緒論
書名とヨブ
本書の書名は、この書の主人公、ヨブの名をとってつけられている。本書は、「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という命題をテーマにした書物である。
本書は叙事詩劇の形式によって記されている。ヨブがウツの地(現在のアラブ半島の北側)の人であること(1:1)、災害がシェバ人やカルデヤ人によってもたらされたこと(1:15〜17)、ヨブの娘たちに関する言及やヨブが百四十歳まで生きたこと(42:14〜17)などの記事は、ヨブが歴史上実在した人物であることを示唆している。
ヨブは長命で(42:16)、家族の中で祭司の役目を呆たしていた(1:5)。また、律法や様々の宗教上の規定や預言者の教えなどには拘束されておらず、単純な生活様式を持っていた。以上のようなことから、多くの者が、ヨブは族長時代に生きていた、と考える。
著者と成立過程
ヨブが族長時代の人物であって、アブラハムの同年代と思われます。本書の中に読み書きを三回も指しますから(13:26,19:23,31:35)、ヨブ自信が書かれたと考えられます。本書自体の中に、著者や著作年代を暗示する個所はなく、決定的なことを言うことはできないがソドマの破壊などは出ないから、前2068年以前に書かれたと思われます。ヨブ記に高度な文学形態、力強く壮麗な表現力、自然や人生に対する深い洞察力などが見られます。
内容とメッセージ
本書は、序論、問題提起、(1,2章)、本論、論争による問題の展開、(3:1〜42:6)、結論、問題の結末(42:7以下)という叙事詩劇の形式によって記されている。
1、2章は、3章以下で展開される論争の序論で、事の起こりが散文体で記されている。ヨブは神を恐れる正しい人であったが、サタンの挑戦によって、神の許したもう試練に会い、家族や財産を一瞬にして失う。しかし、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白し、罪を犯さなかった。
3:1〜42:6は詩文による本論で、友人とヨブの論争(3:1〜26章)、ヨブの独白(27〜31章)、エリフの論述(32ー37章)、主とヨブとの対話(38〜42:6)に分解される。
友人とヨブの論争は、ヨブが生まれた日をのろうところから始まる。
友人との論争が一段落したところで、ヨブの独白が続く(27〜31章)。ヨブは、友人に対して、「あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない」(27:5)と言い、自らの高潔を強く主張する(31章)。
次に、ヨブと友人の論争を聞いていた若者エリフが発言する(32〜37章)。神は人を訓練する崇高なお方である。人は神を理解することができないのだから、自らを賢いとせず、力と公正と正義の神を恐れよ、と。
最後に神ご自身がヨブに語りかけられる(38〜41章)。神はヨブの質問に直接には答えられない。むしろ、創造と摂理の中で、偉大な『知恵と力を示す神を認識せよと迫り、「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(40:8)と言われる。ヨブは、神の啓示を受け、悔い改めて神の前にひれ伏す(42:1〜6)。
42:7〜17は結論の部分で、事の結末が散文で記されている。神は、悔い改めたヨブに、二倍の祝福をもって報いられる。
人生に苦難は付き物である。ある場合、それは人問の罪の結果である。したがって、ヨブの友人たちの主張が全く誤っていたというわけではない。彼らの誤りは、不幸の背後には必ず罪があると考えたことにある。神は、ヨブの信仰を試すためにサタンの活動を計容された、という天上の光景を(1、2章)、ヨブには啓示されなかった。むしろ、神ご自身がいかなる方かを示し、無条件で御前にひれ伏すことを求められた。これが信仰である。ヨブは依然として、苦悩の原因について知ることはできなかったが、ヨ私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この日であなたを見ました』(42:5)と告白することができたのである。
ここに一切の問題解決のかぎがある。人生の問題は結局、神理解に帰着する。世界の創造者なる方だその絶対的な力と知恵をもって私たちの歩みの一切を支配し、ただ最善のみをなしてくださると信じるなら、他にいかなる説明が必要であろうか。
梗概
1 序論(問題提起) 1:1〜2:13
a ヨブの紹介 1:1〜5
b 一回目の試練 1:6〜22
c 二回目の試練 2:1〜10
d 三人の友人の訪問 2:11〜13
2 二友人との論争(その一) 3:1〜14:22
a ヨブの独白 3:1〜26
b エリファズの一回目の論述 4:1〜5:27
c ヨブの答え 6:1〜7:21
d ビルダデの一回目の論述 8:1〜22
e ヨブの答え 9:1〜10:22
f ツォファルの一回目の論述 11:1〜20
g ヨブの答え 12:1〜14:22
3 友人との論争(その二) 15:1〜21:34
a エリファズの二回目の論述 15:1〜35
b ヨブの答え 16:1〜17:16
c ビルダデの二回目の論述 18:1〜21
d ヨブの答え 19:1〜29
e ツオファルの二回目の論述 20:1〜29
f ヨブの答え 21:1〜34
4 友人との論争(その三) 22:1〜26:14
a エリファズの三回目の論述 22:1〜30
b ヨブの答え 23:1〜24:25
c ピルダデの三回目の論述 25:1〜6
d ヨブの答え 26:1〜14
5 ヨブの独白 27:1〜31:40
a 潔白の主張 27:1〜23
b 知恵の賛歌 28:1〜28
c 昔の日の回顧 29:1〜25
d 現在の状態に対する嘆き 30:1〜31
e 神ヘの挑戦 31:1〜40
6 エリフの論述 32:1〜37:24
7 主とヨブとの対話 38:1〜42:6
a 主の一回目の論述 38:1〜40:2
b ヨブの答え 40:3〜5
c 主の二回目の論述 40:6〜41:34
d ヨブの答え 42:1〜6
8 結論(問題の結末) 42:7〜17
神様の人ヨブ
ヨブ…人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(1:1)
ヨブ記は聖書の中に特別に魅力のある書です。1節のヨブについての描写は素晴らしいです。それは神様御自身がヨブについての評価でもありました。1〜2章の中に三回も繰り返されます。(1:1,8;2:3)神様はヨブを義と見とめて下さいました。
ヨブの環境はその後で描写されますが、それらは二次的な事であって、神様の御前で歩んで、神様の交わりの内に生きていた事はポイントです。神様を恐れかしこむ姿勢は罪を憎む形で現れます。
ヨブの苦しみの理由
ヨブ記全体が理解するために1章1節を頭に置いておく必要があります。ヨブが直面した苦しみと試練の理由は彼自身になかったのです。彼の苦しみは自分の罪のためのものではなかったものです。罪から清められる懲らしめでもなかったのです。この神様が義と認められた正しい人の心は天国と地獄の間の戦場になりました。サタンの悪巧みな嘘はヨブの苦しみによって直面されて、又打ち破られました。長い間ヨブ自身も、その友達も彼の苦しみの理由を理解する事が出来ませんでした。
ヨブ記を読む人にその理由が1章と2章に明らかにされています。サタンは神様に質問をして、そして神様はそれに答えて下さいました。ヨブの神様に対する忠実さを立証するためにそのすべての苦しみが必要でした。その苦しみを通って、ヨブの信仰の純粋さは試されて、又サタンの嘘が暴露されました。
ヨブも含めて、神様の忠実な僕達の苦しみは彼ら自身が理解できる遥かに大きな意味がある場合があります。神様の天のみ国に着いたら、私たちは素晴らしい驚きの事を見る事になうでしょう。
ヨブ記の今日的な意味
ヨブ記の初めからヨブの苦しみの理由が明らかにされているにもかかわらず、現代の人間は必ずしもその答えで満足するとは限りません。その理由は理解出来ない訳でもありません。神様の本質とサタンの存在、又その互いの関係に私たちに理解出来ない部分が未だ多いからです。神様はそれを私たちに啓示されなかったからです。なぜかというと、この地上でそれらの事が私たちに理解出来ないからです。しかし、ヨブ記に神様が与えて下さった答えはヨブの苦しみの十分な説明です。ヨブとその友達の話し合いは苦しみが起こした純粋で本当の問題を描写します。苦しみの問題で私たちも大いに悩むその問題が浮き彫りになります。
ですから、ヨブ記とその話し会いは私たちにとって必要なものです。苦しみにぶつかったら、どのような問題が出るかと教えてくれるし、又十字架の苦しみの中に現れたイエス・キリストから出る答えを受け入れるように私たちの心の準備をします。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
私自身もクリスチャン生活の中に色々の苦難や戦いに遭って来ました。例えば20歳の時に心臓病で死にそうになり、1年入院して来ました。海外伝道にあらゆる人間関係におけるトラブルに遭って来ました。娘の生まれつきの脳障害とその結果としての事故や身体障害。もう一人の娘の分裂病。親しい親戚の自殺。妻の長い失業。親しい人々の離婚など。このような試練が次々私たちの家族を襲った頃、何人かのクリスチャンの方から次の質問にあった事があります:「もしかしたらサタンがあなた方を攻撃して、あなたがたが海外伝道が出来ないように妨げようとしているのではないか」と。
私にはこれらの体験を一々説明するすべがありませんが、ヨブ記の答えは明確です。たとい、私たちの経験する苦難がサタンから出たとしても、私たちはそれらをすべて主のみ手から受ける事が出来ます。ヨブもそうでした:
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
神様御自身を知る事で、神様の賜物ではない
ヨブは苦しみの中にも神様への信仰と忠実さを失わなかった理由は、彼の信仰は神様から頂いた賜物によらないで、神様御自身を知る事によるものだったからです。苦しみを通って彼の信仰が遥かに高いレベルに成長していきました。
しかし、苦しみの中にヨブは純粋な人間である事も明確になりました。彼は強い意志の力で苦しみを何でもないように通り過ぎた鉄人ではなかったのです。この面でもヨブはイエス様のひな形です。父なる神様がその独り子をお見捨てになった十字架の苦難の中にイエス様は極端な苦しみを終わりまで体験しながら
「我が神、我が神、どうして私を見捨てられたか」と叫ばれなければならなかったのです。
ヨブが失ったもの
ヨブが多くの物事を失いました。先ず第一に財産と子供たちに奪われました。社会的に認められた地位や多くの友達を失いました。そして耐えられない肉体的な痛みで、健康を失いました。その上、その妻の支援も失いました。「神様を呪って、自殺しなさい」と言う進めの理由は彼女がヨブの苦しみに耐えられなかった事でした。(この頃の安楽死問題は古い課題です!)妻の信仰が崩れました。又その一番の友達の理解と支援も失いました。彼らは確かに彼を慰める為にやってきましたが、結局彼を攻める側に回ってしまいました。とうとう神様の正しさと公平性を疑うことに至りましたが、最後まで神様御自身を信じる信仰を失うことはありませんでした。
苦しみの棘は理解出来ない体験状態です
苦しみの中から出た話の中にヨブは、神様に向かった凄い怒りと憤りをぶつかります。それは、彼が自分が苦しめなければならない理由が見えなかったからです。彼の言葉は噴火する火山のように神様に向かって爆発して来ます。しかし、そのすべての中に彼はあくまでも正直でした。それに、彼は自分の苦しみと感情を全部神様の前に、神様に向かって打ち明けました。後で、自分の話が理解していない、愚かなものだった事を認めなければならなかったが、彼は最後まで神様から離れようとはしなかったのです。
神様は私たちの正直な爆発や激しい感情に耐えるお方です
神様は今日も私たちの最も激しい憤りや苦しみの訴えに耐えるお方です。しかし、それは純粋で正直なものであるべきです。私たちが神様のよい事やその正しさを疑っている事を正直に語ったら、聞いて下さいます。しかし、真実を語らなければならないのです。
サタンの嘘はヨブの真実によって打ち破られました。神様にとって私たちの嘘ほど忌み嫌われるものがないのです。もしあなたは、その疑いや心の苦難の中に神様のみ顔の前に留まるなら、あなたの信仰が保たれるだけではなく、深まって行きます。
間違った態度でカウンセリングをするのは罪です
ヨブの友達が彼の激しい言葉で、神様の為に憤りを感じた事は結局偽善的なものでした。確かに彼らの語った事は殆ど全部真実でした。しかし、問題は彼らがヨブに語ろうとする真実はヨブの本当の状況に当てはまるものではなかった事でした。彼らのもともとの動機はよかったですが、結果として彼らは神様の事を曲げて伝えて、神様の本当の姿をぼかしてしまいました。それで、彼らはヨブの苦しみを増やしてしまいました。彼らはヨブに対しても、神様に対しても罪を犯しました。
神様の答え
最後にヨブは神様の声を聞く事が出来ました。そして、彼は謙遜して、神様のやり方が分からなくても神様の偉大さ、正義を認めました。
神様の計画を曲げた友達の罪が赦されるためのささげ物を行った時に、神様はヨブの運命を変えて下さいました。こうして、ヨブの苦しみは、その宗教熱心さの中にも迷ってしまった友達の救いになりました。ヨブの苦しみと神様の前に謙遜した事は友達の罪の赦しの道にもなりました。彼らは神様と正しい関係に導く手段になりました。ここではヨブの苦しみはイエス様の苦しみのひな形です。
ヨブの受けた二倍の祝福はイエス様の十字架によって私たちに与える天のみ国の恵みの絵でもあります。又その中に復活の信仰も隠れた形で見えます。と言うのは、財産は倍になりましたが、新しく与えられた子供の数は以前と同じでした。それはもう既に亡くなった子供たちは神様の許に生きていたからです。
- ヨブ記が提供する質問
- ヨブの苦しみは彼の心の中に次のような質もを起こしました:
- 何故?どうして神様は私にこんな事をさせますか。(3:23)
- 人生の空しさの感じ。(7:1,7;14:1〜2)
- 正しい良心があるにもかかわらず、出てくる罪意識。(7:17,21;14:4;27:5〜6)
- 神様と人間の間の仲介者はどこから見つかるでしょうか。(9:33)
- 死には一体何が起こりますか。(14:10,14;19:25〜27)
- 不正の問題(16:19間違った訴えに対する証人は天国にいます;21:16不敬虔な人は何故栄えますか。彼らは確かに裁かれますが、敬虔な人はどうして苦しまなければならないのか。21:1何故正しい裁きを今すぐ受けられないのか。)
- 神様の所へどのように行けますか。(23:3)
- 神様はどうして黙っておられますか。(30:20;31:35)
ヨブ記にある神様の答え
- 私たちは自分の理解力の限界を認めなければなりません。神様はなんと言う偉大な方でしょう。(38:2〜5)神様は全知全能です。(39:35;40:2)
- ヨブはへりくだって、神様を創造主と全知として認めました。(40:1〜6)
- 神様ご自身はすべてのことにおいて十分です。(41:2)
- ヨブのへりくだり:神様に出会う事は十分です。答えは文章ではなく、私たちと共におられる人格的なお方です。
- ヨブの友達のための執り成しの祈り。
- 神様はヨブの運命を変えて下さいました。
神様のヨブに与えるイエス・キリストにあるる答え
- イエス様の言葉:「私は道であり、真理であり、命です。」イエス・キリストに私たちには豊かな命がありますが、イエス様と共に苦難もあります。
- 罪意識:イエス様の十字架の苦しみは十分です。
- イエス様は神様と人間の間の仲立ちです。
- イエス様は死の力に打ち勝ちました。
- イエス様は不正を自分自身に受け入れましたし、正しい裁きも与えて下さいます。
- イエス様は私たちの所に来られて、神様の許への道を開いて下さいました。
- 神様は十字架の苦難の中に黙っておられましたが、今ちょうどその事で語っておられます。
- イエス様の人格とイエス様のみ業はヨブの叫びに対する答えです。
- イエス様は多くの艱難を通して私たちを神様のみ国に導いて下さいます。
詳しい事
こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。(2:13)
ヨブが貧乏になり、社会的な地位を失ってから、殆どの友達も彼を去っていきましたが、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友達は互いに相談して、ヨブを慰めるためにやってきました。彼らより一回り若いエリフも彼らと一緒にヨブの所に来ました。ヨブの苦しみと病気は彼らの内に深い同情の気持ちを起こしました。彼らの涙はその友情の最高の印でした。
七日間彼らは完全な沈黙を守りながらヨブの傍らに座っていました。彼らはヨブが話しかけるまで何も話さなかったのは素晴らしい友情の証拠だったと思います。彼らのその同情でやっとヨブが話し出しました。言葉のない苦しみほど大変なものがありません。少しでも話せるようになると、苦しみもその分和らぐでしょう。彼らの沈黙のおかげで、やっとヨブが語り出しました。彼らの話はあくまでもヨブの話に対する応答でした。
何とかして、無理をしても、答えを与えようとするのは彼らの間違いでした。彼らの答えは狭過ぎる人生哲学から出たものでした。その中に確かに部分的な真実もありましたが、十分な、全体的な真理に欠けていました。しかし、彼らの答えようとする気持ちはヨブに対する友情から出ました。場合によって話そうとして、説明しようとする事よりただ黙って傍にいた方がよいのです。
ヨブの独白
その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。(3:1)
3章はヨブの苦しみの中から出た訴えで、何とかして苦しみの中から逃れようとする事です。自殺を指す様な言葉がないのに、凄い酷い話でした。生まれた日を呪って、もう既に死んでいたらよかったという内容です。又死をほめたたえて、美化します。なぜなら、死は苦しみからの解放の道だからだと。
私たちもこの点でヨブを戒めようとする側に回りやすいと思います。いのちは神様からの預かり物ですから、誕生を呪うべきではないと。確かに私たちの主張が論理的で正しいでしょう。しかし、そう言う前に先ずヨブの立場に立った方が得策です。又後で神様はヨブがその心の苦しみを訴える事に対して非難らしい言葉を一つも言われませんでした。心の苦しみを正直に神様に向かっても人に向かっても語る事は決して罪ではありません。痛みや苦しみを心に抑え込むよりそれを分かち会う方が遥かによい事です。
ヨブの苦しみはその時にその理由が彼に分からなくても、神様と協力する事だったことも覚える必要があります。
エリファズの一回目の論述
人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。(4:17〜18)
ヨブの友達の話を読む時に、その内容とヨブに対して何の助けにもならなかった事を明確に区別しなければなりません。彼らは人間としてとてもよい人々で、又沢山の知恵を持っていました。彼らの言った内容には非難できる所がないと言っても言い過ぎではありません。それにしても、彼らが知らない事が一杯ありました。彼らの哲学の中にヨブの苦しみがどうしても入れませんでした。彼らの間違いは自分にも理解出来ない事を説明しようとする所にありました。
上記のエリファズの言葉にも深い真実があります。神様は余りにも偉大なお方で、最終的に御自身以外の何も信用できません。そのみ使いたちの知恵でも世界が支配できません。人間が自分のままに神様の御前に立つ事が出来ない事においても彼の考えが正しかったです。しかし、神様御自身がキリストにあって人間を義と見なされるから、その義は神様にとって完全で、十分なものです。ヨブはちょうどその神様から頂いた義を持って、又それを知って、それを主張してきました。にもかかわらず、キリストにあって義と認められた人も苦しみを経験しなければなりません。
ヨブの苦しみの原因がその罪にあったと言うエリファズの主張は全く間違っていました。神様は確かに罪を罰しますが、ヨブの苦しみはそのためのものではありませんでした。何故かと言うと、ヨブは神様御自身が義と認めてくださったからです。神様と協力する苦しみはエリファズの考え方には入れませんでした。しかし、ちょうどそのような苦しみが彼の目の前に起こっていました。
ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。(5:17)
エリファズには苦しみの問題にもう一つの説明がありました。神様はその子を懲らしめて、彼らの生き方を直して導いて下さる事です。これは確かに素晴らしい事実です。
神様は確かにそのみ声に従わない者を訓戒して、そしてとても痛い方法でも清めて、「平安と義の実」を結ばせて下さいます。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」 (ヘブル12:5〜6、11)
神様の訓練は愛の印しですから、神様の凝らしめを受ける人は幸いです。
しかし、ヨブの場合全く別の理由で苦しみがやってきました。ヨブほど清められた人は地上になかったからです。ヨブの苦しみはサタンの嘘に打ち勝つためのもので、又神様が与えて下さった義が苦しみの中にも耐えるものとして証明されました。
ヨブの答え
ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。(6:8)
エリファズの話しはヨブの苦しみを増やす一方でした。友達にも理解してもらえなかったのです。苦しみをヨブの罪の結果として見ていたからです。ヨブ自身もその苦しみの原因が分からなかったにもかかわらず、彼らの答えが間違っている事が分かりました。彼の苦難は怒りに変わりました。友達の間違った判断による苦しみから、ヨブの口から出た言葉は非常に鋭いものでした。神様が彼自身を殺すように頼みました。
彼の気持ちに対して深い同情が出来ます。しかし、神様はその願いを聞き入れて下さったら、何という失敗に終わったでしょう。彼の死そのものは失敗ではなかったにもかかわらず、神様と協力する事が出来なくなった事になる危険があったのです。
正直な心から来るならば、苦しみみ、怒りも、死にたい気持ちも神様に対してぶつける事自体は罪ではありません。しかし、答えが与えられなくて、苦しみだけが続く時にはヨブの物語を思い起こした方がよいのです。最終的に答えが与えられます。そして、神様が決して私たちに対して無駄な事をさせません。
私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。(7:20)
ヨブの訴えは人生の無駄のようにストレスや悲惨さや実を結ばない努力に移ります。人間に何も足らないし、何も満足を与えないのです。絵から絵に移るとだんだんすべてが暗くなって、どこにも希望が見えません。一般的な惨めさを訴えるだけではなく、自分の言葉を直接神様に向けて投げ続けます。「それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。」(7:11)
しかし、神様に対するヨブの嘆きはどこまでも質問と言う形をとります。質問そのものはヨブが神様をその苦難の中にどう見ていたか描写しますが、彼の視野が随分曲がっていた事も事実です。質問と言う形はヨブ自身も自分の視力を疑っている証拠です。
ヨブの投げかけた質問は皆とても深くて重大なものばかりでした。全てに大きな素晴らしい答えも見つかります。もしヨブは私たちのようにその答えを主イエス・キリストの十字架と復活において見えたとしたら、きっと彼も驚いて賛美したに間違いはありません。
例えば上記の質問を見てみましょう。「神様が余りにも大きくて、もはや私たちの罪が神様に触る事はありえないでしょう。」 答えは、このような事は神様について余りにも小さすぎる考えです。かえって、私たちの罪が神様に影響して、神様に傷をつけて、神様から奪うものである事こそが神様の大きさや偉大さを語ります。ヨブの考えも、その友達と同様に狭すぎたのです。
ビルダデの一回目の論述
エリファズはヨブの友達の年長者でした。自分の経験に訴えて、全ての問題に答えを持っている主張をします。ビルダデはそんな自信がないから、父たちの知恵に訴えます。ツオファルは最も情熱的で、凄いストレートにヨブを攻めます。
神を敬わない者の望みは消えうせる。(8:13)
ビルダデの話し方はエリファズより直接的ですが、メッセージはほぼ同じです。ヨブを攻めるほどの言葉を使わないのですが、結論としてヨブが自分の罪を悔い改めるべきと言う事です。言われる事自体は確かに真実ですが、ヨブにはその話しは当てはまらなかったのです。
例えば、希望についてのビルダデの話は真実です。人間はその希望によって生きるのですが、間違った希望が絶望に終わる例は人生にはいくらでもあります。人々はその希望によって救われる事もあれば、その希望によって滅びる事もあります。決め手は、その希望の中身です。「神を敬わない者の望みは消えうせます」が、神様にその希望を置いた人間は完全な救いを見るでしょう。
ヨブの答え
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(9:33)
ビルダデに対する答えにヨブは彼の一般的な主張に賛成しますが、そして質もをします: 「どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」(9:2) この質問は罪意識の現われよりも、自分の小ささと無知を認める疑問でした。彼は人間がどのように神様の前に義とされるかと言う事ではありませんでした。かえって、神様の前に自分がもう既に正しいと言う事をどう証明したらよいかという疑問でした。
ヨブは神様の大きさ、偉大さ、無限性、見えない性質、全ての上におられる事を描写しながら、人間の立場は神様の前に全く絶望的です。その中から人間の最も深い必要を表す叫びが出てきます: 「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」
ヨブが語ってくれた意味よりもっと深い意味で、これこそ人間の必要です。人間は罪の赦しと清くされる義を必要とします。それによって人間はヨブの願っている形で神様の所へ行けて、又神様が人間の所へ行く事が出来ます。それで、互いが理解し合って話し合う関係が成立します。
私たちの感謝に満ちた考えは言うまでもなく、十字架の主イエス・キリストの所に行きます。イエス様はその大きな仲立ちで、仲介者です。イエス様はその片手を父なる神様の肩において、片手を人間の肩の上に置きます。イエス・キリストにあって私たちには恵みへの道が開かれました。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは義と認められています。
私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。(10:20)
神様の所へ行く事が出来ないと感じるヨブは結局その大きな苦難の中に神様の方向に向かいます。彼の訴えは絶望的ですが、その対象はやはり神様御自身です。彼の全ての苦しみの原因は神様御自身にあると主張して、神様が彼の苦しみを楽しんだかと言うほどの訴えをして、少しの間でも神様が彼から離れるように頼みます。
ヨブの言った事は内容的に間違っていたにもかかわらず、そこに何の道徳的な罪がなかったのです。自分の気持ちを全く正直に神様に語ったからです。前にも言ったように神様はその事に対して何一つ責めの言葉も語らなかったのです。
ヨブの苦しみの一番深いところの一つはちょうど神様の公平さ、正しさに対する疑問にありました。神様が彼の願いに答えなかった事は恵みでした。
ツォファルの一回目の論述
あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。(11:7)
ツォファルの主張は前の二人と基本的に同じです。彼によるとヨブの苦しみはその自分に分からない罪に結果だと言う事でした。
(神様が主イエス・キリストの十字架のゆえに悔い改める人間の罪を赦す時に部分的な赦しではなく、完全な赦しを与えて下さいます。すなわち、過去の忘れた罪も、意識していない罪もいっぺんで取り除いて、赦して下さいます。)
ヨブは確かに神様の知恵を認めましたが、それにしても、神様の知恵に疑問をかけています。だから、ツォファルは神様の知恵についてとても綺麗に語ります。言われた事は真実ですが、その結論は間違っていました。
人間は(ツォファルもヨブも含めて)神様を完全に知る事が出来ません。ヨブの立場の人にも、ツォファルの立場の人にもこの真実から適用があります。苦しんでいる人の苦しみがずっと続いていても、神様はその意味が知っておられます。その知識の中に苦しんでいる人に平安が与えられます。その反面に苦しんでいる人を助けようとする人もその解釈や意見において慎重な姿勢を持つべきです。
ヨブの答え
すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。(12:10)
一回目の会話の後のヨブは3人に向かって皮肉たっぷりで答えて、一貫して彼らの主張と攻めを否定します。彼らの教えそのものに彼も賛成しますが、彼らよりももっと知恵を持っていると主張します。
10節の言葉はヨブの深い信仰と神様についての知識を表します。命は全て、人間の命も、動物の命も、植物の命も、神様に支えられています。神様の支配の下から逃げる道がありません。このような知識は神様に対する恐れかしこむ姿勢を生みながら、助けのない気持ちも起こします。しかし、神様の心はどんなものか分からない限り、この知識には何の慰めもありません。
ヨブの知識は部分的だったから、この大きな真実は彼に何の慰めにもなりませんでした。しかし、この真実を覚えるのはとても大切です。それによって私たちは神様に対する積極的な謀反から守られるからです。神様の大きさと偉大さが分かると神様を恐れかしこむ姿勢こそが知恵だと認めます。
しかし、私たちが主イエス・キリスト様を通して、父なる神様の愛の深さを知るようになると、その全知と全能はもっとも厳しい状況の中にも何という慰めになるでしょう。
神様についての最も大切な質問は「神様は何が出来ますか」と言う問いではありません。もっとも大切な質問は「神様はどのようなお方でしょうか、どんな心を持つでしょうか」と言う問いです。その答えはイエス・キリストにしかありません。
神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。(13:8)
ヨブの訴えは神様の方向からその友達に向かいます。彼らを非常に強く非難します。彼らが神様について間違って語ったからです。
ヨブはこの点で正しかったと思われます。神様を間違って弁明するのは私たちにもありうる事です。証しの中に事実以上に神様の栄光に語ったら、そのような証しは無意味です。又、人にたいして不公平な事で神様を弁明出来ません。だあら、苦しんでいる人に説明しようとするより黙って一緒にいた方が得策です。神様が正しくて、よいお方でおられる事を言うだけで十分です。神様は一切間違いをなさいません。間違った説明は苦しんでいる人に対する罪です。
人が死ぬと、生き返るでしょうか。(14:14)
この言葉はその文脈の中に読まなければなりません。ヨブは直接神様に向かって訴えます。人生ははかなくて、悲しみの多いものとして描写されます。そして、暗くて奥義に満ちた死がやってきます。「しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(14:10)
倒された木から又新しい根は生えてきますが、人間には希望がないのです。この暗い考えは一時的にヨブに希望を起こします。それは質問という形で出てきます:
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」
この質問は間もなく絶望に飲み込まれますが、人間の本当の性質は彼が苦しみの中に問いかけていす質問の中に明らかになります。死の問題に主イエス・キリストの復活以外に何の答えもありません。「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」(2テモテ1:10)
エリファズの二回目の論述
彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、その腹は欺きの備えをしている。(15:35)
第二ラウンドで三人の友達のメッセージは変わりませんが、話し方は益々攻撃的な方向に移ります。ヨブを直接の攻めます。
このエリファズの話しそのものは神様に対して罪を犯す人間の愚かさの鋭い描写です。しかし、ヨブはその話しに該当する人ではなかったのす。
ヨブの答え
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。(16:19)
友達に対するヨブの忍耐が終わりかけてきます。彼の心が益々暗くなる一方です。「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。」(16:9)「神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」(16:11) それにしても、ヨブは光の方向を探し続けています:「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(16:19) 彼は一歩ぐらい神様の計画を理解する方向に動き出した感じです。敵という言葉はサタンという言葉ではありませんが、私たちの最も恐ろしい敵は悪魔です。ヨブは神様が彼をサタンの手に任せた事を考え出します。この戦いの中にも神様は彼を完全に見ておられる信仰が疑いより高く上がります。
涙の目でヨブは神様を見て、人の前に神様から守りを求めます。すぐ又苦しみが彼を絶望に落としますが、彼の心の深い所に依然として神様を頼りにする信仰が残っている証拠です。
今私たちは主イエス・キリストの恵みの故に同じ言葉を確信を持って言えます。
私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。(17:15)
「しかし希望は間もなく消えてしまいます。もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、「おまえは私の父だ。」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹。」と言うのなら」(17:13〜14)はヨブの質問の背後です。死後のいのちへの希望がなくなりましたが、それと同時に彼の心の中に何かがこの絶望を抵抗しました。だから、彼の言葉は質問と言う形です。
ビルダデの二回目の論述
不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。(18:21)
ビルダデはヨブの言葉でけっこう起こってしまって、ヨブの言葉使いが神様の倫理的な秩序を脅かすようなものとして受け止めたからです。彼の間違った適用をおいておいて、彼のメッセージは悪の本質とその結果を明らかにする力強い描写です。
不正それを行う人が先ず自分自身の中にある光を消すところから始まります。しかし、彼自身の計画や企みは結局彼自身を滅ぼします。その人に至る道は死です。何の遺産も残さず、酷い死に方に終わってしまいます。
ヨブの答え
いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。(19:6)
ヨブの答えは益々絶望的になります。彼にとって一番苦しい事は、その苦難が神様によるものだと分かっても、そのような神様の働きに何の理由も分からなかったことでした。「惑わす」と翻訳されている言葉の元々の意味は「組み打ち、格闘、レスリング」です。ヨブは神様とレスリングをしていました。
しかし、この最も暗いところから光の線が出ました:「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」(19:25〜27)
最も激しい苦しみの内にもその苦しみを与えられた神様にかけるしかありませんでした。
ツオファルの二回目の論述
これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。(20:29)
怒ったツオファルはその答えには神様を無視する人間の運命を鋭く描写します。神様は正しい、義と認められた人にも苦しみを与えることは彼の狭い考え方には入れませんでした。だから、彼はヨブに対して無慈悲な態度をとって、ヨブの苦しみを増やし続けました。間違った適用をおいておけば、彼の罪の結果として生まれた苦しみの描写は正しかったです。
不正な人は確かに一時的に栄えるかもしれません。しかし、そのように得た物事を保つ事が出来ません。随分高い地位まで行けるかもしれませんが、とうとうそこから落ちるのは早いのです。とうとう神様は彼を裁かれます。彼は暗闇の中に終わってしまいます。
不正は、個人的なレベルでも、社会的なレベルでも愚かなものです。それを実施する人にその求めに答えられないからです。
ヨブの答え
どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。あなたがたの答えることは、ただ不信実だ。(21:34)
ヨブはその友達の慰めの無駄な事を明らかにします。彼らはヨブの苦しみを正しく説明出来なかったからです。しかし、彼自信の説明も物足らなかったのです。
自分の知っている範囲内に人を裁くのは愚かなことです。もしかしたら、私たちは一番大切な事を知らないかもしれません。パウロは裁きと復讐は神様に任せるべきだと主張しています:「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)
しかし間違った訴えに自分の間違った狭い考えで答えようとする事も同じぐらい愚かです。神様の計らいが分からないときに黙っていた方が知恵です。そのような静かさの中に私たちは神様の答えを待つ事が出来ます。
エリファズの三回目の論述
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。(22:21)
第三のラウンドに入ります。エリファズはヨブが犯したと思った罪を具体的に指摘して、攻撃します。それらは特に貧しい人に対する酷い罪でした。それらの攻めはエリファズの最も恐ろしい間違いで、又ヨブに対する明確な不正でもありました。そして、ヨブが神様と和解するように勧めます。この勧めをその間違った文脈から切り離せば、それは最も美しい悔い改めの勧めであり、又神様との和解が如何に大きな祝福をもたらす恵みかと巧みに語るメッセージです。
祝福を受けるため、又祝福を他の人に伝えるために、先ず神様を知る必要があります。人間的な知恵と罪は捨てるべきです。そうすれば祝福の道が開かれます:
「そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。
あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。」(22:25〜29)
エリファズがこれらの言葉を自分自身に適用してくれれば、彼自身も未だ神様の事を十分知らなかった事に気づいたに間違いないと思います。
ヨブの答え
しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:10)
神様との和解が攻められたヨブは人間の心の深い所からでる質問で答えます:「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」(23:3) 神様に向かってため息をして、そして裁き主としての神様に訴えました。神様の所にその訴えを提供するために行きたかったのですが、神様への道を何処でも見出せませんでした。
神様がそこに存在する事を感じながら、神様を左にも、右にも見る事が出来なかったのです。こうして、彼の嘆きの中に明確な信仰が潜んでいました。神様が彼の道を知っておられると主張しました。神様が彼に試練を与えたさえ言って、結果として彼が純粋な金のような存在だと言う事がその内に明らかになると言いました。
彼がずっと神様に対して忠実な歩みをして来たと繰り返します。しかし、すぐにもこの信仰に恐れと恐怖が混じってきます。神様の臨在は彼にとって恐ろしいものになっていたからです。彼を開放しようともなさらない神様を恐れていました。それにしても、ヨブの信仰は理性よりはるかに高いところまで及びました:神様は御存知です。神様はそのプロセスを進めて、とうとう黄金が現れて行きます。
最終的にヨブの叫びに対する答えはイエス様にあります:「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)イエス様を通して私たちは安心して父なる神様の許へ行けます。
なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。(24:1)
こんどヨブは個人的なレベルからもっと広い所から同じ問題を提供します。人々が殺人を犯したり、姦淫を犯したり、盗みをしたりする時に神様は一体何処におられますか。確かに悪どもは死んでしまうと彼も認めますが、何故生きているうちに余りにも成功して、栄えているでしょうか。どうして神様は彼らを放っておきますか。ヨブの社会観察は当たりますが、彼の結論は間違っていました。
何も起こらないと見えても神様はちゃんっと働いておられます。物事がどう見えるかと言う事に基盤を据える人生哲学は崩れてしまいます。信仰は未だ見えていない、しかし神様の約束によって実現する現実を頼りにします。
ピルダデの三回目の論述
主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。(25:2)
ビルダデの話しの短さそのものがメッセージを持ちます。ヨブはその友達を納得させる事が出来なくても、彼らを黙らす事で成功しました。彼はヨブの言っている一般的な事実を否定しなかったのですが、ヨブがそれらの事実を自分に適用する方法を認めませんでした。ヨブにも同じ問題がありました。
彼らの会話は多くの人間的な論議や議論の姿を現します。人々はその限られた知識に従って議論したりしますが、決して正しい結論に至りません。ですから、先ず自分の知識や経験の限界を認めるべきです。
ヨブの答え
見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。(26:14)
ヨブの答えは友達が何の助けも慰めも与えない事に対する軽蔑で満ちています。そして、彼らよりも深く神様の大きさと力強さを描写します。
神様はただ見える世界だけではなく、死の世界まで絶対的な権威をもっておられます。私たちに見える神様の大きなみ業は実際その働きのほんの一部に過ぎません。ヨブの描写は私たちを主を賛美し、ほめたたえる姿勢に導きます。又苦しみの中にも彼の信仰が本物である証拠です。
ヨブの独白
私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者をさして誓う。(27:2)
ここからヨブ記に新しい段階に進みます。ヨブの友達はもう言う言葉がなくなって、ヨブは二つの部に分けて、5章にわたって演説をします。(27〜28章と29〜31章)。その中に彼はその心にあるものを残らず語り吐きます。先ず自分の潔白を主張します。(神様が義と認めて下さった人は本当に潔白です。人にはそう見えなくても神様の御前で全く罪のない存在です。)友達の攻めは全部根拠のないものでした。ヨブ自身の罪はその苦しみの理由ではありませんでした。
2節はヨブの心の状態を表します。彼は全知全能で、全てを支配しておられる神様を信じます。しかし、ちょうどこの信仰こそが彼の苦しみの原因でもあります。神様に権利、すなわち公平な扱いを受ける資格が奪われたと感じるからです。
神はその所を知っておられる。(28:23)
今度は知恵と知識の問題に移ります。先ず人間があらゆる問題に対して、その基を探って、研究で答えを求めようとしますが、その全ての知識にも関わらず、結局知恵を得る事が出来ません。唯一分かる方は神様だけです。
人間は本当の意味の知恵を得るには先ず神様に支配される謙遜な場にへりくだらなければなりません。「そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別』。」(28:28) 私たちに分からなくて、私たちを惑わされるもいのは全部神様に明白であり、何の問題でもありません。私たちから隠されたものは、神様に開かれたものです。
私たち自身何時いての事柄は例外ではありません。神様は私たちの事を理解して、私たちはどのような作りか完全に知っておられます。私たちはちりに過ぎません。私たちの一番の友達が私たちを誤解して、私たちの訴えを誤って受け止めても、神様は理解して下さいます。ここに慰めがあり、信仰の確信の秘訣があります。「神こそ知っておられます。」
ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。(29:2)
休憩の後ヨブは演説の第二部に進みます。今はその友達の主張に答えないで、自分の状態が彼自身にどう見えたかを語ります。その話しは潔白を強く訴える誓いの佳境に至ります。(31:35〜41)
この章に中に彼は過去の神様との関係の幸せを描写します。以前元気で、金持ちで、子供たちに囲まれた時に彼が評価されて尊敬された理由は、彼が神様を恐れかしこんだ故に人々に愛を示したからです。その時に、神様に守られて、人生の力と安心を感じていました。
しかし、ここにこそ今の問題がありました。彼が信じて来た、又今も信じている神様はその守りのみ手を彼から引いておられたと感じたからです。なぜそうなってか、彼には分かりませんでした。
私たちは当時のヨブよりよく知っています。実際に神様はその守りのみ手を引かれた訳ではなかったのです。
しかし今は…(30:1)
ヨブは今の悲惨な状態の描写を続けます。その酷さは以前の幸福に比べれば益々恐ろしく感じました。彼は下品な生き方の人々からも蔑まれる身になっていました。それに肉体的な苦痛も耐えられないものでした。しかし最も重い痛みは、祈っても、叫んでも、神様は彼に答えようともしなかったところにありました。彼の嘆きは神様に対する謀反に近いほどでした。なぜなら、彼は神様が彼に対して残忍に近い態度を示されたと主張したし、自分の元気な時に苦しんでいた人に示した親切な態度を神様の彼に対する冷たい姿勢に比べるほどに至ったからです。
私たちもこの「しかし今は」と言う出発点から物事を測り始めると、とうとう目先のものしか見えなくなってしまい、ヨブと同じ態度に終わってしまいます。しかし、神様は依然としてその僕を守っておられて、彼を攻める事がありませんでした。ただ、それがヨブには分からなかっただけです。
だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。(31:35)
ヨブは31章にその潔白に関してあらたまった誓願を立てます。先ず個人的に義人である事を(1〜12節)、そして他の人に対して潔白である事を(13〜23)、最後に神様との関係において義人である事を(24〜34)主張します。その上に署名して、神様の方から明確な告訴状を要求します。
この章が次のような言葉で終わります:「ヨブは語り尽くした。」 ヨブにはもはや言う言葉がなかったのです。苦しみの問題が未解決のままで、ヨブは沈黙に沈んでしまいました。この沈黙の時にエリフは話し出します。とうとう38章で「主がヨブに答えられた」と言う言葉がやってきます。
ヨブの苦しみの訴えが終わって、沈黙になった時にとうとう主の答えが始まります。多くの場合主は私たちが語り終えるのを待ってから、話し始めます。なぜかと言うとその時に初めて私たちに聞き耳が与えられます。主の答えは私たちが要求した事と随分違う内容になるかもしれませんが、その言葉によって私たちの心に平安と満足が与えられます。ヨブも最終的にそうなりました。
エリフの論述
しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。(32:8)
地上の対立の最後の幕はエリフの演説でした。ヨブはそれに答える機会がなかったし、神様も彼の話を中断させる以外に無視なさいました。最後の一章にもエリフの事に触れる言葉がありません。しかし、彼の話の内容は興味深くて、他の3人の友達のレベルより高いものです。
先ず8節に自分の言い分に理由を付けます。彼は自分自身の知恵に頼らないで、神様の啓示によって語ると主張します。
彼の主張が正しかったかどうかは別問題にして、その内容は神様がどのように御自分とその考えを人間に明らかにするかと言う意味で興味深いものです。「人の中には霊がある」と言う文章は人間に神様との関わりが可能にする性質を指します。「悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」とは神様がその性質をどのように用いて下さるかを語ります。人間の性質の最も深いところはその霊です。それは神様によって作られて、神様から出るものです。それによって人間は直接的に通じ合う形で神様とコミュニケーション(語り合う事)が出来ます。神様が人間に語る事は超自然的なものではなく、自然なことです。神様と人格的な触れ合うが出来る事は出来る性質は創造された人間のもっとも深いところです。罪によってこの性質は堕落されましたが、恵みによってそれは又可能になります。
見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行なわれ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(33:29〜30)
この言葉でエリフは神様が人間を捜し求める働き方と目的を要約します。神様は人間よりはるかに大きくて、人間には神様から説明を要求する権利がないと主張します。しかし、これはすべての真実ではありません。神様は答えて下さいます。「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(33:14)のです。
この二つの方法は夜の幻と神様が人生に与える苦しみです。この後者の方法をエリフが今強調します。苦しみも神様の働きです。「二度でも三度でも」とは神様の働きが一貫してその目標を目指して進む性質を強調します。その目的は人間を滅亡から救い出して、いのちの光を与える事です。
エリフの哲学は苦しみには成長させる意味があるということでした。苦難によって神様は人間をもっと高い生き方に導こうとされます。エリフの考え方は罪の結果としてやってくる苦しみを強調した三人の友達より広かったのです。苦難は清められるプロセスであり、それによってもっと大きな光が人生に与えられます。
しかしこのことでもヨブの苦しみが説明される訳ではなかったのです。しかし、エリフは明確にその説明が正しいと思って、ヨブから答えを攻めたのです。
神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。(34:12)
ヨブが黙っていますから、エリフがその話しを続けます。彼の二番目の演説(34と35章)は彼が理解したヨブの二つの主張(34:5,6,9と35:3)に対する答えです。第一は神様が潔白なヨブを苦しめられたと言う主張でした。第二はヨブにとって神様を信じる事で何の益も得られなかったと言う主張でした。
34章は一番目の主張についてのものです。エリフはヨブが不敬虔な人々との付き合いを好んだと責めます。そして神様の公平性を弁明します。神様が公平な方であると言う彼の主張そのものは否定できない事実です。神様は全ての上におられます。神様より高い、控訴できる裁判所はありません。だから、神様のみ業は全て正しいのです。それに神様の支配権は完全な知識と理解に基づきます。人間のやる事を全部見ておられます。神様は全ての事の基準で、はかりです。その裁きは完全な知恵に基づきます。ですから、人間にとって知恵は神様に支配される事です。
その通りです。私たちもそれをいつも覚えるべきです。しかし、それでヨブの苦しみが説明された訳ではありませんでした。それは部分的な真理に過ぎませんでした。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。 あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。(35:6〜7)
エリフのヨブの第二の主張に対する答えの中に上記の言葉があります。ヨブは神様に対する忠実さで何も報いられないと主張しました。それで彼は自分を神様の上において、自分が神様よりも偉いと主張したとエリフが責めます。
神様の正しさを立証しようとして、エリフは人間の正しさは神様に何も与えないし、その罪も神様から何も奪う事が出来ないと主張します。人間の行動によって神様が変わる訳ではありません。この主張はヨブ記の中に前にも出ました。
確かに、その主張に一部の真実もあります。しかしもし全体的な真理が見えなくなると、部分的な真実が間単に人間を大きな迷うに導く恐れがあります。神様の全体的な掲示から見ると、神様が人間から完全な義を要求なさる時に、確かに人間に少しもよりません。しかし、同時にヨブの友達には未だ分からなかった神様の心ははかり知れない愛で満ちておられます。その愛によって神様は御自分を人間に結びつかれました。聖書全体の中心はキリスト様です。聖書によると人間の罪は神様に傷をつけるし聖なるお方に悲しみをさせます。又同様に人間の義は神様に栄光を帰して、主の心を喜ばせます。エリフもヨブも間違っていました。
しばらく待て。あなたに示そう。まだ、神のために言い分があるからだ。(36:2)
エリフの三番目の話しは神様の語りかけによって中断されましたが、それは二つの分に分けられます。(36:1〜25と36:26〜37:24)第一部に彼は自信満々で、ヨブの苦しみが神様からヨブを清めて、成長させるものだと主張し続けます。しかしやはりヨブの苦しみの理由は違いました。
私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。(37:23)
この話しの後半でエリフは神様の創造のみ業に現れる偉大さを描写して、それをヨブに当てはめようとします。その最後の分はもしかしたら彼らの目の前に起ころうとした現象に関係していたかも分かりません。ちょうど激しい嵐が始まろうとしたところでした。その嵐の中から神様はヨブに語り出されました。
嵐の激しさを指しながら、ヨブに神様の偉大な権能を認めて、又神様の事は人間にはかり知れない事を認めるように訴えました。しかしその真実をエリフが自分自身にも適用すべきだったのに、そうしなかったのです。彼もヨブの苦しみの本当の意味を知る事が出来なかったからです。
主の一回目の論述
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。(38:3)
この章から大きなドラマの三番目で最後の幕が開きます。その中にヨブ一人が神様の御前にいます。風の中からヨブが長い間待っていた神様のみ声が聞こえます。第一の言葉は挑戦です:「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:2)この言葉はもしかしてエリフに向かわれて、後はヨブに向かわれたと思います。神様はエリフが間違った事を教えたと言う意味ではなく、自分も分からない事を話しながら神様の計らいを暗くした事になってしまいます。苦しみの課題はエリフにとって大き過ぎたからです。ですから、神様御自身が語り出されました。
神様はヨブを人との対話と自己憐憫から神様との対話に招いて下さいました。これは大きな招きであり、神様が人間をどう評価なさるかについて語ります。又人間が始めて神様の方向に向かうと、神様はその問題も扱う事が出来るようになります。(悔い改めは神様に向かう方向転換です。)人間がこのような神様の招きに答えると、神様と人間の間の話し合いが可能になります。
神様はこうしてヨブの価値を評価して下さいましたが、ヨブの苦しみの奥義に何一つも触れなかったのです。神様の方法は御自分の栄光をその僕に示す事でした。それによって、未だ説明されていな苦難の中にあっても、もっと深い信頼関係をヨブに与えようとおられました。
神様はその啓示の中に先ず初めに宇宙の一番基本的で、物質的な物事に触れました。そのような事さえ人間の理解をはるかに超えます。神様はヨブにその偉大さを示して、又宇宙を余りにも簡単に支配できる事を明らかにされました。神様はヨブの視野を自分から神様に向けて下さいました。
知っているか。(39:2)
神様は色々の動物の描写を続けられます。ある動物は力強くて、あるものには他よりもっと知恵があって、全てのことにおいて神様は完全な自由な権能を働かせて、その創造の業を進めておられます。それぞれの被造物の違いについて何の説明も与えられないのですが、ただ、神様の支配はヨブの理解よりはるかに高い事が指摘されました。
こうして神様はヨブをその理解力に頼るところから神様の知恵と力に頼るように導いて下さいました。
主の二回目の論述
ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。(40:4)
神様はヨブに対するストレートな話をちょっと止められて、それにヨブの答えを要求されます。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(40:2)
その友達に向かって反発や強い調子で答えて来たヨブの姿勢がいっぺんに変わって、全く違う話し方をします:「私はつまらない者です。」
神様の方法は効果をもたらしました。ヨブは神様が支配される宇宙の中に自分の小ささに気がつきました。しかし、その気持ちに慰めも混じっていました。なぜなら、神様はその最も小さな被造物の心配までして下さるからです。神様は結局ヨブの事もそのおかれた状況も理解しておられました。
しかし、これは未だ神様がヨブに教えようとした事のほんの始まりでした。彼が神様にとってとても価値のある存在である事も知らなければならなかったからです。しかし、その前提には先ず神様の偉大さを把握する必要がありました。ヨブの意識は神様の大きさに力強く開きました:「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」(40:4〜5)
沈黙はヨブにとって神様の知恵を知るチャンスであり、又知恵の表れでもありました。
そして、神様は話し続けられました。もう一度ヨブにチャレンジを与えて下さいました:「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。」(40:7)
これで神様はヨブに人間としての価値を見直すように促して下さいました。人間以外のものは顔と顔を合わせて神様と話し合える被造物はありません。
その嘆きの中にヨブは神様の支配に対して文句を言ったから、今度神様はヨブに神様の支配の場をとって、ちょっとだけでもよいから、自然を支配して、又人々を裁くように招かれました。この進めにはやさしくて、癒す皮肉も含まれたかもしれません。それで、ヨブは自分の制限を認めるよになり、神様が全てにおいて十分である事が分かるようになりました。
あなたは…できるか。(41:1)
人間にとって倫理的な裁きや道徳的な価値判断や社会の秩序をコントロールより、自然現像を支配する方がやさしいから、神様はヨブにせめて自然の支配権でもとって欲しいと提案されました。
この提案にも神様の優しさが現れました。この章の中に描写されている動物さえコントロール出来ないヨブのことですから。
これらの動物の描写の背後に暗闇に霊的な敵であるサタンと悪霊たちの存在もあったと考えられます。この悪の力と立ち向かって勝利する事が出来ますか。「あなたは…できるか。」
ヨブはそれらの事に対して完璧な敗北を認めなければなりませんでしたが、それだけではありません。神様にはお出来になります。神様は私たちに苦しみの理由を説明しようともなさいませんが、その代わりに御自分の栄光を現して下さいます。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(42:5〜6)
これは神様のみ声に対するヨブの答えでした。それは深い謙遜とへりくだりの姿勢です。ヨブの素晴らしさはその神様に対する従順に現れます。神様を新しい形で知るようになりました。この新しい光の中に以前の話が無知から出たものとして認めます。
神様の栄光は自然のあらゆる現像よりも人間のへりくだりに明らかになります。謙遜は神様を高めて、神様をほめたたえる事で、神様の真実と真を認めることです。
苦しみには何の説明も来なかったのですが、神様との新しい関係の中に苦しみが忘れられていきます。神様のうちに休みと平安が戻ります。
結論(問題の結末)
今度神様はヨブの友達に向かわれます:
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」(42:7〜8)
神様の怒りに恵みが混じっていました。友達の動機は正しかったが、話しが間違っていました。神様は彼らにヨブについて証しして下さいました。ヨブは神様の僕であって、ヨブの言葉も正しかったと言う事でした。友達はヨブを哲学の力で神様との正しい関係に戻そうとしていましたが、今度はヨブの方が祈りと捧げものとの力で彼らを神様の関係に戻す事になりました。
しかし、ヨブがその友達のために執り成しの祈りをしている最中、最も素晴らしい事が起こりました。彼の苦しみの鎖が敗れました。