一番偉いとはだれか
マルコ9:30〜37

2003年9月28日の阿南ルーテルキリスト教会の礼拝説教
V. バンスカ

30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
33 カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。
35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

今日の 聖書の箇所には二つイエス様の短い教えが書いてあります。

先ず第一にイエス・キリストが弟子たちに自分の死と甦りについて前もって教え始められた事でした。書いてある通り、イエスの話は弟子たちにさっぱり分かりませんでした。

もう一つは今日の説教のだいになっている事です。一番偉いとは誰かと言うテ−マです。

イエス様は一体何をおっしゃいましたか、それをもう一度お読みいたします。
「人の子は人々の手に引き渡され、かれらはこれを殺す。しかし、殺されて、三日目の後に人の子はよみがえる。

イエスはここで自分自身について話すと「人の子」と言う名前を使っておられます。弟子たちはユダヤ人で、「人の子」と言う表現を聞いたことがありました。それは旧約聖書のダニエル書に書いてあります。

「人の子のようなかたが天の雲にのって来られ…このかたに主権と光栄と国があたえられ、諸民、諸国、諸国語のものたちがことごとく、かれに仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」、とダニエル書7章13節〜14節に書いてあります。

この主権をもっている「人の子」はやはりメシヤすなわちキリストです。ダニエル書に出ているメシヤは栄光のあるお方です。しかし、イエス様は自分が人々の手に渡されると言うと、どうしても弟子たちの考えたメシヤのイメージに合いませんでした。まったく逆でした。しかし、メシヤと言う言葉にはこの二つの性質があります:「主権のある主、王の王」と「皆に仕える、自分を低くする、苦しめられる主」とです。

又31節に戻りましょう。イエスの言われた短い言葉に大きい、偉大な神様のみ業が入っています。イエスの生涯の目的、キリスト教の中心的なこと、聖書の要点が出てきます。すなわち福音です。

毎週礼拝の時、この福音は繰り返して語るべきです。キリストは我々の罪のために苦しめられ、死んで下さり、私たちは罪の赦しを得る為でした。また、 私たちはキリストの十字架のみ業のお陰で、聖なる神様のみ前に出ることが出来ます。キリストが来なければ、私たちは永遠の滅びに行かなければなりません。大変大きなことです。また、死に勝ったキリストは甦られて、私たちにも永遠の命を与えて下さいます。私たちが救われます。感謝します。

イエス・キリストを信じ、受け入れると、あなたの病気が治るとか、人間系がうまく行くとか言うようなことを聖書は約束しませんが、もっと偉大なことを約束します。それはキリストの故に罪の赦しと永遠の命を約束して下さいます。何と素晴らしい約束でしょう。

II
さて、イエス様の二番目の教えに耳を傾けましょう。
弟子たちは普通の人で、今の時代の人と変わりませんでした。なぜかと言うと、 だれが一番偉いかと論じ合っていました。偉くなりたかったです。私たちもそうでしょう。だれが一番高い塔を建てるか、小さな僕たちは砂場で喧嘩します、大人は一番高いビル、一番力のある兵隊などを設けるために戦争を起こすまで争っています。

実は、最初の人はこのことで誘惑されました。禁じられた実を食べたら、あなたがたは死ぬ、と神様が言っておられたのに、蛇の形をとった悪魔は「あなたがたは決して死にません」と言う嘘をつきました。「実を食べるその時あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになる。」神のようになる。神のようになる!すなわち、神のように偉くなる。

堕落の時から人間は常にこの傾向をもって生きて来ました。「偉くなりたいです。」弟子たちもそうでした、わたくしたちもそうです。だれが一番偉いかと競争しています。

あなたは自分を他の人に比べたことがありますか。私はそのようなことを時々してしまいます。やはり偉くなりたい私たちは如何しても自分を他人に比べてしまいます。そうすると、何時も自分自身よりよい人、知恵のある人、立派な人、うまい人、よく出来る人、美しい人に出会います。また、教会では人の信仰のあつさを比べます。こうして比較すると、劣等感になりやすいです。

また、逆に、比べる人はかならず自分自身より下手な人、あまり賢くない人、うまくできない人にも出会うのです。それで優越感を持つようになります。国と国との間でも同じことが起こります。


しかし、この比べることの結果はどう言うふうなことでしょうか。どんな実を結びますか。ねたみ、自慢、高慢と不和などが沸いてきます。

比較する人にイエス様は何を言われましたか。我々 自己中心のものはその答えに驚くでしょう。聖書を読みましょう。35節に書いてあります:

「だれでも人のさきに立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕えるものとなりなさい!」イエス様はそれから小さな子供を連れて来て、弟子たちの真ん中に立たせて、腕に抱き寄せて、彼らに言われた:
「だれでも、このような幼子たちの一人をわたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。まただれでもわたしを受け入れるならば、私を受け入れるのではなく、私を遣わされた方を受け入れるのです。」

マタイによる福音書でも同じ様な出来事についてこう書いてあります。「あなたがたも悔い改めて子供たちのようにならないかぎり、けして天のみ国には入られません。」

当時の子供の立場はたいへん低いでした。子供の人権を尊重する法律もありませんでした。イエス様は大人の弟子たちに言たかったことは次の様な事でしょう。

「大人は自己中心の行き方を辞めて、空しい論じ合いを辞めて、回りを見なさい」と。この弱くて小さな幼子を大切にしなさい。キリストの教えに従って、キリスト教会の責任は一番弱い人を守る、弁護する責任です。だから、キリスト教会の設立した孤児「みなしご」のための養護施設「ようごしせつ」も少なくありません。

子供だけではなくて、高齢社会でまたお年よりも子供のように世話が必要とします。ぼけてもいのちは大切にしないといけません。

今の世を見てみると、多くの国では子供たちは悩んでいます。子供の環境と状態は理想的ではありません。多くの国々は国連児童憲章に賛成していますが、それにしても学校へ行けない少年労働者が2億5千万人もいます。また、子供が兵士になったり、暗闇の売春の商売に捕らわれたり、本当に子供の心と体に酷い害をすることが起こっています。

イエス様の名によって子供を受け入れることについてルターも教えました。
子供は神様からの賜物で、大人の一番大きな使命は子供をよい方向に導くことです。世話をすること、また安全な環境を作ることです。また、日常生活になくてはならないことを整えるべきです:食べ物や衣料、暖かい家などです。精神的に日常の愛情、安らぎを与えることは親の責任です。ルターは親と先生、また一般の大人の役割の重要を強調しました。それは今日の箇所でイエスの教えたことです。

子供たちは何が一番必要としますか。それはやはり安心感です。月報ではMさんの証が書いてあります。「どうか、世界をずっと平和にして下さい」と彼女が神様に願っています。子供が安心していきることは子供にとってなくてはならない人権です。

イエスの名によって子供を受け入れることは決して小さなことではありません。イエス様が言われました。「そのような人は私を受け入れます。またただイエスを受け入れるのではなく、イエスを遣わされた方、全能の神様を受け入れます。」

キリストは私たちに仕える心を与えるように願いましょう。アーメン



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