神様の愛に捕らえられて

   1959年12月24日、今日はクリスマスイブだから飲みに行こうぜ、と天神の若い5人組みは言い合って(俺はKさんを俺のオートバイに乗せて行くからR君達ほトラックで行こうや)。すると「よし行こうや」と意見が纏りました。私は社の(赤のれん)で皆とホルモンを突付き乍ら当時よく有ったドプロクをビール瓶3本飲みました。酔っ払って来ると、「おい皆これから女の子の多い西脇へ待こうぜ。」 「待ってました、よし、行こう」と、ばかり西脇へ走りました。それから先の事は覚えておりません。後から一緒に飲みに行ったR君に聞いた処。敬暮さんは西脇に着くなり自分の知り合いの飲み屋を2、3軒、飲み歩き、よっぱらって終い、「おい、皆、そろそろ帰ろうぜ」と言い「俺はKさん乗せてきたので帰りも一緒に帰るからな」と言いつつ、「おいKさん後ろに乗れやい」と言った。しかし、「おい、敏喜さんお前は酔っ払って居るからトンラクの助手席に乗って帰るや」と言うのも聞かずにKさんをオートバイの後ろに乗せて婦ってしまうのよ、仕方がないから後から付いて帰ると野村の踏み切りの緩やかな力ーブを曲がりきれずによその家に突っ込んで彼舞ったのよ。

 さあ、それから大変だったよ。警祭を呼ぶは、救急車を呼ぶはして大変だったよ。こうして私は命を取り留めて神様は私な助けて下さいました。それから私の記憶が戻ったのは24、25、26、27、28、29、30、31、翌年1、2日で正月の2日の午後3時頃で、それも西脇病院のベッド上でした。10日間意識不明で助かったのは当時としては奇跡でした。気が付いて私が起き上がろうとした。すると父が「これこれ敬暮お前は病人だから主治医の先生が良いと言われるまでじっとして居て動いてはいけないのだ」と言い聞かせました。5男坊の私は当時まだ21歳の元気者でした。しかし、私は傷の糸も抜いて有るし痛みも無いので「もうこんなところには用は無い」と言って帰ろうと致しました。しかし、父は先に書いたように「交通事故を起こして、まだ,退院許可が出ていなないので家へは帰れないのだ」と言って「もう暫らくはじっとして寝ていなさい」と言われた。そして1月28日主治医が「君の命が助かるとは思っても見なかったが、君の心臓が強かったので助かって良かったね。もう退院してもいいよ」と言われました。それから色々と職業を変えて、1975年結核に成って始めてイエス・キリストの愛に出会い救われたのです。しかし、その前28歳の頃人間何の為に生きているのか、解らずに、自殺を考えた事も有りました。だから、神様は私に結核を与えて救ってくださったのです。

 私は27才の時。大阪から、集金して返った時のこと、食事を取って一服していた時、胸の中が少し熱く感じ咳込んだ時、コップ半分くらいの血が出てしまったのです。

 しばらくして、医者に診て貰った処、結核だと言う事が分かり、すぐに、入院と言う事になり、青野が原寮養所に、入院して、レントゲンの結果、左胸に卵大の穴が開いており、これはひどい、と。言って、すぐに、重傷部屋に入れられました。

 それから、毎日、毎日、ペニシリン注射を討たれました。20日間重傷に居て、結核菌が出るのが止まった。と言って。やっと、重傷部屋から軽傷部屋に移されました。それが、3人部屋で、矢田貝俊夫さんと、寺田さんの部屋でした。

 それが、クリスチャン部屋だったのです。そこでは、毎週、毎週、集会が持たれて居りました。私は始めの内、その日が来ると部屋を、逃げて出て行っておりました。

 そして10月のある日。私が部屋を出ようと、ドアーを開けるのと一緒に、アーノルド・レイチェル師と顔が、合ってしまいました。その時、先生は、「こんにちは」と、言いつつ、私の手を取って、「お元気ですか」と言い乍ら、私に握手をして、下さいました。私は、外国人と握手をしたのは始めてだったのでびっくりしました。その時から、1度集会に、出て見ないかと毎週、毎週誘われる様に成りました。それも、同室の矢田貝さんからなので、困ってしまいました。その内、聖書を貰い、集会に、毎週、毎週、誘われるは、して私の方が、根負けして、とうとう、矢田貝さんに、恩に着せる様にして、「それでは、今回―回切りですよ」と言って、2月20日の風も無く晴天の小春日よりの、暖かい日に横田正義先生と、7人で、芝生の上で車座に成って、座りました。其の時、「これから、始めましょう」と言って、横田先生より、20才位の若い女の方に「祈って下さい」と使命されました。すると、私は、「此の若い人は、きっと此の様な祈りをするだろう」と思って居ました。

「神様、どうか、この私を1日でも早く、病をいやして、一般社会に出して下さい」と祈るのだろうなーと、私は、思って居ました。処が、山下さんの祈りは。「ござい天の父成る神様、今日は此の様な、良い天気を与えて、聖書の勉強が、出来ます事を、有難うございます」と。此の祈りを聞いて、私は、びっくりしました。祈りには、こんな祈りも、あるんだと。びっくりして、此の時、神の愛が、私の中に入り、キリスト様の愛に捕らえられ、私は、もう、此の愛に捕らえてから、逃げ出す事が、出来なく成ってしまったのです。

   そして私の信仰生活を始めさせて下さったのです。初代キリスト教会の様に、私には「キリスト、救い主、イエス、神我らと共に居ます」を伝道出来ません。なぜなら私の行いが悪いからです。私はパチンコは行なうはタバコは吸うはで、人の模範には成らないからです。しかし、キリスト様は違います。(私の名に寄って求める何でも与えられます)と、聖書には書いてあります。それも私の名に寄って求めるものにはとイエス・キリスト様は言われるのです。キリストとの話し合いは祈ることです。

(あお福音ルーテル教会の会員、定年退職した小林慶喜の証し、2002年11月)


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