心のいやし

 多くの教会を訪れる人の質問は「人に見捨てられて、家でさえ理解してもらえない傷をキリスト教が癒すことが出来ますか。どうしたら良いのでしょうか」と言います。基本的な答えは「たとえ人に見捨てられても神様に一切見捨てられる事がありません。たとい社会の中に役に立つ場を失ったとしても、キリストの愛を示しつづける使命を誰も私達から取り除く事は出来ません」と言うことです。

 先ず神様に創られた私達は自分の性格や賜物や欠けている所まで神様から頂いたものです。たとい世界の全ての人が私達に「あなたはダメです」と言っても、それが暗闇から出る大きな嘘に過ぎないと反論すべきです。神様は私達の賜物を外の人に使えるために与えて下さいました。しかし、私達の欠けて所も(罪は別問題ですが)神様が決めて下さいました。何故かと言うと私達が外の人を必要とする為です。たとい多くの障害者が自分で殆ど何も出来ないとしても、彼らにすごく大切な役割があります。それは直に外の人を通しての神様の愛を受け入れて、その愛を主に感謝して、又愛を与えてくれる人の奉仕を感謝する、何とも言えない大切な使命です。ある25年位こうげん病で寝たきりの友達があります。彼女はずっと痛みと熱で悩まされていますが、その中に多くの人の世話を必要とします。それを神様の恵みとして受け入れて、感謝して、又神様に対する祈りの奉仕を続けています。

 第二には私達に罪があって、その罪の現実を認めながらも、その罪そのものは認めるべきものではありません。かえって憎むべきものです。しかし、主イエス・キリストの十字架の完全な愛のゆえに今日もその罪が全部赦されます。又大胆に父なる神様の一方的な愛を受け入れる事が出来ます。キリストの一方的な愛を受ける所に人に見捨てられる傷がいやされます。

ところで、人間は面白いもので、神様が与えて下さった性格を認めないで(すなわち人からどう見られても、神様から見られたら良くて素敵な性格です)、かえって自分の心にある罪(高ぶり、恨み、憎しみ、自己中心的なところなど)を止むを得ない欠点として認めてしまいます。そうすると自分の性格を生かさないで、かえって自分の罪を正当化して歪んだ結果になってしまいます。

 人に認められなくても、神様に認めて頂けます。性格は神様から頂いたよいものですから、それを変える必要はないし、変えては行けないのです。変えようとしたら罪を犯します。しかし自分の罪は神様に嫌われるものとして認めて、告白する所に完全な赦しと恵みが与えられます。神様に愛されている所に心の傷が癒されます。

 主の言葉:「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)


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