固められたお城

  私はクリスチャン・ホームで育ったので、いつイエス様を個人的に信じるようになったのかは、はっきり言えない。両親に小さい時から神様の愛について教えられたことは大きな恵みだ。加盟していた教会は幼児洗礼だつたので、生後3ヶ月で洗礼を受け、15才の時、青年キャンプの時に信仰を告白した。だから、神様はずっと知っていたと言える。ただ、自分のほうから神様に近づいたり、遠のいたりしていた。人間はだいたい困った時に神様を求める。私も例外ではなく、一番苦しかった十代の時に神様ともっと深い関係を持つようになった。
  私は宣教師の子供で、7人兄弟の一番上だ。親の仕事柄、引っ越しが多く、今までに引越しが22回、そのうち国から国への引越しは10回だ。引越しのたびごとに、新しい学校で友達を見つけることは決して容易なことではなかった。その為、小さい時から安心感に欠けており、臆病だった。ただ、唯一人生で不動なものは、神様の愛だと信じていたことが、大きな支えになった。
  12才の時、日本の日舎の小学校を卒業し、一年フィンランドに帰国し、町の大きな中学校に入った。この時私は、帰国子女の典型的な問題であるカルチャーショック、孤独、いじめにぶつかった。学校ヘ行くのが苦痛で、仕方なしに行くことは行ったが、一日中本ばかり読んで、現実の問題を本の世界へ逃げていた。その為、人間関係の維持という大切な社会的な勉強ができず、一層孤立していった。
  大学一年の時が一番苦しく、私は自殺を考えるようになった。なぜか。いろいろな理由が挙げられるが、深い理由は何年も後で神様が教えて下さつた。これが私の信仰生活の上でも大きな目覚めであったので、簡単に説明したいと思う。
  私達人間は地上の上では善と悪、即ち神様と悪魔という戦いの中で生きている(第Iペテロ5章8〜10節)。 そして戦場になるのが、人間の心である。人の心をお城に例えると、クリステャンになることは、お城の支配権をイエス様に譲ることだと言える。そしてお城を攻めようとする悪魔の誘惑に負けないよう戦い、神様にお城を固めてもらわないといけない。ところが、毎日のように自分の心の底から悪魔を誘い込むような悪い考えや行いが湧き出てくる。自分でイエス様を裏切っているようなものだ。こういう考えや行いをイエス様のところにもっていき、赦しを求めると、罪を受け取って赦して下さり、平安が与えられる。これが普通のクリステャンの毎日の戦いである。
  しかし、私の心には神様が住んでおられたのに、一つの門が大きく開いていて、悪魔が自由に入ってこられるようになっていた。そして神様の支配下にあるべきお城を少しずつ攻めていった。この門とは、手放したくない罪や癒されていない心の傷である。
  私の場合、手放したくない罪とは1つの考えだった。「人生はどうせ苦しいのだから、早く死んで天国へ行きたい。」そんなに悪い考えには見えないかもしれない。しかし、私は神様からもらった命という賜物を粗末にし、神様に反発していた。私はこの考えを罪と認めず、悔い改めようとしなかったので、この考えが心の門を開け、暗い考えがだんだん氾濫していった。次には「なぜ生きなければならないのだろう。生まれなければならなかったのは、神様が悪い。」と思うようになった。そしてしまいには電車が通るたびに飛び降りて自殺したい強い誘惑に悩まされるようになった。また、自分の命を粗末にする結果として、勿論他の人の命も大切にすることができなかった。
  罪というのは必ず霊的、精神的な苦しみや人間関係の問題を生む。私はその苦しみの中で神様の助けを求めた。私の心は複雑なもので、一方では神様に反対しながら、他方では神様しか私を助けられる方はいないと信じていた。そして神様は私を憐れんで下さり、毎日毎日次の日まで生きる力を与えて下さった。そして一年後に、お祈りに二つのとても具体的な答えを頂いた。
  1つは夫のSeppoに巡り会ったことだ。Seppoと何でも話し合い、いっしょにお祈りすることが出来るようになり、孤独から開放され、生きる意欲が与えられた。そして一年後には結婚していた。しかしこれで根本的な問題が解決されたわけではなかった。神様は弱い私から誘惑を一時的に取り除き、後で私の心の中でもっと深い業をしようとされたのだ。
  2つ目の答えは、結婚の二年後、主人の転勤でベルギーに移り、フィンランドの難しい人間関係から開放されたことだ。フィンランドを逃げたとも言えるかもしれないが、神様が私を逃がして下さったと感じている。この距離がなければ、人間関係を客観的に見つめることが出来ず、心の傷が癒えなかったと思う。神様は新しい教会や友達を通して、フィンランドでは学ぶことの出来なかったことを教えて下さった。
  そして神様はカウンセリングなどを通して、ゆくゆくは私の問題の根本であった罪に気付かせて下さった。自殺を図ったころから5年たっていたのに、 「早く死にたい」というこの考えは消えておらず、私が落ち込むとすぐに頭を持ち上げていた。そもそも罪や心の傷が時間とともに消えると考えるのが間違いで、やはり勇気をもって問題を認め、それを神様とともに解決していかないと一生同じ問題から開放されないことを学んだ。少しずつ「早く死にたい」という考えがどこから来るのかを示され、罪を悔い改め、イエス様に赦していただいた。関連した心の傷も癒され、人生を神様の賜物として希望と感謝をもって生き始めることができた。こうして悪魔が簡単に入れたお城の門は閉ざされ、お城は新たにイエス様に固められた。これはまさに奇跡といえる。
  勿論、これはただの一例で、他にもいろいろな罪と戦っているし、神様の力を頂いて一生戦い続けることだろう。言うまでもなく、私たちが完全に罪や苦しみから開放されるのは天国だ。しかし、この心の変化は1つのとても具体的な結果を生んだので、皆さんに伝えたい。以前私は自分の命を大切に出来なかつたので、人の命の価値も分からず、結婚していても子供を設けたくなかつた。しかし、その思いや恐れから開放され、結婚8年目に妊娠し、子供が生まれることになつた。感謝だ。
  「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は私達の主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。」 Iコリント15章55−57節
 
(キビニエミ・ハンナ 1999年5月8日礼拝証し)

恐れるな

「性格には怒りか恐れかどちらかの欠点がある」ということを開いたことがある。どちらかという場合、私の弱さは恐れだ。人に嫌われるのがいやで、なかなか言うべきことが言えない。また、自分を人の前で本当の姿よりよく見せようと努力し、責任逃れをする。そして、恐れの為、神様の命令に背くことがある。だから、恐れというのは、ただの性格の弱さでなく、正しいことをし損なうという罪でもある。怖いから、人の目が気になるから正しいことをしない という消極的な罪は、積極的に誰かを傷つけるという罪より小さく見えるかもしれない。でも、そうではない。自分のしなかったことも恐ろしい結果を生むことがある。 最近読んだ本の中に、こういう文があった。「臆病の根本は、神様より人を恐れることだ。また、神様よりも自分を愛することだ。」この両方の文に当てはまる経験がある。
 まず、「臆病の根本は、神様より人を恐れることだ」という言葉。数年前、国際教会のうちでの家庭集会にある女性がいらっしゃった。何回か来るうちに、私はこの人はどうもまだ個人的にイエス様を知らないようだということを察した。一ヶ月ぐらいして、その方がうちに遊びに来る直前、「今日この人に福音を伝えなさい」という神様の言葉が心に追ってきた。その方といっしょに食事をして、楽しくいろいろなことを話しているうちに、言わなければと思いつつ、福音について言いそびれてしまった。
 「人間の罪や十字架の購いの必要について言ったら嫌われるだろう。次、会った時に言おう」 「ヨーロンパの人だから、まさか福音を知らないはずもないだろう」と勝手に思っていた。ところが、この人はその後、一度も集会に来なかった。また、連絡を取ろうとしても、取れなかった。その後、この人がどこにいるのか、何をしているのか判らない。私が自分の臆病の為、神様の命令に従わなかった。その罪を神様に告白し赦してもらったが、その結果、もしもその 人が一生福音を開きそびれて亡んだなら、私の責任になる。そうならないように、神様が他の方を送って福音を伝えるようにお祈りしている。
  後から、なぜ福音について話すのがそんなに怖いのか、自分でも不思議に思った。福音とはよい知らせなのだ。「救い主がいる、罪を赦してもらえる、永遠の命がもらえる。」自分がその喜びを経験しているのだから、なぜ伝えられないのだろう。恐れというのは感情の問題なので、頭で分かっていても、解除できない。
  また、「臆病は、神様よりも自分を愛することだ」という言葉。前田の証しの中で、私は何年間も子供が欲しくなかったと言った。その理由の一つに恐れがあった。友達に苦しい出産の話しを聞かされて、出産を恐れていた。また妹の障害で苦しむ親を見ていたので、自分の子供が障害児だったらと思って、育児をする自信がまったくなかった。でもその恐れの一つ一つをクリスチャンのカウンセラーに打ち明け、お祈りしているうちに神様が恐れを解かしていって下さった。
  しかし、最後に自分で決断をしなければならなかった。 「自分を愛して、子供のいない楽な生活を選ぶか、それとも神様の与える子供を育てるか。」神様のみこころを選ぶことが出来た。そのうち、妊娠して、子供が生まれてみると、自分の恐れがまったく根拠のなかったものだと分かった。妊娠も出産も守られ、元気な子が与えられ、育児の中でぜんぜん予期しなかった喜びと充実感を毎日感じている。 聖書には何度も何度も「恐れるな」ということばが出てくる。神様に恐れを告白すれば、神様がだんだん恐れを取り除いて下さる。
 「神が私たちに与えて下さつたものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」 第2テモテ1章7節  (キビニエミ ハンナ、 2000年5月礼拝証し)

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