しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・(エペソ4:7〜10)
時たまには、クリスマスプレゼントのひもを解く時に心を痛める罪責感に襲われる事があります。こんなにたくさん、色々の良い物を受ける資格があるだろうかと言う心の責めです。始めのクリスマスに遠い東の国から来られた博士達のように、私も心のこもった、素晴らしい贈り物をイエス様ご自身に奉げるべきではないでしょうか。「受けるより与える方が幸い」とイエス様ご自身も教えられたでしょう。最後の審判の話しにイエス様はご自分にプレゼントを与える具体的な方法まで教えて下さったでしょう。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」とです。自分の時間、努力、お金、また福音の言葉を病人、囚人、貧乏人、障害者、子供などに与えると、イエス様は私からもクリスマスプレゼントを受けられるでしょう。しかし、多くの場合イエス様に何もあげないで、自分だけがプレゼントを頂くのは悲しい事実でしょう。
上記の聖書個所にパウロは数少ない強い一筆でクリスマス(イエス様の誕生)、イースター(十字架と復活)、昇天(イエス様が天に上られた事)、ペンテコステ(聖霊様が注がれた事)のメッセージをまとめます。それによると、イエス様が人間になられた事は私達からプレゼントを貰うより私達にたくさん与えるためでした。全てのクリスチャンに与えられているプレゼントは罪の赦しと救いの恵みです。キリスト様はそのプレゼントを恵みの量りにしただって与えて下さいます。イエス様はけちではありません。豊かに、溢れる程与えて下さいます。救いのプレゼントの他にあらゆる恵みの賜物を同じ基準で配って下さいます。キリスト様からの賜物の数と質はあまりにも大きいのです。又私達にはそれらを受ける資格はないにも関わらず、それらを受ける事が自由に出来ます。ですから、クリスマスに喜んでプレゼントを受けましょう。そして、頂いた喜びから今度罪悪感によってではなく、感謝の自由な心からイエス様の小さい者に私達のプレゼントを上げましょう。イエス様から頂いた物質的な恵みや霊的な恵みを他の人に分け与えるにしたがって、恵みが減るどころか、増える一方です。私達の小さい口を通しての福音の御言葉と愛の行為は人々に永遠の命を伝える事が出来ます。
イエス様は始めのクリスマスに地の一番低い所まで来られました。汚い馬小屋にお生まれになりました。同様にイエス様は今日も私達の汚い心に入られます。イエス様は十字架の道で私達の為にその尊い血を流して下さいました。だから今日もイエス様はその血によって私達の心をご自分の住まいとして清めて下さいます。
「高い所に上られた」とも書いてあります。その出来事をイエス様ご自身がその公の活動の最後の時に次の通り描写されました:
「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)イエス様は十字架に上げられて、墓を通って復活経由で天のみ国の栄光に上げられました。イエス様は十字架の福音によって今日も人を引っ張って、罪、死、悪魔の奴隷状態から自由、真理、愛の永遠の支配下に解放して下さいます。囚人を自由にすると同時に彼らにたくさんのプレゼントを分けて下さいます。その中に最も素晴らしいのは罪の赦しによる心の平安、真のクリスマスの平和です。また聖霊様をも私達にプレゼントとして与えて下さいます。主ご自身がクリスマスのプレゼントです。私達の心の中まで入ってくださる恵みは何という素晴らしい事でしょう。
しかし、主の恵みはこの地上に留まらないで、永遠の天国までのプレゼントです。イエス様は私達に対する意思を次の通りに言い表して下さいました:
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)
私達が主の栄光を見る、その時こそはプレゼントのプレゼントで、クリスマスの成就です。