異端との戦い−ガラテヤ書講解
異端の魅力と愚かさ
爆発的な書簡
ガラテヤ書は「爆発的な書簡」と言われています。というのは神様と人間との関係において、救いと神様の御前で立つ事において、人間自身からの可能性を徹底的に破壊する爆発力のある手紙だからです。救われるには律法は何一つ役に立たないという事をはっきりさせます。人間は自分の努力、自分の意志、感情、知識を尽くして救いを得る事は出来ない事は律法の働きで明らかになります。律法は神様の正しい要求であっても、人間に救いを与えるものではなく、救いの必要性を明確にする神様の啓示です。しかし、救いそのものをもたらせるのは福音だけです。言い換えれば、救いは100%神様ご自身の御業です。ガラテヤ書は律法と福音を区別するだけではなく、律法と福音をなんらかの形で混同するあらゆる異端的な考えを厳しく攻撃する書簡でもあります。
異端の定義
一般的に異端と言う言葉は次のような意味で使われています:
「正統からはずれていること。その時代の多数の人が正統と認めているものとは異なった、特殊な少数の者によって信じられ、主張される思想、信仰、学説など。また、その人。」
この定義に従って、キリスト教的な文脈の中に異端という言葉は正統的な、多数派の諸教会の聖書解釈や教えから外れて、何かの特殊な、多くの場合、極端な教えを持つ少数派グループを指します。しかし、宗教改革の歴史を振り返ってみると、大多数を占める正統的な教会が全体として異端的になる可能性が充分あると言えます。ですから異端のキリスト教的な定義はあくまでも聖書と照らし合わせて考えるべきです。
ガラテヤ書の中の異端とは神様が与えて下さった福音に何かを付け加える、あるいは福音から何かを取り除く、または福音そのものを持ちながら、それを異質な包みで見えなくなるようにする教えまたは生き方です。
まったく正しい福音を教えながら、福音と矛盾した生き方も異端的なグループを生み出しますが、全ての生き方にそれを支える哲学と価値観がありますから、実施そのものも教えに結びついていますから、たとえ言葉で言われなくても、福音と矛盾する教えが異端を生みます。
もっと狭く言ったら、ガラテヤ書が戦っている異端は何らかの形で律法と福音を混同するものです。しかし、深く考えて見ると全ての異端の本質はそこにあります。
宗教と異端
非キリスト教的な宗教は聖書からみたら、異端に属しません。神様の一般啓示によって、ある程度まで律法の内容を知りながら、それも否定したり、抑えたりしますが、福音を全く知らないものですから。暗闇の世界です。聖書的に表現したら、サタンの支配の下にあります。
異端に必ずある程度までの聖書の啓示、即ち律法と福音との知識があって、真理と偽りの巧みな組み合わせです。異端に必ず
ある程度までの真実があるからこそ、クリスチャンにとっても危険性が他の諸宗教より遥かに高いのです。新約聖書全体は異端に対して非常に厳しい態度を取ります。イエス様がパリサイ派やサドカイ派を余りにも厳しく非難しました。パウロも異端者に対して呪いを思わせる表現を使います:
「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。」(5:12)
イエス様もパウロも異端者を愛しておられたからこそ、大変厳しい表現を使います。偽りと真実を混同する者に一番大切な必要は本当の真実を知ることであり、又異端は命取りであり、余りにも危険な状態であるからです。多くの異端の特徴は凄い程の熱心者です。偽りと真実を混同している熱心者に客観的な、第三者的な姿勢で近付くべきではないとイエス様とパウロの行為から読み取れます。クリスチャン達の生温さこそが異端を生む環境です。しかし、その半面にいくら熱心であっても、それ自体は人が正しい教えを持っている証拠ではありません。
福音の定義
聖書によく使われている福音と言う言葉は良い知らせと言う意味ですが、決まった絶対に変えてはならない内容のメッセージです。パウロはそれを次のように要約します:
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15:1-8)
異端へ走ったガラテヤのクリスチャンの背後
福音によるよいスタート
パウロはその一番目の宣教旅行の時に南ガラテヤの諸町に福音を述べ伝えました。その中にイコニオム、ルステラ、デルベがありました。(使徒行伝14章)当時伝えた福音の内容を彼はこう表現します:
「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示された」と。
パウロの伝道は大変困難な状況の中に行われました。ユダヤ人は彼を反対したし、異邦人に石打にされたほどでした。にもかかわらず、多くの人々が福音を受け入れて、聖霊様を心に迎え入れました。
「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(3:2ー3)
パウロの伝道は福音の痛みをもって言葉によって人を神様の国に生む事でした:
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(4:19)
福音伝道の結果として信仰に入った人々は自分の幸福を誇るぐらいでした:
「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。」(4:15)
救われたばかりの教会の歩みもただしかったのです:
「あなたがたは、よく走っていました。」(5:7)
福音によって救われたばかりのガラテヤのクリスチャンの心に神様と兄弟姉妹に対する愛が生まれました。目の病気で悩んでいるパウロに自分の目さえ与えたかったほどの愛でした:
「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」(4:13ー15)
福音の力で救われるのは偶像礼拝から生きておられる神様を礼拝する方向転換でした。神様を知るようになったからです:
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(4:8ー9)
彼らが単純に主イエス・キリスト様の福音を聞いて受け入れた結果としてこれらの全ての事柄が起こりました。洗礼を受けて、イエス・キリストを信じる信仰によって神様の子供にされました:
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(3:26ー27)
その後惑わす教師達が教会に入り込んで、福音と律法を混同させる教えを受けて、教会は霊的に酷い状態に陥ったにもかかわらず、パウロは彼らを依然として神様の子供とキリストの者と呼んでいます。しかし、彼らの信仰生活は大きな危機にぶつかっていたから、ガラテヤ書のような厳しい手紙を送らなければならなかったのです。
パウロの単純な十字架と復活の福音を述べ伝える事によって教会が生まれました。福音を受け入れた人々は聖霊様を受けて、洗礼を授けられました。福音を信じる信仰は彼らをキリスト様と結び合わせて、彼らの心を喜びや愛や熱心で満たしました。福音を信じることによって生きる力が湧いてきました。パウロの伝道は福音についての説明でもなく、福音の弁明でもなく、単純にイエス・キリストの十字架の贖いと復活されたキリストご自身を述べ伝えることでした:
「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と。(1:16)
霊的な荒野
今全てが変わっていました。教会の状態は惨めで、信仰や愛や熱心の代わりにユダヤ教の儀式と律法の規定を守る、力のない、冷たい荒野になっていました。喜びと愛がどこかに消えていました。パウロとその同労者たちは諸教会の非難と軽蔑の対象になっていました。彼らのメッセージを誰も本気で聴こうともしなかったのです。だからガラテヤ書は福音の弁明であり、又彼自身の福音伝道が神様から与えられた権威で行われた事の弁証でもあります。彼の福音の他に違う福音があり得ない訴えでもあります。
恵みから落ちた人々の記憶
諸教会のパウロに対する姿勢が否定的に変わったにもかかわらず、ある意味では彼らがパウロの言う事を聞かなければならなかったのです。それは救われたばかりの時に経験した不思議な力、喜び、平安を忘れる事が出来なかったからです。今パウロより遥かに進んでいる自慢を持ちながらも、福音の初期に苦しい中にも神様の力、癒しや忍耐強さの記憶を頭から追い払うことが出来なかったのです。福音の力を本当に経験した人は、後でどんなに神様の恵みから遠ざかっていっても、完全に忘れることが出来ません。悲惨な結果に導いたプロセッスを扱う時にパウロには諸教会の信徒の心に味方のようなものがありました。
異端はどのような道で信徒の心に入り込んだのか
異端者の聖書知識と熱心
どうしてガラテヤのクリスチャン達は道を迷って、力を失ったでしょうか。それは、諸教会が生まれて、パウロがそれらを組織化して、リーダーを任命して帰られて間も無くエルサレムから新しい教師がやって参りました。彼らはパウロと同様にユダヤ人であったし、自分をクリスチャンと呼んだ人々でした。彼らもパウロが教えていた同じイエス・キリストについて教えていました。彼らの教え方も熱心で、クリスチャンになったばかりの彼らをもっと深く神様の御言葉の奥義に導く助けを与えようとしたから、諸教会は彼らを心から歓迎しました:
「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」(4:17)
これらの新しい教師達は旧約聖書をよく知って、信用できる学者振りをしていました。
諸教会の安全の必要
この新しい教師達は迫害の中に生まれた諸教会の安全に対する必要に巧みに訴えることが出来ました。先ず一般の社会から彼らを隔離して、そして今はパウロ達よりも聖書の奥義を知ることの出来る新しいアイデンティティー(自己確立感)を与えて、彼らこそが「本物のクリスチャンである」宗教的な安全区域を作りました:
「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」(4:17)
生まれ変わったクリスチャンにも肉、即ち罪深い古い性質が残っていますから、これらの偽教師らは肉に種を蒔いて、教会の交わりを以前よりも密接にして、開かれていないけれども安全感を与える集団意識を育てる事で成功しました。時間と伴って、この隔離させる政策の背後に経済的な利益を求める心があったという事が明らかになりました。(4:17)しかし、他のクリスチャンより遥かに高い聖書知識を与える指導者に大きな経済的な犠牲を惜しみなく与える心がこう言う隔離されたグループの中に生まれやすいのです。奉げる寄付の大きさで競い合うことさえ生まれる環境ですから。パウロは偽教師らの貪欲を指摘しながらも、信仰者の正しい、愛による奉げ方をも教えなければなりませんでした:
「御ことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(6:6)
しかし、宗教的な安全感だけではなく、社会の中に迫害を経験した新しいクリスチャンにとって、偽教師らは迫害から解放される道を教えてくれました。それはユダヤ教の一派としてローマ当局の前で登録すれば、迫害から免れると言う事でした。異邦人クリスチャンが割礼の意味を余りよく分からなかったでしょうが、社会の中に安全な区域を設ける事が出来た事を歓迎しました:
「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」(6:12-13)
霊的な飢え渇き
救われたばかりのクリスチャンの心に自然に生まれるイエス・キリスト様をもっともっと知りたい霊的な飢え渇きこそが新しい教師達を受け入れる一番の要因だったと思います。この世の一般の生き方で心が乾いていて、偶像礼拝でその渇きに対して空っぽの杯以外に何もなかった彼らがイエス様に出会って、キリストにある新しい命、聖霊による命の水に預かったから、それをもっと飲みたい気持ちが沸いてくるのは当然です。彼らの信仰生活の出発はパウロの証言の通りに良かったでした。この新しい教師達はちょうどこの彼らの神様をもっと知る願いを満たす約束をしました。彼らの良い信仰の出発からもっと進むべきだったと新しい教師達が説いたのです。彼らの以前の教師パウロは確かに正しい事を彼らに教えたに間違いはないと言いながら、「しかし、パウロの教えは不十分だったから、信仰生活に進むためにもっとしらなければならなかったのです。」
パウロはアンテオケから来たでしょう。しかし、彼らは本拠エルサレムから来ていたのです。ですから、パウロよりも聖書の教えに詳しい筈でした。彼らはペテロとヤコブを個人的に知ったではないでしょうか。神様の御前でパウロの教えでは未だ不十分でした。割礼を受けてからはじめてアブラハムに与えられた全ての祝福と約束の相続人になれます。だから、ガラテヤ人の救いは未だ中途半端でした。旧約聖書からこれらの事を立証するのもこの新しい教師達にとって決して難しい事ではありませんでした。未だ聖書知識の浅いガラテヤのクリスチャン達は納得していきました。
自由と形
パウロの権威を先ず打ち砕いて、そしてパウロの福音を踏み躙って、諸教会のクリスチャン達は新しい教師達の側に驚くほどの速さで傾いてしまいました。確かにイエス様を信じる必要がありましたが、その他に割礼を受けて、旧約聖書の律法を出来るだけ熱心に守る必要がありました。初めにこれらのユダヤ教的な掟や彼らのギリシャ文化に属しない習慣を受け入れるにはそれなりの抵抗もあったと言えるでしょう。自由が以前より狭くなった感じは避けられなかったからです:
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(5:1)
「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。」(4:9-10)
その半面にこうして彼らの信仰生活は安全感をさえ与えるはっきりして強い形を持つようになった事を否定出来なかったのです。以前偶像礼拝も明確な形を持っていたからでしょう。それぞれの場面に何をすべきか彼らがこれらの新しい教師達の教えで分かるようになったに間違いなかったのです。自由と多少妥協しなければならなかったのですが、今はどのような行為が正しいか分かったから一安心でした。パウロの教えた自由は思ったより難しかったからです。明確な行動基準に欠けて、自分で余りにも考えなければならなかったからです。キリスト様との個人的な関係を保ちながら、その御言葉を適用する作業をいつもしなかえればならなかったからです。宗教生活と宗教儀式の細かい所まで知るようになって、宗教の世界をある意味でマースター出来るまで至って、いい気分になる面もありました。知らない内に霊的な高ぶりが彼らの心に入り込んでしまいました。教会は宗教的な素人からプロ意識に代わっていきました。その上にエルサレムから知り渡ったこれらの宗教的な美しい形にそれなりの深い意味が含まれていたのです。確かにパウロのいた頃経験した色が多少褪せて来ましたが、自分の救いを確かにすることが出来て、信仰生活で進んで神様の奥義を知る事の代価として止むを得なかったでしょう。
こう言うプロセスの結果諸教会は殆ど知らない内に異端の虜になってしまいました。諸教会の霊的な命は脅かされていて、そしてこれらの教会を通しての福音伝道が完全にストップした状態でした。
人間中心主義と現代的な異端
今日的な異端
パウロがガラテヤの諸教会の問題に対してどのように対処したかを見る前に、現代にガラテヤの異端がどのように現れているかを考えてみましょう。
パウロの教えは次の方程式に書くことが出来ます:
救い = キリストの福音を信じる事
異端の方程式は一般的に次になります:
救い = キリストの福音を信じる事 + 人間自身の宗教的な営み(体験も含めて)
古い宗教と新宗教と新新宗教の方程式は次になります:
救い = 人間自身の宗教的な営み
これらの方程式の中に「救い」と言う言葉は違う意味になります。パウロの方程式では救いは創造主でおられる真の神様の交わりに戻って、神様の御前で十分な義を頂いて、聖霊様の命に与る事です。異端と諸宗教の「救い」とは色々の意味になります。その時の苦難からの開放と言う意味もあれば、自分の中に潜んでいる超自然的なエネルギーの発見もあり、神秘的な体験もあり、又単なる気分転換ぐらいの薄い意味もあります。
異端は福音より凄い約束をしますが、実際に一般宗教が提供する以上は何も与えることが出来ません。サタンと悪霊が実際に存在して、普通の心理学的なレベルの体験を超える現象を起こす事がありますから、一般の宗教が約束する事柄は全てが根拠のないものだとは限りませんが、与えられる説明が真実と異なります。
福音と信仰
キリストの福音はキリスト様とその御業についての良い知らせです。ナザレのイエス様は天から下ってきた神様の御子キリストであり、身代わりとして私達の罪の処罰を受けられて、十字架の上で死んでくださって、三日目に甦られた事で死と悪魔とに打ち勝って下さいました。それは罪深い人々が神様の交わりに戻って、聖霊様によって神様の永遠の命に与る為です。
信仰とはこの福音のメッセージとその中に近付くキリスト様を受け入れる事です。イエス・キリストを自分の唯一の望にして、その御業に自分自身を明け渡して、キリスト様に聞き従うことです。信仰そのものは何もありません。対象であるイエス・キリスト無しに信仰は何の役も立ちません。信仰は信仰の対象を作る事ができません。キリスト信仰はキリスト様との人格的な関係の中に相手でおられるキリストを信頼して、自分の事を何もかもイエス・キリストに任せる事です。信仰はキリスト様が信頼性のあるお方と言う事実に基づきます。信仰はキリスト様についての教えを受け入れる事を超えて、キリスト様との人格的な出会いによるものです。信仰の成長は自分の中にある何かが増えることではなく、相手であるキリスト・イエスをもっと深く知ることであり、又それゆえにもっと大胆に主イエス様から全ての賜物を受け入れる事です。
成功の神学
成功の神学と言う巧みな異端の特徴は信仰を信仰の対象から切り離して、一人歩きをさせて、結果として人間は神様を信じるより自分の信仰を信じる事になります。(極端に言ったら「神様と同じように信じれば、神様と同じ事が出来るようになる」と言う何とも言えない高ぶりです。キリスト信仰の中心は相手であるキリストですが、成功の神学では人間自身が中心です。場合によって余りにも聖書的な表現を使って、如何にも深いキリスト信仰に見えますが、結局ガラテヤの異端の一つの現れです。異端を見極めるために、使われている言葉の意味を吟味しなければなりません。
一般の宗教
人間自身の宗教性は二つの源があります。先ず人間は神様に創造された者として、元々神様との生きた信頼関係の中にいました。罪の為にその関係から離れて、深い命への飢え乾き、罪の結果としての苦難と苦しみを経験しています。この苦難は失われたパラダイスと神様との関係への一種の憧れでしょう。罪のままにこれらの諸問題を解決しようとする為の祈り、断食、善行、遍路、様々な礼拝、修行、恍惚状態、超自然的な力との利用などはこの本質的に罪深い宗教性の現れです。
このような自然な宗教性の根底には心を満たす命や豊かな生活や自分に合う神々との関係が彼自身に可能であると言う確信が潜んでいます。自然宗教は本質的に人間中心であり、自分の可能性を信じる所から湧いて来ます。神様に作られた元々の宗教性のこのような現れ方は罪堕落の結果です。人間の罪深い肉から出るものです。自分が自分の内側または外側にある力を利用して自分に良い結果を生む事が出来る自己中心的な信仰から始まります。色々の方法や治療方法や心理学的な仕組みなどを使って、一時的な変化を自分の人生にもたらせる事で成功する事もあります。このような宗教性は非常に聖書的な衣をも着ることが出来ます。例えば聖書の律法を自分の力で守る事が出来ると思って、一生懸命頑張ると言う形でも教会の中にも現れています。聖書の律法は確かに清いもので、神様の御心の啓示でもありますが、肉の力でそれを守ろうとする営みは一般宗教と本質的に変りません。
律法は救いの道ではない
ガラテヤ書の3章によると神様の律法は決して救いの道として与えられたものではありません:
「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(3:19-24)
律法は霊的な性質を持っていますから、聖霊の力によってしか守ることは出来ません。自分自身の力で律法を本気で守ろうとするならば、自分の無力、罪深さ、助けのない絶望的な状態に直面します。その時に二つの可能な道があります。第一はキリストの元に急いで、絶望的な状態を認めて、自分をキリストに任せる事です。もう一つは肉の力で律法を守る努力を続ける中に勝手にその要求を低くする事です。そこに大変福音的に見える手段もよく用いられます。それは自分が完全に律法を守る事が出来ないから、哀れみ深い神様はきっと守れなかった部分を赦してくれると言う考えです。こう言う緊張感は耐えがたいものですから、律法の要求を少しずつ低くする作業の結果とうとう自分の実際生活と神様の要求を一致させる事で成功します。イエス様の時代のパリサイ派は大いにこの営みで成功して、偽善的な安心感まで至ったから、イエス様の厳しい非難の的になりました。律法の本質は宗教的な形式を守る人間中心主義に終わってしまったからです。
異端の方程式
異端の方程式に戻りましょう。
救い=キリストの福音を信じる事+人間自身の宗教的な営み
考えて見るとこの方程式は矛盾を含むのです。キリストの福音を信じることは全面的にキリストに自分を任せる意味をしますが、人間自身の宗教的な営みは少なくとも部分的に救いの責任を自分自身に取ります。福音は霊的で、人間の宗教性は肉からのものです。命と死と混じるような不可能な方程式です。パウロはそれについてこう語っています:
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(5:16ー25)
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8:5ー9)
信仰はキリストに全ての栄光を与え、神様を崇めます。肉は自分を大きくして、神様を憎むのです。互いに全く相容れない矛盾を持っています。どちらかが片方を食い潰してしまいます。人間は自分の可能性に対して完全に絶望になって主から救いを受けるか、主を捨てるか、どちらかに最終的になってしまいます。主の御名を唱えながらも主を見捨てる事もあります。人間は神様を利用して、神様を自分の道具にしてしまいます。しかし、それこそ不信仰と高ぶりの余りです。人間は事実上自分自身を神にするからです。
異端に走った人は次のようなプロセッスを通っていきます。方程式の救いと言う言葉の意味がこれらの変化と共に変っていきます。
救い=キリストの福音を信じる事−>
救い=キリストの福音を信じる事+部分的に人間自身の宗教的な営み−>
救い=キリストの福音を部分的に信じる事+人間自身の宗教的な営み−>
救い=信じる事+人間自身の宗教的な営み−>
救い=自分勝手なキリストを自分勝手な信仰で信じる事−>
救い=人間自身の宗教的な営み
異端と一般の宗教的な営みとの間に本質的な違いはありません。初めにそう見えても結果として変りはありません。ガラテヤ書の中にパウロの基本的な主張は「福音信仰と律法的な宗教の間に中間みたいなものはあり得ない」と言う事です。福音なのか律法なのか、両方は同時にも部分的にも共存出来ないのです:
福音(神様の御業)+律法(人間の業)=律法(人間の業です)
人間は同時に二人の主人に仕えることは出来ません。自分の栄光か、神様の栄光か、どちらかなのです。妥協は不可能です。
福音と律法とを混同しようとするのは異端です。どのような割合でミックスしようとするのかによって、異端が明確か巧みかが決まります。95%+5%なら多くのクリスチャンが惑わされやすいのです。しかし、95%の水に5%の毒を入れたら、100%の毒が生まれます。ですからイエス様は偽預言者と惑わす教師について繰り返して警告をなさいました。キリスト者は必ず早かれ遅かれ惑わす者にぶつかります。
異端の影響力
多くのクリスチャンはエホバの証人やモルモン教や統一協会のような異端を余り問題にしていないようです。何故かと言うとそれらの異端に入っている人々を避けて、関係を持とうとしない事で自分が異端から守られると思っているからでしょう。しかし、これらの異端者を表口から払い出しても、彼らの影響が案外裏口から入ってしまいます。例えば、エホバの証人の一つ代表的な教えは滅び即ち神様の永遠の火の処罰が人にはやって来ないと言う教えです。それは罪のために裁きを恐れている人々に余りにも受け入れやすい教えです。ですから聖書的な地獄について話すと教会の中でもどちらかと言うと聖書を弁明する態度を取らなければならない場合がよく出てきます。ですから、エホバの証人の訪問伝道が教会のイメージに打撃を与えるうんぬんと言うよりも、彼らが巧いことに福音の必要性に対する疑いの種を蒔いています。そしてそれは一般社会だけではなくクリスチャンにまで及びます。
心理学的な異端
「自分を愛しなさい、そうすれば他の人をも愛することが出来ます。」
最近の世界的なキリスト教に入り込んだ異端的な教えの有力的な源はニューエージ運動です。1960年代にカリフォルニアから人間可能性運動とヒッピー運動から始まって、ヒンズー教的な世界観と思想を西洋に導入して、凄い勢いでアメリカ全土とヨーロッパに広がりました。この運動はキリスト教会の中にも入り込んで、特にその中心的は教えである宗教的な多元主義、キリストの唯一性を否定する全ての宗教に対する寛容性が知らず知らず多くのクリスチャンの心に入りました。特にこの運動のカチフレーズと言ってもいい程の「自分を受け入れる」教え、言い換えれば、「自分を愛する」教えが数年の内に聖書信仰とリベラル主義の両陣営に広がって、殆ど何の非難もなく受け入れられたのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言う聖書の戒めがこの教えの裏づけとしてよく挙げられますが、愛と言う言葉の定義を聖書的に考えたら全く正反対の意味になります。この戒めが明確に自分と違う相手である隣人への愛の勧めであって、自分を受け入れる命令ではありません。
否定的から肯定的に
自分を愛しない人は他の人をも愛することが出来ないと言う教えは未だに日本の教会でも蔓延っています。ちょっとした神学的な洞察でもそれが如何に非キリスト教的なものか分かる筈なのに、何故広がったかと言うと、キリスト教的と言われるカウンセリングが一般社会の心理学的な方法論を受け入れるだけではなく、心理学の中に入った自己愛思想もそのまま受け入れてしまいました。キリスト教のカウンセリングが神学からかけ離れて、一人歩きをし始めて、神学的なチェックが無いまま広く一般信徒の中に受け入れられたからです。
「自分を愛する」と言う教えはどう言う内容でしょうか。そのキリスト教版はキリスト教的な表現を使いながら、実際に一般心理学の方法か新宗教から借りた手段で人を無駄な罪責感、破壊的な怒り、恨み、憂鬱などから解放して、やっと他の人の必要を考える余裕を与える聖書に反する教えです。クリスチャンであるのはいい事ですが、自分を十分受け入れないなら、それだけでは不十分です。本当に輝くクリスチャンになるためには自己確立、自己イメージを高めないとだめです。方程式に書けばこれは次のとおりになります。
救い=キリストの福音を信じる事+自分を愛して受け入れる事
しかし、明らかにこれは異端の方程式の一つの形です。ガラテヤで広がった異端と本質的に少しも変らないのです。ガラテヤ書に明らかに書いてある通りに、愛は聖霊様が結ぶ実であって、聖書的な愛は心理学的または宗教的方法で生む事は不可能です。
この広くクリスチャンの間に受け入れられた教えの問題点は一体何処にあるでしょうか。幾つかを挙げましょう:
愛の定義
愛と言う言葉の定義が間違っています。現代の愛と言う言葉は非常に感情的な意味で使うようになって来ました。愛するなら、相手に対してよい、肯定的な気持ちを抱かないと駄目だと言われています。(神様は罪に対する清い怒りを持ちながら、人に愛の行為をなさいます。)良い気持ちがないとよい行為も期待できないのです。よい行為の基準は相手を喜ばして、いい気持ちを与える行動です。この基準では互いのよい気持ちの上に自分の配偶者を裏切る性行為は愛の印に過ぎません。愛、即ち自分のいい感情が全ての上に置かないと駄目です。ガラテヤ書の教えさえこの点で使われます:
「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(5:14)
こうして感情的な、甘えに似ている愛が全ての標準になります。
「神は愛です」と言う素晴らしい福音はこのような愛と言う言葉の定義では次のような内容に変ります:「神様は暖かく抱いてくれる母親のような存在です。」モーセの神様は時代遅れの恐怖物語の鬼です。柔らかくて、暖かいイエス様が幸いにモーセの厳しい神の代わりに与えられて、もう心配しなくてもよいのです。
異端が教会の中に入るルートの一つは巧みな言葉の意味合いの入れ替わりです。以前と変わらない言葉使いで、全くキリスト信仰と正反対の事を言われるようになります。
聖書の愛
しかし、漢字から見ると愛は感情よりも行動なのです。誰かが手で何かを渡して、そのものを別の人が両手で丁寧に受け取る行動ですが、その特徴は与えられる物に心がついているということです。言い替えれば、与えられるものは与える人にとって大切なものです。だから、受ける方の人はその物を大切にするかどうかは気にかかる問題です。もし、受ける方がその物の価値が分かるならば、両方の方に感情的なつながりが自動的に生まれます。だから、愛は決して感情的な繋がりから始まるものではありません。価値のある物を与えて、それを受ける行為から始まります。
人間に価値のあるものを言ってみたら、自分の時間、苦労、お金、評価されること、健康、命などです。それらの事を人に与える事は愛なのです。私達を創造なさった神様は愛のお方です。神様さえもその民である私達人間を愛するために何かを与えなければなりませんでした。
「神は、実に、そのひとり子をお与えに成ったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、一人として滅びる事なく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3章16節)
聖書的な意味の愛は父なる神様が主イエス・キリストを私達の罪の正しい罰の身代りとして十字架の苦しみを受けるためにこの世にお送り下さいました事です。その結果神様の素晴らしいプレゼントは罪の赦しと永遠の命なのです。
この定義から見ると自分自身が愛の対象にはなり得ません。愛は自分が持っている価値のある物を相手に与える行為だからです。自分に自分が持っている物を与えるのは意味のない事です。「隣人を自分のように愛しなさい」と言う戒めは、自分の必要から相手の必要を知ることが出来ますから、相手が何も頼まなくても、その必要を愛の行為で満たすことが出来ると言う意味です。この戒めは非常に積極的な生き方を問うものです。聖書的な愛は犠牲を払うものです。与える行為の結果自分の持っているものが減って行きます。神様から愛を頂かないと、人を愛する事が出来ません。
主体は人間です
「自分を愛しなさい、そうすれば他の人をも愛することが出来ます」と言う教えの、もう一つの落とし穴はその人間中心的な所にあります。人間は適当な方法(例えばキリスト教的な恵みと言う方法)で結局自分の恨みや憂鬱や憎しみなどに打ち勝つことが出来ます。頑張ればきっと自分を受け入れて、とうとう人を愛するようになります。しかし、いくら恵みと言う言葉を入れてもこれは新しい律法に過ぎません。必死に自分を受け入れようとして、とうとう絶望に終わったクリスチャンはまれではありません。否定的な感情と呼ばれる恨み、憎しみ、憂鬱などの背後に罪が存在します。聖書を読めば一番はっきりした事は人間は自分の罪に打ち勝つことの出来ない現実があります。たといここに恵みと言う方法が導入されても、結果的に人が主体であって、自分が神様の恵みと言う助けを利用して自分を受け入れる作業の中心になってしまいます。神様が主体になって、一方的に罪を赦して、又一方的に聖霊の力で罪の力から解放して下さらないと、何の救いもありません。人間自身が中心になると、神様が働くことが出来なくなります。人間中心主義は神様の恵みを拒否する恐ろしい不信仰の表れです。
アイデンティティー
聖書的に考えると自分自身を受け入れる作業は自己確立の方から考えても無意味です。人間は自分自身を正しく見ることが出来ない、罪の中にある盲目な存在です。罪の為に創造の時に与えられた価値を失っている哀れなものです。人間的な作業で自分に生きる意味と存在価値を見出すのは不可能です。人に比べる競争社会が生まれるぐらいです。イエス・キリスト様が十字架の上で滅び行き人間に永遠の価値を戻して下さって、それをただ信仰によってのみ与えて下さいます。ですからキリスト者が自己確立よりキリスト確立を受けます。パウロはそれを次のように言い表しました:
「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリ15:9ー10)
神様の一方的な恵みを受けることによって、自分がいかに愛されているか、又その恵みによってのみ地上の使命もまっとう出来ます。
他の普通の異端
もっと古い上と同じパターンの異端が次の方程式で表すことが出来ます。
救い=キリストの福音を信じる事+きよめ
救い=キリストの福音を信じる事+聖霊の賜物
救い=キリストの福音を信じる事+讃美
救い=キリストの福音を信じる事+聖書的な教会
救い=キリストの福音を信じる事+ルーテル主義の教理
救い=キリストの福音を信じる事+伝道
救い=キリストの福音を信じる事+断食祈祷
救い=キリストの福音を信じる事+再臨信仰
救い=キリストの福音を信じる事+イスラエルへの愛
救い=キリストの福音を信じる事+倫理的な生き方
カウンセリングにせよ、きよめにせよ、聖霊の賜物などにせよ、全てが聖書的なものです。そして正しく理解すると福音信仰が結ぶ実ですが、もしそれらの事が福音の傍に置かれて、クリスチャン自身の営みになると、律法的になって、福音の光を暗くする異端の始まりになります。ですから異端への道をいつも警戒しなければなりません。
福音による対決
使徒の権威
ガラテヤの諸教会に広がった異端を打ち壊す前にパウロが諸教会のクリスチャン達との信頼回復に努めなければならなかったのです。(1章と2章)手紙の後半に異端の教えとそのリーダー達を攻撃の的にしました。正しくて唯一の福音の伝達者としての権威と信頼が回復しない限り、パウロの教えは無視されて、受け入れられなかったでしょう。又逆に異端を教える人々または組織に対して疑いの種を蒔かなければなりません。両方共は言うまでもなく真実に基づいて行わなければなりません。
パウロの手紙を含む新約聖書の権威はイエス・キリスト様が選ばれた使徒がそれを書いたか使徒の指導の下で書かれた所によります:
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:20)
ですからパウロは自分が述べ伝えた福音は決して人から聞いたものではなく、直接キリスト様から頂いたと強く強調します:
「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(1:12)
今日も聖書の権威を弁明しなければなりません。
リベラル主義
聖書は人間の一番根本的な質問に答えて心を変える力があって、書物としてもとても興味深いはずなのに、聖書の権威を根底から否定するリベラル神学の広く一般社会に広がった影響で、神話や非科学的な昔話のようなものとして見なされるようになりました。ですから、以前キリスト教国として考えられた国々では聖書が無視されるようになりました。ですから、その権威を弁償するのは非常に大切な事です。
宗教的に狭くさせられた聖書
しかし、福音主義的なキリスト者も聖書が全ての教理と人間の営みを批評する基準である事を口癖のように唱えながらも、実際に宗教的な体験以外の実際生活のあらゆる分野でそれを無視して、その代わりに社会一般の基準を適用します。政治、経済、社会倫理、学問などでそれぞれの分野で聖書と矛盾するクリスチャンは日本でも珍しいものではありません。こう言う態度に対してイエス様は何を言われたか、ニコデモとの会話で記録されています:
「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(ヨハネ3:12)
実際生活に聖書を適用しない宗教はキリスト教ではありません。キリスト教の名に載る異端です。
偽預言者たち
しかし、もっとも恐ろしい聖書の退け方は聖書を固く信じて、それを徹底的に生活に適用とする異端です。聖書をよく知って、話をする時に聖書の引用もよく使います。ガラテヤの新しい教師達はこのタイプのものでした。聖書信仰を主張しながらも、彼らは自分の解釈を聖書の上に置いて、聖書そのものが語ることを許さないで、自分勝手な考え方を立証するために巧みに聖書を利用したのです。彼らの姿勢が間違っていて、自分を神様の上に置きました。これはエホバの証人だけではなく、多くの現代的な異端の特徴です。
このような異端はある意味では一番恐ろしいものです。イエス様が選民と言われたクリスチャンさえも惑わされる恐れがあるからです。これらの異端者は多くの場合預言したり、聖霊の賜物に似ているシャマニズム的な異言を話したり、癒しを見せたりするからです。イエス様は特に偽預言者について繰り返して警告をなさいました。強烈な宗教体験を提供する異端と対照的に何百年の長い宗教的な伝統をバランスよく見える形で聖書の上に置く異端も最終的に同じ性質を持ちます。両方ともは神様の啓示である聖書の上に人間の権威を置くからです。
割礼と救い
ガラテヤに来た新しい教師達はイエス様を信じた異邦人に割礼や旧約聖書のその他の律法を守る主張をしましたが、実はこの問題はパウロが参加したエルサレムの使徒と教会指導者の会議で(使徒行伝15章参照)扱われていました。会議の結論は次の通りでした:
「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(使徒行伝15:19-21)
パウロの福音
ですから、パウロが12人の使徒の中に入っていないで、エルサレムの本当の使徒たちと違った自分勝手な福音を伝えると主張した新しい教師達はエルサレムの教会の代表どころか、エルサレムの会議で負けた少数派の人々でした。教会の中に教理的な主張で間違った人々は、その主張が聖書的でないと指摘されても、悔い改めないで、自分の主張を異端まで拡大する分裂を起こすケースが教会歴史の中に後を立たないのです。面白いことには現代のリベラル神学者の多くもガラテヤの異端者達と同様にはパウロの福音とイエス様と他の弟子達の福音が違う異質なものだ主張します。しかし、このような主張をパウロは否定しました:
「それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。...そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」(2:1-2,9)
パウロにとって福音はただイエス様について教えだけではなく、イエス様との出会いで、神様がパウロのうちにキリスト様を表すものでした:
「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。(1:15ー17)
又彼の使徒としての務めは他の使徒と同様にイエス・キリスト御自身の任命でした:
「使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。・・」(1:1)
パウロの福音と他の使徒の福音が全く同じキリストの福音です:
「それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。」(2:1-2)
パウロの福音以外に救いをもたらせるものがありません。ですから、それと違うもの、を伝える人を警戒すべきです:
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(1:8)
滅びへの道を救いの道として教えるほど恐ろしい罪はありません。異端者の裁きは厳しいものです。
証しの大切さ
人の救いこそが福音の真理と真実の具体的な証拠ですから、パウロは自分が改心した事を繰り返して語りました。使徒行伝の中にそれが3回繰り返されますし、ガラテヤ書にもパウロはそれを証しします。ガラテヤのクリスチャン達も同じ福音の力を経験した以上、力のない異端に走ったことは如何に愚かだったでしょう。現代の異端に入っている人々にも救いの証しを繰り返して語らなければなりません:
「しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。けれども、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。』と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていました。」(1:22ー24)
律法と恵み
律法
律法は神様の聖なる御心を表す啓示(神様が御自分を私達に示して下さる働き)です。イエス様はその律法の下に御自分を置いて、それを完全に従いしながら、その最も深い要求をも教えてくださいました(マタイ5,6,7章を参照に)。憎しみは殺人の罪であり、汚い視線は姦淫であり、「本当にそうです」と言う言葉は不誠実の証拠であり、愛は不義に親切で答えるなどです。律法の要約「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)
律法は永遠に変らないものです。神様が永遠ですから、その清い御心も永遠です。神様の御国でその御心が成就します、そこで真実、清さ、愛、正義、栄光、慈しみ以外に何もありません。
律法には三つの役割があります。先ず社会の法律の価値基盤を提供します。国会は神様の律法に従うか従わないかと問わずその上には神様の律法があります。律法の第二の役割は人にその罪と罪がもたらす処罰を示す使命です。第三の役割はクリスチャンを愛の実行に導く使命です。これらの役割においてポイントは律法の文字ではなく、律法を与えて下さった神様との関係です。
律法の役割
律法は決して理論的な考えのレベルのものではありません。具体的に律法に従わなければ、その役割を果たすことが出来ません。私達は律法を知らなければならないし、それを教えなければなりませんが、第一にそれに従わなければなりません。しかし、もう既に指摘した通りに律法は救いの道として与えられた訳ではありません。イエス様以外に律法を完全に守った人は罪堕落以来誰一人もおりません。肉、即ち神様に敵対する古い罪深い性質が全てのクリスチャンにも依然として残っています:
「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(2:21)
「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。しかし律法は、『信仰による。』のではありません。『律法を行なう者はこの律法によって生きる。』のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(3:10ー14)
100%の要求
律法に従うことは部分的に出来ません。神様が言われた事を完全に守るか、守らないのか、どちらかなのです。たとい10%しか守らなかったと思っても、100%の罪です。神様の言われる通りかあなた自身の思う通りかです。自分自身のたとい一番小さい所でも神様の上に置けば、高ぶりの最も恐ろしい罪を犯します。罪の大きさは誰に対して犯したかと言う所にあります。永遠の神様の永遠の律法を破るのは永遠の大きさの罪です。ギリシャ語の罪を表すハマルティアと言う言葉は的外れと言う意味です。弓と矢で飛んでいる鳥を討とうとしたら、当たるか当たらないかの二つの可能性しかありません。罪深い人間が律法を守って自分を救おうとしたら、結果は呪いと奴隷状態だけです:
「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。」(4:21ー26)
救いは一方的なキリスト様の十字架と復活の御業によってプレゼントされる罪の赦しとキリスト様の完全な義を信仰によって与えられる恵みによってしかありません。恵みによって救われたクリスチャンにも肉が留まります。罪赦された時に与えられた聖霊様の新しい命が注がれますから、キリスト様がクリスチャンの内側から働き出して、聖霊の実を結び出します。しかし、罪深い肉も残りますから、全て聖霊様が結んだ愛、喜び、忍耐、親切などの行動に必ず罪深い肉の影響もでますから、最も素晴らしい行為の後でも、クリスチャンは自分の罪を告白して悔い改めなければなりません。救われたクリスチャンもいつまでもただキリストの義が信仰によって与えられた事を頼りにしなければなりません。一番立派なクリスチャンもその愛による行為を神様の前に救いの根拠または救いを確かめる理由として提供する事が出来ません。キリスト者が清い生活を求めるのは救われる為ではなく、救われた故です。
裁きの要求と福音の賜物
神様の清い律法は全ての罪に対して正しい裁きを要求します。神様はどんな罪にも耐えることが出来ません。罪は処罰されなければなりません。聖霊の働きを頂きながらも、したくても律法の要求に応える事の出来きないクリスチャンは安心出来ます。それは救いは律法によらないで、福音によるからです。福音の道に律法の要求は最早及ばないからです:
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(2:19-20)
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(4:4ー7)
律法によって律法に死ぬ事
救われたクリスチャンは律法によって律法に対して死んでいます。律法は死刑と永遠の滅びを要求しました。しかし、キリスト様は私の身代わりとしてその死刑と永遠の滅びを終わりまで経験して下さいました。(死と言う言葉は聖書の中に普通の肉体的な死と言う意味で使われることもあれば、最も根本的な存在が続きながら受ける処罰を受ける意味でも使われます。この個所では後者の意味です。)律法はイエス・キリスト様を殺し、しかし洗礼で私がキリストに結び合わされたから、私もキリストと共に死んで滅びの処罰を受けました。ですから私の受けるべき死はもう済んでいます。律法の処罰における要求が満たされました。それ以上にもう要求がありません。イエス・キリスト様が私の死と滅びを経験して下さるだけではなく、私に代わって完全な律法に従った生涯をも過ごしました。キリストのこの完全な生涯は私の生涯として見なされます。ですから、律法が要求したものが全部満たされていますから、もう私は律法と関係のない生活を送ってもよいのです。
律法の終わり
キリスト様は律法の終わりです。ですからキリスト者の救いの確信は自分の行き方に少しもかかりません。キリスト様の完全な救いの御業にかかっています。キリスト様が聖霊によってキリスト者の内に住んでおられますから、彼の命はキリストの命です。罪深い肉が反発を繰り返しながらも、キリスト者は絶望する必要はありません。肉はもう既にキリストと共に十字架につけられているからです。即ち、肉が生んだ罪とこれから生もうとする罪はもう既に処罰されているからです。罰はもう済みました:
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(5:24)
キリストの命
キリスト者は律法から解放されています。しかし、律法は神様の御心の清い啓示ではなかったのでしょうか。はいそうですが、もう満たされています。ゴルガタの十字架の上でイエス様が「完了した」(ヨハネ19:30)と叫ばれた時に完全な救いが与えられました。それでは、キリスト者が神様の御心を行う必要がないと言う事になりましか。はい、救われる為に、神様の天の御国に入れるためには何もしなくてもよいのです。しかし、聖霊様は、キリスト者の内に住んでおられるキリスト様がキリスト者を通して神様の御心を行おうとなさいます:
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(5:22ー23)
それは最早私達の命よりも私達を通してのキリストの命です。
キリスト様の命はキリスト者の人格を無視する働きをなさらないし、私達の体験から見ると自動的ではありません。心に住んでおられる聖霊様は私達の耳と目を通して入ってくる聖書の御言葉を掴んで、その約束と勧めに従う意思を起こして、又実行の為の力を与えて下さいます。しかし、それはキリスト者が救われる為でもなく、救いの確かさを増やす為でもなく、救いに何かを付け加えるものでもありません。キリスト者の心に注がれた神様の愛の働きに過ぎません。キリスト様が私達の内に生きて、その愛を発揮するだけです:
「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(5:14)
罪深い肉も活発に聖霊の働きに対抗して、邪魔をしようとします。ですから、キリスト者の内に一種の緊張感が生まれますが、聖霊の力によって肉の働きを抑える事も出来ます:
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5:16)
キリスト者は律法の要求から解放されていますが、キリストの愛、キリストの自由の掟は彼を愛するように導いて、そして正しい生き方を示す律法の要求を満たすようにさせます:
「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(6:2)
キリスト者は律法の要求から解放されていますが、自発的に、キリストの愛の促しによって主の御心を全うしようとします。しかし、それは救われる為ではなく、救われたからです。
肉によって立て直す
律法に対して死んで、神様に対して生きているキリスト者には、もう一度肉によって律法的な生き方に戻る危険があります。律法の骸骨を古い形で又は新しい形で着直そうとすると、キリスト様から頂いた救いの否定に当たりますから、聖霊様を悲しませる結果になります。その道で進むと先ず福音の力や自由や喜びを失います。続けて行けば福音を否定する異端まで走る恐れがあります:
「しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。」(2:17ー18)
キリスト者にしても、求道者にしても、律法の道で自分に対する絶望までしか至りません。パウロは肉によって無力な律法の道の結果をローマ人への手紙の7章で見事に描写します:
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。(7:14ー23)
肉と律法の道に戻ったキリスト者には一つの道しかありません。それは悔い改めてキリスト様の一方的な恵みに帰る道です。しかし、どんなに迷ったとしてもその道が開いています。恵みの主イエス・キリスト様が待って招いておられます。
信仰と恵み
神様の恵みに帰る道は信仰なのです。ですからガラテヤ書の筋道として行いと無関係の信仰が繰り返して強調されます:
「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。」(3:11)
「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(3:6ー9)
キリスト者の生き方の全てが信仰によって主イエス・キリスト様から頂きます:
「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」(3:5)
信仰の定義
信仰は助けのない人が助ける事の出来るお方により頼むことです。罪深かい、有りのままの姿でイエス様に自分自身と自分の必要を任せる事です。父なる神様は罪深い、弱い、不敬虔な人々を受け入れて、キリスト様の十字架の苦しみと復活の勝利の故に彼らに義をプレゼントして下さいます。信仰はこの賜物を受け入れる空っぽの手です。信仰は神様の約束を信頼することです。信仰は乞食のように謙遜して主から助けを求める事です。信仰はイエス・キリスト様を主として認め、主の支配に従う心です。信仰は心を開いて主イエス・キリスト様を受け入れることです。
信仰の反対、不信仰は信仰に欠けている事ではありません。不信仰は自分自身、自分の可能性、能力、知恵、判断を信じることです。不信仰は自分の人生の指導権をあくまでも自分で握ることです。不信仰は自分で物事をすることです。不信仰は宗教的な超自然的な力(神々を含めて)を自分の益になるように利用する心です。
律法の使命は不信仰の人にその本当の姿を見せて、自分自身に対して絶望させる神様の道具です。しかし、救いは福音によってしか与えられません。福音を信じる信仰は行いによらないで、イエス・キリスト様の御業をとその祝福を受け入れます。信仰によって人間は新しくされます。なざなら、イエス・キリスト御自身がその心に入って下さるからです:
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)
活発な信仰
信仰の反対は自分自身を頼りにする行いだからといって、信仰は消極的に怠けると言う意味ではありません。信じたら全ての問題が自動的に解決されると言うようなものでもありません。自己中心的な生き方からキリスト様を中心とする生き方が信仰によって生まれます。電線を通して電気が流れると同様に、信仰によってキリスト様の人格的な命が活発的に働くようになります。信仰はキリスト様との交わりを保ちながら、問題や罪や苦難に直面することです。信仰は向かい風の時にもイエス様に従うことです。信仰は御霊による歩みです:
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(6:8)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5:16)
信仰から生まれる生き方にはこの地上には戦いと重荷も含まれますが、主イエス様との歩みですから、その重荷も主の力で負う事が出来ます:
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(6:5)
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