イエス様の愛に出会って

 私の名前は岡村光子です。光子は光の子と書きます。イエス様を知らない父を通して神様が名づけてくれました。私の育った家庭は父母弟の4人家族でだれもイエス・キリストを知りませんでした。子どもの時から、すべてを創られた神様がいると、父が教えてくれました。その神は天から見下ろし、人の行いによって報酬を与え、悪い事をするとバツを与えるお方です。

 私は毎朝父と二人で神社までジョギングしました。太陽より早く起き、ちょうど神社に着く頃、日の出を見て手を合せます。「今日、一日いい事がありますように」と祈って拝みます。その後は神社にも手を合せて拝みます。帰り道、大きな木に向かって拝み、道端のお地蔵様にも拝みます。家に帰るとおトイレや台所や、部屋の隅にも神様がいて小さなおそなえをしています。神を怒らせないように気を配ります。ジョギングの後は、父の信じる「生長の家」の真相権を唱えてから、「体に神のよい霊が流れ入る、流れ入る」と唱えます。体はだんだん神のように清くなり、神が体に宿るといいます。そして恐ろしい事に、人間は神になると言います。子ども心に私は、人間になる神とは、どんな小さなものかと思いました。

 この「成長の家」の宗教は、あらゆる宗教を取り入れ、人間の都合のいいように教えています。神様は一つで、すべての宗教はいろんな方向から見て表現しているだから、正しいと言うのです。しかし、人間はすべて義人であり、罪がないといいます。そして日本の男性の多くは、「浮気は男の甲斐(がある証拠)」といって、平気で不倫をしたり、姦淫の罪を犯します。

 私は20年前にクリスチャンになり、20年間毎日、父母弟の救いを祈ってきました。聖書や御言葉カレンダーなど、いろいろプレゼントしたり、教会にも時々来てもらって福音を聞いてもらいました。しかし、両親はイエス・キリストを信じる事が出来ませんでした。(2005.3月)父は一年前急性肝臓癌になりました。(2005年秋)去年の秋の伝道集会にも来てくれました。しかし、信じる事が出来ませんでした。今年(2006年)になり、危篤にもなりました。少し良くなったりもしながら、どんどん体は動けなくなりました。「成長の家」で一番大事なことはすべてのことに感謝することです。痛みと苦しみの中で父は、不満とグチが多くなり、笑うことはほとんどなくなりました。

 父の顔から、平安は全くありませんでした。ピヒカラ先生も、病室へ何度も来て下さり、福音を語ってくれました。しかし、イエス様を受け入れることはできませんでした。「世界一のお父さんへ」と手紙を書きました。お父さん、愛してます。・・・イエス様に罪を悔い改め、救い主として受け入れて下さいと書きました。しかし、父は受け入れる事が出来ませんでした。

2006年 4月21日に父が亡くなりました。その3日前、やさしい父は私に「いい子だね」と言いました。私は父に「お父さんも、クリスチャンになる?」と聞きました。「もうとっくにクリスチャンだよ」と答えました。それは間違いです。罪を認めないクリスチャンはいません。

 亡くなる日の朝、イースターフェスティバルでクリスチャンは大忙しの日でしたが、牧師先生に電話をしたら、すぐに来てくれました。父にもう一度、福音を語ってくれました。そして、「渡部さん、イエス様は今も、死ぬ時も、その後も、ずっと一緒にいて下さいます。だから、さみしくないです。」と言ってくれました。そして、父のベッドの横で姉妹2人と4人で「いつくしみ深き」を賛美し、お祈りして、牧師先生たちは帰られました。私の母は「死ぬ人に向かって何ってことを言うんだろう」とつぶやきました。そしてその後、父は「成長の家」のメッセージテープを聞いていました。

 私はベッドの横で泣き叫ぶような気持ちで神様に祈り続けました。父は昏睡状態の中、死ぬ10分前に私に言いました。「イエス…おる」と。父は今、イエス様のもとにいると信じています。

 私が20年前に救われた時の証しをします。いつも両親から「努力しないと一人前にはなれない」と言われ、努力しただけ、人は価値あるものになると思っていました。努力すればするほど自分の無力さを感じ、自分はダメ人間だと思いました。そして価値のない人間だと思いました。17才の時、「あなたは声楽の才能がある。これはまれにみる才能です。オペラ歌手になれますよ。」と偉い先生に言われ、私は生まれて初めて自分の価値を見つけたような気がしました。無我夢中で勉強と練習に明け暮れました。一分一秒でも無駄にしないという勢いでした。しかし、なぜかだんだん心の中はさびしくて、大きな穴があいていて、風が通るようでした。ある時、鏡にうつった自分の顔を見て驚きました。私の顔はとても情けなく、大変困った顔でした。そんな頃、西洋音楽やパイプオルガン、ステンドガラスにあこがれて、キリスト教会へ行ってみました。

 教会は味わったことのない安らぎを感じました。しかし、牧師先生のお説教はいつも寝てしまいました。そんな私をクリスチャンたちは温かく受け入れてくれました。クリスチャンの人は愛にあふれていると思いました。しばらくするとクリスチャンの人は神様から無償の愛で愛されている存在だと思いました。何もしないで、立っているだけで、頭の先から足の先まで神様に愛されていると思いました。鼻水をティッシュで取ってポケットに入れる牧師がいました。その汚れたティッシュでさえ神様に愛され、愛らしく見えました。私もそんなふうに神様に愛されたいと思いました。イエス様にはじめてお祈りをしてみました。自分の事、友達の事、いろいろ祈ってみました。祈りはどんどんかなえられました。神様はいると思いました。祈りに答え、私と直接かかわってくれる神様でした。私が生まれる前から私を愛してくれていたことを知りました。ずっとずっと待っていて下さったこと。私の心はイエス様の愛で満たされました。十字架で私のために死なれたイエス様の愛の大きさを知りました。私は自分の事を愛することができるようになり、人のことも愛することができるようにかわりました。こうして主の十字架と復活のイエス様を知り救われましたが、その2ヶ月前に二つのチャレンジを受けました。

 人通りの多い道でアンケートに答えました。その彼女は私に「少し話を聞きに来て下さい」と困った顔で言うので、ついて行くと、ある会館で、世界には恵まれない人たちが多くいるので、一緒にボランティアをしましょう…ということでした。私は納得し、会費の一万円を渡して帰りました。私の生活費でした。寮でクリスチャンの友人にこのことを話しました。彼女は、それは文鮮明という教祖のいる宗教だと教えられ、それをやめることにしました。でも一万円は返してもらいたいと思いました。誰もが「それは無理、絶対返してくれない!!」と言いましたが、イエス様にお祈りながら電車にのって、その会館へ行きました。すると、40分待たされた後、彼女は一万円を返してくれました。このことはイエス様をまだよくわからなかった私にとって、とてもわかりやすい答えでした。

 次にエホバの証人です。大学のピアノの先生がエホバの証人でした。プライベートレッスンはわずか20分でしたが、3時間も私に話しました。私は半分信じて寮に帰り、そしてまたクリスチャンの友人に話しました。すると、それは異端で、まちがっているということを何人ものクリスチャンが私に説明してくれて、正しくないことがわかりました。こうして2つの宗教からものがれ、クリスチャンになりました。その後は、ピアノのレッスンで私が先生に伝道するようになりました。御言葉を書いた紙をいつも渡すと喜んでくれました。しかし、卒業するまでに先生はイエス様を受け入れることができませんでした。「神様の愛が少しわかったような気がする」と言ってくれました。卒業後3年目に1通の手紙が届きました。そのピアノの先生にレッスンを受けている彼女からです。彼女はクリスチャンでした。彼女が続けて伝道してくれていることを知り、神様の導きを知りました。

3年前にピヒカラ先生ご家族にお会いしました。日本人教会では感じなかった刺激を受けました。それは献身した人生、祈りの多さ、そしてフィンランドからの多くの祈りと献金に驚きました。フィンランドは天国に近い国だと思いました。フィンランドへ行ってみたい、何か日本にはない、信仰の強さがあると思いました。来てみてわかったことは、今までにない特別なことではありませんでした。

 それは一日に何度も罪赦され、義と認められていることにもどり、感謝をささげることでした。人間の黒い罪を、イエスの赤い血で真白に洗ってくれる…ことでした。ハレルヤ♪

万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。」ゼカリヤ2:8

(東福山ルーテル教会の岡村光子さんのハンナゴスペルのフィンランドツアーの証し
2007年5月15日)


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