信仰心とキリスト信仰
イースターの希望
イースターはクリスマスよりも大切なキリスト教の祭りです。春の3月が4月に毎年移動して世界的にお祝いされます。イエス様の復活の記念日ですから、復活祭とも呼ばれます。命の勝利を物語っています。十字架につけられて、死んで、墓に置かれたイエス・キリスト様が三日目に墓から甦って、死に打ち勝って、永遠の希望を与えて下さいます。だから、キリスト者にとって春は創造主でおられる父なる神様を誉め称える季節であり、又永遠の救いを備えて下さったイエス・キリスト様を賛美する希望に時期でもあります。主イエス様を受け入れる単純な信仰によって何とも言えない愛、恵み、希望に与るでしょう。
15歳の時にイエス様に出会って、天の御国を目指して歩んでいる幸いについて話をする時に未だクリスチャンではない方々の口から何回も次の言葉を聞いた事があります。
「信仰を持つのは本当にいいですね。」
信仰心とは
どう言う意味でそう言われたかと確かめてみると、「神々や仏様を信じたらいいですが、信仰心の薄い者ですから、どうも私には出来ません。もし出来たらあなたみたいに心の拠り所があっていいのに」と言うような返事が帰ってきます。
もう少し突っ込んで話を進めると、信仰って一体何なんだろうと言う定義の問題にぶつかります。小さい子供を嘘のような話でも安心させる事が出来ます。何故かと言うと大人の言う言葉を信頼して、大人そのものを頼りにするからです。一般的な宗教信仰にそう言う要素があるから、信仰を持つ人はある程度まで人よしのようなものでないとだめと言う考えが結構多いかと思います。もう一つの考えは、信仰が確かに(道徳的な、精神的な)力ですが、生まれつきのもので、ある人にはありますが、ある人々には無い性質です。又ある人々にとって信仰は実際に無いものを精神的な力で目の前に現れるようにさせる安心させる錯覚です。色々の修業や方法で自分の精神に宗教的な体験をさせて、そのような体験を安心の基にする作業のようなものです。
客観的な基盤
しかし、キリスト信仰の出発は決して人の体験でもなく、信じたい気持ちでもなく、宗教的な作業でもありません。キリスト信仰は歴史の中に起こった出来事を出発点にします。イエス・キリスト様が実際に2000年前にイスラエルと言う国に現れて、教えを広めただけではなく、身代わりとして人類の罪を全部を背負うって、十字架の上で酷い苦しみの末なくなられました。そして復活の体をもって三日目に墓から甦られました。それによって、全ての人々のために罪の赦しと死に打ち勝つ命を与えて下さいます。この事実があるから、イエス様は今も生きておられて、イエス様に実際に出会う事が未だに可能です。イエス・キリストご自身とその御業が先にあって、信仰はそれを作る訳ではありません。信仰はこの人格的な方を受け入れて、その救いのプレゼントをただで頂くことに過ぎません。もし与えるプレゼントが無かったら、いくら信じても無駄です。パウロはその事を次のように言い表します:
「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリ15:16〜20)
信仰の定義
信仰は助けのない人が助ける事の出来るお方により頼むことです。罪深かい、有りのままの姿でイエス様に自分自身と自分の必要を任せる事です。父なる神様は罪深い、弱い、不敬虔な人々を受け入れて、キリスト様の十字架の苦しみと復活の勝利の故に彼らに義をプレゼントして下さいます。信仰はこの賜物を受け入れる空っぽの手です。信仰は神様の約束を信頼することです。信仰は乞食のように謙遜して主から助けを求める事です。信仰はイエス・キリスト様を主として認め、主の支配に従う心です。信仰は心を開いて主イエス・キリスト様を受け入れることです。
信仰の反対、不信仰は信仰に欠けている事ではありません。不信仰は自分自身、自分の可能性、能力、知恵、判断を信じることです。不信仰は自分の人生の指導権をあくまでも自分で握ることです。不信仰は自分で物事をすることです。不信仰は宗教的な超自然的な力(神々を含めて)を自分の益になるように利用する心です。
救いはイエス・キリスト様の死と復活の福音を信じる事によってしか与えられません。福音を信じる信仰は行いによらないで、イエス・キリスト様の御業をとその祝福を受け入れます。信仰によって人間は新しくされます。なざなら、イエス・キリスト御自身がその心に入って下さるからです。
活発な信仰
信仰の反対は自分自身を頼りにする行いだからといって、信仰は消極的に怠けると言う意味ではありません。信じたら全ての問題が自動的に解決されると言うようなものでもありません。自己中心的な生き方からキリスト様を中心とする生き方が信仰によって生まれます。電線を通して電気が流れると同様に、信仰によってキリスト様の人格的な命が活発的に働くようになります。信仰はキリスト様との交わりを保ちながら、問題や罪や苦難に直面することです。信仰は向かい風の時にもイエス様に従うことです。
信仰から生まれる生き方にはこの地上には戦いと重荷も含まれますが、主イエス様との歩みですから、その重荷も主の力で負う事が出来ます。信仰は神様の御言葉である聖書を通して生まれます。イエス様の言葉の真実性そのものが心を打って、信仰を与えて下さいます。ですから復活のイエス・キリスト様の御声に耳を傾けようではありませんか。
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