希望
「主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」
主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。
あなたの将来には望みがある。」(エレミヤ31:15〜17)
この頃の日本は一生懸命になって希望を探しているような気がします。経済が停滞して、学校現場が荒れて、社会に出られない120万人の人の聞こえない声が叫んでいて、政治で不正が合い続いて、又想像も出来ない残忍な事件が後を絶たないのです。この実態を大谷勝子様は次のような詞で表現します:
「事件はもうたくさんです
悪はもうたくさんです
平和を下さい
花を下さい
善を下さい
一人一人を愛して下さい
いつまでも続くものは
信仰と希望と愛です」
小泉さんが総理大臣になった時に彼に対する非人間的ほどの期待感の背後にこのあまりにも絶望的な背後があります。総理大臣をはじめ、この国の指導者たちの為に心から主イエス・キリスト様からの知恵と祝福を祈りながら、この国の諸問題に対して先ずイエス・キリスト様の福音による希望を宣べ伝えなければならないと思います。人間はその希望によって生きると言われます。希望を失ったら何も出来なくなります。国民も希望を必要とします。
「希望」と言う言葉はとても面白い漢字から出来ています。先ず「希」と言う字です。その「希」は「まれ」又は「こいねがう」という読み方があります。「布」の最後のところに「はさみ」で切れなければならない時に新しい物を強く願う気持ちになります。もう無いからどこから新しいものが得られるでしょうか。次に「望」と言う字です。「のぞみ」と言う読み方と満月と言う意味があります。遠い所を見ると言う意味合いもあります。三つの部分から出来ています。「亡」はなくなると言う意味ですね。「月」と書いている部分はもしかしたら元々「肉」と言う字ではないでしょうか。下の部分は今「王」と書きますが元々そうではなく、「玉」だったようです。合わせて読めば「希望」は人生の布がもう終わろうとして、自分の肉体的な力がもう失われている時にも遠い所に見える真珠のような玉を眺めて、それがとうとう与えられると言う確信です。
聖書を見ると本当の希望は主イエス・キリスト様ご自身です。私たちが全てを失って、泣いて、慰めを拒否するときに、主イエス様は何を言われますか。
「目の涙をとどめよ。彼らは敵の国から帰って来る。
あなたの将来には望みがある。」とです。
池田の痛ましい事件の事で私たち大人は色々安全対策などで論議して参りましたが、同じ事を見聞きした小学生達の質問は大分違いました。同じ年齢の友達の死を大人と同様に悲しみながらこう聞きます。「死んだら私達は何処に行きますか。」答えで困った親達が教えて欲しいと言う願い出教会に駆けつけてきます。いかに子供達の目が鋭くて、本質的な問いまで行きました。たとい私達大人は日本をもとの安全な国に戻す事が出来たとしても、子供達の基本的な問いにそれで答えが出る訳ではありません。
子供を失った親達は何故慰めを拒むでしょうか。子供たちがもう帰って来ないと言う切実な痛みを感じるからです。しかし、主イエス様は全く反対の事を語られます。「彼らは敵の国から帰って来る。」この敵とは何でしょうか。死そのものです。イエス様の答えは「私は十字架の身代わりの死によって死の力に打ち勝ちました。私は墓から新しい復活の体をもって甦りました。この子らも私の言葉一つで最後の日に甦ります。私は彼らを死の国から帰らせます。彼らは私の前で正しい裁きを受けます。正義を戻します。彼らには希望があります」と。
イエス様にある将来の望みは単なる酷い現実を美しい嘘で少し和らげようとする綺麗な言葉だけではありません。1971年前の具体的な体の甦りの事実がこの希望の証拠です。ですから、一時的な別れの涙があっても、十分遠い所に眺めると勝利の日が待っています。天国は現実です。その中心は生きておられる復活の主イエス・キリスト様です。この希望を私達が伝えなければなりません。それを目指す人はたとい経済的な困難があっても、病気や人間関係のトラブルがあっても、積極的に今日の諸問題に取り組んで、落胆する人々を励ます事さえ出来ます。将来の希望を与えて下さるイエス・キリスト様は今日も生きて、今日も私達の傍におられます。主を求めなさい、そうすれがあなたにも希望が与えられます。
「あなたの将来には望みがある。」
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