イエス様との出会い

 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」( ヨハネ1章44〜51)

人格と人格との交わり
 新約聖書を読んでみるとイエス様と人の出会いは決まったパターンのようなものではなく、いつも違う要素があります。それは、人間の本質的な必要はイエス様に出会うことであって、その方法ではありません。出会いの結果としていつも同じことが起こります。イエス様と言う人格的なお方の交わりの中に命の源に達して、愛と希望と信仰が与えられて、いつまでも続く主との旅路が始まります。

本物のイスラエル人
 イエス様とナタナエルの出会いの中には色々教えられるところがあります。ナタナエルは正直で、素直で、敬虔で、宗教的で、旧約聖書を学んだり期待すべき救い主を待ち望んだりしている人でした。いくら聖書を学んでも、救い主に出会わない限り、神様の御心を行なうことが出来ないと痛いほど分かっていたのです。いちじくの木の下で聖書を読んだりして、本物のイスラエル人になりたくても、どうしてもそれが自分で出来ないと認めなければならなかったナタナエルでした。

イスラエルと言う名前の意味は神様に支配されていると言うことです。本物のイスラエル人は神様に支配されて喜んで神様に従う人のことです。み言葉に従わない人は神様との交わりを持てない事がナタナエルは痛感していました。だから、助けを求める以外に道がないと、イエス様に出会う前から分かっていました。しかし、その悩みをまだ誰にも打ち明けていなかったのです。

ナタナエルは形の上の宗教に失望して、自分の無力に悩んでいる求道心の深い人でした。何という多くの真面目な日本人もそう言う意味で彼に似ていると思います。真面目で真剣に求めている人は非常に迷い易い状態にもあります。日本の諸宗教の背後に本物の日本人になりたくて、求道心の熱い人々の多い事です。造り主でおられる誠の神様を知らないで、上にある何かに従って心が満たされるように探り求めているのです。

イエス様の所に案内する真の友
 幸いにナタナエルには真の友達がありました。ピリポと言う人でした。ピリポは既にイエス様に出会ったので、ナタナエルを道に助けてくれました。イエス様に出会った人の第一使命は友人や親戚や一緒に働く人にイエス様を紹介することではないでしょうか。人間はもう一人の人間を本質的な意味で助けることも救うことも出来ませんが、魂の救い主であるイエス様のところに案内する事は出来ます。ピリピのように頂いた恵みを隠さないで分かち会いましょう。

偏見のままでイエス様に出会えます
 しかし、ナタナエルは求道心を持っていても、かなりの偏見も持っていました。正直だから偏見がないと残念ながら言い切れないからです。けれども、正直な人と偽りの中にある人の差はその偏見を認めて直そうとするか、それともあくまでもその偏見を弁明しようかと言うところにあるのではないでしょうか。ナタナエルは偏見のままで、ピリポに案内されてイエス様のところに調べに行きました。ナタナエルの偏見はナザレと言う町に対してのものでした。ナザレはローマ軍の通る道沿いあって、売春などで評判の悪い町でした。そう言うところから救い主が出るはずはないと思っていました。しかし、イエス様はこの世の一番深い暗闇の中に来られて、その中にある人々を救うためにおいでになりました。

イエス様はあなたの全てをご存知です
 ナタナエルが近付くと、イエス様は彼の素直さを認めて下さいました。彼の心の葛藤も完全に理解して下さったことによって、ナタナエルの偏見はあっという間に消えてしまいました。誰にも知らない彼のことを出会う前から完全に知られたイエス様に心打たれて、一瞬の内に信仰が生まれました。

信仰とは
信仰は決して心の状態ではなく、相手である主イエス・キリストの素晴らしさを認めて、イエス・キリストと言うお方に自分の人生の指導権を任せることなのです。自分の心の状態を信仰と誤って思って、あくまでも自分の気持ちを頼りにして迷って行く人がいかに多いことでしょう。信仰は心の状態がいくら変わっても、ただただイエス様の御言葉を頼りにして主に従って行く人格的な信頼関係なのです。

「神様に支配されたいならば、あなたは私を必要とします。私に従ったらあなたの聖書に基づいている夢も実現します。私はあなたを家来として認めます」と言うようなイエス様の言葉に対して、ナタナエルはイエス様の主権を認めました。

あなたの人生は誰によって支配されているかによってすべてが決まります。命の源である神の子、人の子と呼ばれる主イエス様ですか、あなた自身ですか、他の人々ですか、あらゆる偶像ですか。

先がもっと素晴らしい
 イエス様はナタナエル達に最初の出会いの時より遥かに大きな恵みを約束して下さいました。しかし、それは弟子達が将来に如何に偉いものになるかと言うようなものではありませんでした。かえって、彼らがイエス・キリストを将来に余りにも素晴らしい王として、又支配者として知ることが出来る約束でした。主の愛を深く知れば知るほど彼に従って行くでしょう。主の愛と知恵によって支配される人生はたとい戦いが多くても最も素晴らしい、最も意味のある人生です。永遠に続くものなのです。天が開かれる人生なのです。