真の出会いはコミュニケーションから ブオッコ・バンスカ宣教師
家庭の人間関係を深めるためにさまざまのコミュニケーションはなくてはならないものです。4月17日の土曜日の午後、本教会では「家庭をより豊かに」と言うテーマで20人ほどの参加者といっしょにコミュニケーションについて考えました。「思ったより良かった。」と言う反応がありましたので欠点だらけの日本語で講演をした宣教師も励まされました。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』
(箴言27:17、新共同訳)家庭内の生活によって、それぞれの人間関係を通して私たちの我ままな生き方が明らかになりますし、性格のでこぼこが、研磨された鉄のようにつるつるとなります。言うまでもなく、研磨されるのは痛みをともないます。しかし人間として成長する為には、私たちは人と人との出会いや接することが必要です。家庭でも教会でも研磨される痛みは当たり前の事です。それを避けることは出来ません。
携帯電話がはやっているからといって、我々はコミュニケーションがうまくなったとは言えない。昨年7月31日の徳島新聞の自殺についての社説によると日本人のコミュニケーションの乏しさが、自殺大国の一因になっているそうです。コミュニケーションはそれほど重要な技能です。
コミュニケーションと言う言葉は広い意味があります。ただしゃべるという意味だけではありません。原語ラテン語のcommunicareと言う言葉の意味はつなぐ、ひとつにする、分かち合う、話し合うなどの意味が含まれています。あなたの家庭ではどのようにして話し合っていますか?どんな言葉遣いがされているのでしょうか?自分の意見や感想など正直に言葉で言い表せるでしょうか?自分を表現することは大切ですが、それより大切なのは互いに聞くことです。耳を二つ、口を一つ持っている理由は真剣に聞くことの重要性を表しているのではないでしょうか。聖書に書いてあるとおり、『喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。』(ローマ12:15)
コミュニケーションの輪
私たちは話を通して互いにコミュニケーションをしますが、言葉の役割は10%から20%にすぎません。言葉のない、無言のコミュニケーションは50%、声色の重要さは30%です。
無言のコミュニケーションはたとえば顔色、笑顔、怒った顔、抱き合う、 挨拶のやり方、服装などです。怒って、長い間黙っている人もいます。夫婦喧嘩で互いに話し合わないケースも珍しくはありません。それにしても、互いの感情、怒りなどを姿から読んでいます。
声色で相手の感じることがよく分かります。優しい声で話す時もあるし、厳しい、緊張した声で話しをする場合もあります。
無言と声色のコミュニケーションは80%以上でしたら、もうそれで十分通じるのでしょうか。とんでもありません。言葉を使ってコミュニケーションをしなければなりません。なぜかと言うと、無言の解釈を私達はよく間違ってしまうからです。
話し合いには五つのレベルがあります。