私とキリストの出会い

   私とキリスト教との出会いは小学校1年の近くの教会での日曜学校に始まります。賛美歌を歌ったことやヨナの話の紙芝居を見たことなど今でも覚えています。しかし、教会に誘ってくれていた近所の女の子が引っ越すといかなくなってしまいました。
 その次の出会いは入学した高校がキリスト教のミッションスクールだったことで、週2回の礼拝と毎週1時間の聖書の時間を持ちました。しかし、自分に救いが必要だということを気づかせられることもなく、その上の大学までいきました。大学では一般教養科目としてキリスト教学が1コマあるだけで、強制されない礼拝に参加する人はほとんどいませんでした。そうして卒業しました。
 3度目の出会いは会社に入って2,3年後でした。サキソフォンをしていた私にトランペットを吹いている友人がいいました。「西宮のある教会で管弦楽団があるんだけど来ないか?普段なかなか音がだせないだろ?」近所から苦情が出るせいでサックスが思い切り吹けなくてたまっていたストレスを発散するためにその教会の管弦楽団の練習に毎週土曜日の晩に行くようになりました。しかしこれもその友人が引っ越してしまうと行かなくなってしまいました。
 そうしているうち聖書や仏教の入門書などを夜な夜な読むようになっていました。実は「なぜ生きているのか」という問いの答えが知りたかったのです。しかし自分で答えをだすまで特定の教団に所属しないつもりでした。また私にそういった集まりに来ないかと誘ってくれる人もありませんでした。答えのでないまま、時だけが過ぎていました。
 そのころたまたま韓国と韓国語に興味を持ち始めて韓国語の勉強のかたわら、韓国の人たちと韓国語で電子メールの文通するようになりました。そしてお互い相手の国に旅行するときは家に泊めてあげたり、案内をしてあげるという楽しい民間交流にいそしむ日々を過ごしていました。そんなとき私の恩人であるパクヨンス朴泳秀先生にであったのでした。朴先生が日本に来られたときに、私たちは政治や文化や国民の考え方について大いに語り合いました。お互い心を開いて語り合って朴先生さんはいよいよ私に救いが必要であるという思いを強くもたれたのだと思います。今度は韓国に是非来るように帰っていかれました。
 そして私が朴先生さんと再会したのが2000年の11月です。あちこち案内してくださり、おいしい物を食べさせてすっかり満足している私に、「今晩は私の兄が招待してくれているから、兄の家で食事をしましょう」といいました。楽しい語らいが終わったとき、テーブルが片付けられ、ただならぬ緊張感に満ちた雰囲気が漂いはじめました。と、朴先生のお兄さんが1つの冊子を私にみせて、今日はこの話をするためにきてもらったのだというようなことをおっしゃいました。その冊子はキャンパスクルセードが発行した「四つの法則」でした。神様が私たちを愛してくださっていること。私たちが罪を犯していること。キリストのみが私たちを救ってくださることが順番に説明されました。そして四つ目、私たちがキリストを受け入れないといけないことが説明されるときに、私たちの心を描いた図がありました。心の中心に「自我」がすわっている図と、心の中心に「キリスト」が座っているのを比較した図です。
 この瞬間、自分が求めていたものが何だったのか瞬間的にわかりました。しかし、たった一つ難関がありました。「信じるしか方法がないのか」ということでした。聖書の言葉はこれまでに何度も読んできましたが、究極はこの言葉を信じられるかどうかが問題です。事実、信じることができなかったので、何度も何度も何度も読んできたのでした。わたしは朴先生のお兄さんに聞きました。「信じるしかないのですか?」お兄さんは答えました「信じるしかない、信じるだけでよい」と自信をもって答えられました。私は決意しました。「信じます。」
 お兄さんは私に「信じた証に祈りなさい」とおっしゃいました。しかし私が、「何を祈っていいのかわからないから祈れない」というと、こうおっしゃいました。「あなたの自分の言葉で神様に話し掛ければいい」のだと・・・
 わたしは祈りました「神様、私は今日まで自分の欲のため、むなしい人生をおくってきました、しかし今、こんな生活にやめるためには、あなたを信じるしか方法がないと思い、信じることに決めました。私があなたを心から信じることができるように導いてください。」
 今から振り返れば、私に神の教えを伝えるために、まず、韓国語を学ばせ、つぎに韓国人のクリスチャンに出会わせた聖霊の働きを感じます。遠回りをしたにもかかわらず、これしか神様に出会う方法がなかったと思います。本当に神様のお計らいのに偉大さに胸をうたれます。そしていまこうしてここに立って話ができることを本当に喜んでいます。

(松本一朗、洗礼式の証
2001年4月1日)

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