みことばに導かれて洗礼を
僕は小さい頃から体が弱くて熱を出してはよく病院にいったりしていましたが、1才の頃に医者からもう助からないかもしれないというような大病をし、その時は奇跡的に助かりました。
その後も入退院の来る返しで親に心配ばかりかけていました。
その後、僕が5才の頃、看病に疲れていた母は聖書のみことばに導かれて教会へ行くようになり、その後2年位して洗礼をうけました。
その影響で僕も教会へ行くようになりました。
その当時はどちらかというと教会へ話を聞きに行くというよりも遊びに行っているような感じでしたが、イエス様の話を聞いたり、みことばカードをもらったりして、今思うとその学びは無駄になりませんでした。
その後いろいろありましたが、仕事にいきづまっている時、どうしようもな時に子安先生が僕の悩みをきいてくれたり、聖書の話とか生きるうえでの大切な話をしてくれ、僕の心をひらいてくれました。
その後、先生のすすめで聖書研究会に行くようになりました。
そして、学びや交わりをとおしてしだいに神様を求める気持ちが強くなりました。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリ4:8〜9)このみことばが僕をはげましてくれました。
その後、礼拝に行くようになり、また、分からない所があったら子安先生や他の兄弟姉妹や母にきいたり、聖書や聖書に関するいろいろの本をよんだりして、しだいに神様を信じられるようになりました。
神様を信じる前の僕はどちらかというと消極的で人と交わるのが苦手だったのがだれとでも心をひらいて話せるようになりました。
「 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリ4:18)このみことばによって僕の価値観もかわりました。
僕は今人生の大きな岐路にたっていますが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ2:28)
このみことばを信じて神様にすべてゆだねて生きていきたいと思います。
(東福山ルーテル教会の上野谷清の証し、2002年8月4日の洗礼の際)
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