私が北京伝道に行ったときのことが思い出されるのです。つまり、日本人が本当 にキリストの福音によって教われて、神の子として中国の人に接しなければ、本当の良い交わりができないということです。ですから台北に日語教会、日本語の 教会ができることは必要ですし、良い日本人が台北にあって、台湾の方や各国の人たちと交わることができるように、何よりの働きの一つは、福音によって教会 ができて日毎教会の会員がたくさん生まれることの大切さを覚えて、私も一生懸命にお手伝いを致しました。そうしたらだんだんと皆さんが迎えて下さって、と うとう昭和60年5月26日、聖霊降臨祭の日、それまで持っておりました台北日語礼拝は台湾キリスト長老教会に属して、台湾キリスト長老教会国際日語教会 として、新しい出発を致しました。
台湾の信者で日本語をよく分かる人たちは、私にその教会の牧師になるようにと言われます。けれども私は歳をとっておりますから、良い方をと願っておりまし たら、岡村松雄という、私が鴨島教会を引退した後に二代目の牧師になって7年半、良い牧会伝道をなさり、それから東京の小松川教会、東京神学大学に大変よ い働きとご奉仕を続けられた方です。東京神大の事務長を定年で止めなければならなくなって、もうー度四国教区にきて開拓伝道をしたいという願いを持ってい ることをちらっと間いたので、私はお祈りしてこの岡村牧師に、「四国へ来るためには海を渡らなければならんが、もうひとつ遠い海を渡って、新しく台湾に生 まれた台北日語国際教会に、あなたが67歳からの宣教師として御用をして下さらないか。祈って考えて下さい」と申し上げたのです。ご夫婦で祈って、「喜ん で受ける」ということになりました。いま岡村牧師は、台湾キリスト長老教会台北国際日語教会の牧師として就任致し、日台の福音による親善のかけ橋となって いただいております。そして教勢、財政ともに祝されて感謝であります。
私はその就任式に招かれてまいりました。年老いた身ですから、これからは若い人のように身体を動かすことはできませんが、私の開拓伝道の第15番目の実で ある台北日語教会が、福音による本当の民間外交の御用ができるように、何としてもその岡村牧師の伝道が祝されて行くように、まだ全額を台北日語教会は負担 するだけの力がないので、後2年の間にぜひ宣教師としての費用を全額負担することができるように、また専属の教会堂を持つことができるように、いま祈って おります。これから2年間、私は台北日語国際教会とその会堂建設のために、これを支える会の世話人の責任者として、新たに祈って、物心両面を集めて台北に 送ろうと思っております。それが残りの私の課題で、最後の最後まで、弱いものを助けて成させて下さる聖霊の力、神の力によって、第15番目の台北日語教会 が立派に出来上がるように働いて行きたいと思います。のみならず、なお許されて長生きしたら、台湾には台南にもその南の高雄にもたくさん日本人がおります ので、日語の集まりもありますから、そういうものを立派な教会にして、どうぞ福音による親善の架け橋が堅うせられるように、祈り励みたいものだと思って、 弱いものですけれども祈らされております。どうぞ覚えてお祈り下さい。
終わりに、私の伝道の方法について何かをとよく言われるので語りたいと思うのですが、私は神学者で も研究者でもなんでもないので、ただ私が実践してきた、そのことだけを申しあげます。
それは何かというと、集会のときに何を伝えるかということです。私は、「人もしキリストにあるならば、古きは去って、見よ新しくなる」という御言葉を語り ます。これまで語ってまいりましたように、私は15歳の秋、9月27日の晩、闇の子として滅ぼうとする私が求めずに行った集会で、心ひらかれてイエス様に 接し、聖書に接し、教会につながり、祈ることを教えられて確かに変えられたことを覚えます。ですからどういう説教の場合でも、イエス様の救いについて、十 字架の神の愛についてできるだけ率直に、″そんな馬鹿な″と思われても、現実に自分が変えられて今あるのですから、そのことを語らなければなりません。イ エス様の十字架の愛によって神を知らなかったら、イエス様が復活して、今も「恐れるな。私が共にいる」ということを身につけなかったら、今の私がないのだ ということを厳粛に思うのです。
今から言えば9年前、家内がすい臓癌で後半年もたないと医者から宣告を受けました。すい臓癌が広がってもう手術ができない。ただ毎日毎日、家内が地上の終 わりを待ち望むだけというとき、一人息子の誠は母親が後半年もたないということを知って、心が痛みました。家内が入院してそのことが宣告されて6日目に、 誠は自動車に乗って用事に行って、心の傷みで心に隙間ができてか、自動車事故で重体になりました。親子3人の家族構成の中で、家内はすい臓癌で後半年もた ない、一人息子は自動車事故で倒れる、そういう痛みに追い込まれました。
そのとき私は、本当に祈らされました。そして、祈っているとき、「悩みの日に私を呼べ。私はあなたを助ける。あなたは私をあがめる」と詩編の50編15節 の御言葉を頂戴しました。本当にそうだと信じました。あの悩みの中にあっても、毎日家内の看護やいろいろな多忙な生活の中にあって、予定どおり伝道のプロ グラムを続けました。鴨島における伝道、約束している他の地区の伝道もあります。また生涯開拓伝道ばかりですから、そんなに蓄えも持っておりません。2人 の病人にも費用がいります。しかし「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助ける」というみ言葉を信じて祈り続けました。
各地で立証しましたが、聖書の御言葉は2000年前だけのものではない、今も生きて働きなさる。主は生きておられる。あの2人の重病人に必要な多額な費用 も、どこにも借金することなく、多くの人たちのお見舞いや手紙を通してみな与えられました。家内が亡くなりましたのち、教会は教会葬を出してくれました。 そして多くの慰めのお金を皆さんからいただいて、最も苦しい状態のときに、最も度重なって教会に感謝の献金をささげることができました。大なり小なり、そ ういうことは若いときから多少経験してまいりましたが、やはりみ言葉に信頼し聴従するということ、イエス・キリストに信頼して生きていくところに救いの根 源があるということを、足らないながらも一生懸命に伝えるように努めてまいりました。
もうすぐ伝道生活60年になります。この60年の伝道生涯には、日本の教会もある思想に流れて教会が弱ったり崩壊したりすることがありました。弾圧に屈し てどうしようもないこともありました。しかし伝道の困難なときにぶつかっても、個人的な家庭の事情があっても、教会にさまざまな問題があっても、やはり主 により頼んでみ言葉の約束が必ずなると信じて祈って、馬鹿の一つ覚えのように歩いてきました。「天地は過ぎゆくが、我が言葉は失せじ」とあります。戦争の 末期には、憲兵の私服や特高警察の人が、「そんなつまらぬことを言っておったら今にほぞをかむぞ。伝道も何もできぬようになるぞ」と高圧的に言っていまし た。もちろん説教する時は、こわい思いをしないでもなかったですが、やはりイエス・キリストと十字架と復活の福音による以外に救いはないと説きました。
1945年8月15日、「日本は絶対に負けない。神風が吹く」と威張っておった人が、翌日から手の平を返すようにおべっかを言うようになってきた。「いよ いよ先生たちの時代が来たですね」という、そういう現実に触れてみると、やっぱりみ言葉中心ということが大変大事だということを覚えます。私は、できるだけ伝道のために週報を念入りに作るようにしました。そして週報には個人消息をよく注 意して書き入れるということを忘れないようにしました。誰それさんが病気です、お祈り下さい。癒された、感謝して下さい。誰それさんの息子さんが大学に入 学しました、感謝して前途の為に祈って下さい。結婚の約束が出来ました。教会に直接報告がなかってもそういうことがわかったらすぐ、教会関係の人の消息は 大なり小なり週報に入れました。そうすると教会に余り関心をもたない人達が、家族の者等の消息欄を見て、教会というところはこんなにわたしの家のことまで よく気をつけてくれる。行き届いている。そういう教会なら家族が行っても安心ということになる。そういうことも伝道の一つの方法にしました。
それから、日曜日に教会に出席した人は週報箱から週報をとりますが、出席しない人の分は残っております。そうすると私はその週報を放っておきません。月曜 日か翌日になったら、すぐ町内だったら自分で持って廻る。県内でしたら郵便で送って、月曜日には週報箱は空になるよう心がけます。そうすると週報というも のは、礼拝に来たときには時間がないからみな読みません。しかし礼拝に来なかった人は、郵便などで送られると、隅から隅まで読む時間もありますから見ま す。ですからようく頭へはいりまして、″ああ、こんな集会があったな″と分かります。
私は文字は下手ですけど、そのように週報にはできるだけ個人消息を詳しく書き入れること、また注意して週報をすぐ配布するということを致しました。また、 よいことでも悲しいことでも、何かあったらすぐ電話をかけるとか、お訪ねするとかして、「おめでとう」とか「大変だったね」といってお祈りするように心が けました。そのことは、後になってから「よかったですね」というよりも、どんなに効果があったことかわかりません。
もう一つは、だんだんと教会が沢山でき、各地に招かれるようになって旅行が多くなり、牧会伝道ができなくなりますので、通信牧会ということを致しました。 初めていった街に行きますと絵ハガキを200枚、300枚と買って、旅先きから全部の教会員、全部の求道者におくりました。フィンランドに行ったときに は、「今年は先生、フィンランドの郵政省から感謝状が出るかもしれませんね」と冗談を言われましたが、私の伝道旅行で一番沢山絵葉書を書いて送ったのは、 フィンランドからでした。最初に行ったとき397枚絵葉書を書きました。
「遥かにあなたのために祈っています」、病人でしたら「早くいやされるように祈っています」と、短かい文章ですけれども書いて送ります。そしてその絵葉書 を送るときに、一人の人に航空便で出したら全部の人に航空便で出す、分けへだてをすると″先生はあの人には航空便で出すけれども、私が不熱心だから普通便 でおくれてくる″と思われます。そういうことのないように、郵便のためにお金がいっても、ほかで節約すれば効果があります。ですから旅先から絵葉書伝道し ました。それはかなり効果がありました。求道者の方も、そういうところから結びつく。長く教会を離れておる人が信仰復興して戻ってくる。そういう例が沢山 ございました。それから私は、人とすぐものが言える性格ですから、列車の中でも隣りの人とすぐ話をします。ある人 は、わたしの顔を見て、「あなたさんはどういう職業ですか?」と尋ねます。「当てて下さい」 「お医者さんですか?」 「いいえ」 「学校の先生です か?」 「いいえ」 「役所の人ですか?」 「いいえ」、いろいろ聞いてきますがなかなか当たりません。「わたしは教会の牧師です」と最後に言いますと、 「ああ、それは本当に良いご職業ですね」ということになります。
汽車の中で証しをしますと、「今日はいいお話しを聞かせていただいて感謝します。わたしは次の町で降ります。この辺をお通りのときにはどうぞ寄って下さ い」と言います。これはあるいはお世辞かも知りませんけれども、「ええ、この次に寄らせてもらいましょう」と、所と名前を聞きます。そして寄れないときに は、その町を通るときにすぐ車中でハガキを書きます。「今日は急ぐのであなたのところを通過しますが、お寄りできません。次の機会にお寄りしたいと思いま す」ハガキを出すと直ぐ返事がきます。「通過なさっても覚えてハガキを下さってありがとうございます。今度おいでのときどうぞ寄って下さい」。ですから今 度は時間を知らせて行きます。今まで交わりがないが、そうやってその方の家へ行くと、もう10年の旧知のように迎えてくれる。そこで証詞をして家庭伝道を します。そうすると、このような機会が又あったら今度は外の者も呼びますからというので、今度は親族やお友達や近所の人がきて家庭集会になり、教会の基礎 づくりになったことが二つ三つありました。
日本に″窮すれば通ず″という言葉があります。もうとことんまでいったら逃れる道があります。ですからパウロも伝道のため一人のひとを得るためには、わ たしは何でもする″とコリントの文に書いてあるように、私もそれを真似するように今まで心がけてきました。もちろんそれでよくいったことも多少あり、あん まり熱心過ぎたようにみられて敬遠されたこともありましたが、とにかくここまでやってまいりました。救われたことと伝道の生涯という祝福と喜びは、これに 勝るものはないということも示されております。
今日この頃私は、もう人生の終りが来ることを予測しています。人生の終りに本当に一番喜びをいただきたいのは、人にではなくイエス様にです。この頃はいつ も「弟子となしたまえ、わが主よ。わが主よ。弟子となしたまえ、わが主よ。心の底より、弟子となしたまえ、わが主よ。」という讃美歌が、わたしの毎日の祈 りになっています。教会にも人は沢山いますし、みんな信者のように思うが、そうでない。弟子のように思うが、そうではない。人から見るのとイエス様の目か らご覧になるとでは違うから、「イエス様、どうぞあなたのお目からごらんになって、一番いい弟子のはしくれにして下さい」と祈っています。
「愛を増したまえ、わが主よ、わが主よ」。83歳になりますと、この世のものは何もいりません。いい着物も欲しくないし、金も勲章も欲しくないです。おい しい御馳走を並べられても、そんなに食べられません。やはり神様を愛する愛、教会と信者を愛する愛が深くなるようにと、そういうことを今切に祈らされま す。
「きよくなしたまえ、わが主よ、わが主よ」。本当にクリスチャンの最後はきよめられ、聖別されなければなりません。どんなに熱心に伝道したとしても、きよ くなければ駄目になってしまうから、血潮によって聖霊によってきよめられて、イエス様の似姿ができるように、今この讃美を祈りのかわりによく歌っていま す。
そして「ユダにはなるまじ、わが主よ、わが主よ」。わたしは大丈夫かというと、大丈夫じゃない。ユダは最後までついてきて、最後の瞬間にイエス様を銀30 枚で売って永遠の滅びに至りました。最後の日まで、ユダになることなく、主のみ足のあとを慕っていきたい。まあそういう道を願っております。あんまりあれ もああしたい、これをこうしたいと思わないで生きておると、ふしぎに「集会にきて下さい」 「こういう話して下さい」 「こういう集会の導きして下さい」 と招きがあちこちからきて、まだまだ主のご用があるようでございます。
どうぞ、覚えてお祈り下さい。
最後に、これまで述べてまいりましたこの証詞が、「主よ、栄光をわれらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ主のみ名にのみ帰してく ださい」(詩編115篇1節)と、切に祈る次第であります。
「出版を感謝し、お礼を申上げます」
伊 藤 栄 一
昨年11月16日(日)は鴨島兄弟教会創立40周年記念感謝の日、そしてその日のために「記念委員 会」が発足、いろいろと祈り準備のために時間をかけての協議が続けられていました。私もその委員会に出席させて頂いたこともあるのですが、「今まで創立 15周年記念には15年史、30年記念には30年史が出版されたが、それらは教会の歴史書であり、今回は伊藤牧師の説教集と証しを出版出来ないだろうか」 との案が出ている事を伺いました。
昔、賀川豊彦先生に「原稿が出来たら送りなさい」と言われていながら不可能であったことを思い出し、原稿を書くのがまことに苦手、今までも各方面から原稿 の依頼を受けながら一度として期日に間に合ったことはなく、遅れに遅れてご迷惑をかける失礼ばかりであるので、せっかくの委員会の方々のご好意も堅く辞退 せずにおれませんでした。
ところが昨年1月のことでした。フィンランド・ルーテル教会福音宣教会より徳島県下の伝遣に派遣されておられる、ヨルマ・ピヒカラ宣教師から求められて、 セントラル・ホテル鴨島にて朝から午後まで7時間にわたり、私の入信以来今日に至るまでの証しを4本のテープに入れていただきました。ピヒカラ師がそれを フィンランド語に翻訳し、「フィンランド福音宣教会」より出版することになっていたのです。
岩井牧師はそのことを知っておられて、ピヒカラ師より4本のテープ(計約5時間)を借入れられ、4人の長老たちが一本ずつ筆記される奉仕により、私の知ら ないところで知らない間に、私の入信以来の68年、伝道60年の証しが原稿にされていたのです。
それのみか、島村亀鶴先生と三浦綾子先生からの出版に対してのお言葉をもお願いしていただいていたことにびっくり、何とも恐縮の次第でありました。
右のようなわけで、このたびまことに貧しくて至らない私のような者が、主イエス・キリストにより尊い恵みの救いに入れられて今に至りました証しを、「鴨島 兄弟教会」により出版していただくことになりました。そのような恵みを受けるには何の値もない者ですのに、大いなる主にある御愛のご配慮をしてくださった 岩井牧師、長老会一同、並びに教会員御一同に心から感謝申し上げます。特にテープから筆記してくださった武間、滝山、大倉、亀川4長老の御奉仕ほんとうに ありがとうございました。
なお、島村亀鶴先生と三浦綾子先生からは、もったいない主にある御受のお言葉を賜り篤く篤く御礼、涙をもって主に感謝しております。ありがとうございまし た。
最後に岩井牧師の弟さん岩井虔兄に御礼申し上げます。PHP総合研究所の常務であり研修局長としての重責に在り、日夜多忙に明け暮れしておいでの身をもっ て、このたびの出版に対しての一切、総編集のまとめに至るまでの御配慮の御労をお礼申し上げます。 感謝。
なお、ピヒカラ師のフィンランド語に訳しての出版については、10年余り前、若くしてフィンランドから徳島県に宣教師として赴任された最初の時期、私が先 生御一家とその伝道に少しばかりの協力お手伝いをしたことがあります。短い期間に、先生のよき御奉仕と主の恵みにより、今では4人の宣教師御一家が徳島県 下にて伝道なさり、それぞれ会堂を建設、教会設立がなされるに至って感謝の状態ですが、昨年は先生がたを派遣した福音宣教会は創立20周年とかで、その 「記念事業」の一つに徳島県伝道とその最初に少しばかりの協力お手伝いをした私の証しをも出版に入れたいとのこととかで、テープに入れるに至りました次 第。併せてご了解下さいますように。1987年2月5日朝
83歳の老僕
日本キリスト伝道会会長 島村 亀鶴
本書は、主イエス・キリストにその生涯をささげた牧師、伊藤栄一先生の証しの本である。しかし、先 生その人の証しではなく、先生がその生涯をささげ、また証しせずにはおれなかった、救い主イエス・キリストを証しした書物である。
ところで、人なり、事物を証明するのには、条件が必要である。
その証明せんとする相手を、誰よりも良く知っていること、次には、かんでくだける様に話しすること、更にその相手に「眼にもの見せてやること…″来りて見 よ″と言わんばかりに」。それから今一つ大事なことは、その証しする場合に、証しする自分が、相手に信用されていることである。そう考えると、キリスト教 の神を、救い主イエス・キリストを、罪のゆるしを、十字架の救いを、証しすることが、いかにむつかしいかがわかる。
ところで、伊藤先生の、この「証しの本」は、見事にそれを乗り越えて、神学論や教理論を土台としつつ、御自分の信仰の体験をもって、誰にでも判りやすく、 説明されている、美事な解説本であり、体験本である。
私は日本の未信者が、一日も早くこの書を読んで、立派なキリスト信者になって頂きたいと願っております。アーメン
作家 三 浦 綾 子
先生を存じ上げてから、早17、8年になる。その間に教えられたことを、いろいろな物に書いたり、 話したりしてきたので、重なる部分があるかも知れない。お許しを頂きたい。
「伊藤先生の綽名は『悪痴先生』です」
そう教えてくださったのは、確か当時の今治教会の榎本牧師夫人ではなかったろうか。「悪痴先生!」何と新鮮なひびきを持った言葉であったろう。伊藤栄一先 生にとっては悪人はない、という意昧での「悪痴先生」なのである。
人間という者は、自分の中に悪を見ることはなかなかできない。が、他人の中に悪を見ることは実に素早い。私は、このニックネームを持つ先生にお会いした 時、なるほどと思った。先生のお顔には、主を知る喜びがあふれていられた。キリストヘの愛は、人への愛を増し加える。キリストヘの愛と、人への愛は正比例 すべきものなのだ。そんなことを、鴨島で初めてお会いして思ったことだった。
のちに、先生は幾度か旭川に来られた。その初めてのご来旭の時、私たちの教会で伝道説教をしてくださった。この日のお話は、まことに人の心に深く食い入る お話で、この時に受洗を決意した人が数人いた。特に青年男女にその決心者が多かった。
私たちは、先生をご案内して旭川市内を巡り歩いた。先生は、「氷点」の舞台となった見本林で、アイヌ墓地で、天人峡の滝壷のそばで、六条教会の納骨堂の前 でと、その都度神に感謝の祈りを捧げられた。先生にとっては、感動のすべてが直ちに神への感謝となるのだと知って、深く感銘させられたことを、今も忘れら れない。
先生が帰られたあと、先生のお説教によって受洗を決意した青年たちはむろんのこと、教会員の多くが、「また伊藤先生のお話をお聞きしたい」という願いを 特った。先生は、日本全国はいうまでもなく、台湾、韓国その他海外に招かれて、伝道をなさっていられる。おそらくその誰もが、同様に、もう一度先生のお話 を聞きたいと、心からねがっているのではあるまいか。
幸いこの度、先生は本を出されることになった。そこには、あの感動的な青少年時代の入信へのいきさつを始め、主にあっての目ざましい活動が書かれてある。 正に待っていた本が誕生したのである。私たちは先生のお声を思い浮かべながら、この書を心ゆくまで読ませて頂きたいと思う。そして、多くの人への伝道のた めに、用いさせて頂きたいと、心からねがうものである。
しかし今、お喜びを申し上げるに当り、私は亡き夫人のことを偲ばずにはいられない。私が鴨島教会にお招きを受けて伺った昭和44年の秋、既に夫人は病を得 て入院なさっておられた。が、私の講演をお聞きくださるために、外泊許可を取って、病院から戻ってこられた。
私は今まで数多くの女性に会ったが、伊藤先生の奥さまは、稀に見る人格の方とお見受けしたことだった。色白のそのお顔に浮かぶ微笑は、心に泌み入るように 優しかった。「悪痴先生」の笑顔も生き生きとして、明るくて、すばらしいが、夫人のあの泌み入るような優しい笑顔もすばらしかった。その笑顔は悲しみを 知っている笑顔だった。苦しみを知っている笑顔だった。牧師夫人としての長い生活の中で、たくさんの人の心の傷を優しく包んできた笑顔だった。
私は、夫人にお目にかかった時、伊藤先生の目ざましいお働きの鍵の一つを知ったような思いがした。そして、お二人がどんなに仲のよいご夫妻か、黙っている だけで、じんと私の胸に伝わってきた。
残念ながら、この度のご出版を一番喜んでくださる筈の夫人は、も早この世にはいられない。が、私はその夫人にも、先生に申し上げるのと同様に、心からお喜 び申し上げたい心地なのである。
主の栄光が現れんことを祈りつつ。
日本キリスト教団鴨島兄弟教会牧師 岩井啓
私の伊藤先生についての最初の記憶は小学生時代にさかのぼる。先生は「啓ちゃん、角力をとろうよ」と 二人で角力をとったことだった。三木子叔母との結婚する前だったかもしれない。「子どもの好きなおじさんだな、子どもみたいだな」との印象は後々までも消 えず、旧約聖書のヨセフのように「夢見る者」とのあだなを与えられるような若々しさを持ち続ける先生を身内の一人として見る目がある。父のいない今は ―― いわば ―― 子どもとしての目である。
第二の目は関西学院神学部の後輩、伝道牧会の後輩として先生を見る目である。特に先生が「開拓伝道者」として牧会された当鴨島兄弟教会の第四代牧師として の目である。先生がどのように伝道、牧会されたかを出来るだけ知り、善い忠実な僕になろうとしている ―― いわば ―― 弟としての目である。しかもこれら二つの目は別々に存在しているのでなく、焦点のあった立体像として映る先生を見る目である。
この「主は生きておられる」も二つの目で読むことが出来る。第一にクリスチャンとしての先生の生涯である。「坊ちゃん」はその夢 ―― キリストにある夢 ―― をかなえられて行く。大阪、山口、北京、内蒙古、徳島と行く先々で開拓者としての夢がかなえられて行く姿を見ることが出来る。当教会を引退され、名誉牧師 となられてからは特に、日本各地に、カナダにアメリカに、韓国、香港、シンガポールに、そして特に台湾は20回にわたる伝道旅行を一生懸命励んでおられる 先生を見ることが出来る。夢のかなえられたヨセフの姿を見ることが出来るのである。
しかし第二に荒野を40年、イスラエルを導く苦労を成し遂げたモーセのように、牧会者、僕としての先生の姿を見ることが出来る。他人のために止むを得ずさ れた借金を最後まで返金しようとする姿や、すべての会員にフィンランドから差別なく航空便で連絡されようとしている姿を見ることも出来る。
その他、日本の救いの為と、世界の為という二つの目で見ることも出来るかもしれない。この本はそもそもフィンランド語で出版されるためになされた立証の テープから取られ ―― しかもフィンランド語はこの本が出版されてから翻訳が完成される運びとの由であるが ―― まず日本語で出版する運びになったことも感謝である。この日本内外という二つの目は一つの焦点 ―― 世界の主、イエス・キリスト ―― にあわせられていると言える。第二の目は挑戦の目であり、現在から将来を見る目である。モーセの後継者ヨシュアとすべての民(ヨシュア1:2)は約束の全地を占領し分割したと記されて いるが、先生の後継者等として霊の目をもってこの本を読むべきではないかと信じる。この約束の全地とは全日本のみならず、全世界であることがこの本によっ てはっきりと示されているのではあるまいか。
最後にこの本が当教会の創立40周年記念に際し、記念委員会によって出版されるに当って二つの目を指摘したい。一つは現在から過去を見る目である。当教会 の初代牧師というよりは、開拓牧師として主が伊藤先生を備え導いて下さった感謝の目である。先生の上り下りの少年時代より始まった終戦までの御生涯は ―― ちょうどモーセが召命を受けるまでのすべての体験が必要であったように ―― 、信徒たった一人という小さな町で開拓伝道の開始に導かれ、最初の25年間は言うまでもなく、名誉牧師となられてからの15年間も背後にあり、計40年間 導いて下さったことに関する感謝に溢れる目である。この本に、ご自分の口で証しされたそのままが印刷されている世界のイットウ先生の姿が生きていることを、はっきりと焦点をあわせて見たいのである。
医者、伝道者、作家 藤井 圭子
伊藤師が1995年に主の御許に召される二週間前、私は二人の友人を誘い、徳島の入院先へお見舞いに出かけました。小柄な先生はますます小さくなって、 ベッドに横たわっておられました。先生は私を見ると、いつもの、あの何ともいえない優しい笑顔で「やあ、先生」と声をかけてくださいました。(私のような 者をいっもこのように呼んでくださっていました)そして、「先生、私、癌になりました。あちこちに広がっているそうです」と、誰のことを言っておられるの かと疑うほどに、淡々とおっしゃいました。
「しかし、主、許し給うなら、もう一度立ち上がって、主の御栄えのために、ご用をさせていただきたいと願っていますから、先生、お祈りください」と言わ れ、お祈りしました。私が祈り終えると、伊藤師はびっくりするような大きな声で祈られ、祈り終えるやいなや賛美し始めました。その頃、先生がよく歌ってお られたのが聖歌五九五番でした。
目には見えねども わがそばにまして
つねに助けたもう 主ぞなつかしき
ところを備えて われを待ちたもう (おりかえし)
君にまみゆる 日ぞなつかしき
先生の愛唱聖歌はほとんど私の愛唱聖歌になっていましたから、私も先生の歌声に合わせて賛美しました。
「目には見えねども みかおの先に つねに守りたもう 主ぞなつかしき」 一番、二番と歌ううちに、みんな涙が出て、それでも三番、四番と賛美しました。 悲しいというよりは、主へのなつかしさに涙が出てきたようで、みんな主の愛に包まれてしまいました。賛美し終えると、また突然、私に向かって「お母様はお 元気でいらっしゃいますか。去年は広島カープが優勝できなくて残念でしたね」と、カープ・ファンの母のことを思いやって、言葉をかけられました。それか ら、「○○(相撲取りの名前)に一度、優勝させてあげたいと思っていましたが、今場所も出来ませんでしたね」と相撲好きな先生はおっしゃいました。
「先生、テレビを御覧になるのですか」と尋ねると、「いや、テレビを見るのも、新聞を読むのも、主治医さん(クリスチャン)から禁止されていますので、毎 朝、息子に新聞を読んでもらっています。本当は、面会もお断りするように言われていますが、これだけは従いません。お見舞いに来てくださる方々は、皆、主 の御使いですから」
もうテレビを見ることも負担になるほど重体の先生が、私の母のことや、贔屓の横綱のことを思い遣り、またお見舞いの人たちのことを「主がお遣わしくださる御使い」として受け止めて、快くお会いくださっていました。
おいとましようとすると、先生はベッドから降りて「これを、呉キリスト教書店さんへお渡しください。支払いが残っておりますから」と五千円札を手渡されました。さりげない先生の姿に、本当のキリスト者はこうあるべきだとつくづく思わされました。
伊藤先生を見舞ったあと、看病しておられる息子さんが病院の前にある食堂へ私たちを案内してくださいました。お見舞いの人たちに必ず食事をして帰っていた だくようにという伊藤師のお心遣いでした。食堂の主人はクリスチャンで、私たちが席に着くと側に来て「どちらからお出でになりましたか」と尋ねられ、「広 島からです」と答えると、「先ほども遠くの県から来られた方がありましたが、本当に毎日、全国から多くのお見舞いの方がいらっしゃいます。ところで、あな たたちは伊藤先生に一番愛されていると思っていらっしゃるでしょう。みなさん、そう思っていらっしゃいます。そう言う私も、先生から一番愛されていると ずっと思っています」とおっしゃいました。