主に導かれて
この56年間、私は何処をさ迷っていたのでしょうか。今、ようやく、帰るべき所に帰り着いた思いです。聖書にある放蕩息子の心境です。振り返ると、このさ迷いは単に自らによるものだけでなく、先祖よりの肉ゆえの罪の流れにも起因するように思われます。
昭和20年3月に、加古川の上流、杉原川が流れる多可の地に、教師であった父と、主婦として農作業に従事していた母との間の、男4人女3人の兄弟姉妹の第4子、次男として生を受けました。
私の父も6人兄弟で、私の生まれた時点では、未だ独身の同じく教師をしていた父の弟二人や妹に祖父母、それに私たち親子6人が一緒に暮らしていました。
昔は、代々庄屋をつとめる富裕な地主の家で、加古川の水運を取り仕切る船座もつとめていたそうです。
しかし、江戸末期から明治の始めにかけての社会変動の中で、事業の失敗やら、西南戦争時の西郷札に手を出したことなどが重なり、家運も傾き、祖父の代には、酒米として名高い山田錦を開発した大地主の山田家の助力にもかかわらず、逼塞してしまい,書画骨董から家屋敷まで競売にかけられ、ほんの僅かな田畑が残されただけという状態になってしまいました。いわゆる破産です。
この状況が、私の生まれ育った家庭の原風景を形造る大きな背景になったのではないかとおもいます。すなわち、江戸期特有の豪農層の文人的儒学的篤志家意識と、経済的には、破産による翼の折れた鳥のような、清貧に余儀なく甘んじざるを得ない状態です。
しかし、前者の意識の強かった曽祖父は、私財も投げうつほどに、村落の経済的救済を願い、生涯にわたり開墾に尽力した人で、その顕彰碑が建立されている位です。
その長男として生まれた祖父の幼年期は、小学校に人力車で通うような豊かなもので、加えて、性格的には曽祖父とは逆に気性の激しい人だったので、良い意味につけ悪い意味につけ、政治にも大いに関心のある「怖いもの無し」といったタイプの人であったようです。
この祖父はいろんな面に活動的で、父の生まれる頃には、経済的にはいわゆる普通の農家と言える状態には戻っていたようで、息子や娘たち全員を師範学校に女学校にと、一応の教育を受けさせています。
実家の、今はかなり荒れてはいますが、精根を込めたであろうと思われる、見事な、橋の架かった池を配した庭園を自ら築造したり、また、旦那寺である臨済宗の名刹の中興に、曽祖父共々二代に亘って貢献したり、また、議会では議長時代に、昔のこととは言え、不正をただすべく正義感に突き動かされて、同士と共に時の町長に荒っぽい実力行使に及ぶ武勇伝を残すなど、多面性を持った特異な人物だったらしく、いろいろと逸話も残しています。
しかし、祖父は自己中心的で独善的な面が多分にあったのか、痛快なものもありますが、反面、どちらかといえば、私の母などに言わせると非難に値することが多くあるようです。
ちなみに、私の父は六人兄弟と言いましたが、実のところ、祖父が妻以外の女性に産ませた父と同い年の兄弟がいました。
そして、その祖父の惣領である私の父は、人が仏様にたとえるほど温厚な人柄の祖母に似たのか、祖父と正反対に近いような人でした。
旧家にありがちな裸の王様的気位と、気位を満たすには不充分な経済状態と、多分に儒教的な理想主義的独善。加えて、開国以後の、日本の近代化に伴う社会的矛盾や軋轢。更に、私の生まれた戦後においては、日本全体の敗戦による困窮、従来の価値観や歴史観の崩壊による精神的混乱。こうした中で、私は誕生し、揺籃期を迎えることになったのです。
私は、家や社会や時代を背景として、私自身の内面が形成され、私の原型の多くの部分が形作られたのだと感じています。しかし、思い起こしても、私の幼児期の記憶はほとんど浮かんでこず、まして幼児期に当たる部分は尚更で、いつも悲しい重低音が鳴り響き、立ち枯れたイネ科の草に冷たい木枯らしが吹きすさんでいるような、それでいて、じめじめした梅雨の中で木の板が朽ちて黴臭いにおいが漂っているような、陰鬱な黒い霧の下に沈んでいます。その、私に見えずに覆われている部分に、最も私の人格形成に影響を与えたであろう風景が横たわっているように、潜在意識の中に感じます。敗戦直後、前述した背景の中、いろいろなことが目に映ったことと思います。
終戦直後の日本経済の疲弊の中で、父の教師としての給料は鶏一匹にも満たなかったと聞いたことがありますが、その薄給に耐えかねて、家計を支えるために止む無くかどうかは、はっきりとは知りませんが、一時教職を離れています。このような不安定な困窮状態の中で、裏の座敷を舞台にいろいろなことがありました。
戦時中東京から疎開してきていた遠縁の一家が、裏の座敷から出て行くと間もなく、私の記憶に僅かに残っていますが、祖父が中風で倒れ、長らくその座敷の一室で床に伏せっていましたが、やがて他界しました。
それと相前後して、神戸の養女に行っていた叔母が、そのころ発病したのか、以前から罹病していて訳あって帰ってきていたのか、定かでありませんが、結核で病の床に伏せっておりました。この目で、喀血の鮮やかな赤い血を見たような記憶がありますが、私の思い過ごしかも知れません。母の述懐に拠りますと、その後、療養所に移ってからの負担もさることながら、私に三歳下と五歳下の二人の弟がいましたが、その感染を恐れ心配したそうです。
また、間もなくして、その座敷のクレゾールによる消毒の後、朝鮮より引揚げてきていた、父の従妹の夫婦とその一女二男の五人家族が、一時寄留していました。この当時は、私の家族九人に更に五人が加わり、十一歳を頭に総勢子供九人で、食事時などは、それはもう、芋の子を洗うようなもので、大変だったろうと思います。
その家族も、二年ほどで東京へ引っ越して行きましたが、これらの母の苦労は、如何ばかりだったろうと、沈痛な思いがいたします。
そういった中、子供たちも次第に大きくなっていくうちに、同じわが子でも好き嫌いが生じるのでしょうか、母は、私の三歳年上の姉と私とには、何事につけ、ことさら辛くあたっているように、子供心ながら感じました。私に何か気にそぐわないことがあった時などは、私の気性が祖父に似ているらしく、いつも、祖父に最も似た一番末の叔父の名前を口にして,「○○○さんソックリや!」と、吐き捨てるように非難していました。ちょうどその当時、子供向けラジオドラマで、たえず母親に差別的な冷遇を受ける男の子が主人公の『ニンジン』という物語をやっていましたが、その主人公と自分の姿が重なり、一人で涙するようなことも何度かあったのを憶えています。
そんな状態の中でも、特に私が冷淡にあしらわれたと思える時期は、後で知ったことですが、父が浮気して、家に帰らなくなっていたことがあったとのことで、思い起こせばその時期と一致していて、そういえば、その頃の夕食時のもの悲しげなわびしさは心に染みついています。
えもいわれぬ悲しさと言えば、比較的最近いなって、ふとしたことから耳にしたことですが、私が生まれて間もない頃、母の寝ている枕もとに祖父が来て、気に食わないことがあったのか、コンコンと説教を始め、昼間の家事や農作業に疲れているのもかまわず、深夜に至っても一向に止める気配も無かったそうで、ことに窮した母は、その成り行きに目を覚まして乳房を含んでいた赤ん坊だった私の尻を、祖父に気付かれないように抓ったそうです。それにより私が泣き喚くことで、その場を凌ぐか、少なくとも、私にかまうことによって、祖父の延々と続く小言を聞かずに済まそうと思ったのでした。
このことは、「ふとしたことから耳にした。」と言いましたが、実は、母が何かの昔話の折に口にしたものを、直接私が耳にしたもので、その時、母は、私がそれを知ることによる混乱や、戸惑いや、悲しみなどは、少しも意に介さない様子でした。
また、悲しみといえば、私が小学五年生のとき、私を一番可愛がってくれた祖母が亡くなり、奇しくも、私の誕生日が祖母の葬式の日となりました。
そういう中、自我に目覚める頃には、表面では明るく笑っているが、内気で消極的で、何事にも懐疑的で厭世的な、本当の自分、傷つけられたくない自分を心の奥にしまっておき、そのドアーを殆ど開けないような性格になっていったように思います。
自分で言うのも何ですが、いわゆる学校の勉強は良くできましたが、次第に、勉強には関心も意欲も失せて、読書や思索にふけることが多くなり、孤独を好むようになっていきました。高校に入ってからは、たびたび学校を休んでは、読書に耽ることも少なからずありました。続いて、大学に入学してからも、当初は、自分の人生上の悩みに光明を、そうでなくても糸口ぐらいは与えてくれるのではないかと期待していましたが、私にとっては、何の価値も見出せないような、既存の学説をそのままコピーしたようなノートの棒読みに近い、退屈な講義に思え、次第に、大学の授業にも興味を失っていき、独り部屋に籠もって読書したり、友人と哲学的なことを論じ合ったりの日々となっていきました。
しかし、読書すればするほど、哲学的なこと、宗教的なことに没入すればするほど、自分が現実から遊離した存在になるように思え、ニヒリズムの極限に陥るような、底なし沼の感覚が拡がっていくだけでした。
そこで自分の存在感を確認できるのは、私にとってカタルシス的な絵画・アートの世界でした。大学の後半の興味は殆どアートの世界で、大学三年のときには、経済的事情で断念しましたが、芸大に転入しようとさえ考えました。
そのような私にとって、大学四年の就職活動の時期が来ても、さりとて就きたい職業も無く、結局、単に「面白そうだな」という理由で、芸能関係の、関西では吉本興業と相並び立つ、当時新進の飛ぶ鳥を落とす勢いのあったナベプロと音楽部門で提携関係にあった松竹芸能の試験を受け、合格し、就職することに決めました。この世は、どうせ虚無なもの、意味の無いもの。そこに、虚構でもよい、何か心惹きつけるもの、心酔わすものを追い求めようとしたのです。
この就職が決まったのが、九月か十月だったと思いますが、就職が間近になるに従って、家族や周囲の伝統的・儒教的規範ゆえに、また、芸能界・興行界という、世間的にある種黒いものを感じるが故に、三月一日の入社式直前に就職を断りました。
しかし、就職先も決めずに卒業するということは、当時考えられず、ともかく自活せねばと思い、学生課に掲示してある、もう数少なくなった求人の中から、千代田紙工という段ボールの会社を受けることにしました。
試験日はその三日後、当日合格発表で、翌々日には入寮、その翌日には入社式と、考えている間もなく、アッという間に、就職。社会人第一歩を踏み出すことになり、わがことながら現実感が伴わないまま、電車のつり革にぶら下がって、近鉄「八戸ノ里」付近の景色をぼんやりと眺めていたのが思い起こされます。
しかし、本意ではなくk致し方なしの就職では、夢と情熱を持って仕事に励める訳はなく、受動的で無感動な、拘束を感じる時間が過ぎて行くだけでした。
三ヵ月間の研修期間が過ぎて、全国八ヵ所の工場・事業所のうち、故郷の近くの加西市の北条工場への配属が決まりました。六月の配属と同時に、経理の基礎を習得すべく、ある経理事務所に三ヶ月の期限付きで出向しましたが、その八月に入所してきた女性が、妻のひろみです。
自分の口から言うのも照れますが、事務所に来たときの彼女を初めて見た瞬間、運命的なものを感じ、彼女こそ正に、生涯を共にする、結婚すべき人だと直感し、間もなく交際するようになりました。今も家事室に飾っているミレーの『晩鐘』は、その頃の、私の彼女へのプレゼントです。
思い起こせば、当時から、私は彼女と共に、祈りに満ちた敬虔な生活に至ることを望んでいたような気がします。また、その年のクリスマスには、友人の誘いもあって、飯盛野の教会でキャンドルサーヴィスをして祝ったことが記憶に残っています。
振り返って見ますに、大学もミッシヨン系で、直接間接に福音に触れる機会は少なからずあったと思いますが、生きる意味・救いを渇望しながら福音に至ることができず、周りをウロウロさ迷っていたようです。
こうして、二人は結婚にたどり着くことになるのですが、私の迷いや弱さから、また、双方の家庭の事情などから、スンナリということにはならず、一旦は、長女である彼女と或る実直な公務員の方との間で、婿養子の縁談が結納寸前にまで進み、それを破談にしてようやく結婚にこぎつけました。
私たち二人とも、その男性の心を深く傷つけた、若さゆえの罪に赦しを乞わざるをえません。
しかし、結婚は、その時までずっと虚無的な灰色の世界に生きてきた私にとって、大きな生きる力を与えてくれるものでした。
更に、結婚して間もなく二人の子供を授かることによって、心底から、妻と子供たちのために生きようとする気持ちが湧いてきましたが、長女が生まれて半年後に、大阪本社に転勤になるなど、環境の変化もありましたが、仕事に関しては、相変わらず、惰性的で、出口の無い迷路のような気持ちでの毎日でした。
子供が一年また一年と成長していくにつれて、より真摯に、より真剣に、自分のためにも、家族のためにも、より真実と思える生き方をしたい気持ちが強くなってきました。
そこで、入社して十一年目の、ちょうど長女が小学校に上がろうとする年に自分らしく生きることこそ、自分のため、家族のためと考え、今にして思えば、罪深さの最たる言葉ですが、当時の私が座右の銘としていた『天上天下唯我独尊』を精神的拠りどころとして、勤務していた会社を辞し、その後の展望は全くありませんでしたが、若さと情熱をだけを頼りに、少ない退職金の中から画具画材を買い揃え、創作活動に入りました。
妻の実家の道をはさんですぐ裏の家が空いていましたので、そこに入居させてもらい、両親がすぐ傍に居てくれているということも手伝って、妻や子供たちは精神的に追い込まれずにすみ、私もそのぶん救われました。しかし、当時を振り返ってみると、『船底一枚下は地獄』といった徒手空拳の状態の中、パートで一家四人を支えてくれている妻にさえ強く当り散らすほどの飢えた一匹狼のようでしたが、愛する妻と二人の子供に囲まれ、精神的に充実した、貧しいけれども生きがいに満ちた生活でした。
創作の方では、野心的な作家の登竜門であった、『日本現代美術展』や『ジャパン・エンバ美術賞展』など、次ぎ次に作品を発表し入選を重ねるなど、評価を受けるようになると共に、創作を続けていく上での自身も深まってきました。
そのころ、近くの知り合いに、子供の勉強を見るのを頼まれ、当初は塾を始める気持ちは毛頭無く、ほんの僅かな謝礼をいただき、家計からではなく画材が買えるので嬉しく思うような状態でした。
そうこうするうちに、一人が二人、二人が三人と、人づてに聞きつけて生徒が集まり出した頃、花屋で働いていた妻が、花を入れる大きな水槽の持ち運びで腰を痛め、あちこちの病院やら治療所を回るほどになり、私が早急に家計を支えていかなければならない状況に追い込まれました。こうして、次第に塾に身を入れ始め、その後、紆余曲折を経て現在に至りました。
その間、幼かった二人の子供も、素直に無事成長してくれましたし、西脇の緑溢れる地に好みに合った家も手にすることができました。
しかし、子供たちも手許を離れ、ふと、日常性を超えて自己存在と向かい合うとき、自分の希求してきたものの蜃気楼にも似た喪失感や、自分を取り巻く世界への終末的絶望感など、気がつけば、若い頃の、乗り越えることなく目を伏せ避けてきたままの、虚無の深淵が口を開けているままだったのです。
そして、そんな中、主の導きとしか言いようのないことに、去年の、クリスマスを三日後に控えた木曜日に、誰に誘われたでもなくふと教会を訪れ、ピヒカラ先生とお出会いし、クリスマス礼拝を最初として、主日礼拝や祈祷会に招かれるようになり、四月にすでに京都の教会で洗礼を受けていた息子に先導されるように、この度私が、しかも夫婦一緒に洗礼にあずかることになったのです。
今、告白してきましたように、肉に生まれ、罪に生きた私にとって、今日の受洗は本当に感激に堪えません。娘も、遠くもないうちに、洗礼に導いていただく運びにあずかっており、家族全員が共にクリスチャンとして、永遠の命へと歩みだすことができるようになりますのも、罪や肉ゆえの迷いにもかかわらず導いてくださった、「主の愛」と言うほかありません。今日、こうして洗礼を受け、キリスト・イエスの十字架の死と復活により、罪赦されて、永遠の命にあずかる福音の内に生きることができることは至福の極みです。今となっては、私の今までの生涯は、今日の洗礼を迎えるために用意されていたものと実感いたします。
今後は、西日本ルーテル教会の一人のクリスチャンとして歩み始めさせていただく者ですが、妻共々、宜しくお願いいたします。
最後に、ここに、ピヒカラ先生を通して洗礼にまで導いてくださった主の栄光を賛美して、私の証しとさせていただきます。
(吉本 克之、洗礼式の証し2001年10月7日)
空の空からキリストの贖いへ
『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
この「伝道者の書」を目にして、なぜか涙がとめどなく流れ落ちるのを、止めることができませんでした。そこに示されている、命の水の涸れた泉のような世界に生きていた私が、奇しくも、ミレニアム、2000年のクリスマスに、粟生ルーテル教会に招かれ、ここにこうして、イエス・キリストにあって罪赦され、永遠の命に生きる者とされたことを、主に心より感謝を捧げつつ、この救いに導かれた一年余りの出来事をお話して、「証し」とさせていただきます。
振り返って見ますと、生きるために、がむしゃらの中、絶望、迷妄、虚無、放縦、卑下、独善、卑怯、傲慢、薄情、冷酷、偽善、自惚れ、激怒、怨恨、怠惰、侮蔑、欺瞞、虚栄、自虐など、果てしない罪深さに生き、また、その罪を意識すらせずに生きてまいりました。そんな私には、今はすでに成人となった娘と息子がいますが、二人の子供は、私にとって生きがいであり、生きる喜びでありました。わが子に対しては、自分に為し得る限りの良き想いと良き行い一杯に、養育してきました。しかし、時を経て、大人となっていくにつれて、親の手の届かない存在となり、ついには、子供たちのために為しえることは、もう、ただ静かに、行く末を案じ、見守ることだけであると思えてきました。そして、記憶の底に沈んでいる子育てにまつわる悔恨や悲哀が、脳裏に浮き沈みしつつ、いつしか、超越的な何かに、子供たちの将来を託すべく、祈りたいような気持ちが感じられてくると同時に、虚無感に侵食され、袋小路に陥ったような私の生き方が、何者かに問いただされているように思えてきました。
そのような昨年の4月、高校時代に少なからず親を悩ませた息子から、突然、「洗礼を受けようと思う。」という言葉を聞き、ほどなく、私たち夫婦が臨席しないまま、息子は洗礼を受けました。そして、不思議にも、その後、私自身の今までの生き方を見つめさせ、気付かせ、悔い改めへと導かれることが、身辺に次々と起こりました。
先ず8月には、娘と、親子ゆえの考えのすれ違いより、今までに一度も無かった、激しい感情的な衝突が惹き起こり、私たち夫婦は、親の気持が伝わらない悲しみや、自分たちの子育てへの疑念などで、夫婦の間の会話も途絶えるほどに打ちひしがれてしまいました。その心労と更年期にさしかかっていたことが重なってか、9月のある夜、突然、妻が倒れ、救急車で病院に運び込まれることになりましたが、翌日には帰宅することができ、幸いにも大事に至らず事なきをえました。他日、脳に異常がある疑いのため、脳血管撮影で検査入院した時は、後日を私に託すなど、妻は、一旦は自分の死を覚悟した様子でしたし、また、私も、一度ならず、妻の死を覚悟しました。その後も、何回か激しい発作が続き、加西の仕事先から西脇市民病院に救急車で運ばれたこともあり、検査の結果、異常無しとのことでしたが、体調は思わしくなく、発作も続きました。
そんな中で10月には、滅入った二人の気晴らしのためもあって、幾分うしろめたいものを感じつつ、私にとっては身分不相応と言えるベンツを、衝動的に購入してしまいました。いざ手に入れてみると、少々興奮気味の嬉しさは束の間、かえって、気軽に何処へでも乗って行くことができず、殆どいつも車庫に眠っているだけの無用の長物と化し、世に高級品と言われている物を手にして得たのは、自らの愚かしさ、ことの虚しさを実感することでした。
また、11月には、懇意な間柄である妻の従兄の、私たちと時期を同じくして新築した家が、遊びに来ていた幼い孫娘のマッチの火遊びで、住居の二階部分が焼け落ちてしまいました。幸い死傷者はありませんでしたが、悲嘆に沈む家族に、私たち夫婦には、深く考え感じ入らせられるところとなりました。
更に、妻の回復を喜んでいた正月早々には、妻の従兄の伴侶が、年末より少し体調に異常を感じ、何気なく受けた検査の結果、ピンポン球大の脳腫瘍が見つかり、即日入院で、1週間も待たずに手術ということを知らされました。手術は、34時間と10時間の二回にわたる大手術で、生死の間をさ迷いつつも、幸いにも、奇跡的に無事成功しましたが、その間の、本人や夫、また子供たちの不安と落胆は、慰める言葉も全くない沈痛極まる状態でした。私たちは、また、このことを通しても、明日をも知れぬ生死と、日常の平和でささやかな生活が、一瞬にして絶望の淵に陥れられる恐怖を、ひしひしと感じさせられました。
また、私の従兄が、秋口に言語障害を覚え、検査の結果、同じく脳腫瘍と診断され、その時すでに手遅れで、手術もできず、死を待つだけの状態で入院していましたが、勘当に近い状態のまま疎遠となってしまっていた娘たちに看病してもらうこともなく、孫たちにも一度も会えないまま、年が明けてすぐに、寂しく他界してしまいました。葬儀に出席した私は、彼の死そのものよりも、むしろ、愛惜の情のない葬式に、一層、悲哀を感じさせられました。
そして3月には、昨年の夏に肺炎で一時危ぶまれた父が、一度は体調が回復していたものの、朝の食事時に、脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運び込まれました。家族みんなの手厚い看病により、桜の咲くころには少し回復する兆しが見えたものの、若葉燃え立つ5月には亡き人となってしまいました。家族の中で、一番私を理解し見守って呉れていた父の死を通して、「死」とその対極にある「生」について、一段と深く洞察させられるものとなりました。ちなみに、父の倒れた3月8日は、受洗に向けての入門講座の初日でした。
このように、息子の洗礼以来、次から次ぎへと、罪を気付かせ、悔い改めへと導かれるさまざまなことが私の周りに起こり、10月7日、二人の子供たちにも祝されつつ、妻共々洗礼の恵みにあずかり、キリスト・イエスの十字架の死による贖いと復活により、罪赦され、永遠の命と福音のうちに生きる者とされました。息子とわたしたち夫婦が共に洗礼を授かった者となった今、求道中の娘も、そう遠くないうちに洗礼にあずかることができて、家族全員が、キリストに接がれた者としての信仰のうちに生きることができることを、待ち望んでおります。
最後に、ピヒカラ先生を通して救いに導いてくださった、父なる主の御名を賛美して、証しとさせていただきます。
(吉本
克之、特別伝道集会の証し2001年11月11日)
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