フィンランドで巡回伝道した時に多くの学校を回って、日本や日本伝道についてスライドを見せながら授業を致しました。そのなかに漢字の説明もある程度までやって参りました。一番聞く方の感心を呼んだのは「愛」と言う字でした。愛は何だろうかと聞いたら、現代のフィンランド人の子どもは日本人と同じように、まず暖かい感情や男女関係を連想するみたいです。
愛の定義
しかし、漢字から見ると愛は感情よりも行動なのです。誰かが手で何かを渡して、そのものを別の人が両手で丁寧に受け取る行動ですが、その特徴は与えられる物に心がついているということです。言い替えれば、与えられるものは与える人にとって大切なものです。だから、受ける方の人はその物を大切にするかどうかは気にかかる問題です。もし、受ける方がその物の価値が分かるならば、両方の方に感情的なつながりが自動的に生まれます。だから、愛は決して感情的なつながりから始まるものではありません。価値のある物を与えて、それを受ける行為から始まります。
人間に価値のあるものを言ってみたら、自分の時間、苦労、お金、評価されること、健康、命などです。それらの事を人に与える事は愛なのです。私達を創造なさった神様は愛のお方です。神様さえもその民である私達人間を愛するために何かを与えなければなりませんでした。
「神は、実に、そのひとり子をお与えに成ったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、一人として滅びる事なく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3章16節)
初めのクリスマスに父なる神様は主イエス・キリストを私達の罪の正しい罰の身代りとして十字架の苦しみを受けるためにこの世にお送り下さいました。クリスマスの素晴らしいプレゼントは罪の赦しと永遠の命なのです。
愛と信頼
しかし、面白いことには、愛を受けるには必ず人格的な信頼関係が必要なのです。愛を受けるのは受ける方にとって嬉しいことであっても、謙遜をも要求するものです。信頼がなかったら、与える方から来るせっかくの愛の印を拒否する場合がよくあります。ある学校の授業で何回も一万札を誰かの生徒に渡して、「これはあなたの物です」と言っても、実際に受け取ってくれた生徒は100人のうちに一人しかいませんでした。信仰のないところにせっかくの愛が届かないのです。神様がイエス様をお与えになっても、信じないで永遠の命を拒否する人はたくさんいます。
信仰は神様がつけた無理な条件のような物ではありません。信仰という切符が買ったら、入場出来ると言うような訳ではありません。信仰そのものは何もないと言ってもいいほどのものですが、不信仰は相手の好意を認めないで、恩がつけられるかと疑ったり、自分で出来るのに助けが要らないと高ぶったりして相手の人格を拒否する積極的な姿勢なのです。信仰心が足らないとかよく言われるような物でもありません。不信仰は手を伸ばして、価値のある物を渡そうとする愛を振り切る態度です。信頼のないところにどうしても愛が届かないのです。それは与える方の問題ではなく、受ける方の問題なのです。愛は強いてさせようと思っても届かないのです。
人格的な神様のプレゼントであるイエス・キリスト様の赦しと命を受けようではありませんか。何という素晴らしいものでしょう。イエス・キリストを受け入れると、私達は神様の交わりのなかに入ることが出来ます。愛のあるところに、相手であるイエス・キリスト様が一番になって、全てになります。その愛によって神様に対する愛が生まれて、それは主を賛美する心なのです。
「いと高きところに、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、み心にかなう人々にあるように。」(ルカ2章14節)
互いの愛
神様の愛をまず受け入れて、私達人間同士は互いに愛し合う事が出来るようになります。神様の十字架の愛を信じて受け入れたら、あなたを愛さない人をも、あなたを憎む人をも愛することが可能になります。自分の罪の大きさが分かって、イエス様から全てが赦されたら、相手の本当の悪いところに対する赦しや忍耐が生まれます。
信仰の目で相手を見るときに、相手がいかに難しい人であっても、イエス様がその人をどの様に変えることが出来るのか期待することが出来るようになります。そして、愛の行為を続けながら最終的に相手の心もその愛に開かれる望みを持つことが出来ます。あなたを通して主イエス様の愛が相手の心に届いて、その価値が分かって、受け入れて貰ってから相手も変わるでしょう。だから、聖書は愛と信仰について語ると希望も話題に出ます。愛は困難な所にも愛し続けることによって勝利を得ます。私達に対するイエス様の愛の忍耐深さを見て、賛美しましょう。