フィンランドでの証
私の名前は渡辺章子です。ピヒカラ先生は、フィンランドは日本の隣の隣の国だといわれますが、自分がこんなに遠い北の国に本当に来ることができてうれしく思っています。家族は主人と今回一緒に来た11歳の娘との3人家族です。
いつも先生からフィンランドのミッションフレンドが日本のために祈ってくださっていることをお聞きしていました。アジアの東のはずれの小さな国のためにお祈りくださって本当にありがとうございます。皆様の祈りによって、宣教師が送られ、私たちの住んでいるところにも福音が届けられ、信じる人が与えられ、今こうして皆様の前であかしをさせていただくことができることは、神様のわざであると思っています。
私はいまから約20年前、1987年に洗礼を受けました。当時はまだ結婚していませんでした。日本の一般的な家庭で育ちましたので、家は一応は仏教ですが、熱心な仏教徒ではなく、宗教には厳しくない家庭でした。しかし、お正月に神社へお参りに行ったり、お盆にはお墓参りをしたり、中国から来た占いに興味をもったり、たくさんの偶像に囲まれた環境でした。
洗礼を受けたきっかけは、教会の近くに住んでいたので、そこで開かれていた英語教室にいったことでした。英語クラスの最後には聖書のお話がありましたが、ミッションスクール出身だったので抵抗なくお話を聞いていました。私はそのころ独身で仕事をしていました。時間もお金もある程度自分で自由になり、友人もいて、健康で、と何不自由のない生活でしたが、なぜか心は大変疲れていました。自分でもその理由は分かりませんでしたが、このまま長い人生を生きていくのはつらいことだなと思っていました。また、お話のなかで人間には生まれながらの罪があるということを聞きました。私は、生まれながらの罪というよりも自分が人に対して抱いていたねたむ気持ち、嫉妬心、不平や不満、という罪の心に気がついて自分自身のことがいやになっていました。
詩篇32:3に
「私は黙っていた時には一日中うめいて私の骨骨は疲れ果てました。それは御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏の日照りで乾ききったからです。」という箇所がありました。ここを読んだとき、これは私のことだと思い、驚きました。私が神様に隠していた罪が私の両肩に重くのしかかっていたのだと重いました。
自分の罪がそう簡単に許されるとは思えませんでしたが、イエスキリストを信じるだけでどんな罪も赦されるという話を聞き、本当かな、そんなに簡単に赦してもらえるのかなと疑う気持ちと同時に、第二コリント5:17の
「だれでもキリストのうちにあるならその人はあたらしく造られたものです。古いものは過去って見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばに強く惹かれ、洗礼を受ける決心をしました。日本では、キリスト教の洗礼を受ける時、家族の強い反対にあうことがあります。私は、幸いにもあまり反対は受けませんでした。その後、両親も時々教会へ行くようになり、父は長い間洗礼を受けないまま礼拝に参加していましたが、昨年のクリスマスについにピヒカラ先生に洗礼を授けていただきました。
今でも時々不安になったり、気持ちが疲れたりすることはありますが、どんなことも主にまかせることができるようになって、心がとても軽くなり、いつまでも暗い気持ちでいることがなくなりました。それはやはり私たちは最終的にはすばらしい天の御国でイエス様と永遠にいられるという希望があるからだと思います。
これからも先のことを思い煩わないでイエスキリストの光の中を歩みたいと思っています。
(東福山ルーテル教会の渡辺章子さんのハンナゴスペルのフィンランドツアーの証し
2007年5月)
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