青戸栄作
ローマ人への手紙のレズメー
序, ローマ人への手紙の特色
1, 著者〜パウロ
2, 著作の経由〜年代順に並べると以下のとおり。
@テサロニケ人への手紙〜I&II。
Aコリント人への手紙〜I&II
Bガラテヤ人への手紙。
Cロ-マ人への手紙。
ロ-マ人への手紙は、パウロの四大書簡と言われている以上のうち、最も後期に書かれた書簡と言われている。
2, 著作の年代〜紀元57年の初期→今からl945年前。
日本史では、弥生式文化時代→農耕文化の後期。
4, 手紙の宛て先
ロ-マ教会と、不特定のキリスト者宛。(7節)
1章〜4章→信仰による義人の根拠。
ローマ1:1〜7
1, パウロの自己紹介と挨拶
手紙の内容を正しく理解するためには、互いがキリスト者であることを前提とする。
2, キリスト者の本質
@イエス・キリストの僕(奴隷)→1:1
・キリストに出合う前のパウロ→罪の奴隷、律法の奴隷。(ローマ7:22〜23)
・キリストに出合ってからのパウロ→罪や律法の奴隷から解放され、自由の身とされたパウロ。
・パウロの立場は、現在のキリスト者の立場と同じ。
・生まれながらの人間は、自分が自分の主人にはなれない存在であることを物語っている。
〜イエスの言葉参照。(マタイ6:24)〜
・キリストの奴隷として生きることへの誇りと喜び。(ロ-マ8:31〜37)
A福音の理解→1:2〜4:
・福音とは、理論や教理や解釈ではなく、イエス・キリストの「十字架と復活」によって完成された歴史的事実である。
・福音とは、復活されたキリストのご人格(命)そのもの。
・キリスト教は、行いの宗教ではなく命の宗教である。
〜赤星進著「精神医療と福音」のAさんの例。〜
・人間の福音観との違い→アブラハムの例。〜創世記(12:6〜7), 使徒(7:5)
Bキリスト者の使命→1:5〜6
・使命とは命を使うの意味。〜使うことによって生きる命。
・すべての異邦人を信仰の従順に至らせるために。
・使命への誇り。
3, 挨拶と頌栄→1:7〜B
・永遠に変わることのない恵みと平安。
ローマ1:8〜15
ローマ訪問の理由
1, 福音の本質によるもの→8〜10
@ 神への感謝
・ロ-マに教会が存在していること。(1コリント12:3)参照。
・信仰が全世界に言い伝えられていること。
A 福音の本質は、理論、教理、解釈でなく復活されたキリストのご人格(命)そのものであるから。
・命は命を求め合う。
・独白の中では生きられない存在。
(ルターは「罪とは、自分自身の中によこしまに曲がっている心」と表現。)
B ローマ訪問の願望(動機)を証明してくださるのは神である。
2, 御霊の賜物を分かち合い、励まし合うため→11〜12
「キリストのからだ」なる教会を建て上げるため。(1コリント12:12〜31)参照。(エベソ4:11〜16)参照。
3, 福音の実を得るため。→13
(宣教対象の内と外)
4, 福音宣教の責任(委託)と、伴う祝福→14〜15
・畑は世界である。(マタイ13:38)
(ギリシャ人にも、未開の人にも果たすべき責任〔借金〕がある。)
・伴う祝福(1コリント9:16〜新改訳、口語訳)(1コリント9:23)
ローマ1:16〜17
福音のカ〜ローマ人への手紙の主題〜
福音を恥とは思いません→16
〜言葉の背後にあるパウロの心境〜
@人の目には恥ずかしく、愚かに見える福音〜(1コリント1:18〜24)
・しるしがあれば信じる〜ユダヤ人
・納得のゆく理論があれば信じる〜ギリシャ人
・パウロも、ローマのキリスト者も例外ではない。
・福音が理論的でないのは神の知恵である。
処女降誕、十字架、復活、昇天、再臨、神に反逆する者のために、神の独り子を十字架につけた。
・教理の承認、納得、理解と信仰は別物である。
・もし仮に?
A福音は救いを得させる「神の力」である→16
〜その理由〜
・福音の原点はキリストの復活である
・人を生まれ変わらせる力である。(ヨハネ3:3、2コリント5:17)
・己が腹を神とする(ピリピ3:19、共同訳、口語訳)
力の奴隷から解放する福音。
・贖うと言う言葉の意味
B「信じるすべての人にとって」の解釈→16
・信仰は福音の力に与るための条件という意味ではない。(福音の律法化)
・アンタース ニグレンの言葉(スウェ-テンのルター派神学者)
「信仰は、福音が人の上にその力を及ぼした証左となるものである。すなわち、福音にその力を与えるものは人間の信仰ではなく、人を信ずるに至らしめるものが、福音の力である。」
・信仰とは福音そのものである、キリストを受け入れること。
(黙示録3:20,ョハネ1:12)
C福音と神の義→17
・神の義は律法に啓示されている〜ユダヤ人
・神の義は福音に啓示されている〜パウロ
・律法の呪いのもとにある人間と、解放する福音 (カラテヤ3:10〜11,13)
・「心の健康診断」〜人生の基本姿勢〜P16→@、A、B、C、参照。
・「心の解放と信仰」〜P79→ドライバーと禁止令。参照。
・神の義は信仰(福音)に始まり信仰(福音)に進ませる
・パウロの意図は?
・宗教改革の三原則「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」参照。
D義人は信仰によって生きる→17
・ハバクク2:4参照。
ローマ1:18〜32 異邦人の罪
パウロの意図は?
・罪が分からなければ福音は分からない。〜一例,仏教思想と福音。
1, 神の怒りの啓示→18
@前回の学びとの関連
・神の義は福音(罪の赦し)によって啓示されている。
・神の義は神の怒り(裁き)によって啓示されている。→福音のもう一面
・一般的例証
・十字架による例証
A神の怒りの標的→不信心「信仰上の罪」と不義「道徳上の罪」
〔不信心の罪への糾弾〕→19〜25
・天地創造において明らかに啓示されているにも係わらず。〜弁解の余地なし。
・一般啓示(特殊啓示)
○自然界において〜物の存在において。
○人間の良心において〜ローマ2:15
・人間の視力をかすませているもの→カルザィンの説明。
・自己神格化(バルト)の罪〜自らが知者だとの思い上がり。→22
〜知っていながら。認めているにもかかわらず。〜
・自己神格化は偶像崇拝の根源→ルターの説明
・人間は生まれながらのままでは偶像崇拝は避けられない。
・キリスト者への警告
〔不義の罪への糾弾〕→26〜27
・不義は不信心の罪のもたらすもの
・フランシスコ・デ・サビエル(1549〜1551)の指摘。(資料参照)
・内村鑑三は偶像崇拝は二つの乱れを引き起こすと説明している。
@悟性の乱れ(19〜23)
A情性の乱れ(24〜27)
B意志の乱れ(28〜31)
2, 神の怒りの顕現
・引き渡された。→24,26,28
・カルヴインの説明。(資料参照)
3, キリスト者への奨励
・既に啓示された真理である神を、積極的(能動的)に神として崇める。(21)
(黙示録3:15〜16)
・神に感謝し、讃美する。(21)
・感謝の原点は?
〔参考文献〕
〜ルターの大教理間答書から抜粋〜
「神とは何ぞやの問いに対して」
神とは、人がすべてのよきものを期待し、あらゆる困窮の中において遊け所となるべきものである。だから神をもつとは、心からより頼んで信ずるということにほかならないのであって、私がしばしば言ってきたように、ただ心のより頼みと信仰だけが、神と偶像の両方を作るのである。・・・あなたが自分の心を寄せ、それにより頼んでいるもの、それが本来あなたの神である。
〜サビエルが指摘した日本人の三大罪悪〜
@日本人は、世界の創造主である全能な神の存在を忘れている。
A日本人は、男色の罪を犯す。
B婦人は、ほしいままに堕胎し、嬰児を殺す。
〜カルヴインは、神の怒りの執行者であるサタンに我らを引き渡したのである。と説明している。
ローマ2:1〜29
ユダヤ人の罪
パウロは、1:18〜32において、異邦人の罪を糾弾したが、2章においてユダヤ人の罪を糾弾する。
パウロの意図は?
・同胞への愛→ローマ9:1〜3
1, ユダヤ人の宗教観
ユダヤ人は、偶像教徒である異邦人とは異なって、@神に愛され
A神に選ばれ B神の慈愛、忍耐、寛容(4節)がありC選びの契約のしるしである割礼がありD律法がありE罪の赦しの約束もある(詩篇103:12,イザヤ1:18,詩篇130:3〜4)ので、当然救われている。従って以上の条件を満たしていない偶像教徒(異邦人)は、滅びて当然である。
2, ユダヤ人の罪→1〜3
@同じことをしているという意味、内容→17〜25
A自らを義とし、他者を裁くこと。キリストの十字架の処刑。
B弁解の余地はない。
3, 霊的なユダヤ人であるキリスト者への警告
@前述(1)参照。
A霊的割礼であるバプテスマについて(コロサイ2:11〜14)
・肉の割礼は救いの契約と無関係である。(1コリント7:18〜19,ガラテヤ5:2)
B誤った福音理解への警告
○その(1)
・福音によって救われているので、行いは必要ではない。
「無律法主義」 「福音の律法化」
・福音を利用した自己肯定→心の健康診断「自己肯定と自己受容の違い」参照。
○その(2)
・信仰のみでなく、善を行なうことが救いに必要である。→7,10,13,14,etc
・ローマ3:19〜20,十字架上の強盗。参照。
C正しい福音理解
○福音(信仰)と律法(行い)との関係
・律法の終わりとなられたキリスト(福音)が原点。(ローマ10:1〜4)
・小教理P30〜31,間い15〜16参照。
・信仰と行いは木と実の関係。
(マタイ7:16〜20)
4, 5〜11の解釈
○御怒りの日、神の正しいさばきの現れる日とは→再臨の日
○善を行なう(7)悪を行なう(9)の意味。(ヨハネ6:28〜29)
〇使徒信条参照。
・生ける人、死にたる人とは?
小教理P141,問い272〜280参照。
○二つの人生(ヨハネ3:16〜21)
・福音のもとにある人生
・律法の呪いのもとにある人生(ガラテヤ3:10〜14)
〜「福音」と「再臨」がなければ信仰生活や、伝道の必要はない。〜
〜悔い改めへの招き〜
ローマ3:1〜31 信仰による神の義は全人類に与えられた神の恵みである。
ローマ 3:1〜8 福音の弁証
1、 ユダヤ人のすぐれたところ→1節
@割礼(洗礼)の益→
2節〜3節との係りの中で
・割ネL(洗礼)とみことばの約束(契約)
小教理(P195)〜(P190)&(P200、間382
A神のみ言葉が委ねられていること。→2節
・割礼(洗礼) ・律法 ・預言(キリストの来臨)
2, 人間の不義と神の義
@人間の不義に怒りを下す神は不正であるか。→5節&7節
「ルターの解説」
A神の義は我らの不義によって現れるのではなく、我らの不義を罰することによって現れる。我らが謙遜になり、悔いて、自ら罪人であることを。告白することによって現れる。そして、神が我らの不義を赦し、我らを義とする時に、神の義が現われるのである。
B福音の中傷とパウロの反論→8節
・中傷の中味〜善を表わすために悪をしよう。
・その誤り(ローマ6:1〜2)参照。
罪に死ぬことを望む者には洗礼の契約は有効(神の側の約束は変わらない)
罪に死にたくない者には洗礼の契約は無効(神の側の約束は変わらない)
・キリストの十字架による裁きと救い。
<糸川英夫氏のことば参照>
ローマ3:9〜20
全人類の罪
1、 罪の原点 11節&18節
・日本人の罪悪感〜原爆慰霊碑の銘文
〜日本人(恥の文化
〜アメリカ人(罪の文化)
2、 恥の文化から脱出させるもの
・福音のみ〜北風と太陽
ローマ3:21〜31 キリストを通して啓示された神の義
1, しかし、今は、神の義が律法とは別に・・・示されました。→21
@しかし、今はの意味
・時代的意味〜律法(行い)に支配されていた古い時代から、福音に支配された新しい時代の到来。
・福音はニュース〜第二次大戦の終局。参照。
・立場上の意味〜神との関係(立場)の変化。
・放蕩息子の譬。参照。ルカ15:11〜24
A神の義は律法とは別に現されたと言う意味→21
・神の義と律法による義は相互に反していて絶対に相互を排除し合っている。
・律法は人間が何をする、しないを問うものであり、福音は神がキリストを通して何をして下さつたかを問うものである。(ニグレン)
・信仰とは人間が福音の助けをいただいて、みことばに従って頑張ってゆくことではない。
・信仰とはみことばに従つて頑張って、尚足りないところを福音に助けていただくことではない。
B律法と預言者によってあかしされての意味→21
申命記18:15 ガラテヤ3:24
2, 神の義は信仰による義である。→22
1コリント1:302コリント5:21
・恵み(福音)と報酬との違い〜ローマ4:3〜8
・信仰とは人間の行いに対するご褒美ではなく、神の義(福音)を受け取る空の手である。
3, 何の差別もありませんの意味→22
・罪の平等(23)と恵みの平等(24)の相互にかかっている。〜人の義は差別の温床。
・恵み(福音)に与ることと、行いの量とは無関係である。〜マタイ20:1〜16
4, 価なしに(信仰によって)義と認められるのですの意味。→24
・宗教改革の教訓
ローマ3:25〜31 キリストを通して啓示された神の義(その2)
1, キリスト・イエスの十字架による神の義の公示→25
@罪を怒り、罰する神→25節後半
・異邦人の罪(ユダヤ人の罪、全人類の罪に対して。
Aその血による・・・なだめの供え物。
・旧約時代の動物犠牲の血とほふられる動物が、罪を犯した人の身代わりとして刑罰を受けていることを示す行為。
Bイエスを信じる者を義とする義→25,26
・神の義は思能の義〜恩寵なしには、神の義は義たり得ない。何故なら、恩寵なしに罪を滅ぼすことができないからである。
2, 神の義は信仰によつて、人に与えられる義である。→25,26,
信仰義認の内容→ローマ4:5〜81ヨハネ1:5〜10
3, 人の誇りと信仰→27,28,
@律法(行い)の法則のもとでは、人の誇りは避けられず、果てしない争いの原因となる。
〜根底にあるのは人の義〜
・石川啄木の歌。参照。
「人がみんな自分より偉く見える日には、花を買って帰って妻と楽しむのだ。」
・人の誇りは、信仰の原理によって取り除かれる。
Aキリスト者の誇りとは。
2コリント12:9 ピリピ3:3 ガラテヤ6:14
B信仰義認は人の差別を廃案する。→29,30,
・人種,性別,能力,など ・ガラテヤ3:26〜28
4, 福音は律法を無効とするのか。→31
・マタイ5:17〜20 ・小教理P30〜31(問い15〜16)
ローマ4:1〜8 アプフハムとダビデー信伸による神の義の証人
信仰による義人の証人アプラハムとダビデ
1, パウロの意図
@信仰(福音)は、教理の認証(了承)ではなく、信じる人の内に働く神のみ業であることを証明するため。
A信仰生活における証しの意味と位置づけ。〜実例。
2, アプラハムの場合
@肉による私たちの先祖アプラハム→1
・カウンセリングの手法〜クライエント(ユダヤ人)との共通の関心事(両者の原点)への言及。
Aアプラハムが義と認められたのは、行いによらず信仰による。→2〜5
・聖書の証言→創世記15:1〜6
・恵みと報酬の相違点
(信仰はギブ・アンド・テイクではない)
・神の義(罪の赦し)が、一方的な高価な恵みである理由
罪とは、心の中に生ずる悪感情又は、不道徳な行為というより、神に対する不敬虔(不信)に出来するものであり、神に対する負債に警えられている。
詩篇51:1〜4 マタイ18:21〜27
―万タラントとは、当時の労働者の賃金が一日―デナリであり、―タラントは六千デナリであつたから、約二十万年分の賃金に相当する。
・不敬虔な者を義と認めてくださる神の恵み→200パーセントの思寵。
(イザヤ61:7)
B罪の赦し(福音)と、この世。
・創価学会の釈伏経典から。
・「罪のもとにある人の心理」
〜アウグスチヌス「告白」から。〜 あなたは、私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たち心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。
・「心の健康診断」人生の四つの基本姿勢。参照。
3, ダビデの場合→6〜8
・不法(罪)は、神の義と人の信仰によって赦され、おおわれるものである。一義認。
・神の義に与るためには。〜悔い改め。
・悔い改めとは。〜人生の180度の方向転換。「親離れと親替え」〜
ローマ4:9〜16
1, 信仰義認の祝福と継承
@信仰義認は人生最大の祝福(幸い)→9
・信仰義認(罪の赦し)に伴う祝福→ローマ8:31〜37
A祝福(信仰義認)を受け継ぐ者は誰かと
・割礼を受けた者か、無割礼の者か。
B信仰義認の時期が証明する。→10
・アブラハムが割礼を受けたのは、それから14年後。
・割礼は信仰義認のしるしであり、証印である。
C歴史の経過はアブラハムが全人類の信仰義認の原型(父)となるために必要であった。→11〜12
・アブラハムも異邦人であった。(創世記23:4)
・福音(信仰)による世界観→ローマ3:29〜30
2, 世界の相続人となる約束→13〜16
@みことばの根拠→創世記18:17〜19 マタイ28:18〜20 マルコ16:15〜16
A祝福(信仰義認)に与る者は誰か。→14
・律法の行いによる者か、約束を信じる者か。
・律法の行いと約束を信じることは、相互に排除し合う(水と油)の関係。
B律法の行いの災い、と限界。→15
・律法は怒りを招くもの
・原因は人の罪
人間のなし得る行為の残虐度は、その人間が自分をどれだけ正義だと思っているかに比例する。(マーフィー)
Cキリスト者は、アブラハムの霊的子孫である。
・神の祝福の通路(媒介者)として選ばれたキリスト者。
・執り成しの祈りの必要。→創世記18:23〜32
ローマ4:17b〜25 信仰による義人の典型アブラハム
1, アブラハムの信仰
@死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方を信じた。→17,創世記15:1〜6
A神の約束を頂いた時点のアブラハムの状況
・彼には子供がないのに子孫の約束。
・100歳と90歳の夫妻にどうして子供が。→創世記17:17
B神の約束のことばを信じたアブラハム→19〜21
・約束を信じる場合の二つの立場
a〜人間の可能性に立って、神と取引するような約束(原点は自我)
b〜人間に可能性が全く無い状態における約束(アブラハムが信じた約束)
・信仰の強さについての二つの見解
a〜現状が良いときに強く、悪いときに弱くなる。(自我のわざとしての信仰)
b〜現状が悪いときに強くなる信仰(アブラハムやパウロの信仰)2コリ12:9,10
・神に栄光を帰したアブラハム→以下の「 」はルターのことば。
「神を信じる者は神に栄光を帰するが、神を信じない者は神から栄光を奪う」
・神の栄光に逆らっている人間→ローマ1:18〜25
C信仰と望み(希望)について→18
・不可能を承知の上で信じることが信仰。
・望み(希望)のない信仰は信仰ではない。
・救霊への望み(希望)について
2, アブラハムの信仰とキリスト者→23〜25
@アブラハムの義認は私たちのため。
・人間(罪人)が救われることは、アブラハムに子供が生まれることよりも困難なこと。
・そのように信じているであろうか? (霊的死人である人間)→エペソ2:1〜2
A不可能を可能とされた神→24〜25
・キリストの復活による啓示
・信仰義認の証人であるキリスト者
5章〜8章→信仰によって生きるとは如何なることか。
信仰による義人は、神の怒りから解放されて生きる人。→5:1〜11
ローマ5:1〜5 神との平和
1, 信仰によって義とされた者への恵み
@神との平和を持っている。→1
「神との間に平和を得ており。」→新共同訳
・キリストの贖いによって、外から与えられた恵み。
Aいま立っているこの恵み。→1〜2
・心の内面の状態や、願望でなく神との関係の回復であり、客観的(霊的)事実である。
B神との平和に与った者の心の状態は喜び→2
・キリストにあって生かされていること自体が喜び。
・一般的な喜びとの相違点。ヨハネ7:37参照。
・神が味方になって下さったことによる喜び。ローマ8:31〜37
・神の栄光に与る者とされたことによる喜び。使徒5:41
2, 神との平和に生きる者のその他の恵み
@患難さえも喜んでいる。→3
・患難が喜べない理由は?
・キリスト者の生の目的と動機に関連する。 2コリント5:15
・患難によって聖化され、強められる信仰。「種蒔きの譬え」マタイ13:1〜9参照。
・患難は忍耐、(練達)、希望を生み出す。→3〜4
( )の訳は、口語訳、新共同訳。
・忍耐とは我慢の意でなく、生みの苦しみに伴うもの。
・命は命を生み出すもの。
神との平和に与ったキリスト者は、キリストと共に生みの苦しみに与ることを喜びとする。詩篇126:5〜6
・忍耐、練達、希望は、木(キリスト)と実(賜物)の関係。
・練達とは、患難の中で「みことば」による慰め、励まし、希望を与えられることに練達するという意味。
A希望は失望に終わることがない。→5A
・人の希望とキリスト者の希望。
・圧倒的勝利に裏付けられた希望。ヨハネ16:33 ローマ8:28
ローマ5:5b〜11
神の愛
1, 神の愛と人の愛→5b―8
@人の愛(エロス)と、神の愛(アガペー)の違い。
・人の愛→生まれながらの人(不信者)の持つ愛(エロス)は、自己中心的な愛。
相手に愛される資格ありや否やを問い、相手から奪う愛。
・神の愛→人の愛とは全く異なる自己犠牲の愛。相手に愛される資格ありや否やを問わずに愛する愛、自己を与える愛。一生まれながらの人の心は、この愛については少しも知ることができない。「聖書辞典・いのちのことばから抜粋」
A他者への犠牲死の動機によって知る愛の性質。→6〜8
・「人の愛」〜正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
・「神の愛」〜私たちがまだ弱かったときに、不敬虔な者のために、罪人であったきに、敵であったときでさえ(10)、キリストが死んでくださったことにより、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
2, 神の愛が明らかにされた人とは。→8
・わたしと神との、個人的な関係の中でしか分からない神の愛。(実例)
・現世利益(商売繁盛、立身出世、無病息災)を経験して受けた愛でなく。
・神に敵対していた私(神を神として認めず、自らを神としていた)という罪の告白に伴う、罪の赦しを体験した人。〜パウロの例。
3, キリストの血によって義と認められた私たちに与えられる祝福。→9〜11
@神の怒りから救われている。義認。→9
・過去、現在、未来(ローマ2:5)にわたって。
・神との和解が成立している。(和解は一方的には成立しない)2コリント5:18〜21
・すべてのおそれから解放されている。1ヨハネ4:18
Aキリストのいのちによる救いに与っている。→10
・キリストのいのちに生きていなければ救いは未完成である。
・「精神医療と福音」赤星 進。〜Aさんの場合。
4, そればかりでない祝福。→11
@イエス・キリストによって神を喜んでいる。
・救いとは、わたしを喜ぶ(誇る)人生から、神を喜ぶ(誇る)人生への転換である。
Aキリスト教に対する偏見と誤解。
・クリスチャンとは温良無害な人物。
・キリスト教とは、人に罪の自党を求め、名誉心の放棄を要求するから、将来が期待される青年たちには相応しくない。
B正しい聖書理解の勧め。
・「青年よ、大志を抱け」クラーク。マタイ5:13〜16 伝道の書12:1
・実例。
信仰による義人は、アダムの支配から、キリストの支配に奪還されて生きる人。→5:12〜21
ローマ5:12〜19 アダムとキリスト
1, きたるべき方のひな型、アダム→12〜14
@「そういうわけで」の意味は?
・信仰による義人の祝福の後で?
・後述する「罪と死」の問題は、直視に耐えないことを配慮して?
・避けて通れない「罪と死」の現実。実例。
Aパウロによって示された神の意図。
・「信仰によって生きる」5章〜8章のテーマとの関連。
・生きるとは? ・意味を問う者〜人間。
・月形龍之介の述懐が意味するもの。
B「罪と死」の由来と、そのカ。
・ひとりの人(アダム)によって、全人類に入り込んだもの→12
・アダムの罪と、我々の罪との関連性。
・文脈の死の意味。〜単に肉体的な意味でなく、霊的意味のものである。すなわち死は、いのちの本源である神から切り離されること。神の怒りのもとにおかれることでつる。
・「罪と死」は人間を支配している力である。〜霊的遺伝。エレミヤ13:23,
詩篇51:5
C「罪と死」と律法との関係。→13〜14
・律法のない時代にも「罪と死」は人間を支配していた。アダム,カイン,ノアの洪水
・アダムと同じようには罪を犯さなかった人々とは?
2, いのちによる支配者キリスト→15〜19
@アダムとキリストの対比が示唆するもの。
・アダムの場合。〜ひとりの人の、一つの罪(違反,不従順)によって、多くの人が「罪と死」の支配におかれた。
・キリストの場合。〜ひとりの人(キリスト)の、一つの義の行為(従順)によつて、多くの人が義人とされ、恵みの賜物(キリストのいのち)は満ちあふれる。
A恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は。→17
・ひとりの人(イエス・キリスト)により、いのちにあって支配する。
・16節の訳語の語弊について。新共同訳,参照。
裁きの場合は、ひとつの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
3, いのちの主キリストの支配のもとで生きるとは。
@それは自動的に到来する意みではない。
・自由主義神学の問題点。
A信仰と選択(決断)について
・二つの人生、二つの生き方がある。〜キリスト者の人生とは?
・「罪と死」(アダム)を王として生きてきた人生から、「いのちの主・キリスト」を王とする人生への自発的自由な選択と求め(決断)によって与えられる恵みである。
・親離れと親替え(悔い改め)の必要。〜放蕩息子の譬え、参照。ルカ15:11〜
・宗教改革における95箇条の提題の第一条参照。
1,われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが、「悔い改めよ,云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない、ということを意味されたのである。(ルター)
ローマ5:20〜21
アダムとキリスト(二)
1, 律法の役割と限界→20
@人の罪を知らせるため。→3:19〜20
・見えない罪を見えるものにするため。7:7
・アダムとキリストの対立を認識させるため。
A罪を倍加させるもの。→7:8〜11
・命令や禁止は罪を抑制するものでなく、その力を助長させるもの。
・するなと言われたら、したくなる人間の本性。→アダムの例。
・律法は霊的な死を宣告するものであって、いのちを生み出すものではない。
・歴史の教訓。→キリストの処刑。
B律法は思髄に仕える働きをする。
・小教理。P30、問い16参照。
C罪が倍加する場所で恵みが満ちあふれる。→19
・(死)即(生)→7:24〜25
・恵み(救い)は、仏教の悟りの境地のように、心の無風状態において与えられものではない。
2, まとめと結論→21
「人間を支配する二つの勢力」
〜それはエネルギーではなく、人格的(霊的)な力である。〜
@罪が死によって支配する力。
・人力では不可抗力な力。
・人間の祝福を妨げている力の根源。
A恵みが義によって支配する力。
・それは観念的、教理的同意とか認証によってもたらされるものではない。
〜教理に同意しただけでは恵みは満ちあふれない(20)〜
・キリストに対する悔い改めと、信仰によって(のみ)もたらされる恵みの力である。→1ヨハネ1:7〜9
・@の支配力に対する圧倒的な勝利に裏付けられた恵みの力である。8:31〜37
ローマ6:1〜14 罪からの解放
〜信仰によって生きるとは、罪から解放されて生きること。〜→6:1〜14
1, 洗礼による罪からの解放→6:1〜14
@5:20に対する曲解。
・恵みが増し加わるために罪にとどまるべきか。→1
・恵みの下にあれば罪を犯そうということか。→15
A5:20を誤解すると。
・罪を犯すことが恵みへの安易な道となる。
・無律法主義となり、罪への耽溺となる。
B絶対にそんなことはありません。→2
・その理由→6:1〜14
2, 洗ネLを通して受けた恵み。→2〜11
@水による罪からの解放
・罪は道徳的なあやまりでなく、人を奴隷的に支配している、アダムをかしらとする霊的(人格的)力である。
・従って、死以外の方法で、罪の力から脱却することは不可能である。
・洗礼の水は、私どもの古き人の死を意味するものであり、水から上がるときはキリストにある新しい人格の誕生を意味するものである。
A古き人の死は、罪からの解放の条件。→5
・洗礼に伴う個人の決断と、罪からの解放の条件。
・(死)を通して(いのち)に至る。
B洗礼によって受けた恵み。
・洗礼以前には、罪のかしらであるアダムと同じ有機体(交わり)に属していて、罪と死の支配を受けていた私どもが、これに死に、洗礼を通してキリストの体という有機体(交わり)の一員として誕生したことを保証する礼典。→洗礼式。
1コリント12:13 ヨハネ15:1〜5
C洗礼は、罪の赦しの単なる象徴(しるし)ではなく、全人格の再創造であり、人生の再出発を記念する式である。〜結婚式との共通点。
3, キリストにあって生きるとは→11〜14
@キリスト者の本質
・キリスト者は罪の力から解放されているが、罪を犯さない人になったという意味ではない。
・マタイ5:48の「完全な者」ということばの意味。
・義認、新生、聖化、の意味。
Aパウロの勧め。→12〜13
・罪と、その支配に対して戦う者とされたキリスト者。
・罪の奴隷であったときには、罪と戦うことさえできなかった者であったが、罪の力から解放されて初めて罪と戦う者とされ、罪に勝利する者とされたキリスト者。
・罪が働く場所ともなり、キリストが働かれる場所ともなる「からだ」を義の器として神にささげる必要がある。〜攻撃は最大の防御なり。
Bキリスト者への慰め。→14
ローマ6:15〜23 神に仕えるために罪から解放された
1, パウロのアンチテーゼ→15
@律法の支配から解放された人は、罪を狙してもよいのか?
A絶対にそんなことはありません。
Bその理由と反論。→6:16〜23
2, 二種類の奴隷とその結果も→16
〜16節の新共同訳〜
「あなたがたはこのことをしらないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」
@罪に仕える奴隷。→死に至る。(新共同訳参照)
A神に仕える奴隷。→義に至る。(新共同訳参照)
3, わたしたちの運命を変えた方への感謝→17〜18
@神に感謝すべきこと。
・洗礼の恵みへの想起→キリストにつぎ合わされたもの(5)
・先行的恩恵。→1ヨハネ4:9〜l0
A心から神に服従したローマの信徒(キリスト者)に対する感謝。
4, 聖なる生活への勧め→19〜20
〜19節の新共同訳〜
「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」
@自分の五体を献げることについて。
・反面教師〜グノーシス主義について。
・16節との関連について。
A神に仕えるために罪から解放されたキリスト者。
・生まれながらにして自主の存在とはなりえない人間。マタイ12:43〜45, マタイ 6:24
B聖なる生活への二つの選択。
・キリストを主とする選択。ガラテヤ5:1
・五体を義の器として献げる選択。(13)
5, 恵みと祝福への招き→20〜23
@木と実の関係 マタイ7:16〜17
A真の安息への招き マタイ11:28〜30
ローマ7:1〜25
律法からの解放
ローマ7:1〜6 律法に対して死ぬ
1, 命題の趣旨についての再検討
@律法はよいもの
・律法は、神が人の祝福のために与えられたものではないか。→出エジ20:1〜17
・律法はキリスト者にとっても必要なものではないか。
Aこの世は律法社会
・宗教も、道徳も、その他の文化も、政治も、etc、(空気のように)
・霊的、精神的、肉体的に自由がない社会
B命題についてのパクロの趣旨
・ガラテヤ5:1 ガラテヤ4:5
・律法から解放されなければ、神のために実を結ぶことができない。→4
→ヨハネ15:1〜5
2, 律法と、わたしと、キリストとの関係→1〜4
@律法と、わたしとの関係。
・婚姻関係を譬とした説明。
・古い夫(律法)と、妻(わたし)の離婚は、律法によって禁止されている。
・古い夫が死亡すれば、わたしの離婚又は再婚は律法上容認されている。
Aキリストのからだ(十宇架)によって、律法に対して死んで、新しい夫(キリスト)に結合され、神のために実を結ぶ者とされたキリスト者。
3, 律法から解放されたわたしと、解放される前のわたし→5〜6
@律法から解放される前のわたし。
・内(生まれながらの)わたし→律法による罪の欲情に支配されていたわたし→死のために実を結ぶ者となっていたわたし→古い文字に仕えて生きていたわたしであった。
A律法から解放された後のわたし
・律法に対して「わたしが」死んだことにより、わたしは律法から解放された。
・新しい御霊によって、復活のキリストに仕えて生きる者とされた。
4, 神のために実を結ぶ者とされたキリスト者の祝福→4〜6
@内面的祝福→ガラテヤ5:22〜23
・肉の行いの実との対比→ガラテヤ5:18〜21
A外面的祝福→詩篇1篇、詩篇126篇、詩篇127篇、 1コリント15:58、etc。
ローマ7:7〜13 罪を呼び覚まし、増大する律法の力
1, パウロのアンチテーゼ
@律法は罪なのでしょうか。→7
・6〜7章の内容から祭すれば、罪と律法は本質を同じくするものであるのか。
A絶対にそんなことはありません。
Bその理由と説明。→7〜13
2, 律法と罪との関係→7〜13
@律法は聖であり、正しく、良いものである。→12
・律法は神から与えられたもの。出エジプト20:1〜17 小教理p@〜E
・律法のモチーフは、神と人への愛。(人生の幸福の指針)
・律法は善悪を識別するもの。
Aこの世の律法と、神の律法との相違点。
・この世の律法→自律的(道徳的)律法→人間の権威が土台。
・神の律法→他律的律法→神の権威が土台。
B7節以降は、パウロと律法との関係を本人のあかしを交えて述懐している文節。
・律法によらないでは、罪を知ることがなかった。→7
・罪は戒め(律法)によって機会を捕らえ、あらゆるむさばりを引き起こした。→8
・律法がなければ、罪は死んだものです。→8
・戒め(律法)によって罪が生き、私は死にました。→9〜11
C良いもの(律法)が、私に死をもたらしたのでしょうか。→13
・絶対にそんなことはありません。→13
Dそれは罪です。罪は戒め(律法)によって極度に罪深いものとなりました。→13
Eパウロの経験の歴史的、一般的例証。
・人類最初の堕罪参照。創世記8:1〜6
・罪の原点。→神への敵意。(放蕩息子の譬え参照) ルカ15:11〜32
・人間の争いもそれが原因。
・霊的、精神的不安もそれが原因。
・極度に罪深いものとなった人間の歴史的例証。→キリストの処刑。
3, テキストについての補足
@人間の罪によって律法の権威や、効力が失墜したり、律法に対する神のみこころが変わったわけではない。→ローマ3:19〜20
A以上のパウロの経験は、彼を福音によって生かすために、神が摂理の中で行われたことである。→ガラテヤ2:19〜20
ロ‐マ7:14〜25 律法には善行を生み出す力はない
序,この箇所は一世紀来から最大の神学論争となった部分
@論争点は?
・14〜24の「わたし」はパウロ自身のことをさしているのか。
?
・「わたし」がパウロ自身と仮定すれば、彼の回心以前の経験を証言しているのか、それとも、回心以後のことを証言しているのか。
?
A回心以前説→敬虔主義(17世紀のドイツで起こった、回心と聖化を強調する主義)
B回心以後説→アウグスティヌス、ルター、カルブィンの説
Cどちらの説をとるか。
・5章から8章までの主題が、「キリストにあって生きる」であり、該当する箇所の主題が「律法からの解放」であるので、回心以後のパクロ自身の証言と解釈するのが自然である。
1, 律法に対するパウロの願望
@わたし(わたしたち)は、律法は霊的で、良いもの(14,16,22,23,25)であることを知っている。
Aわたしは、律法(善)を行いたいと望んでいる。(15,18,19,21)
Bわたしは、律法に仕え、律法を喜んでいる。(22,25)
2, 律法の前におけるパウロの行いの証言
@自分が僧むこと、したくない悪を行っている。(15,16,19)
A善を実行することがない。(18)
3, 待法の前におけるパウロのうめき
@わたしは罪ある人間であり、罪の下にあるものです。(14)
A悪を行っているのは、私ではなく、わたしのうちに住みついている罪です。(17,20)
Bわたしの肉のうちに善が住んでいないのを知っている。(18)
C私に悪が宿っているという原理(法則)を見いだすのです。(21)
D私を罪の律法(法則)のとりこ(奴隷)にしている。(新共同訳,21,23)
E私には自分のしていることがわかりません。(15)
F私はほんとうにみじめな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。(24)
G律法によって、律法に死んだパクロの証言。→ガラテヤ2:19
・律法に死ぬことがなければ、罪の赦しの福音はわからない。
4, 律法の前における全人のうめき
@意志と意志、志向と志向の不一致。
・「いの健康診断」→p(親心)とc(子供心)の関係。
・心の病の原因。
A意志と行為、志向と実行の不一致。
・自分の良心に忠実に生きようとすればするほど。(良い子)の悩み。
・徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を見てうつる能わず、不善改むる能わず。これわが憂いなり。(孔子)
Bまして、律法の前におけるキリスト者は。
・ヨハネ7:17
・わたしの体験。
5, パウロの讃美→25
・その理由→8:1〜4
6, テキストが示すキリスト者の立場(身分)
@キリスト者は、キリストにあって新しく生まれ変わった者であるが、心の中に古き、人(肉)は存在している。(口語訳,新共同訳14,参照)
Aキリスト者は、キリストをかしらとする新しい世(アイオーン)に属する者とされているが、同時に古き世(アダムの世,アイオーン)に存在している。
Bキリスト者は、古き世(この世)に敵対し、これを排除するために世に存在する者ではない。
〜この世は神の愛の対象とされている。→ヨハネ3:16〜
Cキリスト者は、この世の隣人に連帯し、執り成しの祈りをするための使命が、主から委ねられている。出エジプト32:9〜14
Dキリスト者は、この世にキリストの福音を宣べ伝え、福音によってこの世に仕えるために存在している。→ローマ13:1〜7 ヘブル11:24〜26
ローマ8:1〜39(主題)死からの解放 (副題)聖霊による信仰生活
ローマ8:1〜11 いのちの御霊による死からの解放
ローマ8:1〜4 その(1)
序, 聖書全巻から見たローマ書人章の位置づけと評価
・聖書を指輪にたとえるならば、ローマ書はその宝石であり、第八章は宝石の輝く尖端である。(シュペーナー)
・キリスト・イエスにある者は罪に定められないという讃美で始まり、神の愛から引き離すことはできない、で終わっている讃美の章。
1, これまで述べてきた救いの教理のまとめ(結論)の部分→1節。
@こういうわけで、今は、の意味。
・1:18以下の救いの教理のすべてを前提にしていると思われる。
・つまり、これまで述べてきたことの結論はこうだ。といっているように思われる。
Aキリスト・イエスにある者が罪に定められることはない。という理由。
・洗礼の約束が示すもの。
・キリストにあるとは、彼の中で捨てられ、彼の中で新人となることである。そして、キリストに対してすでに死刑は執行されているのであるから、キリストにある者は最早死の判決はない。(バルト)
・キリストは新人の頭首となられたからだ。(ニグレン)
2, いのちの御霊の原理と、罪と死の原理→2節。
@二つの対立する原理の中に生きている人間。
・罪と死の原理に生きている人間。→生まれながらの人間(自然人)→頭首はアダム。
・いのちの御霊の原理に生きている人間。→キリスト者(新入)→頭首はキリスト。
Aキリスト者(新入)とは。
・いのちの御霊の原理によって、罪と死の原理から解放された者。
B両者の中間にあって生きている人間は存在しない。
3, 内により無力となつた律法と、キリストの救いのみわぎ→3節。
@肉とは。
・神のみたまを持たず、欲情に支配された人間性。(ローマ7:5,8:5〜7,2コリ7:1,ガラ5:16〜20,2ペテ2:10)→いのちのことば社・聖書辞典参照。
・新生していない、自然本来の人間性。(ローマ8:8,9 ヨハ3:6)→同辞典参照。
A律法にはできなくなっているとは。
・元来、律法は聖なるものであり、正しく、良いものであるが(ローマ7:12)、肉の故に、肉は律法と同盟を結び、律法が罪への刺激剤となり、人間を死に誘うものとなった。(ローマ7:8〜11)従って、律法は、人間を罪から救うためには何の力もない。
Bキリストによる救いのみわざ。
・ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形でお遣わしになった。
・キリストの肉において罪を処罰された。(ガラテヤ3:13,2コリント5:21,ガラテヤ4:4,ヘブル2:14)
・小教理P106・問い182〜184参照。
4, キリストの救いのみわざの目的→4節
@肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるため。
A律法の要求とは。
(イ)律法は神の聖なる要求であるから、これを遂行することによって神の前に義となること、そのことにおいて神の義が人と世とを支配するに至ることである。
(ロ)律法は人々に罪の自党を与え(ローマ3:20)、自己の義に絶望せしめることにより、キリストに導く養育係である。(ガラテヤ8:24)
B律法の要求が全うされるとは。
・キリストの救いのみわざが、私たちを罪と死の原理から解放するためであったと信じた人は、キリストを愛する愛が動機となって、喜んで律法に服従する人となり、その結果、律法の要求が全うされることとなる。
C肉に従って歩まず、御霊に従って歩むためには。
・日常生活における、信仰の戦いに勝利して歩むことが不可欠の条件となる。
・その戦いとは、心の中から出てくる罪との戦いというよりも、むしろ戦いの目標とすべきは、八章で指摘されている、二つの支配権(勢力)との間で交わされる戦いであると心得るべきである。(エペソ6:10〜17)
・出エジプトの記事参照。
(エジプトの軍勢)→(紅海)→(罪の荒野)〜出エジプト14:10〜14参照。
・信仰の戦いに勝利する秘訣。→キリスト・イエスにあること。
・ぶどうの本の譬え。参照。
ローマ8:5〜11 その(2) 霊的生命と肉的生命
序, キリスト者における霊と内との関係
@霊的であればある程、肉的なことが捨てておけない程明陳に自党されてくるのであり肉的な自党が深ければ深い程、霊的なことが尊く感ぜられてくるのである。他なくして自なく、自なくして他はない。これが信仰的人間の現実である。
Aこの対照は、自らの弱さのゆえに失望せんとする信徒に、勇気と慰めを与えるものである。なぜならば誰のうちにも肉は生きており、これは霊による自党であることによって、霊の偉大きを仰がすからである。(以上はカルヴィン)
1, 二つの対立する支配目とそれぞれの思いと行動→5節〜8節。
〜新共同訳参照〜
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
@二つの対立する支配圏→いのちの御霊の支配圏と、罪と死の支配圏
・(従って歩む)(属することを考える)のことばに留意。
Aニグレンのローマ書講解参照。→別紙。
2, 内に属するか、御霊に属するかを判別するには→9節。
@神の御霊が住んでおられるかどうか。
・それは、感覚、感情的なものでなく。
・その人が、キリスト・イエスにあるかどうか。
・その人が、洗礼の約束に留まっているかどうか。
・肉から霊へと所属関係が転換されているかどうか。
Aトルストイが引用した譬え。
それはちょうど、道を歩いていた人が、途中で「これは自分の行くべき道ではなかった」と気づいて引き返す時のようなものである。今まで右側に見えていたものは左側に見えるようになり、今まで左側に見えていたものは右側に見えるようになる。
3, キリストによる新しい命の祝福。→10節。
@からだは罪のゆえに死んでいてもとは。
・諸学者の見解。・
(イ)6:2に基づいていて、バプテスマによって罪の体は死んでいることである。
(ロ)罪のゆえにからだは、現在霊的に死んだものであるが、それが将来肉体の死となって現れるであろうという事実である。
・私たちの見解。→イ,口,を折哀して理解してもよい。
Aキリスト・イエスにある者は、既に義とされているがゆえに、霊は生きている。(ガラテヤ2:19〜20)
4, キリストの復活による死からの解放と→11節。
小教理Pl18・問い216参照。
ローマ8:12〜17 いのちに生きることによる死からの解放
序, これまでの学びのまとめと、今回のみことばの主旨
@キリスト者は、死という支配者から解放されたが、その目的は、キリスト者が御霊によって生きるためである。(ローマ1:17)
・封建(軍国)主義国家から民主主義国家への転換の例。
A罪と死の支配から解放されたキリスト者は、その理由により、罪と死の力と戦うことによって、自らの霊的いのちを保つことができる。
・それは、自分の力で戦うという意味では決してない。(マタイ11:28〜30)
Bキリスト者の上に、あらゆる種類の要求が肉から出てくるので、これに従うなら死の奴隷状態にまっすぐに連れ戻されてしまうのである。(ニグレン)
1, 二つの人生の結果と私たちの責任→12〜13節。
@肉に従つて歩む責任を負っていない私たち。→肉に従う歩みの結果は死。
A御霊に従って歩むなら→その結果はいのち。(生きる)
・肉に従って歩む責任から解放されたということは。
・天の恩、地の恩、親の恩、師の恩に応える責任からも解放されているという意味ではない。(ローマ9:1〜313:1〜7)
B御霊に従って生きる責任を委ねられた私たち。(ローマ1:14〜15)
C御霊によって、からだの行いを殺すならとは。
・御霊に従って歩むことによって、からだの行いを殺すことができる。 (ガラテヤ5:16)
・畑に隠された宝を発見したとき。(マタイ13:44〜46)
・宝のもちぐされとならないために。
2, 神の子の身分と特徴→14〜16節。
@神の子の身分を与えられたキリスト者。
・キリストは、神の直系の子。→神のご本質そのもの。
・キリスト者は、信仰により「神の子たる身分」を与えられた者。 (ガラテヤ4:4〜6)
A16節の解釈。→ともにあかししてくださるという意味。
・子たることのあかしは、主観的にのみそう思うという幻想ではない。外部的にはそうはいうが自らはそうは思わぬというのでもない。客観的には神の霊が私たちを導き、私たちに働いて子たらしめるのであり、この働きを受けて自らも子たる意識を持って、アバ父よ、と呼ぶのである。(本村文太郎。ローマ書註解)
B神の子キリスト者の特徴。
・御霊に導かれている人。→14節。
・あらゆる恐怖から解放されている人。→15節。
〜肉の支配のもとで生きていたときの、「この世の権力や評価、人の顔色、貧困や災害、病や死、罪の恐怖から」〜
3, キリストとの共同相続人とされたキリスト者→17節。
〜栄光の相続〜
@アブラハムヘの約束の相続。(ローマ4:13 創世記12:1〜3)
A万物の相続。(ローマ8:32)
〜苦難の相続〜
@キリスト者個人の信仰を守るための戦い。(エペソ6:10〜18)
A御霊の一致を守るための戦い。(エペソ4:1〜6 ローマ1:10〜12)
Bキリストのからだなる教会を建て上げるための戦い。(エペソ4:11〜16)
C宣教のための戦い。(マタイ28:16〜20他)
ローマ8:18〜30 現在の世の苦難と来るべき世の栄光
ローマ8:18〜22 被造物のうめき
序, これまでの学びと、これからの学び
@キリスト者は、死の力が支配する古き世から解放され、御霊によって、新しい世、新しいいのちに生きる力に与っている。
Aしかし、キリスト者が地上に存在する間は、アダムの世(死の力が支配する世)に生きているので、キリストと共同の苦難に与る者とされている。(8:17)
B今の世の苦しみと、来るべき世の栄光との比較。→18節。(理由と説明は以下) (2コリント4:17)
1, 枝造物のうめきと望み→19〜22節。
@被造物は、滅びの束縛と虚無に服し、うめきながら産みの苦しみをしている。
・被造物とは。→神の子(キリスト者)を除く全被造物。
・被造物とキリスト者の連帯。
・古い世は、人間の不義のために呪われた、しかし、「神の義」が、キリストによって啓示されて以来、その義は、それと共に、新しい世の約束をもたらす。(ニグレン)
・神の子どもたちの現われとは。→キリスト再臨のとき。→万物更新のとき。(2ペテロ3:13 イザヤ65:17)
A被造物の実相(一例)
・自然環境の破壊。
・人生と虚無。(伝道の書2:4〜11 諸行無常一切皆空)
・人生の目的をもたない人の苦しみ。→ロシアの拷問。 夫も妻も子も。
B被造物が虚無に服した理由。→20節。
・人間の罪と、愛なる神のさばき。(創世記3:17〜19、11〜15 ヨハネ3:16〜20)
C被造物は、苦しみを通して、滅びの束縛から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入れられる望みがある。→20〜21節。 小教理P95・問い155参照。
ローマ8:23〜25 キリスト者のうめき
1, テキス卜についての疑間→23節。
@キリスト者は、御霊によって神の子とされているにもかかわらず、何故うめくのか。
・キリスト者の内心の霊肉の戦いのゆえに。(ローマ7:15〜24)
・キリスト者が神の子とされたのは、御霊の初穂(初めの実)であって完成の実(終わりの実)ではないので、救いの完成を目指す戦いのゆえに。(ピリピ3:10〜14&1:6)
A神の子としての実態に現在欠けているものは何か。
・からだが顕われること。(ローマ7:24)
2, キリスト者の救いについての再検証→23〜24.
@キリスト者は、御霊によって既に神の子とされ、完全な者とされて(マタイ5:48)いるので救われている。
Aしかし、キリスト者の救いは、既に完成しているというのも、前項1,の理由によると誤りである。
・からだの購いについてのカルブィンの注解参照。
「キリストは、われわれの購いの価を支払いたもうたけれども、死はなおも、われわれをそのきずなのもとに束縛しており、あるいは、むしろ、われわれが己自身のうちに死を持ち歩いているからである。」
Bキリスト者は救いの完成を、未来(キリストの再臨とからだのよみがえり)の希望として持つ者である。
・救われていない者は、うめくことも、からだの購いも待望することはない。
3, キリスト者の希望と忍耐→24〜25
@キリスト者は、常に希望に生きるものである。
・キリスト者は、古き人に死に、御霊によって新しくされた人であり、その生みの親であるキリストのご人格にのみ、将来を期待して生きる者とされており、従って、常に確かな希望に生きる者である。(ローマ4:17〜25 ピリピ3:8〜9)
A将来における希望。(ヘブル11:1,6〜121ヨハネ5:14〜15)
B日常生活における希望。
・小教理P136・問い257〜260参照。2コリント4:16〜18
C希望に生きるキリスト者に伴うものは忍耐である。
・アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、ダビデの生涯参照。
ローマ8:26〜27 御霊のうめき
1, 御霊のうめきと執り成し→26節。
@御霊のうめきの理由。
・御霊の初穂として選ばれたキリスト者の救いの完成を目指して執り成すため。 (ピリピ1:6)
Aキリスト者の弱さ。
・どのように祈ったらよいかわからないという弱さ。
「祈りの目的ははっきりしている。だが今、この瞬問に、何をどう祈ったらよいか、それがわからない。」(デニーの注解)
B祈りの二つのタイプ。
・異教的祈り。→人間の求めのために、神仏を利用するというタイプ。
・人間の欲望が基点。(偶像崇拝)
Cキリスト者の祈りと、その弱さ。
・祈りは御霊のわざ。
ハレスビーの祈り参照。(別紙) 詩篇62:1〜2
・祈りの課題を主に委ねる。→マリヤの祈り参照。ヨハネ2:3
・キリスト者の祈りの基本姿勢。
主の前に沈黙して、みことばに聞くという姿勢。
「われらの祈りに対して、すべてが願いどおりに与えられたなら、それは決してよい印ではない。それと同時にたとえわれらの祈りに反する事が生じても、それは決して悪い印ではない。むしろよい印である。」(ルター)
D弱い私たちを助けてくださる御霊。
・助けるとは、「共に担う」という意味がある。→イザヤ46:3〜4
・キリストを頭首とする教会に連なる者の平安。
2, 人間の心を探り窮める神。→27節。
@神に知られているキリスト者。(詩篇139:1〜10)
A神と、御霊と、私たちとの関係。(1コリント2:10〜14)
ローマ8:28〜30 救いの目的の実現と完成
1, キリスト者の霊的資質と現実28節。
@神を愛する人々である。
・生まれながらの人は、神を愛することができない。
・十字架のキリストに出会い、悔い改めて以来、神を愛する人へと変えられた人々。(1ヨハネ4:9〜10)
・自己にではなく、神にのみ望みを託して生きている人々。(8:24〜25)
A神のご計画に従って召された人々である。
・救いと選びの基点と動機は、自己ではなく神である。(ヨハネ15:16)(エペソ1:3〜7)
Bキリスト者の現実。
・前節との関連。→うめきの連鎖。
・キリスト者の内と、外の罪の現実。
・キリスト者の望みと期待に反する現実。
・祈りが聴かれていないと思われる現実。(マタイ15:21〜26)
Cイエスが賞賛されたカナンの女の信仰の原点とは。
・水野源三詩集「主から受けし」参照。(別紙)
2, キリスト者の望みと慰めの原点。→28節。
@神がすべてのことを働かせて益としてくださるから。
・そのように信ずることができるのは、(自己ではなく)、神を愛し、信頼し、神に望みを託し、神の(自己への)ご計画を信頼しているから。
・益とするとは、すべてのことが、われわれの願いに添って益となるという意味ではなく、神がわれわれの救いのご計画を実現されるために益としてくださるの意味。(エレミヤ29:11)
A私たちは知っているとは。
・聖書における「知る」ということばの意味。
「パウロにとって、知るは、空疎な思弁や、抽象的な神認識を意味するのでなく、歴史において具体的にあらわされた神の、救済行為(キリストの事実)を知り、これに服従することを意味していた。」聖書神学辞典より抜粋。(ローマ7:62コリント3:6)
・霊にはいのちがあり、生きて働かれ、われわれに交わりを求めたもう方であるが、その方を知っている。とパウロは言う。「人格」は、体験を通してしか知ることができない。
・ダビデの場合。(詩篇3:1〜8、4:7〜8)
ダビデの信仰の原点とは。
・われわれの場合への適用。
3, 救いのご計画の目的と実現と完成→29〜30節。
@神が、あらかじめ知っておられたキリスト者。
・われわれにとっての福音。(ヨハネ10:28〜29)
神は、暴れ馬ではない。
・小教理P200〜201・問い381〜384参照。
A神の召しと選びの目的。
・御子のかたちと同じ姿にするために。
御子のかたちとは。→最初の創造のときの人のかたち。(創世記1:6)
・御子が、われわれの長子となられるために。
・キリスト者への召しは、神の家族である教会への召しである。(エペソ2:19〜21)
Bキリスト者の聖化の過程と実現と完成。→30節。(ローマ5:20〜21)
・宗教改革の95箇条の提題第一項参照。
われわれの主であり、師でありたもうイエス・キリストが、「悔い改めよ、云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない、ということを意味されたのである。
・ルターの聖化論。小教理・問い384参照。
・30節が、過去形で表現されている理由。
ローマ8:31〜39 神の愛による勝利
序, テキストの概要
@これまでの学びのまとめの部分。
・人類を奴隷の状態にしていた諸力(罪、律法、死)から解放されたキリストのみわさの総括。
Aわれわれのために圧倒的な勝利もたらして下さった、神の愛と力への讃美。
1, 神が味方となられたという福音→31〜34節。
@これらのことからとは。
〜これまでの学びとの関連〜
・神の予定と選び。
・苦しみの中にあっても、救いの確信が与えられていること。
A神が味方でなかったとき。
・それがあったのか。 ローマ5:10参照。
・神を敵とするという意味。
・古い人類を提えている不可抗力な力。
B神が味方となられたという保証
・キリストの十字架と復活。(和解の福音)
2コリント5:17 詩篇118:6
・「神の味方とならねば」ではなく。
Cその理由と根拠→32節。
・ご自分の御子を死に渡されたほどの神の愛。 ヨハネ3:16
・御子といっしょに、すべてのものを恵んでくださるという保証。
・御子とすべてのものとの比較。
D罪の赦しの確かさが、すべてのものの恵みに対する感謝のバロメーター。1テサロニケ5:16〜18
2, 神に選ばれた人々を訴える人は、この世に存在しない。→33〜34節。
〜実際には、訴えるものが存在するという状況の中で。〜
・この世と、キリスト者は「水と油」の関係 2コリント6:14〜15
・地域(律法)社会、家族や親族、律法、自分自身、etc。
・選ばれた人々を訴えることは、神に敵対する行為である。
3, キリストの愛から引き離すものは、この世に存在しない。→35〜37節。
@実際には、引き離すものが存在するという状況の中で。
・患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、も。
・ルターの詩篇講抄から抜粋。(別紙)
A引き離す諸力の中で、キリストの愛は圧倒的勝利をもたらしてくださる。
Bまして、その他の諸抵抗勢力に対しても。→38〜39節。
・抵抗勢力の中に、御使いや権威ある者が含まれているのは何故か。創世記3:52コリント11:14, ガラテヤ1:8〜9
ローマ9:1〜11:36 信仰による義は、神の約束と矛盾しない。
ローマ9:1〜5 パウロの信仰と、神の約束とのかかわり
序, 神の約束と福音の経路
・イスラエルの民族パウロの悩み→1〜3節。
・パウロに対する心ない中傷。
・歴史の流れを踏まえた上で。
1, これまでの学びと、今単元の学びの総括
@l章〜4章→信仰による義人の原型。
A5章〜8章→信仰による義人は生きる、という信仰生活の実態。
B9章〜11章→イスラエルがしりぞけられた理由。
2, パウロの悲しみと痛みと、その真相→1〜3節。
・イスラエルがキリストにつまずいたことに起因する。ローマ9:30〜33;10:21
・パクロ自身も過去に経験したこと。
・同族への愛と連帯意識によるもの。ピリピ3:5〜6
・同族への執り成しの思い。△モーセの場合→出エジプト32:32
△キリストの場合→ルカ19:41〜44
・救われた者の悲しみと痛みとの関連。(詩篇126篇)
〜救われた喜びと、悲しみ痛みは比例する。〜
・救霊への熱情のバロメーター
3, イスラエル人に与えられた約束と栄光→4〜5節。
〜神がイスラエルに与えられた約束を変更されたのではない。〜
・イスラエルの栄光への喚起。
@子とされたこと。 出エジプト4:22 ホセア11:1
A契約が与えられたこと。ローマ4:13他
B律法が与えられたこと。
Cキリスト来臨の約束が与えられたこと。 ゼカリヤ9:9〜10他
D礼拝が与えられたこと。 創世記12:7他
E父祖たちが与えられたこと。
Fキリストが与えられたこと。
4, キリストに対する頌栄→5節B
・テトテス2:13〜15
5, 神の約束のことばの成就であるキリストとイスフエルとの関係
@キリストを棄てたイスラエル。 ヨハネ1:112コリント1:20
A神の約束のことばは無効となったのか。
・断じて、そうではない。 ローマ3:3〜4
B洗礼の誓約と私たちへの適用。
・小教理P198・問い375,376、379〜384
・ルーテル教会の式文参照。(別紙)
6, 今単元の今後の学びの主旨と展望
@約束は信じる者たちに属する。(9:6〜29)
Aイスラエルが退けられたことは、イスラエル自体による。(9:30〜10:21)
B退けられたことは、イスラエルがついには救われることへの道である。(11:1〜6)
〜参考資料〜
△イスラエル人という呼称について。
イスラエル人、ユダヤ人、ヘブル人という呼称があるが、互いに重なり合っていて厳密に区別されない。概して言えば、
・血族的、種族的の場合はヘブル人。
・社会的、国家的集回に属する場合はユダヤ人。
・信仰的(契約の民)の場合はイスラエル人。と理解してよい。
ローマ9:6〜29 信じる者のみへの約束
ローマ9:6〜13 神は約束のうちに主権を示される
序, 救いの約束の成就と、イスラエルの歴史の流れ
@神がイスラエルに与えられた救いの約束は、永遠に変わることがない。
A神の救いの約束は、既にキリストにおいて成就している。
B彼らはキリストを退けたので、「神の約束のことば」はイスラエルに対して無効になったように見える。
Cそうではないという理由について、以下に述べられている。
1, 肉の子(肉的イスラエル)と、約束の子(霊的イスラエル)を峻別される神→6〜13節。
@イスラエルの歴史の証言。
・イスラエルから出るものがみな、イスラエルではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子(約束の子)ではない。
・イサクとイシュマエルの場合。
・ヤコブとエサウの場合。
A神の約束と選びは、約束を信じる者のみに限定されている。
・ローマ4:13〜17
B約束の子(霊的イスラエル)のみが、神の選びの子として認められている。
2, 神の約束と選びは、神の主権に基づいている。
@選ばれる側の条件(民族、血統、伝統、割礼、律法の行い)にはよらない。
A約束の成就であるキリストによって、選ばれる側の条件がすべて削除されている。
・ガラテヤ3:26〜29
・エペソ2:1〜9
B信仰とは、神の約束のことばを信ずること。
・ルター ・カルビィンの説明参照。
Cイスラエルが退けられた理由とは、選ばれる側の条件を主張し、神の約束と主権を認めなかったことによる。 ヨハネ8:31〜41
D信仰による義と、神の約束は矛盾しない。
3, 現代の教会や、キリスト者への教訓
@神の選びの民である教会やキリスト者 ヨハネ15:1〜11
A全ての教会員が必ずしも霊的イスラエル(約束と選びの子)とはいえない。
・小教理P141・問い272〜275
B日ごとに悔い改めて、神の選びと、信仰の原点に立ち返る必要がある。
・ルターの「祈りと慰めのことば」から抜粋。(別紙)
ローマ9:14〜18 あわれみと怒りにおける神の主権(その1)
1, 神に不正があるのか→14節。
@約束と選びに対する反論。
・エサウとヤコブの場合。(善悪を知らない以前にヤコブが選ばれた事)
A約束と選びが、選ばれる側の条件によらないこと。
B人間社会の不公平の中で。
C絶対にそんなことはないという、パウロの弁証。→15節以下に。
2, 約束と選びの神は、あわれみといつくしみの神である。→15〜16節。
@パウロが引用した聖句参照。(出エジプト33:16〜19)
・人間の願いや努力よるのではない。
・神の愛と、人間の愛との違い。
・恵み、ということばの意味。
Aキリストの十字架によって啓示された神の愛。
3, みこころのままに、かたくなにされる神→17〜18節。
@選びの外にある者も選ばれている、というみことばと例証。
・ヨハネ3:161テモテ2:4 ヨハネ10:14〜16
・神のあわれみのもとにあった、エジプトの王パロの場合。(出エジプト5:1〜2)
・あわれみの器でなく、怒りの器として選ばれる結果を招いたパロ。
・最後まで悔い改めなかったパロ。 出エジプト10:16〜17
Aみことばに対してかたくなな人への、神のお取り扱い。
・放蕩息子の譬え参照。
・ヨセフの兄弟たち。参照。
・ローマ1:24
&26 &28
・小教理P94・問い115参照。
B神の選びと、私たちの選択(二者択一)
ローマ9:19〜21 あわれみと怒りにおける神の主権(その2)
1, 約束と選びに対する反論→19節。
@反論の主旨。
・18節のように、約束と選びが神の主権のもとで行われるとすれば、人間の自由意志はどうなるのか。
・自由意志が認められないところでは、罪の責任も問われる必要はない。
Aしかし、神の主権と人間の自由意志は矛盾するものではない。
・アダム。パロ。富める役人の場合。
2, パウロは、反論に直接答えようとしていないが、その理由は?
@反論の根拠にあるのは、神の主権を認めたくない者の方便であると断じたため。
Aみことば(御霊)よりも、人間の理性(肉)が先行するとき。
・6節。14節。19節。
B現代のキリスト教会や、キリスト者への警鐘。
〜自由主義神学について〜
△19世紀初頭から20世紀にかけて教会の内側に浸透してきた神学。
△教理→聖書が完全に霊感された神のことばであることや、キリストの神性を否定する。又、教会の使命とは、人間の本質的善性に基づき、社会活動により神の国を作ることが、託された課題であるとする。(キリスト教ガイドブックから抜粋)
〜ものみの塔(エホバの証人)について〜
△創立者は、アメリカのチャールス・T・ランセル牧師(1852〜1916)。
△教理→キリストや、聖霊の神性、及び、地獄や永遠の刑罰を否定する。
〜われわれにおいても、起こり得る現実である。〜
△理性(肉)のメガネをかけて、みことばを理解しようとするとき。
△みことばに対して、第二者の立場をとろうとするとき。
△キリスト教と名の付く(○○)教となるおそれがある。(ガラテヤ1:8〜9)
3, みことばによるパウロの反論→20〜21節.
@みことばに啓示されている神の主権。
・神と人間は、創造者(陶器師)と、被造物(陶器)の関係である。
イザヤ29:16&45:9〜10 エレミヤ18:6
・人間は上から造られ、上に帰るべき存在。
・陶器師の意に反した陶器に、陶器師はどうするか? エペソ2:10〜11
A神の知恵と宣教の愚かさ。 1コリント1:18〜25
Bみことばの正しい読み方と、聴き方。→小教理P27・問い7
&8
ローマ9:22〜29 あわれみと怒りにおける神の主権(その3)
序, これまでの学びとこれからの学びの総括
@約束と選びの神は、愛とあわれみの神である。(15節)
A神の約束と選びは、人間の側の条件によらず、神の主権によつて行われる。(18節)
Bイスラエルや、世界の歴史に現された愛とあわれみの神。→22〜29節。
1, 敢えて、怒りの器を選んだパロと、イスラエルに対する神の怒りと力。→17節、22節
@パロに対して。
・エジプトに臨んだ10の災禍。紅海におけるエジプト軍の壊滅。
・エジプトの奴隷からの解放と脱出。
Aイスラエルに対して。
・イスラエルが神に退けられたこと。
・神の名が、全世界に告げ知らされたこと
2, 怒りの器パロと、イスラエルに対する神のあわれみ。
@滅ばされて当然の彼らを、豊かな寛容を持って忍耐してくださる神。→22節。
Aあわれみの神にとっては、滅びへの予定はない。 1テモテ2:4
3, 神があらかじめ用意しておられた、あわれみの器に対する召しと栄光。
@異邦人の中からも、ユダヤ人の中からも、あわれみの器を生み出してくださる。→23〜24節。
・ホセアの預言の成就と、その理由
・イザヤの預言の成就と、その理由。
A救われるのは、残された者(27節)の意味。
B救いについての二つの見解。
・ユダヤ人→全体(民族として) ヨハネ8:31〜41
・イザヤ、パウロ→神の選びと個人の信仰によつて。
・救いに与る者の資格は、(26節)が示唆している。
Cキリストの救いと日本人
・国家神道、仏教、封建主義、地域社会の連帯性とのかかわり。
D日本人の救いと、親離れと親換えの必要について。
4, 神のあわれみの器として選ばれたキリスト者の視福と奨励
@神の約束と選びに与っている者の祝福。 ヨハネ15:5
&16
・枝になろうと努力することでなく。
「キリスト者の標準」ウオッチマン・ニーから抜粋。
A約束と選びのことばにとどまる必要。 ヨハネ15:4
・恵みに慣れやすい人間。→10人のらい病人の癒し。参照。ルカ17:11〜19
・聖さん式の意味。
・ルターの証し(別紙)参照。
ローマ9:30〜10:21 イスラエルが退けられたのは、イスラエル自身の責任である。
ローマ9:30〜33 神の義と人の義
序, 30節、導入の言葉の意味
@これから述べようとする内容への序文。
A言葉の背後にあるパウロの同胞愛と真理への愛。
・今のままでOKとは言わなかったパウロの真意。 ガラテヤ1:10
・キリスト者の愛は、真理に基づく愛であるという証し。
1, これまでの学びと、これからの学びの梗概
@人間の罪と神の怒りへの啓示。 ローマ1章〜3章。(ローマ3:23)
・ユダヤ人も、異邦人も、すべて罪のゆえに神の怒りのもとにおかれている。
A神の義の啓示。 ローマ3:21〜24
・神の義は、ユダヤ人にも異邦人にも、万人に提供されている神の恵みである。
B彼らの運命を分けた理由とは。→9:30以下。
2, (神の)義を追い求めなかった異邦人は、(神の)義を得、イスラエルは義の律法を追い求めながら律法に到達しなかった。→30節〜31節。
〜義という言葉の意味。〜
@一般的意味おける義。
「人として当然なすべき正しい道」国語辞典。
A聖書的意味における義(1)
・旧約の義は、神と人との契約を中心とする、いわば縦の関係であり、一般社会の正義が、人間相互の横の関係に重きを置くのと対照的である。(聖書神学辞典)
B聖書的意味における義(2)
・契約は本来民全体と結ばれたものであるから、各人が契約の具体化としての律法を守らねばならぬ。それを守り行うことが神に対する人の義であり、それによって真に生きることができる。(聖書神学辞典)エゼキエル18:5〜9
C聖書的意味における義(3)
・キリストの十字架と復活によって啓示された神の義。
・これは、AとB相互に関連する義である。
・高橋二郎(ローマ書講義)は、30〜31節の義を(キリストの救い)と意訳している。
3, イスラエルが義の律法に到達しなかった理由→32〜33節。
@神の義(神の救い)を信仰によって追い求めず、行いによって追い求めたため。
・神の義を下から上に求めたイスラエルの誤り。
A彼らがイザヤの預言どおり、躓きの石(キリスト)に躓いたため。
・罪人が義とされることはあってならないこと。(放蕩息子の兄)
・木にかけられる者(犯罪人)を神の子と信ずる愚。 ガラテヤ3:13
4, 敢えて、躓きの石を置かれた神のみこころとは→33節。
@行い(人の義)によって神の前に立とうとする人間の傲慢をくじくため。
・人間は、神の手に握られている粘上に過ぎない。
A神の義は、信じる者にとっては救いであり、信じない者にとっては裁きである。
・1ペテロ2:3〜8
・十字架上の強盗の例。 ルカ28:39〜43
5, 日本人と神の義について
@日本人にとって最も理解し難いものは神の義である。
・わが国は横文化であって、縦文化ではない。
・恥の文化と罪の文化の違い。
A日本人と神の義と律法との関係。
・律法の第一面(1〜3戒)→神を愛せよ。
・律法の第二面(4〜10戒)→人を愛せよ。
・第4戒への適用。小教理P56・問い73参照。
ローマ10:1〜3 神の義と人の義(その2)
1, パウロの執り成しの祈りに現れた神の愛。→1節。
@神の愛を退けたイスラエルヘの愛。
・キリストの十字架の愛との類似点。(ヨハネ3:16〜17)
・イスラエルの罪を糾弾したが(ローマ9:31〜33)、イスラエルを受け入れ、理解しようとしているパウロ。
・理解とは、アンダースタンドの意である。(ピリピ2:5〜8)
Aパウロの祈り。
・イスラエルが救われること。
・パウロの祈りと言動の一致。
・矛盾した祈りの例?
2, イスラエルヘの配慮と、退けられた理由。→2節〜3節。
@神に対して熱心であるイスラエルヘの配慮。
・救われる以前のパウロとの共通点。(ピリピ3:6)
A彼らが退けられたのは、知識に基づかない熱心のためであった。
・神の義を(知らず)、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったため。
B神の義と人の義は、相互に激しく対立する。(水と油の関係)
×人の義は、自分の力で奪い取る義であり、神の前に携えてゆく義である。
○神の義は、キリストの購いによって、与えられる義である。(ルカ18:9〜14)
3, 知識に基づかない信仰についての警鐘。
@マタイ7:15〜27
・良い木(キリスト=神の義)は良い実を結び、悪い木(人=人の義)は悪い実を結ぶ。
・21節「父のみこころを行う」が解釈の鍵。
・24〜27節で警告された、賢さと思かさ。
A聖書的カウンセリングにおける、自己肯定(人の義)と自己受容(神の義)の違い。
B信仰と知識との関係についての再確認。
ローマ10:4〜8 律法(行い)による義と、信仰による義。
1, 律法を終わらせられたキリスト。→4節。
〜その意味と、理由と、目的は。〜
@すべての人を律法の呪いと、罪の原理から解放するために。(ローマ7:21、ガラテヤ3:10〜14)
A律法のもとにあるすべての人の心に、まことの自由と平和を与えるために。(ヨハネ8:31〜32)
・キリストを信ずる者(のみ)が律法の呪い(拘束)から解放される。
Bキリストは、律法の目標であるために。
〜新共同訳・参照。〜
「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」
C律法(行い)の義に代わる、新しい義(神の義)の時代が到来したために。
〜カルビィンのローマ書注解,参照。
△信仰の義ほ、「律法によって証しされている」のである。律法はそのあらゆる部分によってキリストを目指すものであり、常にこの目標を見つめるのでなければ、律法の正しい理解にいたることはできない。
2, 但し4節は、律法(行い)無用論を意味するものではない。
@律法の必要と目的。→小教理P31・問い16参照。
A律法についてのキリストの警告。(マタイ5:17〜20)
・キリストの購罪のみわざは、人間の罪のために空文(無効)となっていた律法を、正しい位置に帰すためであった。
3, 信仰による義。→6、7、8節。
・引用聖句→申命記30:11〜14。
@信仰による義は、近いという旧約聖書の引用。
・引用聖句は、本来律法の義について言及しているが、パウロは信仰の義に置き換え
・律法の目標であるキリストから、文意を霊的に見直している。(カルビィンの注解・参照) (2コリント3:14〜17)
・信仰による義を探すために、天に上がる必要も、地の奥底に下る必要もない。
A信仰による義が近いという、霊的(教理的)理由。
イ、信仰による義は、キリストの十年架と復活によって、完成され史上に到来した義である。→福音はニュース。
ロ、行いによってではなく、宣教の言葉によって、私たちの日と心に伝えられる義である。
・見ないで(聞いて)信じる道を備えられたキリストのみこころ。(ヨハネ20:24〜29、ローマ10:171ペテロ1:3)
ハ、信仰による義は、万人に無代価で提供されている義である。
・人間の側の資格には無関係である。
ローマ10:9〜13 律法(行い)による義と、信仰による義。(その2)
1, 信仰による義(救い)の原点。→9〜10節。
@心に信じて義と認められる(10節)。その内容とは?
・神が、わたしを罪から救うために、死者の中からイエスを(よみがえらせて)くださった。
Aキリストの復活は、わたしや、教会の信仰告自の中心であると(1コリント15:14、17〜19)
・小教理Pl18・問い216
B信仰と告白に関するキリストのみこころ。(マタイ10:32〜38 マルコ5:25〜34)
・キリストの復活にも関係している。(マルコ16:6〜71ヨハネ1:9)
C告自と救いとの関係について。
イ、「告白は信仰の最も重要なわざであって、人間はここにおいて自己を否定して神に対して告白する。即ち彼は神に対する告自の中に死し、己れ自らの拒否の中に生きる。」ルター。
ロ、「パウロは、告白という実りを生じるものが真実の信仰であるという。ひとりの人が、いで信じて、口で告白しないということはあり得ないからである。なぜなら、火のあるところから、何ら炎も立たず、熱も発しないと語ることが愚かしいのは、明白だからである。」カルビィン。
ハ、「赤ちゃんが生まれて一年、二年、三年とたっても、全然話さないと考えてみてください。それはどういうことでしょうか。もし子供のときに話しをしなければ、おそらく彼は生涯おしのままでいるようになりましょう。同様に、主を信じている者はすぐに主を告白しなければなりません。さもなければ彼は、一生涯おしのままになってしまうでしょう。」ウオツチマン・ニー。
D義認と告白は表裏一体の関係である。
・日で告白して救われる。→9〜10節。
2, 律法による義と、その結果。
@交わりを失つた独自と、一方通行の人間関係を生み出す。(ルカ18:9〜14)
・キリスト者の証しについての検証。
・証しという言葉の意味と、聖書的(霊的)意味。
A独善と、差別の人間関係を生み出す。→キリストの処刑。
・現代日本社会の伝統的病巣の一例。(部落問題など)
3, 信仰による義。→11〜13節。
@引用聖句。
・11節。→イザヤ28:16 ・12節。→ヨエル2:32
A福音の普遍性。
・同じ主がすべての人の主。→12節。
・ユダヤ人とギリシャ人との区別はない。→12節。
・すべての人に対して恵み深く、失望させられない主。
B福音に与る者の条件。
イ、彼(キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。
・キリストを主と告白するということは。(1コリント12:3)
ロ、主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(使徒3:12、16。)
〜参考資料〜
部落問題とは。
△起源。→江戸幕府によって、「士、農、工、商、えた、非人、」など。人為的政策的につくられた身分差別。
△歴史的経緯。→明治維新以後、封建的身分制度は呼称上は廃止されたが、戸籍記載上は、「十日えた、新平民、雑業、」として残した。
△現状。→戦後の民主革命により、観念的には不条理とされているが、人民内部には偏見が残っていて、結婚の障害となっている。(百科辞典参照)
ローヤ10:14〜21 律法(行い)による義と、信仰による義。(その3)
序, 前日のまとめ。
@律法(行い)による義(救い)は、一方通行と独自の義(救い)である。
・自己義認(独善)、差別の温床。
・下から上への義である。
A神の義(救い)は普遍的である。
・信者、未信者、道徳的資質、性別、民族の如何を問わず、すべての人に対して恵み深く、失望させられない義(救い)である。
・上から下への義である。
B神の義(救い)に与かる者の条件。
・キリストに信頼する者、主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。
C神の義が、ひとりのご人格(キリスト)に集中していることに留意。
1, 神の義についての、漸層法による反問。→14節〜15節。&18節。
〜神の義が上から下への義(救い)とすれば。〜
@信じたことのない方(キリスト)、聞いたことのない方(キリスト)を、宣べ伝える人がなく、(キリストから)遣わされた人がなくて、どうして、キリストを呼び求めたり、(キリストから)聞いたり、信じたりすることができるのか、という反間と、その理由。
・キリストのご人格は、罪人である人格を介してのみ仲介されるから。(使徒10:1〜8)
A宣べ伝えた人、遣わされた人はいたと聖書から証言するするパウロ。
(イザヤ52:7 詩篇19:1〜6 ローマ1:19〜20)
・自然啓示と特別啓示について。
カルビィンのことば。小教理参照。P32・問い@AB
B仮令、知らなくても、それによって神の前に責任がないわけではない。
・ウインテル師のことば。
2, 聞いても、聞かなかったイスラエル。→16節〜17節。
@律法(行い)のことばとして聞いていたため。
・これまでの学びとの関連。
・現代においても、聖書のことばを人生(道徳)訓話として聞く場合。
A聖書をキリストのことばとして聞かなかったため。
・イザヤ58:1〜6との関連。
・聖書をキリストのことばとして聞くときの肉の反発。
・父なる神は理解できても、キリストは分からない。
B17節の新共同訳参照。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
3, 聞くことと、信仰との関係。
@信仰とは見る態度から聞く態度への転換である。
・高木幹太著「神と人間」
・みことばを聞くでなく、みことばに聞く態度。
Aみことばに聞くとは、みことばに聞き従うことを意味している。
・ラザロと金持ちの譬え。参照。(ルカ16:19〜31)
・聞き従ったラザロと、聞いても従わなかった金持ち。
4, 不信のイスラエルに対する神の愛と招き。→19節〜21節。
〜引用聖句〜
・19節。→申命記32:21(ルカ4:25〜29)
・20節〜21節。→イザヤ65:1〜2
ローマ11:1〜36 イスラエルが退けられたのは決定的なものではない。
ローマ11:1〜10 イスラエルは、今も、残されたものがいる。
序, これまでの学びのまとめ。
@神の義(救い)が啓示されたとき、神の約束の民イスラエルは、退けられる結果となった。
Aしかし、神の義(救い)は、神の約束と矛盾するものではない。
Bその理由。
イ、神の主権性。(9:6〜29):
・神は、救われる者を選ばれるとき、神のあわれみと主権のもとで行われる。(9:14〜16)
ロ、神は、救いの約束を信仰を持って受ける者に約束されたのに、イスラエルは律法(行い)による救いを求めたため。(9:30〜10:21)
1, パウロの自問自答→1節〜5節。
@神は、ご自分の民を決定的に退けられたのではない。
Aその理由。
イ、神に退けられた民のひとりであった、パウロが神に選ばれているという現実である。
・イスラエルは、神の約束を守らなかったのみならず、神の約束の成就であるキリストに敵対し、十字架にっけた。
・パウロも、かっては彼らと同じ足跡を歩んでいた者のひとりであった。(使徒22:1〜5)
・イスラエルに約束された神が真実であるという、自らの証しによる証明。(ローマ3:3)
・バルトが真実について述べている言葉。参照。
神が神であることをあらゆる知と力を尽くして否定しようとする者に。希望を自の手で殺している者になお希望があるか。イスカリオテのユダになお希望があるか。この疑問を背景としないものは希望ではないであろう。しかし、神の真実が希望であるとは、まさにそのような希望であるだろう。
ロ、預言者エリヤによる証左。
・今も、恵みの選びによって残された者がいる。という、旧約聖書による証左。(1列王記19:10&14&18)
ハ、イスラエルは、あらかじめ神に知られている民であるという証左。
・あらかじめ、群れとして選ばれているイスラエル。(創世記12:1〜3&
ヨハネ10:11〜16&ローマ8:29〜30)
・キリストとキリスト者との関係は、羊飼いと羊の関係である。
・キリストとわたしの関係は、知る、知られるという関係である。(ヨハネ10:14)
・わたしがわたしを知らなくても、神はわたしを知っておられる。(ローマ7:15)パウロやエリヤの経験。参照。
2, 選びによって残きれた者と、かたくなにされた者。→6節ー10節。
@選ばれ、残された者とは。
・行いではなく、恵みにより頼む者。
・絶望の中で希望をもって生きる者。(ローマ4:17〜25)
Aかたくなにされた者とは。
〜引用聖句〜
・8節。→(申命記29:4)→神の救いのみわざを見ても見なかったイスラエル。
・9節〜10節。→(詩篇69:22〜24)→恵みの食卓が裁きの食卓となる。
B光と闇を峻別する神のことば。(へブル4:12)
・闇を知らない者は光も知らない。
・自己肯定と自己受容の違い。
・粘土信者とローソク信者。
ローマ11:11〜15 イスラエルの転落は、異邦人の救いとなった。
1, パウロの訊問の根拠は。→11節。
@神への愛(信仰)と、肉のイスラエルヘの同胞愛。
A信仰は、不信仰との戦いの中で存続する。
イ、イスラエルの場合。
・割礼、伝統、民族、形式(儀式)的信仰、誤った信仰への固執
ロ、バプテスマ・ヨハネの場合。(マタイ11:2〜3)
B肉のイスラエルがつまずいたのは、倒れるためであったのか。
2, 内のイスラエルがつまずいた理由。→11節。
@それによって救い(福音)が、異邦人に及ぶため。
・世界宣教への掛け橋となるため。
A内のイスラエルにねたみを起こさせるため。
・ねたみとは。
△他人と比較して自分もそうありたいと思う心理。(国語辞典)
△いま、与えられている愛が、他人に奪われる不安。(カウンセリング資料)
・卑近な例。
B彼らの転落は、世との和解をすすめるため。→15節。(エペノ2:11〜18)
・神とイスラエル。
・神と世界。
・イスラエルと世界。
C彼らの転落は終局ではなく、将来の救いの完成への希望をもたらすもの。→12節。
3, イスラエルの救いについて、異邦人に理解を求めるパウロ.→13節〜14節。
4, 死者の復活と福音について。→15節。
〜死者の復活を、和解の福音に結びつけているのは。〜
△福音とは、人格の(霊的)復活の福音である。
イ、肉のイスラエルの復活を示唆。(ルカ15:24
&32 エゼキエル37:1〜11)
ロ、異邦人の復活を示唆。(エペノ2:6)
ハ、終末的復活を示唆。(黙示録5:9〜13)
ローマ11:16〜24 イスラエルの転落は、異邦人の救いとなった。(その2)
1, 神の選びと救いから見た、イスラエルと異邦人キリスト者の存在。→16節ー18節。
@ イスラエルの存在。
・神に献げられた初物の粉や、オリーブの聖い根(台木)に譬えられたイスラエル。
(民数記15:18〜21 ローマ4:13;9:4〜5)
・血族的存在ではなく、神の選びと約束と、信仰義認のもとにある存在。
A折られた枝に譬えられている、肉のイスラエル。→17節。
・16節〜17節の新共同訳。参照。
麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、・・・
・切り取られた枝は、イスラエル全体を指すものではない。
・それは、決定的に排除されたものではなく、再び台木につぎ合わされる可詣性を残している。→23節。
B異邦人キリスト者の存在。
・野生種のオリーブであったが、聖い根を持つ台木につぎ合わされた存在。→17節。
・常識的な接木の理念とは違う点もある。
「内村鑑三、矢内原忠雄は、オリーブについては逆の場合もあり得ると言う。」
・つぎ木と、キリスト者の洗礼と、霊的イスラエル(台木)との関係。
洗礼を通して、肉から切り取られて、台木につぎ木きれたキリスト者。
(洗礼の誓約、ルーテル式文、P12参照)
△問い。OOよ、あなたは、悪魔とそのすべてのわざ、およびそれにかかわるいっさいのものを捨てますか。
△答え。はい。
・霊のイスラエルがキリスト者の台木(ルーツ)であって、イスラエルから離れて異邦人キリスト者の存在はない。(ヨハネ15:1〜6)
・異邦人の使徒パウロの教会観。(ローマ11:13〜14)
2, 異邦人キリスト者への忠告。
@折られた枝に対して誇ってはいけないこと。→18節。
・わたしが根(教会)を支えているのではなく、根(教会)がわたしを支えている。というみことばの確認。
・教会の私物化(馴れ合い教会となること)への警鐘。
「教会は、信徒のものでも、牧師のものでもなく、三位一体の神から委ねられた公的な集団である。」→教会憲法が必要である理由。
3, 不信仰のゆえに折られた枝となったイスラエルと、信仰によってつぎ木された異邦人キリスト者。→20節。
@信仰とは何か。(エペソ2:8〜9)
イ、一方的恩寵に対する応答。
ロ、人間的功績を百パーセント排除し、神を一切とすること。
ハ、不信の自覚を根底とするもの。(マルコ9:23〜24)
A不信仰とは何か。
・自己を義とする自己信仰である。(ヨハネ9:39〜41)
・K.バルトの言葉。参照。
「侍女ハガルの精神が、何物かを受け取った時に傲慢になった。しかしそれは彼女が追い出される道であった。」
4, 神のいつくしみと、きびしきについて→20〜24節。
@信仰と恐れとの関係。→20節。(詩篇25:14
&ルカ5:3)
・恐れのない信仰はあり得ない。
(あるとすれば、信仰生活は人間の書いたプログラムとなる)
・小教理問答書・Pl〜6・十の戒めの答え。序文参照。
A神の愛の性質は情緒的なものではない。(ヨハネ3:16〜21)
・律法には情状酌量の余地はない。(ヤコブ1:10)
B神のいつくしみに、意識してとどまる必要がある。→22節。
(使徒13:42〜52 &ヨハネ15:4 、5〜7)
C神のいつくしみと、きびしさは、すべての人に平等に注がれている。(1テモテ2:4)
・イスラエルや、異邦人の差別はない。
・特にイスラエルヘの招きと、悔い改めへの期待が強調されている。
ローマ11:25〜36 イスラエルが捨てられたことは、イスラエルを救うためであった。
1, パウロが語る、奥義という言葉の意味と内容。→25〜26節。
@言葉の意味。
・人間の理性や感覚では理解し得ない事柄。(神秘)
〜25節の新共同訳聖書、参照。〜
兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。
A奥義の内容とは。
・―部のイスラエル人がかたくなになったのは、全イスラエルが救われるための予備的段階であったという秘義。(マルコ13:10、ローマ15:12、1テモテ2:4)
・イスラエルが受け入れられるために、イスラエルが捨てられなければならなかった。 (ニグレン・ロマ書講解)
Bイスラエルが捨てられることを許された神の意図は?
・既に備えられていた特権(伝統、割礼、律法etc)の故に、悔い改めの機会を失ったのかもしれない。(ルカ15章&マルコ1:14〜15参照)
・異邦人キリスト教会や、異邦人クリスチャンホームヘの教訓。 (受洗準備クラスなどにおける要注意)
C異邦人キリスト者への忠告。
・信仰がないために捨てられたイスラエルに対し、信仰によって救われた異邦人キリスト者が、それによって、自分で自分を賢いと思うことがないように。
2, 神の救いの奥義(25節)を敷衍(ふえん)する旧約聖書の預言。→26〜27節。
○引用聖句→イザヤ59:20 & 27:9、エレミヤ31:33
△イザヤ27:9の新共同訳、参照。
それゆえ、ヤコブの答はこのようにして贖われ、罪が除かれると、その結果はこのようになる。すなわち、祭壇の石はことごとく砕けた石膏のようになり、アシェラの柱や香炉台は再び建つことがなくなる。
△エレミヤ31:33の新共同訳、参照。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
3, エレミヤが預言した新しい契約の内容。→26〜27節。
@旧い契約と、新しい契約。(2コリント3:6)
・旧い契約(文字)は人を殺し、新しい契約は人を生かす。
A新しい契約の仲保者イエス。(ヘブル9:15、 1コリント11:23〜25)
・不敬虔を取り払い、罪を取り除く新しい契約。(ガラテヤ2:19〜21、テトス3:5)
・キリストの「十字架と復活」による賜物。
B新しい契約による賜物は、贖い(イザヤ27:9)に結びついて意味が明確となる。
・贖いという言葉の二つの意味。
イ、国語辞典の意味。
罪穢れを免れるために、金品を出す。
ロ、旧約聖書によるユダヤの伝統的意味。
身受金を払って、奴隷を買い戻すという意味。 (マルコ10:45、1コリント6:19〜20)
・例話。
C新しい契約と、現在のわたしとの関係。
・不敬虔が取り払われ、罪が取り除かれたわたしと信じているか。 (2コリント5:17、 マタイ5:48)
ローマ11:28〜36
序, 今回の学びの箇所ほ、これまでの学びの要約的説明の部分である。
@9章〜11章。A1章18節〜11章。
・登山に例えれば山の頂きに立って、これまでのルートを振り返っている部分。
1, 福音と、選びと、賜物と、召命の奥義とパウロの信仰。→28節〜29節。
@イスラエルが、今は神に敵対し、捨てられているのは、福音が全世界に宣べ伝えられるために、その使命を果たしつつあるため。
Aイスラエルほ、今は神に敵対し、捨てられていても、彼らに対する神の愛と選びと、賜物と召命は変わることがない。
B悲しみと痛み(9:2〜3)の中で、以上の奥義を見出したパウロの心境は?
・イスラエルに、選びと召命を与えられた主ヘの讃美と頌栄に表現されている。(33〜36)
Cパウロの心境から分かる、彼の信仰の教訓。
・信仰とは、肉の思いに反する状況の中でも、約束のことばを信じて讃美できること。
・30節〜31節の「今」が示唆するもの。
・賜物と召命のルーツ、アブラハムの場合。(創世記12:1〜7)
2, 不従順な者をあわれまれる神。→30節〜32節。
・従順という国語辞典の意味。→すなおで、人に逆らわないこと。
・聖書が示す従順という意味。→すなおで、神に逆らわないこと。
@異邦人の不従順とは?
・偶像崇拝 (ローマ1:18〜24)
・偶像崇拝の原点は、自己崇拝(自我)である。
Aイスラエルの不従順とは?
・神(律法)に従順であろうとした結果、不従順にならざるを得なかった。
・パウロの例。(使徒26:9〜11)
B不従順という、不可抗力な力の牢獄(原罪)から解放して下さったキリスト。
・神のあわれみは、自らが不従順な者であることを認め、悔い改める者の上に豊かに注がれる。
・わたしの例。
3, 讃美と頌栄。→33節〜36節。
〜救いの奥義と、キリスト者の現実への讃美。〜
・34節以下の引用聖句は、イザヤ40:13〜14 & ヨブ41:11。
@知恵と知識に富たもう神ヘの讃美。(1コリント1:18〜25)
・アウグスティヌスにまつわる挿話。
イ、さばきは知り尽くしがたい。(詩篇139:23〜24)
ロ、その道は測り知りがたい。→33節〜35節。 (歳言19:21 イザヤ55:8〜9)
・キリスト者の謙虚と希望について。(ローマ8:6)
A神の栄光への讃美。→36節。(1コリント8:6)
ローマ12:1〜15:13 信仰による義人の生き方
ローマ12:1〜13:14 新しい世に在るキリスト者の歩み
ローマ12:1〜2 キリスト者の原点
序, これまでの学びと、これからの学びとの関連。
@これまでの学び(1章〜11章)→福音の基本的教理。
・神が、私どもに何をして下さったか。
Aこれからの学び(12章〜16章)→福音による新しい歩みヘの勧め。
1テサロニケ2:12 エぺソ4:1 コロサイ2:6
・私どもの信仰によって、福音を受け入れる。(キリストの救いに与る)
B以上の@とAとの関連。
・@とAは別々のことではない。
・@は福音の教理、Aは教理の応用としての実践訓ではない。
・新しい歩みを支配される方はキリストである。
1, 神のあわれみによる勧め。→1節。
〜新共同訳・参照。〜
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
@そういうわけでとは。
・11章までの福音のすべてを指している。
A以下の勧めは、神のあわれみに基づく勧めである。
・救いに関して、神と人との間の協力関係はー切存在しない。
・実例。
B命令でなく、勧めると言っているのは。
・新しい生き方の原点を、福音に委ねた表現であると思われる。
・キリストのあわれみに与った人でなければ、新しい歩みは不可能であるから。
C信仰の歩みにおいての二つの要注意。
イ、放蕩息子の兄のような立場に立った歩み。(ルカ15:29〜30)
ロ、神が私のために良いことをして下さるから、全てのことを神さまに委ねて歩めばよい。→キリスト教と名のつくご利益宗教(偶像崇拝)への道を辿る。
2, からだをささげよという勧めと、その根拠。→1節。
@からだとは。
・肉体のみではなく、霊肉を総合した全人格。
・親離れ親換え(悔い改め)への勧め。
A勧めの根拠と、適用。
・神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげられたキリスト。
(私どものからだをささげるという「行為」が霊的な礼拝の条件となるという意味ではない。)
・洗礼によって、キリストと共に古き人に死に、キリストと共に新しい人に生まれ変わったキリスト者。
(ローマ6:3〜11)
・その新しくされた人格を神にささげよという意味の勧めである。
「それは、既に語られた福音を、私どもが信ずる(受け入れる)という、現実的な福音ヘの応答を意味する勧めである。」
・ささげるというギリシャ語の意味。→差し出す。提供するの意。
・服地と仕立て屋の例話。
Bからだをささげることによって、私に与えられる恵み。
・福音が私にとっての福音となる。(ローマ1:16)
・私の歩みの中で、キリストが生きて働いてくださる。(ガラテヤ2:20)
・献身者という言葉の語弊について。
3, からだをさきげることによって、霊的な礼拝となる。→1節。
@聖い、生きた供え物であるキリスト者のからだ。(1コリント6:19〜20)
・死んだ動物をささげる、古い礼拝形式との対比。
A霊的という言葉の意味は。
・合理的な(理性的な)
・道理にかなった(カルビィン)
B福音に対する感謝の意思表示としての礼拝となる。
4, からだをさきげよ、という勧めの要点。
・からだをささげる、という人間の側の行為を基点とした勧めではなく、キリストのあわれみのみわざ(十字架と復活)に基点を置く勧めである。
・キリストのあわれみのみわざに与った人でなければ、からだをささげることはできない:(反面教師となった放蕩息子の兄の教訓)
5, キリスト者の歩みにおける二っの選択。→2節。
新共同訳・参照
あなたがたほこの世に倣ってほなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
@この世に調子を合わせる(倣う、妥協する)歩み。
・この世とは、俗な、不道徳な、唯物的な世界という意味ではなく、キリストの救いがまだ来ていない世界(アダム→罪と死→悪魔)に支配きれている世界。
・K・バルトは、この世について次のように言っている。
・「われらが知っており、表象する事ができ、われらがそこで生きている人と物との世界であって、われらの体と不可分離に、無制限にーつである世界である。この世はーつの形、図式、原則を持つ。それはエロース図式といい得るであろう。」(ローマ5:12〜15)
・キリスト者は、キリストの救いを知的に理解していても、何もしなければ、自動的にこの世に調子を合わせて歩むようになる。
A心を新たにして自分を変えていただく歩み。
・そのためには、悔い改めによるしかあり得ない。
・宗教改革における95か条の提題第ー条。参照。
我々の主であり師でありたもうイエス・キリストが「悔い改めよ、云々」と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が海い改めの行為でなければならない、という事を意味されたのである。
・アブラハムの悔い改め。(創世記12:10〜13:4、 黙示録2:4〜5)
B悔い改めの二面性。
△消極面。→この世に調子を合わせないこと。
・この世を蔑視したり、この世に敵対したりするという意味ではない。
・キリスト者の自由。参照。(ルター)
△積極面。→キリストと共に、古き人に死に、新しい命によみがえること。
Cキリスト者の歩みにおける霊的戦いの必然性。
・車と坂道
6, 悔い改めに伴う現実的な勧め。→2節。
何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
・わきまえ知るという言葉の意味は、鉱石の純度を確かめるような作業。
・アブラハムとロトの場合。(創世記13:5〜13)
・初代教会信徒の歩みの一つの模範(使徒17:11〜12)
ローマ12:3〜8 キリストの肢体としての歩み
序, パウロの勧めの根拠。→3節。
・パウロ自身が受けた、あわれみと恵みに基づいた勧めであって、絶対命令ではない。
1, 3〜8節の勧めの根底にあるもの。
@キリスト者の歩みは、キリストにある肢体のー部としての歩みである。
・キリスト者の歩みは、キリスト者個人の歩みではない。
Aキリスト者への召しは、交わりへの召しである。
・罪とは交わりの破綻である。(創世記3章、参照)
・福音によって、「神と人、人と人」との交わりに回復されたキリスト者。
・十字架が示唆するもの。
B教会は交わりのリハビリテーションの場である。
2, キリスト者の歩みと議遜との関係。→3節〜5節。
@思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。
・霊的な目が開かれた結果、そのようになりやすい。
・教会の政治形態との関連。(別紙・参照)
A信仰の量りに応じて慎み深くあること。
・信仰の量りとは。(ウインテル師の見解)
・1タラント、 2タラント、 5タラント、 を託された僕の警え・参照。 (マタイ25:14〜30)
B謙遜の誤解について。
・謙遜とはキリスト者に与えられた霊的賜物を隠すことではない。(1タラントの僕)
・1ぺテロ4:l0
・マリヤの謙遜(ルカ1:38)
C機能不能に陥った肢体がないように、全教会的配慮が必要である。
3, 教会におけるキリスト者の歩みの具体的勧め。→6節〜8節。
@賜物の順位について。
(l)教職(長老)の賜物。預言する人。→奉仕する人。→教える人。→勧めをする人。
・奉仕する人とは、神に奉仕する教職者のこと。
(2)執事の賜物。分け与える人。→指導する人。→慈善を行う人。
・指導する人とは、分配を司る人のこと。
・カルビインの7〜8節の私訳・参照。
職務であれば、職能をもっておこない、教えるものであれば、教理をもってし、勧めをするものは、勧めをし、分配するものは単純にこれをおこない、司るものは注意濃くこれを行い、憐れみを行うものは.喜ばしくこれを行いなさい。
A賜物の順位が示唆するもの。
・教会の最初の役員会組織の教訓。(使徒6:1〜7)
ローマ12:9〜10 キリストの愛に根ざした歩み。(その1)
序, 前回の学びのまとめ
@ キリスト者の歩みは個人の歩みではなく、キリストの肢体とされた者の歩みである。
A何故、キリストの肢体とされる必要があるか。
・すべての人は、罪のゆえに交わりを失った存在であるので、キリストをかしらとする
教会において、交わりの回復のために訓練される必要がある。
1, キリスト者の歩みの原点はキリストの愛。→ローマ5:8
& エぺソ5:2
@9節〜21節の底流にあるのはキリストの愛である。
Aキリスト者は、御霊の実として、キリストの愛に与った者である。(ガラテヤ5:22)
Bキリストの愛は、キリストのからだなる教会を流れている血液のようなものである。
・その愛は、教会の霊的健全を保つために純粋でなければならない。
Cパウロが、9節〜2l節でキリストの愛を詳述している理由。
・キリストの愛の正しい認識について教示するため。
・愛は、感覚的、感情的に理解されやすい。
Dパウロの視点で捉えたキリストの愛の種々相。
・9節〜21節において詳述。
2, 愛には偽りがあってはなりません。→9節。
・御霊の実としての愛がないのに、肉的愛をもって装う場合がある。
・例話。
〜ボンへッファー「交わりの生活」から抜粋〜
「自然人の愛は、その本質において欲望、実に自然人的共同体への欲望である。いかにかして、この欲望を満たすことができるかぎり、真理のためでも、他者へのまことの愛であってさえも、その欲望を捨てようとはしない。しかし、その欲望を満たすことに期待できなくなったところでは、それが終わりとなり、すなわち、敵に直面することになる。ここで愛は、憎しみと軽蔑と中傷とに急変する。」
3, 悪を憎み、善に親しみなきい。→9節。
@キリストの愛は、仏教的な清濁併せ呑む愛でも、日木的な義理人情的愛でもない。
・宮きよめに現わされたキリストの愛の姿。(マタイ21:12〜13)
A9節に教示されている悪や善は、―般倫理(道徳)から見た悪や善ではなく、聖書に準
拠したものである。
・実例。
4, 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまきっている
と思いなさい。→10節。
@キリストの愛は無常冷徹ではなく、キリストの肢体として互いにいつくしむ愛である。
・ピレモンの奴隷オネシモに対する、パウロの配慮。(ピレモン16〜19)
・実例。
Aキリストの愛は、互いに尊敬し合う愛である。(ピリピ2:1〜8)
・それは、人間の肉的愛とは正反対である。
〜ボンへッファー「交わりの生活」から抜粋〜
・自然人の愛は、自分のために他者を愛する。霊的な愛は、キリストのために他者を愛する。自然人の愛は、真理をあまり尊重しない。それは、真理を相対的なものとする。と言うのは、何一つ、真理でさえも、自然人の愛と愛せられる人との問に妨害にはいりこむことをゆるされないからである。自然人の愛は、他者と、共同体と反応ある愛とを切望するけれども、他者に奉仕するのではない。それは奉仕していると克えると
ころでも、むしろ、欲望をたくましくする。」
・それが可能な人は、悔い改めた罪びとだけである。
・パウロの手紙に現れている認罪感の変転。
(1) 1コリント15:9。(初期)
(2) エぺソ3:8。(中期)
(3) 1テモテ1:15。(後期)
ローマ12:11〜13 キリストの愛に根ざした歩み。(その2)
序, 前回の学びの復習とまとめ
@キリストの愛は、キリストのからだ(肢体)である教会に流れている血液のようなもので
あるので、純粋でなければならない。
・純粋と言う意味の確認。
Aキリストの愛(アガぺー)と、肉的「自然人」の愛(エロス)は、互いに反発し合うもので、
両者の間にー致点はない。(2コリント6:14〜16)
B肉的「自然人」の愛は、人と人の問が欲望によって媒介されているので、両者の間にそれが満たされなくなった時にほ、憎しみと中傷に変わるが、キリストの愛による交わりは、人と人の問がキリストによって媒介されているので、互いの問の状況が変わっても、両者の愛の関係は変わることがない。
1, 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなきい。→11節。
@キリストの愛は、活動する愛である。
・日本的、義理人情的な受身の愛ではない。
・肉的な愛は、見ざる、言わざる、聞かざる式の不活動(受身)の愛である。
Aキリストの愛は、キリストの命そのものであるから活動する。
・サマリヤの女の例。(ョハネ4:13~14)
Bキリストの愛は、霊に燃え、勤勉に活動する愛である。
・預言者エレミヤの例。(エレミヤ20:9)
・19世紀の不可知論者ハックスレーのエピソード。
〜不可知論とは〜
超感覚的なもの、絶対的なもの、無限的なもの、神の存在などは話識することができないとし、ー切の経験を超越した問題を論ずるのは無用であるとする哲学的傾向。
Cキリストの愛は、主に仕える愛である。
・マタイ6:24 黙示録3:14〜16
・目本に派遣されたある宣教師のことば
2, 望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなきい。→12節。
@キリストの愛は、望みを抱いて喜ぶ愛である。(ローマ8:24〜25)
・出エジプトの民との霊的共通点。
Aキリストの愛は、難難に耐え、絶えず祈りに励む愛である。
・キリストによる祈りの警え。(ルカ18:1〜8)
3, 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。→13節。
〜新共同訳参照。〜
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
・へブル13:2
・アブラハムと天使との出合い。(創世記18章)
・ボアズとルツとの出合い。(ルツ記1章〜4章)
ローマ12:14〜21 キリストの愛に根ざした歩み。(その3)
序, 前回の学びの復習とまとめ
@キリストの愛は、キリストの命そのものであるので、活動する愛である。
Aキリストの愛は、信仰によって与えられる愛であるので、キリスト者の個人的な選択と決断を伴うものである。
・その選択とは→マタイ6:24 マルコ1:15
Bキリストの愛に歩もうとするとき、キリスト者の前途には、人問の力においては不可能に満ちているが、キリストのご人格には無限の可静性があるので、それが主のみこころである限りにおいて、キリスト者の前途には不可能は存在しない。
1, キリストの愛は、敵をも愛するという愛である。→14節。&17節。19節〜21節。
@「十字架上の第―の祈り」に現されたキリストの愛と赦し(ルカ23:32〜34)
A二倍の賜物である福音。(イザヤ61:7)
Bキリスト教は無抵抗主義ではなく、キリストの愛によって、敵を祝福する主義の宗教で
ある。→実例。
Cキリストの愛は、福音によってキリスト者の周りに平和をっくりだすものである。
・マタイ5:9
D敵(悪)に対する報復(裁き)は、主のお働きの領域であって、人間の領域ではない。
・正しい裁きをなさる方は神である。(ルカ18:7〜8)
2, キリストの愛は、信仰によって与えられる愛であるので、信仰によって守る(保つ)必要がある愛である。→15節ー16節。&18節。
@人にはして欲しいが、自分はしたくない。
・ネックとなっているのは自分自身である。(羽鳥明牧師の著書からの引用。)
Aまず、自分自身が福音に取り扱われる必要がある。
・エぺソ4:1〜6 口語訳・参照。
Bキリスト者の愛の二面性。
・キリストの愛は、二つの愛の戦いを戦うことによって保たれる愛である。
・攻める愛と、守る愛。
ローマ13:1〜7 この世の権威に対するキリスト者と歩み
序, 前回の学びの復習とまとめ
@キリストの愛は、キリスト者の周りに、平和をっくりだす活動的な愛である。
・平和とは、キリストにある平和であって、この世的な意味における平和ではない。
Aキリストの愛は、信仰(みことば)によって、外から与えられる愛であるので、教会やキリスト者の信仰によって保つ必要がある愛である。
・基本的には、キリストとキリスト者(教会)の間にのみ存在する平和であるから。
Bキリスト者の愛は、静的な(受身的な)愛ではなく、攻める愛(与える愛)と守る愛という、二つの愛の戦いを戦っているときだけに生きている愛である。
1, この世の権威ほ神によって立てられた権威である。→1節。
@キリスト者は、この世の権威に従うべきである。→2節〜4節。
・ヴィスロフ「キリスト教教理入門」→国民と国家の項。から抜粋。
・P351・右から6行目〜14行目。
Aそれは、この世の権威が不正を働かないという理由によるものではない。
・律法の「第四のいましめ」との関連。
・小教理P56・問い73、74、76、79、80〜84。
〜キリスト教と儒教との違い。〜
・儒教→「親、親たらば、子、子たるべし」「君、君たれば、臥臣たるべし」
B但し、例外もある。→小教理P58・問い77(使徒5:27〜31)
Cローマ帝国に対する初代教会ど、その教訓。
・ローマ帝国の迫害の中で、信仰による勝利を得た初代教会のキリスト者たち。
D形式的服従ではなく、良心的服従を勧めている。→5節〜7節。
・その理由は、キリストの愛。
2, この世の権威と、キリストの権威と、教会(キリスト者)との関係。
A、キリストの権威。→絶対的権威。(マタイ28:18〜20)
B、キリストから権威を委託された教会(キリスト者)→(マタイ16:13〜19)
・この世の権威から自由にされ、解放されているキリスト者。
〜ルターの「キリスト者の自由」から抜粋。〜
(1) キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主であって、何者にも従属しない。
(2) キリスト者は、すべての者の下に立つしもべであって、何者にも従属する。
・委託された権威とは、支配する権威ではなく仕える権威である。(マタイ20:25〜28)
C、この世の権威と、その限界。
(1) 古き(罪の)世に属する相対的権威である。(へブル9:27 マタイ7:24〜27)
(2) 宣教の対象とされている権威である。(使徒4:23〜31)
ローマ13:8〜10 この世に存在するキリスト者の信仰と歩み。
序, 前回の学びの復習とまとめ
@この世の権威は、神によって立てられた権威である。
・従って、形式的服従ではなく、良心的服従が求められている。
Aこの世の権威と、キリストの権威と、教会(キリスト者)との関係。
・この世の権威は、古き世(罪の世)に属する暫定的(相対的)権威であり、宣教の対象とされている権威である。
・キリストは、この世の「裁きと救い」に関する絶対的な権威者である。
・キリストの絶対的権威を委託された教会(キリスト者)の立場と責任の認識。
1, だれに対しても、何の借りもあってほいけません。→8節。
@公的にも(納税義務など)、私的にも。
・借金は人間関係の破綻の原因となり得る。
A勧めの根底にあるもの。
・人間関係に支障をもたらさないため。(マタイ5:21〜26)
2, ただし、互いに愛し合うことについては別です。→8節。
@互いに愛し合うことについて常に負債があるキリスト者。
・アルトハウス(ドイツのルター派神学者)は「愛は不死の負債である」と表現した。
A福音そのものの本質のゆえに。
・誰かから伝えられないと、伝わらない福音。
「愛を快く受ける人、借りる人でなければ、また愛を快く与える人、貸す人でない。愛を拒否する人は、他にも愛を提供しない人である。」木村文太郎・ロマ注解。
・それは、日本的倫理観に逆行する。
Bキリスト者は、福音を分かち合うことによって、自らの信仰が保たれる。(ローマ1:8〜15)
・キリストをかしらとする、生命共同体の一肢体であるキリスト者。
3, 他の人を愛する者ほ、律法を完全に守っているのです。→8節〜10節。
〜8節の新共同訳・参照。〜
互いに愛し合うことのほかほ、だれに対しても借りがあってほなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
@人を愛するという、人問の行為によって、律法が完全に守られるという意味ではない。
・そのように解釈すれば、パウロの律法と福音の理解に反することになる。
Aパウロによる律法と福音の理解の復習とまとめ。
A、律法は罪を禁ずるが、罪を防止することができない。
B、律法が人間に直面するとき、罪は生きて働くようになる。(ローマ7:8〜14)
C、律法が果たし得なかったことを、キリストが成就して下さったことによって、罪の力から解放され、自由にされたキリスト者。(ローマ8:1〜4)
律法の要求が満たされたのは、われわれが新しい力を受けたので、その助けによって、いま、律法のきまざまの教えを満たすことができるからでほない。神の義が啓示せられたからなのである。キリストを信じることが、完全な義である。したがってキリストは、信じる者―人―人にとって義にいたる律法の終わりである。(ニグレン・ロマ書・講解)
ローマ10:4 ガラテヤ5:22
・ぶどうの木と枝と実との関係。
B当節を記したパウロの意図は。
・キリストによって、律法から解放されたキリスト者が、隣人を愛さないはずはないであろうということ。
・実例。
C9節〜10節とキリストの言葉との関連。(マタイ22:34〜40)
・要約されている、という言葉の解釈について。→関連語(エぺソ1:10)
「―つの頭のもとにまとめる(再復する)という意味。」
・律法の本来の目的がキリストによって再復されるということ。
「人は頭であるアダムに隷属して罪を犯したのであるが、キリストを頭とし、その下にあって一つにまとめられ、アダムにおいて破れた人間性を修復し、再復する。」 (イレナイウスの贖罪論)
・イレナイウス。→初代教会の聖書神学者。
ローマ13:11〜14 この世に存在するキリスト者の信仰と歩み。(その2)
序, 当節の中心理念と前章節との関連。
@12章からの勧めのまとめと結論の部分。
・古い世に存在しながら、新しい世に生きるキリスト者の信仰と歩みの結論。
・12:1〜2の勧めに対応する箇所と表現。(スイスの改革派の神学者ゴーデー)
A新しい世に生きるキリスト者の希望がモチーフとなっている。
1, キリスト者と時について。→11節。
@11節にある時のギリシャ語の語句についての二つの意味。
A、節の後半の時。→自然の時(水平の時)
・自然の時の奴隷である人問。
B、節の前半の時。→神の時(垂直の時)
・十字架、復活の時。昇天、聖霊降臨、再臨の時。キリストとの出合いの時
2, 新しい世に歩むキリスト者の時についての勧め。→11節。&12節前半。
〜当節の新共同訳参照。〜
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
@今がどのような時であるかを知っているキリスト者。
・キリスト者は今、キリストの復活と再臨の時の間にあって、新しい世に生きる存在であることを知っている。
・聖書に記されている、知るという言葉の意味の確認。
・実例。
A眠りから覚めるべき時が既に来ていることを知っているキリスト者。
・なぜなら、私たちが信仰に入ったころよりも、救いの時、再臨の時が近づいているからです。(アンダーラインの部分は意訳)→11節。
・夜はふけて、昼が近づきました。
Bキリスト者の歩みの中で起こる眠りとは。
「眠る」とは、主体的な意志の緊張を失い、肉の欲するままに、何の抵抗もなく、これに身をゆだねる生活態度を表現している。つまりこれは、罪の中に溺れ、その奴隷となることにほかならない。故にまたニれは、死に至る道でもある。(高橋三郎ロマ書講義)
・よく耳にする、キリスト者の言葉。
C霊的な眠りの原因は何処にあるか。(ローマ12:2)
・この世との妥協にある。
3, キリスト者の霊的覚醒をうながす具体的な勧め。→12節〜14節。
〜当節の新共同訳・参照。〜
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酪酎、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
@闇のわざ(遊興、酪酎、淫乱、好色、争い、ねたみ、肉の欲のために心を用いること)を脱ぎ捨てて光の武具を身にまとうこと。(コロサイ3:10)
・脱いで着ることの原点は、洗礼の礼典にある。(ガラテヤ3:27)
・聖餐式は、それを確認する礼典である。
A洗礼と聖餐において確認すべきことを示唆している。
・イエス・キリストを着る(身にまとう)という、外から与えられる義(神の行為)によって救われるということ。
・「脱ぎ捨てて着る」という、個人の選択と決断によらなければ、神の義はもたらされないこと。
B神の側で用意されている、光の武具とは。(エぺソ6:10〜17)
C昼間らしい、正しい生き方への勧め。
・キリスト者の、肉の状態にあっては不可能なことであるが、今日の学びのプロセスによれば、十分可能なことである。
ローマ14:1〜15:13 弱い者と強い者。
ローマ14:1〜6 主にある一致への勧め。
序, 今単元の待徴と前章節との関連。
@12:1〜13:14キリストのからだなる教会(キリスト者)の歩みに関する客観的な勧め。
A14:1〜15:13キリストのからだなる教会の―致に関する具体的な勧め。
・チームワークを必要とする―般的例証。
・パウロのエルサレム訪問の理由と意図が示唆するもの。(ローマ15:25〜33)
Bこれまでのパウロの勧めと違って内容が極めて具体的である理由。
・勧めの背後にあるローマ教会の特別な事情。 (異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の共同体)
1, 信仰の弱い人を受け入れなさい→1節。
@信仰の弱い人とは。
A、野菜より他には食べない人たち。→2節。
・その理由とは。
B、ある日を他の日に比べて大事だと考えている人たち。→5節。
・安息日と断食日についてのユダヤ人の習慣。
・以上に関連するキリストの教示。(マルコ2:23〜28 マタイ9:14〜15)
・K・バルトのエピソード。
A彼らの信仰が弱いとみなされた教理的理由。
・マルコ7:17〜19 1コリント8:7〜11 コロサイ2:l6〜l7
B彼らの信仰の弱さの原因。
・弱いとは、意志的、道義的弱さではなく、ユダヤ人キリスト者の律法的信仰の影響や福音信仰の弱さによるものと思われる。
C信仰の弱さを現代のキリスト者(教会)に適用した場合
A、主イエスを信頼して、現状を委ね切れない人たち。(ローマ4:19とは逆)
B、福音よりも、律法的行為が優先する信仰生活を歩んでいる人たち。 (ガラテヤ3:1〜5&5:1、1テモテ1:5〜9)
・律法は、キリスト者が用いるべきものであって、キリスト者を支配させるべきものではない。(医師とレントゲンの例話)
・福音信仰(行動される神を主とした信仰)ではなく、福音をハウツー(方法・行為)に置き換えて理解する傾向。(人間の律法的思考というフィルターの影響?)
2, (互い)に受け入れ合うことについて。→1節〜6節。
@強い人が弱い人を受け入れることにっいて。
・弱い人の意見をさばいてはいけません。→1節。
・食べる人は食べない人を侮ってはいけません。→3節。
A弱い人が強い人を受け入れることについて。
・食べない人も食べる人をさばいてはいけません。→3節。
3, 互いに受け入れ合う必要について。→3節〜4節。
@神がその人を受け入れてくださったからです。→3節。
・しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。→4節。
・キリスト者の成長過程においては、霊的に幼い時期が誰にもある。 (1コリント3:1〜7、 1べテロ2:1〜2)
A小さな問題の背後にある大きな問題を察知していたパウロ。
・主の教会を、人問の教会に変えようとする力が教会内部に働いていること。
・小さな問題の対応次第によっては、教会の分裂を招きかねない結呆となること。
・初代教会の対応について。(使徒6:1〜4)
4, 教会の一致の要件→5節〜6節。
@聖霊(みことば)による一致を守る(保つ)こと。→エぺソ4:1〜6
Aたとえ意見が違っても、キリストにあって、互いの人格を受け入れ合うこと。
・キリストのからだなる教会の警え。参照。
・アブラハム・リンカーンのエピソード。
B自分の良心に反した表面上の妥協はよくないこと。→5飾。
・自分の肉性を守るためにはよくても、キリストや教会の霊性を保っためにはよくない。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
・福音によって、主体的人格として生まれ変わったキリスト者。
・信徒会は牧師や役員会の了承機関であってはいけない。(教会の私物化を避けるため)
・わたしの証し。
ローマ14:7〜13 主にある―致への勧め。(その2)
序, 前回の学びの復習とまとめ。
@信仰の強い人も、弱い人も、互いに受け入れ合う必要があるニと。
A信仰の弱い人の特徴と、その原因について。
・霊的な幼な子の状態に、いっまでも留まっている人。
・意志的、道義的弱さでなく、律法的信仰や福音信仰の弱さに起因している。
・律法は、キリスト者が用いるべきものであって、キリスト者を支配させるべきものではない。(ガラテヤ2:19〜20)
B教会の―致を守るために必要なこと。
A、たとい意見が違っても、主にあって互いの人格を受け入れ合うニと。
B、福音によって、主体的人格に生まれ変わったキリスト者は、各自心の中で桧信を持つべきであって、安易な妥協は教会のー致の妨げになること。
1, 教会の―致の原点。→7節〜9節。
@キリストの救いに与る前の私たちの人生。→7節。
・自分のために生き、死にしていた存在。(ルカ12:15〜21)
Aキリスト者は、自分のために生きている者ではなく、キリストの死と復活に結びつき、キリストのために生きている者である。→8節〜9節。 (ローマ6:3〜4 2コリント5:14〜15)
Bキリストのために生きる、ということを具体的に言えば。
A、キリストを愛し、キリストの栄光が現されるために生きること。
B、キリストによって新しくされた自分と、自分の隣人を愛するために生きること。(マタイ22:34〜40)
・自分のためだけではなく、時には人のためにも、ではない。
2, 兄弟をさばき、侮ることのないようにしよう。→10節〜13節a。
〜その理由。〜
@キリスト者のさばきと救いに関する権威者は、私たちの主キリストである。
Aキリスト者は、やがて神のさばきの前に立っ者である。→10。12節〜13節a。
隣人の良心の自由を、自己の個人的審判の前に置ニうとすることは、自ら被告席から審判者の席に上ろうとする愚かな振る舞いである。(カルヴイン)
B11節の引用聖句。
・前半→イザヤ45:23
・後半→詩篇18:49
〜イザヤ45:23〜25の新共同訳・参照。〜
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみすべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。
・さばきと救いの権威をもちたもうキリストへの讃美。
3, 教会員が罪を犯した場合のキリスト者や教会の対応について。
@キリストの教示。(マタイ18:15〜17)→口語訳、新共同訳参照。
A教会員の戒規について。(1コリント5:9〜13)
・西日本教会憲法・地規第2章3条〜7条参照。→別細
Bキリストから、さばきの公権が委ねられている人と、組織について。
・為政者。裁判官。教師。両親。教会の牧師。役員会。信徒会。など。
・ルターの大教理問答書・第8の誠めーP103参照。→別紙。
ローマ14:13b〜23 主にある―致への勧め。(その3)
序, 前回の学びの復習とまとめ。
@キリスト者は、自分のために生きている者ではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きている者である。(2コリント5:15)
Aキリストのために生きるとは。
(1)自分の栄光ではなく、キリストの栄光が現されるために生きること。
(2)キリストによって新しくされた自分と、自分の隣人を愛するために生きること。
B自分を愛することについて注意することは。
・愛してはいけない自分と、愛さなければいけない自分とがある。 (小教理P54・問い67〜69参照。)
×愛してはいけない自分。→自分の肉(生まれながらの自分)
○愛さなければいけない自分。→罪を悔い改め、キリストを信じて新しくされた自分。
1, 強い者が、弱い者に対して必要な配慮について。→13節〜23節。
妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心すること。→13節b
・妨げになるもの、つまずきになるものとは。
@弱い者の前で、福音によって自由にされた者が振舞う、大人気ない言動。
・(16節)良いとしている事がらとは。→福音によって自由にされた者の言動。 (20節b &23節 &15節)
Aそのような言動が弱い者のつまずきになるとは。
・弱い者が疑いながら食べることにより、彼らを不信仰に導く手助けをする結果となる。
Bそれは何故か。
・キリストと、その人との個人的関係(信仰)を損なうことになる。
・信仰とは、基本的に、キリストと個人との間の霊的ー致を守ることである。 (22節〜23節)
・自己一致(自己受容)との関係。→(カウンセリング講座・参照。)
C彼らを愛するとは、彼らのつまずきの原因となっている恐れから、みことばによって解放してあげること。
・弱い者が恐れていたこととは?
〜ユダヤ社会の慣例として、食べることが許されている聖いものと、食べることが禁じられている汚れたものがあった。〜
(例えば、ひづめの割れていないもの、反芻しないもの、鰭やうろこがないものは汚れているとか、鳥や虫についてまでも。)
・そのみことばとは。→(14節 &20節a マルコ7:17〜19)
Dそれは罪である、と弱い者の行為をさばいてはいないことに注意。
・弱い者はさばかれると、益々弱くなる。→カウンセリング講座の学び・参照。
2, 弱い者に必要なことは、きばきではなく赦しであり、キリストの愛によって仕えることである。→15節。
@弱い者は、常に自分や人を責めているので強くなれない。
・弱い者を強くしてあげるためには、さばきではなく赦しが必要である。
A愛とは、その人を理解し、キリストにあって、その人を受け入れてあげること。
・カウンセリング講座→(受容)の項・参照。
・理解とはアンダースタンドの意。
・21節の勧めが示唆していること。
・パウロの模範。(1コリント9:19〜23)
3, これまでの学びをまとめると。
@教会員一人―人が、霊的な戦いを避けていたら、教会の―致は守れないこと。
・教会は無風地帯ではない。
・強い人は強い人なりに、弱い人は弱い人なりに。
A他者(対教会・対社会)に対して、常に責任のある個人の存在。
ローマ14:13b〜23 主にある一致への勧め。(その4)
序, 前回までの学びの復習とまとめ。
@ ローマ教会内部のトラブルをめぐる霊的(普遍的教訓)。
・古今の歴史を貫いて、様々なトラブルを抱えている教会の現実。
・トラブルの対応次第では、教会の―致を妨げる原因ともなるし、―致を助長する契機ともなりうる。
・トラブルの対応をめぐって、当事者の信仰が浮き彫りになるものである。(アブラハムとロトの例→創世記13:1〜18)
Aローマ教会内部に起こったトラブルとは。
〜食べ物や、日に対する信仰上の見解の相違。〜
Bパウロの勧めの要点。
(1)強い者(信仰による自由を得ている者)は、弱い者(信仰による自由を得ていない者)を侮ったり、さばいたりしないで、弱い者の人格を受け入れてあげなさい。(1、3〜4節)
(2)さばくことによって、弱い者とキリストとの個人的関係(霊的―致)を妨げる結果になるからである。(5〜10節、13節、15節、16節、20〜23節)
(3)強い者は、弱い者が捕らわれている恐れから、みことばによって解放してあげる必要がある。(14節、20節)
1, 神の国の―致の原点。
神の国は飲み食いのことでほなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。→17節。
@神の国は義である。
・―般常識における義ではなく、キリストの義である。(1コリント1:30)
△ー般常識における義→人として当然なすべき正しい道。
・自己の義を主張して争うことではなく、キリストの義を生かすことである。(木村文太郎・ロマ書註解)
A神の国は平和である。
・神に対する平和を基底として、隣人に対する平和がある。
・キリスト者は、平和をつくり出して使命が委ねられている。(マタイ5:9)
・平和を追い求めることについての奨励。→19節。(ダビデの教訓)
B神の国は聖霊による喜びである。
・神の国の喜びは、肉における喜びではなく、肉を十字架につける喜びであり、キリストご自身がわが喜びとなった者の喜びである。(ルター)
2, キリストに仕える人の特徴。→18節。
〜18節の新共同訳・参照〜
このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
@神に喜ばれる人。
A人々に信頼される人。
・キリスト者は、@とAの順位を逆転して求めてはならない。(ガラテヤ1:10)
・「心の健康診断」P59・左から5行目〜P60右から2行目まで。参照。
ローマ15:1〜3 主にある一致ヘの勧め。(その5)
序, これまでの学びに関連する、今回の学びの前提となること。
@弱い者、強い者という言葉の定義にっいて。
(1) その人の意志、性格、想念などの強弱ではなく、霊的な強弱を意味している。
(2) 強い者とは、信仰(福音)による自由を得ている者であり、弱い者とは、それまでに至っていない者のことである。
A教会は、常に弱い者と強い者の集合体である。(使徒3:1〜8)
・足のきかない男は、肉の信徒(自立していない信徒)のヒナ型である。(バックストン)
B堀越牧師が主張された教会の二つのタイプと、理想的な教会形成の形。
・東福山教会の場合は。?
1, 強い者の本質に関わる勧め。→1節。
〜1節は、新共同訳聖書参照。〜
わたしたち強い者ほ、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
@強い者は、自分の満足を求めるべきではない。
・聖書信仰とご利益信仰との相違点。
A強い者は、弱い者の弱さを担うべきである。
(1) べきという言葉が示唆していること。
・べきとは、義務と責任があることを示す言葉である。
・強い者はできるもの者として、弱い者はできない者として表現されている。
(2) キリストにある肢体の一部として召されたキリスト者。(1コリント12:22〜27)
・例話。
2, 強い者に対する具体的な勧め。→2節。
@隣人を喜ばせることである。
(1) 隣人とは誰か。
イ、旧約聖書の見解。→同族。(レビ19:18)
ロ、キリストと新約聖書の見解。→自分以外の他者はすべて。(マタイ5:43〜48)
※キリスト者は、ロの見解に従うべきである。
ハ、文脈から理解すれば、教会内部の隣人(兄弟姉妹)を指している。
(2) 喜ばせるとは。
・隣人の肉性におもねることではなく、福音によって喜ばせてあげることである。
A隣人の徳を高め、その人の益になることである。
(1) 隣人の徳を高めるとは。
・個人的な徳(品性)を高めて上げるという意味ではなく、キリストにある徳を高めて上げる、という意味である。(カルビィンは、徳を建てると訳している。)
・従って、文脈から理解すれば、キリストのからだなる教会を建てる上げることを示唆する言葉である。(エぺソ2:21〜22)
「隣人を建てるというのは、その人が教会の中に組み入れられることであり、キリストのからだの肢体となることを霊的に実現するようにして上げることである。」 (竹森満佐一・ロマ書講解)
(2) その人の益になるようにするとは。
・その人の個人的利益に貢献することではなく、その人の救いのために益となるように配慮して上げるということである。
3, ご自分を喜ばせなきらなかったキリストの模範。→3節。
@引用聖句→詩篇69:9
・キリストの十字架の預言。
Aキリストの十字架の目的。
・イザヤ61:7参照。
Bキリスト者の生涯の目的と使命。
・今のわたしにできることは。
・キリスト教カウンセリングの目的。
ローマ15:4〜6 主にある一致への勧め。(その6)
序, これまでの学びの復習とまとめ。
@信仰による義人の生き方。
・キリスト者の信仰と生活との関係。
・ご利益信仰との違い。
Aキリスト者の生活と教会との関係。
・キリストをかしらとする肢体として召されたキリスト者。
B弱い者と強い者との間の一致について。
(1)弱い者、強い者とは意志や性格の強弱でなく、霊的な強弱を意味する。
(2)強い者は信仰(福音)による自由を得ているものであり、弱い者は未だに律法の支配の中に生きている者である。
(3)強い者は、弱い者の弱さを担うべき者であること。
1, 聖書が記された目的は、私たちを教え導くため。→4節。
〜4節は新共同訳聖書参照。〜
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
@教え(学び)と、信仰との関係。
・信仰さえあれば良いのか。(ローマ10:1〜4)
・キリストの大宣教命令(マタイ28:18〜20)
A聖書から学ぶ忍耐と慰めの教え。
(1)忍耐と慰めに満ちた生ける神。
・イスラエルの不信を忍耐された神。(マルコ12:1〜9)
(2)忍耐の末に裁きではなく、キリストによる慰めと救いを与えられた神。(イザヤ53:4〜5)
Bキリスト者に必要とされる慰めと忍耐。
・キリストのくびきを負って学ぶ者として。(マタイ11:28〜30)
Cキリスト者と希望について。
(1)くびきを負う者に、約束された希望。(マタイ28:18〜20)
(2)新しくされた者の希望。(ガラテヤ2:19〜21 ピリピ3:8〜9)
(3)前途における希望。(ローマ8:24〜25 ヘブル11:1 &6〜12)
2, パウロの祈り。→5〜6節。
@キリストにある一致を求める祈り。(ピリピ2:10〜11)
・弱い者も強い者も互いに。
A仮令、互いの意見は異なっていても。
・ペテロとパウロ(ガラテヤ2:11〜14)
・バルナバとパウロ
・パウロとマルコ
ローマ15:7〜13 主にある一致への勧め。(その7)
1, 今単元の概要。→7〜13節。
@14:1〜15:13の結論部分。
Aロマ書全体の結論部分。
2, キリストのみわざと、福音の原点。→7節。
@こういうわけですから。
・主にある―致への勧めの内容。
Aキリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように。
(1)私たちとは。
・弱い者も、強い者も、ユダヤ人も、異邦人も、
(2)差別という、互いを隔て束縛している不可抗力な力。
・律法に結びついて、その拘束力は増大する。(ルカ18:9〜14)
・格言。
〜人間のなし得る行為の残虐度は、その人間が自分をどれだけ正義だと思っているかに比例する。〜
(3)キリストは神の栄光のために、私たちを受け入れてくださった。
〜その恩恵と結果。〜
・十字架と復活による罪の赦し。隔ての中垣の除去。律法の拘東力からの解放。(エぺソ2:l1〜16)
Bそのように、あなたがたも互いに受け入れなさい。(マタイ18:21〜35)
・1万タラントの借金を赦されながら、100デナリの借金を赦さなかったしもべとならないために。
・このしもべは、王の赦しを受け入れていなかった。
・その人が、キリストによる罪の赦しの福音を受け入れているかどうかは、その人が他者の人格をそのままで赦し、受け入れているかどうかで明らかとなる。
3, キリストによって現された神の真実。→8〜12節。
〜8節は新共同訳聖書・参照。〜
わたしは言う。キリストほ神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それほ、先祖たちに対する約束を確証きれるためであり、
@先祖たちに対する約束を確証するために、割礼ある者のしもべとなられたキリスト。(ガラテヤ4:4〜5 &10 &13〜14)
A異邦人も神をあがめるようになるためである。
・9節は、詩篇18:49の引用。
・10節は、詩篇67:4の引用。
・11節は、詩篇117:1の引用。
・12節は、イザヤ11:10の引用。
4, パウロの讃美と祈願。→13節。
それは、私たちキリスト者の讃美でもあり、祈願でもある。
@信仰によるすべての喜びと平和をもって満たしてくださる神。
A聖霊の力によって望みにあふれさせてくださる神。
ローマ15:14〜16:27 挨拶と結びの言葉
1, ローマ書を記したパウロの立場と動機→15:14〜21節。
2, 伝道旅行の計画と祈祷ヘの期待→15:22〜33節。
3, 紹介と個人的換拶。→16:1〜16節。
@フィべの紹介。→1〜2節。
・フィべは、パウロの書簡をローマの教会に持参した人物とされている。
・フィべは、ケンクレヤの教会の女性執事であった。
Aパウロの挨拶の言葉。→3〜16節。
4, 偽教師に対する警告。→16:17〜20節。
5, 同労者からの挨拶。→16:21〜23節。
6, 類栄と讃美の言葉→16:24〜27節。