神の救いの道

ルターの小教理問答書解説

H.U.スヴェルドラップ

J.ピヒカラ

はじめに  

 短くて一般 の人々に聖書の内容を教えるために、ルターは小教理問答を1529年に書きました。その中身は下記の解説の中に含まれています。H.U.スヴェルドラップ (Sverdrup) は1864年にルターの小教理問答書解説をまとめました。下記に 番号のついた質問とその答えはスヴェルドラップの書 いた分です。岸井敏先生はそれを日本語に翻訳して、福音ルーテル教会日本伝道部がそれに少し増補して 1957年に「神の救いの道」と言う名前で出版して、広く使われましたが、現在絶版になっています。30年以上にわたってこの本を使って基本的なキリスト 信仰の内容を教えながら、感謝の気持ちでこの本を聖書の箇所 を含めて、解説を付け加えて、インターネットに乗せる事に致しました。  ルターの分は紺色で聖書の引用(新改訳聖書)黒でH.U.スヴェルドラップの分は緑で解説は茶色で区別され ています。他に幾つかの短い引用がH・トレボ著の「初心者のための聖書研究」とC.F.ヴィスロフ博士の「キリスト教入門」と松岡広和先生の「イエスに出会った僧侶」とから付け加えています。 J.ピヒカラ 

 

まえがき

1.神はなぜ人間をおつくりになりましたか。
  人間が永遠に祝福をうけるためです。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを 望んでおられます。(1テモテ2:4)

2. 神は、人間の救いの道をどこで示して下さいますか。
   神のきよいみことばの中にです。このみことばが聖書と呼ばれます。

  この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリ ストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:30〜31)

【解説】 聖書は神様の特別啓示と呼ばれます。神様の一般啓示もあります。それは神様に創造された自然界、心の良心の働き、個人的な人生体験や国民的な体験の中に現れる神様の働きかけです。

 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と 神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1: 19〜20)

 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこの ようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合っ たり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ2:14〜15)

3. 誰が聖書を書きましたか。
   聖預言者、福音書の記者、使徒たちなどです。

4. けれども、人間の書いた言葉が、どうして神のみことばになるのですか。
   神の御霊が、これを書いた人たちに、言うべきこと、書くべきことを示して下さったからです。

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:21)

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3:16)

【解説】  聖書の66巻きはほぼ2000年の間に多くの方々を通して書かれたものです。神様は歴史の中に働いて、それぞれの人々を動かして、彼らの人格を無視しない で、一点も、一画も間違いのないように導いて下さいました。ですから、聖書そのものも奇跡です。ただし、聖書翻訳には必ずしも、もともとのヘブライ語、ア ラミア語、ギリシャ語のすべての意味やニュアンスが100%伝わるとは限りませんから、日本語にも幾つかの少し違う翻訳があります。

5. どうすれば、これが神のみことばであることを、自分のみに経験することができますか。
   このみことばに従い、心の中に受けいれようとしなければなりません。

 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(ヨハネ7:17)

【解説】  キリスト信仰は理性を使ってはいけないものではありません。聖書が前に触れた一般啓示と矛盾しないから、偏見を捨てて、正直に聖書を学ぶ人は、その真実性 を認める事が出来ます。ただし、一般社会に支配的な相対論、進化論、唯物論、一方的な科学信仰などと聖書が衝突すると理性的な疑いやいろいろの疑問が生ま れるのは避けられません。すべての問題点にまず納得する答えを得て、そして信じる事が出来るという必要はありません。聖書のみことばを直に受けいれて、疑 いながらも実施してみたら、確信が与えられて、又信仰生活の過程の中にそれぞれの疑問に答えが後で与えられます。その反面に、たといすべての疑問の納得で きる答えが与えられても、それが未だ救いをもたらせる信仰とは限りません。聖書の中に語って下さるイエス様に心も身も委ねる事はキリスト信仰です。


6.それでは、聖書だけが、信仰と生活とのたしかなよりどころなのですか。
  そうです。聖書だけが、私たちの救いについての神のみこころを完全に教えてくれるのです。

7. どうすれば、神のみことばを、正しく用いることができますか。
   まず第一に、御霊の導きを、神に祈り求め、それから、みことばに従って生きようとするまじめな心で、聖書を熱心に読まなければなりません。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)

 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)

【解説1】  聖書を読みなさい。読んだ事を信じなさい(受け入れなさい)。読んだ言葉に従いなさい。そうすれば読まれた所の約束もあなたに成就されます。その上に主に感謝しなさい。

【解説2】  同じ聖書を読んでも多くの人は解釈によって違う結論に至るのはなぜでしょうか。それは聖書が相対的なものであると言う意味ではありません。聖書は絶対的な 神様のみことばで、真理ですが、聖書を読む人々は色々の意味で限られて、偏っている私たちですから、自分の聖書解釈を絶対化してはいけません。聖書の前で 謙遜に、聖霊の導きを求めるなら、救いの道から離れることはありません。聖書に一つの正しい解釈しかありませんが、それは聖書を与えて下さった神様の解釈 です。神様の聖霊は私たちをすべての真理に導く約束がありますから、部分的な聖書理解からもっともっと深い恵みの理解に主がへりくだってみこころを求める 人を導いて下さいます。

8. 誰が聖書を読むべきですか。
   すべての人が神のみことばを用い、これを貴い賜物と考えることが、神のみこころです。

 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(黙示録22:7)

9. 聖書全巻の中心はなんですか。
   イエスが、信じるすべてのたましいのための、救いの道であるという、大きな真理です。

 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言 者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、 エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:44〜47)

10. 神のみことばは、その内容に従ってどのように分けられますか。
    律法と福音とに分けられます。

11. 律法とは何ですか。
    私たちがしなければならないことを示す、神のみことばです。

【解説】  律法は(法律と同様に)正しい生き方を求めると同時に、正しくない生き方に裁きと処罰で臨むものです。律法の内容は愛です。ですから律法の要約は1コリ13章です:

  愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした 悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありませ ん。(1コリ13:4〜8)

律法が示す愛は感情的なものではなく、非常に具体的なものです。イエス様の山の上の説教に律法の鋭い要約は次の通りに書いてあります:

21 『人を殺してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うよう な者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいか らです。33 さらにまた、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあな たがたに言います。決して誓ってはいけません。37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせ てくださるからです。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 (マタイ5:21〜48抜粋)

12. 福音とは何ですか。
    救い主イエス・キリストにおける神の恵みを知らせる、よろこばしい知らせのことです。

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(1ヨハネ4:9)

 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)

 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ1:13)

【解説】  もし律法は神様が私たちから愛を要求するなら、福音は神様が無条件の愛を私たちに提供する恵みのメッセージです。その素晴らしいまとめはエペソ人への手紙の2章に次のように書いてあります:

 1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。 (エペソ2:1〜10)

第一部  十 のいましめ(律法)


13. 神は律法を、どのようにして私たちにお示しになりましたか。
    1 創造の時に、人間の心(良心)の中に書きしるして下さいました。

 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。(ローマ2:15)

    2 シナイ山で、二枚の石の板に、十のいましめの形に書いてお与えになりました。

 主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」(出エジプト24:12)

 1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはな らない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にま で及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家 畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖な るものと宣言された。12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。13 殺してはならない。14 姦淫してはならない。15 盗んではならない。16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならな い。」(出エジプト20:1〜17)
(研修参考) 出エジプト24:3〜4; 24:12〜18;32:15〜20;34:1〜7

【解説】  良心の働きをコンピュータに比べると、機械そのものは創造によってすべての人には働きますが、罪堕落のために、基本ソフトも応用ソフトも間違いだたけで す。間違ったプログラムのために、良心は全く変なところにも罪責感を起こす場合があります。例えば、小さい時から親に偶像礼拝を守るように教えられた良心 は偶像礼拝を怠った時に責めたりする場合があります。シナイ山で与えられた律法は正しい状態の基本ソフトのようなもので、良心という機械の中に律法の中身 と言うプログラムを入れれば、良心の反応が正しくなります。
 良心は私たちを責めたり、弁明したりする役割を持ちますが、良心には正しい事を行わせる力がありません。ある程度まで、悪い事を犯す事を防ぐ事が出来ても、正しく生きる力は福音の力にしか出来ません。

14. この律法は、外面的にまもることだけを要求しているのですか。
    いいえ、からだも心も、つまり私たちのすべてを要求しているのです。

 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」(ルカ10:27)

【解説】   殺意がなければ、殺人もないし、情欲がなければ、姦淫もないし、歪んだ心がなければ、嘘もないし、考えがなければ、行動もないし、感情がなければ、言動 もありません。神様の目からみると、殺意は既に殺人の罪です。ですから、社会的な罪の基準と神様の要求は全く違うレベルのものです。律法は動機の悪いけれ ども、行為として正しい行いも罪と責めます。

15.私たちは律法によって救われますか。
   いいえ、罪におちてからの人間は、だれひとりとして律法を完全にまもることができないからです。

 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ8:7)

 19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ3:19〜23)

【解説】   シナイ山の律法はエジプトの奴隷状態から開放された国民に与えられました。律法を外面的に守るために、外面的な自由がなくてはならない条件です。しかし、 心の奥底まで律法を守るには先ず内面的な自由が与えられなければなりません。ですから、律法は救いを与えるどころか、律法を守るために先に救われなければ なりません。

16. それでは、律法にはどんな利益があるのですか。
    1 律法は、私たちの罪と、罪に対する神の怒りとを示してくれます。

 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

    2 私たちをキリストを求めさせるようにします。

 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)

    3 信者に、その信仰の結ぶべき実を教え、示してくれます。

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119:105)

【解説】   神様の律法は創造の時に人間の良心に入れられたが、罪堕落の結果良心が麻痺されたり、狂うって働いたりしますから、律法のメッセージで人間の本当の姿が見 えるようになります。お医者さんが身体のちょっとした症状を訴える人に、恐ろしい癌と言う病名を語ると同様に、律法が私たちの罪の本当の姿を示すと、私た ちは恐ろしくなります。けれども、律法が語ることは真実であり、私たちに救いの必要性を明らかにしてくれます。癌の宣告をするお医者さんが治療を始めるた めにそうするでしょう。同様に、律法が私たちに罪の現実を見せることによって、キリスト以外に救いがないとも示します。
 律法は良心の元々の中身だから、社会の中に法律を決定する社会的な役割をも持ちます。たとい、国会が大多数でも律法に逆らう法律を決めたとしても(例えば中絶容認)、神様の律法が法律の上にあり、その法律を裁きます。

17. 何が律法の中心ですか。
    神への愛、自分への愛、隣人への愛です。

 37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 38 これがたいせつな第一の戒めです。 39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37〜40)

 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:10)

 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(1テモテ1:5)

聖書的愛の定義

【解説1】   愛の定義。 漢字から見ると愛は感情よりも行動なのです。誰かが手で何かを渡して、そのものを別の人が両手で丁寧に受け取る行動ですが、その特徴は与えられる物に心が ついているということです。言い替えれば、与えられるものは与える人にとって大切なものです。だから、受ける方の人はその物を大切にするかどうかは気にか かる問題です。もし、受ける方がその物の価値が分かるならば、両方の方に感情的なつながりが自動的に生まれます。だから、愛は決して感情的なつながりから 始まるものではありません。価値のある物を与えて、それを受ける行為から始まります。人間に価値のあるものを言ってみたら、自分の時間、苦労、お金、評価 されること、健康、命などです。それらの事を人に与える事は愛なのです。私達を創造なさった神様は愛のお方です。神様さえもその民である私達人間を愛する ために何かを与えなければなりませんでした。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、一人として滅びる事なく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3章16節)

【解説2】  最近自分自身を愛する愛が非常に強調するようになりましたから、自己中心的な罪と自分に神様の愛を受け入れる正しい理解があやふやになりましたから、この事を吟味しましょう。

普通この考え方は「自分を愛しなさい、そうすれば他の人をも愛することが出来ます。」と言う形で表現されます。又は「自分を受け入れる」教え、言い換えれ ば、「自分を愛する」教えが数年の内に聖書信仰とリベラル主義の両陣営に広がって、殆ど何の非難もなく受け入れられたのです。「あなたの隣人をあなた自身 のように愛せよ。」と言う聖書の戒めがこの教えの裏づけとしてよく挙げられますが、愛と言う言葉の定義を聖書的に考えたら全く正反対の意味になります。こ の戒めが明確に自分と違う相手である隣人への愛の勧めであって、自分を受け入れる命令ではありません。

「自 分を愛する」と言う教えはどう言う内容でしょうか。そのキリスト教版はキリスト教的な表現を使いながら、実際に一般心理学の方法か新宗教から借りた手段で 人を無駄な罪責感、破壊的な怒り、恨み、憂鬱などから解放して、やっと他の人の必要を考える余裕を与える聖書に反する教えです。クリスチャンであるのはい い事ですが、自分を十分受け入れないなら、それだけでは不十分です。本当に輝くクリスチャンになるためには自己確立、自己イメージを高めないとだめです。

ガラテヤ書に明らかに書いてある通りに、愛は聖霊様が結ぶ実であって、聖書的な愛は心理学的または宗教的方法で生む事は不可能です。この広くクリスチャンの間に受け入れられた教えの問題点は一体何処にあるでしょうか。幾つかを挙げましょう:

1  愛と言う言葉の定義が間違っています。現代の愛と言う言葉は非常に感情的な意味で使うようになって来ました。愛するなら、相手に対してよい、肯定的な気 持ちを抱かないと駄目だと言われています。(神様は罪に対する清い怒りを持ちながら、人に愛の行為をなさいます。)良い気持ちがないとよい行為も期待でき ないのです。よい行為の基準は相手を喜ばして、いい気持ちを与える行動です。この基準では互いのよい気持ちの上に自分の配偶者を裏切る性行為は愛の印に過 ぎません。愛、即ち自分のいい感情が全ての上に置かないと駄目です。ガラテヤ書の教えさえこの点で使われます:

「律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(5:14)

 こうして感情的な、甘えに似ている愛が全ての標準になります。

2 「神は愛です」と言う素晴らしい福音はこのような愛と言う言葉の定義では次のような内容に変ります:「神様は暖かく抱いてくれる母親のような存在です。」 モーセの神様は時代遅れの恐怖物語の鬼です。柔らかくて、暖かいイエス様が幸いにモーセの厳しい神の代わりに与えられて、もう心配しなくてもよいのです。

3  聖書的な愛の定義から見ると自分自身が愛の対象にはなり得ません。愛は自分が持っている価値のある物を相手に与える行為だからです。自分に自分が持って いる物を与えるのは意味のない事です。「隣人を自分のように愛しなさい」と言う戒めは、自分の必要から相手の必要を知ることが出来ますから、相手が何も頼 まなくても、その必要を愛の行為で満たすことが出来ると言う意味です。この戒めは非常に積極的な生き方を問うものです。聖書的な愛は犠牲を払うものです。 与える行為の結果自分の持っているものが減って行きます。神様から愛を頂かないと、人を愛する事が出来ません。

4  「自分を愛しなさい、そうすれば他の人をも愛することが出来ます」と言う教えの、もう一つの落とし穴はその人間中心的な所にあります。人間は適当な方法 (例えばキリスト教的な恵みと言う方法)で結局自分の恨みや憂鬱や憎しみなどに打ち勝つことが出来ます。頑張ればきっと自分を受け入れて、とうとう人を愛 するようになります。しかし、いくら恵みと言う言葉を入れてもこれは新しい律法に過ぎません。必死に自分を受け入れようとして、とうとう絶望に終わったク リスチャンはまれではありません。否定的な感情と呼ばれる恨み、憎しみ、憂鬱などの背後に罪が存在します。聖書を読めば一番はっきりした事は人間は自分の 罪に打ち勝つことの出来ない現実があります。たといここに恵みと言う方法が導入されても、結果的に人が主体であって、自分が神様の恵みと言う助けを利用し て自分を受け入れる作業の中心になってしまいます。神様が主体になって、一方的に罪を赦して、又一方的に聖霊の力で罪の力から解放して下さらないと、何の 救いもありません。人間自身が中心になると、神様が働くことが出来なくなります。人間中心主義は神様の恵みを拒否する恐ろしい不信仰の表れです。

5 聖書的に考えると自分自身を受け入れる作業は自己確立の方から考えても無意味です。人間は自分自身を正しく見ることが出来ない、罪の中にある盲目な存在で す。罪の為に創造の時に与えられた価値を失っている哀れなものです。人間的な作業で自分に生きる意味と存在価値を見出すのは不可能です。人に比べる競争社 会が生まれるぐらいです。イエス・キリスト様が十字架の上で滅び行き人間に永遠の価値を戻して下さって、それをただ信仰によってのみ与えて下さいます。で すからキリスト者が自己確立よりキリスト確立を受けます。パウロはそれを次のように言い表しました:

「私 は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今 の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私 にある神の恵みです。」(1コリント15:9ー10)

 神様の一方的な恵みを受けることによって、自分がいかに愛されているか、又その恵みによってのみ地上の使命もまっとう出来ます。

律法の前書き

「わたしはあなたの神、主である。」

18. 神があるということを、どうして知りますか。
    1 全世界の創造、保護、支配とからしられます。

 19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19〜20)
 1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19:1〜6)

    2 自分が悪いことをした時にはおそれ、よい事をした時には喜ぶ良心からしられます。

 14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 (ローマ2:14〜15)

  3 神が御自身について、一番明確な証しをしておれれる、そのみことばから知ることができます。

 1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて 高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1〜3)

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)

【解説】   ある意味では神様の存在を立証する必要がありません。人間は生まれつきに神様の存在が直感的に分かります。人間に自分自身の存在と回りにある自然界の存在 をも証明する必要がありません。(例えば純粋な仏教でこのような直感的に分かる現実を迷いとして否定する教えを受け入れるには困難な修業の結果でしょう。 又、神様の存在を否定するにはかなりの努力とエネルギーが必要とします。)ただし、罪堕落の為に人間は神様の性質を知る事を失って、偶像という自分勝手な 方法で神様を自分の都合のよいものとして考えようとしています。

19. ただ一人の真実の神とはどなたですか。
    ただ一人の真実の神は、三位一体の神です。父、み子、みたまの三つの別々な人格が、同一の本質の中に存在しているのです。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6:4)

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)

 18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいま す。」 (マタイ28:18〜20)

三位一体の神様

【解説】   独りの神様が三位一体でおられるのは多くの人にとってつまづきです。何故かと言うと人間の限られた理性でこの三位一体は理解出来ないからです。しかし、私 たちの理性だけで理解できる神様は偶像に過ぎません。神様の存在はその宇宙のみ業を見ても余りにも大きくて、小さい人間に到底理性でも、感情でも、体験で も、つかむ事が出来ません。ですから神様が御自分について語っておられる範囲でしか私たちは理解出来ません。そして神様の語っておられる事は私たち人間に 分かって貰える形で行われますが、語る内容は私たちの理性を超えます。ですから、理性的に考えれば矛盾のような表現を使わなければなりません。しかし、そ れにしても両方の事が事実です。(学問のレベルでも同じような問題にぶつかります。例えば、光は電波運動と物質的な両面があります。互いに調和できないけ れども両方が明確な事実です。)

 多くのキリスト教的な異端(例えばエホバの証人)、又ユダヤ教とイスラム教は神様が三位一体でおらる事を否定します。三位一体と言う言葉自体が聖書に書 いてありませんが、その内容は明白です。神様は父なる神として創造主でおられるし、御子イエス・キリストとして人類の救い主として働いておられるし、聖霊 様として人間の心をその住まいにして清めて、天のみ国まで導いて下さいます。それぞれの神様の各位(人格)は別々でありながら、一人の神様でおられます。

 神様は愛でおられるのは、神様が永遠から(すなわち全ての創造以前にも)愛でおられます。というのは父なる神様は御自分を低くして、御子イエス・キリス トを高めて、愛の対象にされたし、御子は御自分を低くし、全てのことで父なる神様に従って、父なる神様を崇めておれれるし、聖霊様は御子イエス・キリスト の栄光を表して御自分を低くして愛を示しておられます。又御子イエス様は聖霊様を高めて、御自分を低くされます。愛の本質は自分を低くして、相手を高める 姿勢です。イエス様が人間になられて、人々の間にも一番低い所まで行かれた事で、神様の本質を表して下さいました。

 三位一体は神様にある豊かさをも現します。神様の豊かさは自然の余りにも多くの創造の形でも現れますが、それは一人の神様の本質の豊かさをも反映します。神様はそれぞれの各位の間の緊張感で活発に活動するお方として御自分を表して下さいました。
 神様の形として人間にも一種の三位一体性があります。人間には身体と魂(精神)と霊(心)があります。又神様の人格が互いにコンミュニケーションをすると同様に人間にも自分自身と対話の出来る性質があります。

 いずれにいたしましても、三位一体は奥義であり、私たちの説明を超える神様の本質を表す啓示です。使徒信条、ニケア信条、アタナシオス信条がそれぞれ三 位一体の神様を現す形に書いてあります。その中に特にアタナシオス信条は徹底的にこの奥義を語っていますから、ここで引用しましょう。

アタナシウス信条 (420-450)
1 救われたいと願う者はみな、すべてのことに先立って、公同の信仰を保つことが必要である。
2 この信仰を完全に、汚すことなく守るのでなければ、疑いもなく、永遠に滅びる。
3 公同の信仰とは、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ、
4 位格を混同せず、本質を分離しない信仰である。
5 父の位格、子の位格、聖霊の位格はそれぞれ異なる。
6 しかし、父と子と聖霊の神性は一、栄光は等しく、尊厳は永遠。
7 子と聖霊は父と同じである。
8 父は造られたものでなく、子も造られたものでなく、聖霊も造られたものではない。
9 父は測り知れず、子も測り知れず、聖霊も測り知れない。
10 父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。
11 しかも永遠なものは、三ではなく一。
12 造られないものが三あるのでないように、測り知れないものも三あるのではなく、造られないもの、測り知れないものはただ一。
13 父は全能、子も全能、聖霊も全能。
14 しかも全能のものは三ではなく一。
15 このように、父は神、子も神、聖霊も神。
16 しかも、神は三ではなく一。
17 このように、父は主、子も主、聖霊も主。
18 しかも主は三ではなく一。
19 キリスト教の真理によって、それぞれの位格を、個別に神であり、主であると告白することが求められており、三神三主について語ることを、公同の信仰によって禁じられているからである。
20 父はなにものから成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。
21 子は父からのみ生まれたのであって、成ったのでも、造られたのでもない。
22 聖霊は父と子から出るものであって、成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもない。
23 だから、父は一であって三ではなく、子も一であって三ではなく、聖霊も一であって三ではない。
24 また、この三位一体においては、どれが先でどれが後、どれが大でどれが小ということはない。
25 むしろこの三位格はみな、ともに永遠で、同等である。さきに述べたとおり、すべてをとおして、三位が一体において、一体が三位においてあがめられるのである。
26 それゆえ、救われたいと願う者はみな、三位一体について、そのように信じなければならない。
27 さらに、われわれら主イエス・キリストの受肉についても、正しく信じることが、永遠の救いのために必要である。
28 正しい信仰とは、われわれの主イエス・キリストが神の子であって、神であり人であることを、われわれが信じ告白することである。
29 神であるというのは、すべての世に先立って父の本質から生まれたことであり、人であるというのは、この世に母の本質から生まれたことである。
30 キリストは完全な神であり、完全な人であって、理性的な魂と人間の肉をとっていて、
31 神性にしたがえば父と等しく、人性にしたがえば父より小さい。
32 神であり人であっても、ふたりのキリストではなく、ひとりのキリスト。
33 神性が肉に変わったからではなく、神のうちに人性をとったから、ひとりのキリスト。
34 本質の混同によってではなく、位格が一であるから、ひとりのキリスト。
35 理性的な魂と肉とがひとりの人となるように、神と人とがひとりのキリストになっている。
36 キリストは、われわれの救いのために苦しみを受け、よみに下り、死人の中から復活し、
37 天に昇り、父の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばく。
38 主が来ると、すべての人はからだをもって復活し、おのおの自分の行ないについて申し開きをするのである。
39 善を行なった人は永遠のいのちに入り、悪を行なった人は永遠の火に入る。
40 これが公同の信仰である。これを忠実に、また確実に信じる者でなければ、救われることはできない。

20. 神とはなにですか。
    神は霊であって、永遠であり、全能、全知、どこにもいまして、智(さと)く、善く、あわれみ深く、きよく、真実で、公正なお方です。

  霊:

 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

  永遠: 

 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(詩篇90:2)

  全能: 

神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ1:37)

  どこにもいます: 

 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。(詩篇139:7)
  これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒の働き17:27)

  智さ: 

 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。(詩篇104:24)

  善: 

 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(1ヨハネ4:16)

  あわれみ深い: 

 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇106:1)

 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。(詩篇103:13)

  きよい:

 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ6:3)

  真実:

 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。(民数記23:19)

  義:

 神は正しい審判者、日々、怒る神。(詩篇7:11)

 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。(ローマ2:6)

  愛:

 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(1ヨハネ4:8)

【解説】    多くの人にとって、この世の中の苦しみを見ながら、神様が全能である事と神様が愛であられる事が互いに矛盾するように見えます。本当に愛のお方ならその 全能の力で全ての悪を早速取り除くはずだと思っているようです。しかし、聖書を見ると確かに神様は最終的に全ての悪を滅ぼしますが、それは最後の裁きを必 要とします。もし今すぐそうなさるなら、今すぐ罪の中にいる人々の救いのチャンスが終わります。神様はその大きな忍耐で未だ悪の存在を我慢して、又その十 字架の愛によって人々を罪から永遠の命に導こうとしておられます。それと同時に全世界で悪が限度を越えないように全能の力で支配しておられます。イエス様 の十字架で神様の愛が明確になりましたが、同様に死に打ち勝った復活の勝利で神様の全能の力が明らかにされました。

律法の第一面

21. 第一面を、ひと口で言えば何ですか。
    神への愛です。

 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」(ルカ10:27)

第一のいましめ

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

これはどんな意味ですか。
答  私たちは、何ものにまして、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。

22. 第一のいましめでは、どんな悪いことが禁じられていますか。
    ほかの神や偶像を持つことです。

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:10)

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造っては ならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三 代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:4〜6)

 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。(レビ記26:1)

23. 偶像とは何ですか。
    ただ一人の本当の神をさしおいて、人間が礼拝したり、畏れ、愛し、信頼したりするものは、すべて偶像です。

24. なぜ神は、像を刻んでつくることを禁止なさるのですか。
    神は、私たちが、どんなものでも被造物に向かって礼拝したり、ひれ伏したりすることを禁じておられるからです。

 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)

 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んで はならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。(レ ビ記26:1〜2)

 わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。(イザヤ42:8)

25. 刻んだ像とは何ですか。
    人間がつくったもので、本当の神を正しく礼拝することをさまたげるものは、何でも刻んだ像です。

 1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私た ちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」 2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」 3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。 4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神 だ。」と言った。 5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」 6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。 7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。 8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これが あなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」 9 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。 10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民 としよう。」(出エジプト32:1〜10)

【解説】    初めて日本に来た時のショックを忘れる事が出来ません。町を歩いたらいたるところに地蔵や仏像や神社などが目に飛んで、何と言う偶像で一杯の国で、又偶 像に縛られているか、凄い衝撃でした。神様のみ名が崇められていない悲しみと怒りが沸いてきました。しかし、時間と共に未だに回りにあふれる偶像になれて 来ました。神様のみ名が崇められていない事でイエス様の心がいつも燃えていました。

「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。』と書いてあるとおりです。」(ローマ15:3)

酷い慣れのために私たちは偶像礼拝に暗黙の了解を与える恐れさえあります。神様は何よりも偶像礼拝を憎んでおられます。偶像礼拝は全てのほかの罪の源からです。

 偶像礼拝の一つの恐ろしさはその外面的な美しさにあります。例えば多くの神社は世界的に比べても最高に美しい建物で、又余りにも綺麗な自然環境の中にあ るでしょう。外面的に美しい偶像礼拝は人を巧みに神様から離れさせるから、余計に危ないです。神様は外面より人間の心を見るから、社会的に立派で、道徳を 高めそうなものの中に恐ろしい狼が潜んでいる場合があります。

  エジプトではイスラエルの人々は余りにも偶像崇拝になれていたから、モーセが彼らを一時的に離れたいた時には、早々見えない神様をもっと身近に感じさせる ために金の子牛の像を作ってしまいました。しかし、その時に彼らは真の神様を別の偶像の神に代えた意識が全くなかったのです。「彼らは、『イスラエルよ。 これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言った。」

 真の神様について私たちが勝手な考えや勝手な頭の想像さえ偶像礼拝につながる恐れがありますから、神様がどんなお方か、聖書を通して見るべきです。自分の勝手な考えや想像を捨てましょう。

26. 刻んだ像を用いていると、その結果はどうなりますか。
    堕落した礼拝となり、神に栄光を帰することもなく、礼拝者の生活をきよめることもありません。

 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。(ヨハネ4:22)

27. どうすれば偶像礼拝をさけることができますか。
    神がそなえて下さった道、つまり、みことばと聖礼典とを通して、神を求めることによってさけることができます。

【解説】    日本では偶像礼拝の力と最も難しい問題は、仏式の葬儀、法事、天皇崇拝、自然崇拝、死者の霊を拝む事などです。信仰の自由は偶像崇拝を認める意味ではあ りません。伝道の目的は偶像から人を解放して、真の神様のもとに導くことです。ただし、偶像礼拝者を無理やりにキリストに導くことは神様の御心ではありま せん。真理のみことばと愛で人々を自由に導くべきです。
 キリスト者として偶像につながる社会の諸習慣や儀式にどう対応するべきかは大きな課題です。前もってそれぞれの場でキリスト者としてどう振舞うべきかは考えるべきです。(例えば仏式の葬儀や法事の場合に大切です。)

28. どんな人が、明らかな偶像礼拝をおかしていますか。
    創造主をさしおいて、つくられたものを礼拝し、太陽、月、星、何かの像、天使、聖徒などをおがむ人たちです。

 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1:25)

29. どんな人が、一見それとわからない偶像礼拝をおかしていますか。
    愛と畏れと信頼とを生きた神からそらせ、神でないほかのものにひそかによりすがっている人たちです。

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3:5)

 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)

【解説】   現代の代表的な偶像はお金、名誉、成功、スポーツ、娯楽、レザー、セクス、科学、技術、心理学、自然保護などです。多くの場合に偶像は一般的に良い事で、 神様からのよい賜物もその中に含まれますが、神様の代わりに崇拝の対象になるから、偶像化されます。人間が自分自身を神にする基本的な傲慢がこのような偶像化の背後にあります。 

30. すべて偶像礼拝をしている人は、誰に仕えることになりますか。
    悪魔に仕えているのです。悪魔はいつわりの父で、悔い改めない、かたくな罪人の神であり、
    主なのです。

 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(1ヨハネ3:8)

 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4)

 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)
 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありませ ん。(1コリント10:19〜20)

【解説1】    心の時代と言うキャッチフレーズがよく言われるようになってからもう久しいです。物質的なことで心が満たされないと悟った日本人が宗教に新たな関心を持 ち出しました。聖書から見ると、神様によって創られた人間は命の源である神様の交わりの中に初めて心が満たされます。罪を犯して、神様から離れて行った人 間が、水の中から取られた魚のように、自分の本当の居場所を失って、苦しんでいます。しかし神様は不満で苦しんでいる人間を愛して、ご自分の交わりに戻す ために、イエス・キリストをこの地上に送って下さいました。イエス・キリスト様は十字架の上で人間の罪の処罰を私たちに代わって受けて下さいました。神様 の御前で謙遜になって、神様から離れて行った事を認めて、十字架の愛の故に赦しを願うならば、全ての罪が赦され、心が清められ、神様御自身の命につながる 事が出来ます。そうすれば心が満ち足ります。

 しかし、このような飢え渇きに、悪魔もその巧みな罠をかけようとしています。それは初めの人間を惑わした誘惑と同じです。神様の客観的な御言葉を聞いて 従う必要はないと言うことです。その代わりに目を自分の心に向けて、瞑想、ヨガ、神秘体験、シャマニズム、オッカルト、霊媒などをつかって、自分自身のう ちに潜んでいる可能性と神性とを見いだして、そうしたら「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、「あなたがたが神様のようになって、善悪を知る ことができるようになると」とささやいています。(創世記3章5節)このささやきに耳を傾けて、大勢の人々が新新宗教に走ったりして、そして悪魔の約束通 り不思議な体験をします。しかし結局心の飢え渇きに答えが得られません。得ようとして益々深い体験を求めて、常識を超えて、恐ろしい始末に発展する事もあ ります。飢え渇きが強ければ強いほど惑わされる恐れもあります。

  何年か前にRabi Maharaji(ラビ・マハラジ)と言う著名な先生に会いました。彼は以前ヒンズ教のグルとして、ヨカ瞑想で恍惚状態やトランス状態に入ったりして、天 国のようなところや地獄のようなところをさまよったり、恐ろしいヒンズ教の神々に会ったりしました。瞑想で一時的に乱れた心に平安も得たりしました。しか し、現実に戻ったら自分の心の憎しみ、恨み、殺意、高ぶり、あらゆる欲が以前と少しも変わっていなかったそうです。しかし、イエス様に出会ったある友達に 誘われてキリスト教会に行って、始めての集会で、聖書の御言葉を通して近付いて下さったイエス様に出会って、全てが変わりました。全ての汚れや罪が赦され て、イエス様が心の王座に座って下さって、心から愛と喜びと平安が沸き出しました。宗教的な罪の奴隷が解放されました。以前の凄い体験の理由として次の説 明をしてくれました。瞑想でほぼ停止された脳の中に悪霊が自由に影響を及ぼすことが出来るということです。

【解説2】    聖書は異教的な宗教の中にある体験や経験を否定する訳ではありません。例えばシャマニズムの中に色々の不思議な癒し、占い、超自然的な現象が起こるのは 事実ですが、聖書はその源は悪魔と悪霊にあると教えます。イエス様は、たとい、不思議な事が起こったとしても、惑わされないように警告します。こういうわ けで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

  「 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日に は、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟 をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7: 20〜23)

 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウ ロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこ んなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座 に、霊は出て行った。(使徒16:16〜18)

【解説3】    迷信と信仰はどう違いますか。迷信は本質的に不信仰の代表的な現われです。キリスト信仰は自分と違う人格的なイエス・キリストに人生を任せる姿勢で、主 に信頼して、主に指導権を委ねる謙遜で、従う姿勢で現われます。迷信は何かの神や仏や超自然的な力を利用して自分に益を求める姿勢です。主権や決定権はあ くまでも自分自身が握って、人間中心主義です。

31. 第一のいましめが命じているよいことは、どんなことですか。
    どんなものにもまさって、神様を畏れ、愛し、信頼することです。

【解説】   救われたクリスチャンが天国について、顔と顔をあわせて主を見る事になります。その時に救われた人々は自分の幸せ、幸福などを完全に忘れて、主の素晴らし さで圧倒されます。又主を賛美せずにはいられません。そして、彼らが天国に救われた事は神様にとってどれほど嬉しいことか、神様の喜びを見て彼らは益々賛 美します。地上の最高の愛情も自分の幸せを忘れて、相手の素晴らしさを喜んで、相手の幸福をもとめます。しかしそれこそ本人にとっても最高の幸せです。そ れと同様にキリスト者は自分が幸福になる事を求めずに、神様のみ名が崇められて、神様が「幸せに」なる事を願っています。しかし、それこそ人間にとって最 高の幸福です。

 神様が第一いましめで求めておられる事は最終的な意味で、私たちの幸せのためです。しかし、幸福を求める人はそれを得られません。かえって、神様と神様に支配されることと神様の義を求める人は、その追加産物として幸福にもなります。

32. どんな時に、ほかのすべてのものにまさって神様を畏れておりますか。
    心から神様を最高のものとして尊敬し、全生活で神様をさんびし、神様によろこばれないものをさける時、すべてのものにまさって神様を畏れているのです。

 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。(詩篇33:8)

 主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。(箴言8:13)

 1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立 てた像の奉献式に出席させることにした。・・・8 こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。 9 彼らはネブカデネザル王に告げて言った。「王よ。永遠に生きられますように。 10 王よ。あなたは、『角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。 11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め。』と命令されました。 12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視し て、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」 13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。 14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほ んとうか。 15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それで よし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」 16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。 17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」 19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。 20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。
 23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。 24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」 彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」 25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のよ うだ。」 26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そ こで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。 27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにお いもしなかった。 28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出し ても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。 29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をご みの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」 30 それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。(ダニエル3章)

【解説】  神様を畏れる姿勢はクリスチャンの全生活のあらゆる分野で現れます。人に対する仕事も最終的に神様に向かって行います。

 22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロサイ3:22〜24)

33. 神様を畏れるおそれには、幾種類ありますか。
    二種類あります。奴隷の持つようなおそれと、子供が持つようなおそれとです。

34. 奴隷のようなおそれとは、どんなものですか。
    ただ罰の方面からばかり見て、神をおそれる時がそうです。

35. 子供のようなおそれは、どんなものですか。
    神を愛するために、どんな事をするにしても、神様のみこころにさからう事をおそれる時がそう
    です。

【解説】  奴隷の畏れは神様の律法の下で自分の罪が分かって、その罰をおそれている状態です。その恐れから開放されるためには、ある人々は心の良心を頑なにするし、 ある人々は何とかして自分の生き方を直そうとします。又ある人々はその恐れから解放されるために神様を否定します。この奴隷的なおそれに巧みに悪魔が訴え て、神様の正しくて恵み深い姿を歪んだ恐ろしい姿に変えよとして、益々人々を罪の中に陥れようとします。救われたクリスチャンにも律法の下に戻って、この 奴隷のおそれに落とされる危険がありますから、神様の福音をしっかり握って目を神様の恵みからそらしてはいけません。

36. 誰がこういう子供のようなおそれを持っておりますか。
    神の子だけです。

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(ローマ8:15)

37. どんな時に、神様を愛しているのですか。
    ほかのすべてのもにまさって神様が慕わしい時、すなわち、神様のうちに本当のよろこびを
    求めようとし、よろこんで神様のみこころを行おうとする時に、神様を愛しているのです。

 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。(詩篇18:1)

 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(詩篇73:25〜26)

 1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答え た。 2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の いけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼 は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 ・・・ 6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のい けにえのための羊は、どこにあるのですか。」 8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上 に置いた。 10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あ なたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼 のいけにえとしてささげた。 14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。 15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろ う。 18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 19こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。(創世記22:1〜19)

【解説】  神様が私たちに色々の試練を与えて下さるのは、神様が私たちの苦しみや戦いを願っている訳ではありません。しかし、そのような方法でしか与えられない最高の恵みに預からせる為にそうなさらなければなりません。

38. 神様と、世の罪の道と、両方を同時に愛する事が出来ますか。 
    決してできません。

 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4:4)

 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、 すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神の みこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:15〜17)

【解説】  イエス様は「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはいけません」と言われた訳ではありません。「できません」と言われました。不可能です。一人の男性が本当の意味で同時に二人の女性を愛する事が不可能と同じです。

39. なぜ神様を愛すべきなのですか。  
    神様は私達にとってよい方ですから、愛すべきなのです。

 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(1ヨハネ4:16)

40. 神様を愛しているということを、何によって知りますか。
    きよい生活によってです。

 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21)

41. ほかのすべてのものにまさって、神様を信頼しているのは、どんな時ですか。
    神様をすっかり信用して、自分自身をまかせ、あらゆる祝福を神様から期待し、すべての問題を
    神様のみ手にゆだねる時に、神様に信頼しているのです。

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)
 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」(1サムエル17:37)

42. なぜほかのすべてのものにまさって、神様に信頼しなければなりませんか。
    神様が私達の全能の友、信実な友でいて下さるからです。

43. 神様を畏れ、愛し、信頼することから、どんなよい徳がうまれますか。
    謙遜、忍耐、自分をすてることなのです。

  同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。で すから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(1ペテロ5: 5、6)

 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

44. このいましめが求めている、本質的なことがらは何ですか。
    神様を礼拝すること、しかも神様だけを礼拝することによって、神様への愛をあらわすことです。

第ニのいましめ 

あなたは、あなたの神、主のみ名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

これはどんな意味ですか。
答     私たちは神を畏れ愛さなくてはなりません。それで私たちは、神のみ名を使ってのろったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで、むしろ困った時には、いつでもみ名を呼び求め、祈り、ほめたたえ、感謝しなければなりません。

45. 神のみ名とは何ですか。
    1 聖書の中で神を呼ぶ固有の名前、すなわち、神、ヤフウェ、全能者、イエス・キリスト、救い主、聖霊など。
    2 神の本姓、神だけが持っておられる特性、そのほか、みことば、聖礼典、神のみわざなど、
      特に神を知ることのできるものすべて。

【解説】   聖書の中に神様のみ名は人の名前のような意味だけではありません。名前とその持ち主の人格が密接に結ばれています。(日本でも名前を選ぶ作業は伝統的にと ても大切に思われたでしょう。)ですから、神様のみ名は神様の本質と切っても切られない関係にあります。神様のみ名を呼び求めるのは神様との人格的な交わ りを呼び求めると等しいことです。しかし、神様のみ名を口にしながら、心が神様の交わりを求めようとしないことは偽善の罪です。また、その反面に神様の み名は魔術的な力を持つ訳ではありません。しかし、そうしようとする人は罪を犯します。

46. 神のみ名をみだりに唱えるとは、どんなことですか。
    敬虔なやり方でも尊重する態度でもなく、神のみ名を、そまつにけがすように用いることです。

47. たとえばどのようなことですか。
    1 神のみ名やみことばを、冗談や笑いものに用いる時、
    2 神のなされたみわざを非難する時、
    3 神のみ名を用いて呪ったり、誓ったり、まじないをしたり、うそをついたり、あざむいたりする時などです。

48. 神のみ名によって呪うとは、どんなことですか。
    自分自身の上、隣人の上、そのほか神につくられたものの上に、神のみ名によって悪を願うことです。

  道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降 りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼ん でいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27:39〜43)
 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:25)

【解説】  罪の被害者になった時にもクリスチャンは加害者の上に悪を祈ってはいけません。かえって、加害者の悔い改めと赦されて、救われることを祈るべきです。しかし、神様から正しい裁きを祈ることは聖書の中によく出ます。

49. 神のみ名によって誓うとは、どんなことですか。
    神のきよいみ名によって、物事を保障しようとすることです。

 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。(2コリント1:23)

【解説】   神様のみ名によって請願、誓約(洗礼、按手礼、結婚式、裁判所での誓いなど)を立てるのは聖書の中にも何回か出ます。しかし、そのような誓いはとても重大 な意味があります。それらの誓いを破るのは特別に重大な問題として見なされます。ですから、普段の生活の中に避けるべき事です。

50. 誓ったり呪ったりすることは、たとえ神のきよいみ名を口にしなくても罪ですか。
    もちろんそうです。誓ったり呪ったりすることは、たとえ何を用いてするにせよ、すべてのものを支配しておられる神によってすることになるからです。

  さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、 わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけ ません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あな たは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。 それ以上のことは悪いことです。(マタイ5:35〜37)

51. ただ習慣でするにしても、誓ったり呪ったりすることは罪ですか。
    そうです、大きな罪です。罪の習慣は、私たちが罪に支配されていることを示すものだからです。

52. 神によってまじないをするとは、どんなことですか。
    神にしたがわず、そのあわれみをみとめずに、ほかの霊的な力を用いようとすることで、たとえ誰にもせよ、神のみ名や聖霊のみことばを用いて、病気をなおそうとしたり、盗まれたものを取りもどそうとしたり、そのほかの迷信を行おうとしたりする時です。

  あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄 せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あな たの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10〜12)

 あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記19:31)

 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。(使徒の働き19:13〜16)

 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウ ロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこ んなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座 に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(使徒 の働き16:16〜19)

53. そのほかの迷信とは何ですか。
    うらないや、おまもりや、礼術や、そのほかの魔術などを、信じたり行ったりすることです。

【解説】   遊びとして物凄い人気のある占い、血液鑑定(占いの一種)などは、ポッターのような魔法ブームによって、霊媒などのシャマニズム的な要素が新興宗教や新新 宗教の中だけではなく、無宗教を主張する人々の中に驚くほどの広がりを示して来ました。それは、なぜでしょうか。先ず伝統的な宗教が形式化して、魅力を 失った面があります。それに、いわゆる科学信仰がいかに人間の深い問いに答えを与えないと言う面もあります。祈祷師や超自然的な力で人を癒す人々は昔から のものであることも一つの要因でしょう。

 以前も触れたようにこれらの現象の背後に悪魔と悪霊の現実があります。不思議な現象や力が実際に起こります。

 神様から聖霊様の賜物を頂いて、それを生かして癒しや預言が行われますが、それは祈祷師達などが行うものとどう違いますか。聖書的な預言のポイントは将 来に何が起こるかと言うところではありません。将来の出来事を誰が支配するのかは意図です。例えば黙示録の中に地上で行われる出来事を指しながら、天国で それらのことを支配するキリスト様をほめたたえるように導きます。聖書の預言を通して人々は悔い改めて、神様との人格的な交わりに戻る事が出来ます。しか し、占いを求める動機は人々が自分の将来を自分勝手に操る事が出来るためです。超自然的な何かの力を自分の益のために用いようとします。しかし、それで神 様に背を向けた生き方が益々強められます。

 迷信は信仰のように見えますが、実際信仰の正反対です。信仰は弱くて罪深い人間を神様との交わりに導きますが、迷信の力で人間は神様を必要としない錯覚が強まる一方です。

 7 サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エ ン・ドルに霊媒をする女がいます。」 8 サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び 出してもらいたい。」 9 すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわな をかけて、私を殺そうとするのですか。」 10 サウルは主にかけて彼女に誓って言った。「主は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」 11 すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」 12 この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませ んか。」 13 王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」 14 サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサ ムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。 15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は 私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなた をお呼びしました。」 16 サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。 17 主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。 18 あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ。 19 主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣 営をペリシテ人の手に渡される。」(1サムエル28:7〜19)

54. すべてこういった迷信は、なぜ神を喜ばせることができないのですか。
    これらは悪魔から出たもので、私たちが神とみことばとではなく、ほかの人間やものに頼るようにさせるからです。また、迷信に従う人は、神のみことばに従わずみことばにたよろうとしないからです。

 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(2コリント10:20)

 7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々 を恐れ、8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。9 イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、 10 すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、11 主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。12 主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたが たの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしい ものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。16 また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕え た。17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。(2列王記17: 7〜17)

コメント:  迷信に対して無神論主義や科学信仰は迷信の対象は存在しないし、未だ分からない不思議な現象が起こっても、科学の進歩に従って自然な説明がつくと主張し ています。しかし、ポストモダンと言われる現代人の多くは科学信仰を捨てて、神秘主義の方に走って、かえって迷信を最高の楽しみにする傾向が現れてきまし た。(例えばポッターブームなど)。

 その反面に、日本で伝統的に人間の迷信とその結果として生まれた恐れを利用して、金儲けをする人は少なくはありません。その中に人を騙す例は後をたちません。そのような場合にクリスチャンも科学的な方法でだましを明らかにしなければなりません。

 しかし、聖書は迷信の背後に実際に存在する現実があると教えています。その現実は悪魔と悪霊どもです。悪魔の力が小さいものではありません。悪魔の力で とても不思議な事さえ起こります。ですから、迷信を禁じる神様の掟は、悪魔と関わりを持ってはいけないと言う意味も含めます。

 12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む 人々に命じた。15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示録13: 12〜17)

 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日に は、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟 をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7: 21〜23)

55. 神のみ名によってうそをついたり、あざむいたりするとはどんなことですか。
    神のみ名によってうそをついたり、あざむいたりするとは、
    1 まちがった教理を教えたり、それがあたかも神のみことばであり、啓示であるかのように言ったりすること(偽預言者)

 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15:9)

 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではな く、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた。』としきりに言っており、また、かたくな な心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない。』と言っている。」(エレミヤ23:16〜17)

 33 この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたが たを捨てる。』と言え。――主の御告げ。―― 34 預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告。』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。」 35 あなたがたは互いに「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」と言うがよい。 36 しかし「主の宣告。」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げる からだ。37 「あの預言者たちにこう言え。主は何と答えられたか。主は何と語られたか。38 もし、あなたがたが『主の宣告。』と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。『わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなた がたは主の宣告というこのことばを語っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、40 永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」(エレミヤ23: 33〜40)

    2 不信仰の心や、罪の生活をかくすために、敬虔な態度をしてみせることなどです。

 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)

 13 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている 人々をもはいらせないのです。14 〔忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですか ら、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。〕15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの 子にするからです。16 忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓った ら、その誓いを果たさなければならない。』 17 愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。 18 また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』  19 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。 20 ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。 21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。 22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。 23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なも の、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。  24 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。 27 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あら ゆる汚れたものがいっぱいなように、28 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。29 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、30 『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。 31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。 32 あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。 33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。(マタイ23:13〜33)

異端

【解説1】   一般的に異端と言う言葉は次のような意味で使われています:「正統からはずれていること。その時代の多数の人が正統と認めているものとは異なった、特殊な 少数の者によって信じられ、主張される思想、信仰、学説など。また、その人。」この定義に従って、キリスト教的な文脈の中に異端という言葉は正統的な、多 数派の諸教会の聖書解釈や教えから外れて、何かの特殊な、多くの場合、極端な教えを持つ少数派グループを指します。しかし、宗教改革の歴史を振り返ってみ ると、大多数を占める正統的な教会が全体として異端的になる可能性が充分あると言えます。ですから異端のキリスト教的な定義はあくまでも聖書と照らし合わ せて考えるべきです。

 ガラテヤ書の中の異端とは神様が与えて下さった福音に何かを付け加える、あるいは福音から何かを取り除く、または福音そのものを持ちながら、それを異質な包みで見えなくなるようにする教えまたは生き方です。

 まったく正しい福音を教えながら、福音と矛盾した生き方も異端的なグループを生み出しますが、全ての生き方にそれを支える哲学と価値観がありますから、 実施そのものも教えに結びついていますから、たとえ言葉で言われなくても、福音と矛盾する教えが異端を生みます。

 全ての異端の本質は何らかの形で律法と福音を混同するものです。

正しい信仰は次の方程式に書くことが出来ます:
 救い = キリストの福音を信じる事

異端の方程式は一般的に次になります:
 救い = キリストの福音を信じる事 + 人間自身の宗教的な営み(体験も含めて)

古い宗教と新宗教と新新宗教の方程式は次になります:
 救い = 人間自身の宗教的な営み

異端に必ずある程度までの真実があるからこそ、クリスチャンにとっても危険性が他の諸宗教より遥かに高いのです。新約聖書全体は異端に対して非常に厳しい 態度を取ります。イエス様がパリサイ派やサドカイ派を余りにも厳しく非難しました。パウロも異端者に対して呪いを思わせる表現を使います:

 「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。」(ガラテヤ5:12)

  イエス様もパウロも異端者を愛しておられたからこそ、大変厳しい表現を使います。偽りと真実を混同する者に一番大切な必要は本当の真実を知ることであり、 又異端は命取りであり、余りにも危険な状態であるからです。多くの異端の特徴は凄い程の熱心です。偽りと真実を混同している熱心さに客観的な、第三者的な 姿勢で近付くべきではないとイエス様とパウロの行為から読み取れます。クリスチャン達のなまぬるさこそが異端を生む環境です。しかし、その反面にいくら熱 心であっても、それ自体は人が正しい教えを持っている証拠ではありません。

異端の影響力:
 多くのクリスチャンはエホバの証人やモルモン教や統一協会のような異端を余り問題にしていないようです。何故かと言うとそれらの異端に入っている人々を 避けて、関係を持とうとしない事で自分が異端から守られると思っているからでしょう。しかし、これらの異端者を表口から追い出しても、彼らの影響が案外裏 口から入ってしまいます。例えば、エホバの証人の一つ代表的な教えは滅び即ち神様の永遠の火の処罰が人にはやって来ないと言う教えです。それは罪のために 裁きを恐れている人々に余りにも受け入れやすい教えです。ですから聖書的な地獄について話すと教会の中でもどちらかと言うと聖書を弁明する態度を取らなけ ればならない場合がよく出てきます。ですから、エホバの証人の訪問伝道が教会のイメージに打撃を与えるうんうんと言うよりも、彼らが巧いことに福音の必要 性に対する疑いの種を蒔いています。そしてそれは一般社会だけではなくクリスチャンにまで及びます。

リベラル主義:
 聖書は人間の一番根本的な質問に答えて心を変える力があって、書物としてもとても興味深いはずなのに、聖書の権威を根底から否定するリベラル神学の広く 一般社会に広がった影響で、神話や非科学的な昔話のようなものとして見なされるようになりました。ですから、以前キリスト教国として考えられた国々では聖 書が無視されるようになりました。ですから、その権威を弁償するのは非常に大切な事です。

宗教的に狭くさせられた聖書:
 しかし、福音主義的なキリスト者も聖書が全ての教理と人間の営みを批評する基準である事を口癖のように唱えながらも、実際に宗教的な体験以外の実際生活 のあらゆる分野でそれを無視して、その代わりに社会一般の基準を適用します。政治、経済、社会倫理、学問などでそれぞれの分野で聖書と矛盾するクリスチャ ンは日本でも珍しいものではありません。こう言う態度に対してイエス様は何を言われたか、ニコデモとの会話で記録されています:

 「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(ヨハネ3:12)

 実際生活に聖書を適用しない宗教はキリスト教ではありません。キリスト教の名に載る異端です。

偽預言者たち
 しかし、もっとも恐ろしい聖書の退け方は聖書を固く信じて、それを徹底的に生活に適用とする異端です。聖書をよく知って、話をする時に聖書の引用もよく 使います。聖書信仰を主張しながらも、彼らは自分の解釈を聖書の上に置いて、聖書そのものが語ることを許さないで、自分勝手な考え方を立証するために巧み に聖書を利用したのです。彼らの姿勢が間違っていて、自分を神様の上に置きました。これはエホバの証人だけではなく、多くの現代的な異端の特徴です。

 このような異端はある意味では一番恐ろしいものです。イエス様が選民と言われたクリスチャンさえも惑わされる恐れがあるからです。これらの異端者は多く の場合預言したり、聖霊の賜物に似ているシャマニズム的な異言を話したり、癒しを見せたりするからです。イエス様は特に偽預言者について繰り返して警告を なさいました。強烈な宗教体験を提供する異端と対照的に何百年の長い宗教的な伝統をバランスよく見える形で聖書の上に置く異端も最終的に同じ性質を持ちま す。両方ともは神様の啓示である聖書の上に人間の権威を置くからです。

 もう一つこの種類の異端的な教えとは、心理学的化された聖書解釈です。聖書の言葉をそのまま使いながら、現代の心理学を巧みに使って、聖書に全く新しい 意味を付け加える事です。その特徴は神様を中心としたキリスト者を人間中心に変えて、そして、福音よりも心理学的な技術で人々を罪責感などの否定的な感情 から開放しようとします。最終的に人間は適当な技術を使って、自分自身を救う事が出来る錯覚に陥ってしまいます。(心理学自体は問題ではありません。その 正しい使い方と領域で役に立つ役割がありますが、人間を罪から神様へ救う力はありません。又心理学の中に様々な互いに矛盾する哲学的な背後もありますか ら、カウンセリングと言われても、中身を慎重に吟味する必要があります。)

【解説2】   上記のイエス様の非常に厳しいパリサイ人と律法学者に対する非難を読んでも分かるように、キリスト者を確実に間違った道にさせるのは偽善です。偽善は最も 信実に近い異端と言ってもよいでしょう。それは聖書の教えをそのまま純粋に認めながら、それをただ頭の遊びのレベルに留まらせて、実際にみことば通りに生 きようともしないからです。

 偽善は大体二つの作業によるものです。一つは聖書の厳しい、心を必要とする教えを人間に割りと簡単に実施できる外面的な行為に切り替える作業です。この ような事が未だに教会の中によく見られます。(例えば生きた主との交わりの祈りの生活を、決まったパターンの決まり文句を繰り返す事に置き換える事で す。) もう一つは間違った福音の受け止め方です。神様の愛を甘えと置き換えて、律法の言葉の痛みを取り除く作業です。自分の弱さがどうしようもないか ら、ある範囲で罪を犯しても構わない姿勢です。とにかく赦されるから、あまり神様の正しいと認めている言葉を気にしなくてもよいと言う態度です。しかし、 罪の赦しは罪の容認ではありません。本当の悔い改めは赦されたところから、聖霊の恵みによって罪に立ち向かって、主の御心を実施しようとします。しかし、 それは自分の力ではなく、神様の恵みによってです。

56. うそをついたり、あざむいたりすることは、たとえ神のみ名を用いなくても罪ですか。
    もちろんそうです。本当のことを言うのがどんなにむずかしくても、いつも真実を話すことが神のみこころからです。

 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:24)

 「しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:17〜20)

57. 神のみ名をみだりに唱える人は、何をかくごしなければなりませんか。
    この世と永遠とにわたる大きな罰をかくごしなければなりません。

 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)

 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:22〜23)

58. どんな時に、神のみ名を正しく用いているのですか。
    いつも必要な時に、まごころから神を呼び求め、また祈りと、賛美と、感謝とをもって心から神を礼拝する時です。

 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩篇103:1)

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。(ルカ1:46〜47)

 11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。12 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:11〜18)

59. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
    神と、神のみ名と、そのみことばとを尊重することによって、神への愛をあらわすことです。

第三のいましめ 

安息日をおぼえて、これを聖とせよ。

これはどんな意味ですか。
答え    私たちは、神を畏れ、あいさなくてはなりません。それで私たちは、神の御言葉や説教を軽んじないで、むしろそれをきよいものとして、喜んできき、学ばねばなりません。

60. クリスチャン同志の間では、いつが安息日ですか。
    日曜日、一週の最初の日です。

 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。(使徒20:7)

 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリ16:2)

61. 旧約聖書では、別の日を安息日にきめられておりますが、なぜクリスチャンは、日曜日を安息日としましたか。
     キリストが死人の中からよみがえって、あがないのみわざをなしとげて下さったのは一週間の最初の日でしたし、聖霊がクリスチャンに与えられたのも一週間の最初の日であったからです。

 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネ20:1)
 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 (使徒2:1)
 人の子は安息日の主です。 (マタイ12:8)
 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16〜17)
 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、 主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に 感謝しているのです。(ローマ14:5〜6)

【解説】  人間が創造された日は六日目の終わりごろでした。それで、アダムとエバの始めての完全な日は神様の安息日でした。人間は神様を礼拝する真の休みから、一週の働きに出るように作られています。

62. どのようにして安息日を、きよくまもりもちいることができますか。
    1 日常のつとめをさしひかえて、主を畏れながら、一日の時間を信仰を深めるために用いなければなりません。

  それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免 を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」 20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。(ルカ4:16〜20)

    2 家庭で、また特に教会で、神のみことばをつつしみ深くきき、深く考えなければなりません。

  しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)

    3 クリスチャンのまじわりをしたり、一しょに集まって証しをしたり、ともに祈ったり、信仰の話し(個人の証し)をしたり、讃美歌を歌ったり、愛の行いをするのもよいことです。

 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:27)

【解説】  神様に対する愛は人に対する愛と同様に共通の時間を必要とします。聖書の御言葉と祈りを通して神様とのコンミュニケーションガ行われますが、その為に時間が必要です。

63. 神は安息日を与えて下さったのは、ただ神のみことばを聞き、それについて考えるためだけですか。
    いいえ。そればかりでなく、私たちのからだとたましいとが、必要な休息をとるためにも安息日を下さったのです。

 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――(出エジプト20:9〜10)

 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。(出エジプ23:12)

【解説】   第三のいましめは休む事を命令するだけではなく、明確に6日間働く事をもすすめます。しかし、十分な休みがなければ、6日の働きは苦痛になります。人間の 身体の疲れの原因は血液の酸素不足です。夜眠るときに酸素が増えますが、ずっと働くと一週の内に酸素の全体的なレベルが落ちます。一日の休みでもともとの 状態に戻る事が出来ますが、休まずに働き続けば、身体は疲労状態になります。無理に働き続けば過労死さえ起こりえます。神様は創造の時に人間に働くと休み のリズムを身体に入れました。神様のいましめを無視するのはいつも破壊的な結果をもたらせます。

64. どんな時、安息日をけがすことになりますか。
    1 神のみことばを軽んじたり、ばかにしたりする時。

 神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ。 (伝道5:1)

    2 仕事をしたり、それ自体罪であって私たちの心を神から引きはなすような娯楽に仲間入りしたりする時などです。

 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。 17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:15〜20)

【解説】  ストレス解消の為に多くの人はテレビを見たりしますが、結果として本当の休みは得られません。多くのテレビ番組などはかえって刺激で疲れをさせます。精神的な休みのための趣味などもやりすぎたらかえって疲れを増やす場合があります。

65. それでは、日曜日にはどんな仕事もゆるされないのですか。
    いいえ、本当に必要でのばすことのできない仕事や、隣人のためにする愛の行いはよいのです。

  ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。 2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。 3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。 4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。 5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょう か。」 6 彼らは答えることができなかった。(ルカ14:1〜6)

66. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
    一週間に一日を神のため、休息のため、礼拝のためにあてることによって、神への愛をあらわすことです。

律法の第二面

67. 第二面をひと口で言えば何ですか。
    自分と隣人とを愛する愛です。

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

68. 自分を愛するのも、正しいことですか。
    もちろんそうです。神は私たちをつくって下さったのですから、自分も愛さなければなりません。けれども罪深い利己的な愛を、用心しなければなりません。

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(1コリント3:16〜17)

【解説】  質問17のコメントを参照に。

69. 私たちは、特に何について一番注意しなければなりませんか。
    自分の中でほろびることのないもの、つまりたましいについてです。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)

【解説】 自分が救われなければ、他の人に救いを伝える事ができません。又自分が救われなければ、他の人に対する愛も不可能です。

70. 隣人との関係について、第二面はどう教えておりますか。
    自分が隣人からしてほしい、思ってほしいと願っていることを、そのまま隣人のために思ってやり、行ってやることです。

 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:18)

【解説】   釈迦様の教えの中に有名な言葉があります:「人にしてほしくない事を人にしてはいけません。」 一目では、この教えとイエス様の教えは非常に似ています が、少し深く考えると正反対だといわなければなりません。なぜかというと、釈迦様にとって何の悪い事をしない消極的な生き方が理想です。(悟りを得て、生 きながらミイラになるのは最高の道でしょう。)しかし、イエス様の教えは非常に積極的なものです。自分の必要から相手の必要が分かりますから、相手の方か ら頼みがない内にも積極的にその必要を満たそうとする姿勢です。

よきサマリヤ人の喩え

71. 私たちの隣人は誰ですか。
    すべての人が私たちの隣人です。

 25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう か。」 26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身の ように愛せよ。』とあります。」 28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして 逃げて行った。 31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:25〜37)

【解説1】   この有名な話の一つのポイントは、愛がある人には隣人がどこでも見えますが、愛がなかったら、自分以外の事は見えません。しかしこの話にはもっとも深い意 味も含まれています。自分の生き方を正しく思った宗教家の質問そのものは私たちにとってもっとも大切な質問です。「永遠の救いを得るには何をしたらよいの ですか。」しかし、聞く人の姿勢は間違っていました。自分が救われる事を分かりきったもののように感じていたでしょう。イエス様は彼に愛の行いによって救 われる道を教えたのは、彼の目が開かれて、自分には愛もなければ、愛の行いもない事に気がついて、イエス様から、救いを求めさせるためでありました。例え 話のもっとも深い意味は、私たち自身が罪の虜で、半殺しになって、自分を助けることの出来ない事を教えています。イエス様ご自身がそのようなどうしようも ない私たちを救おうとしておられるよいサマリヤ人です。イエス様に救われて私たちにはじめて人を愛する愛の心が湧き上がります。

【解説2】   日本文化は「身内」と「赤の他人」と言うように伝統的に内輪の人々と外の人々との区別をはっきりして来ました。それは差別的な形でも現れる場合がありま す。大勢の中に生きる日本では人間関係を大切にしながら、それらを保つには大きなエネルギーが必要ですから、内輪の線を引きたい気持ちが分からない訳では ありませんが、聖書はすべての人間(敵も、犯罪者も、差別された人も、身内の人も)皆神様に創られて、主イエス・キリストの十字架によって贖われた、同じ 価値のある存在として見ています。ですからすべての人を愛の対象にすべきです。具体的に愛を示す事の出来る範囲以外の人々にも祈りと言う形で愛の手を伸ば す事が出来るからです。

【解説3】   聖書的な姿勢で人々に接すると、新しい人間関係を積極的に受け入れる態度が生まれます。私たちは人々と接するときに相手の罪深さも視野に入れなければなら ないと思います。自分にも当然罪があるし、相手にも罪があると言う現実を見ながらも、相手と接して相手に愛を示す事が可能です。相手に裏切られる事を恐れ て、人間関係を作りたくない人もいれば、人間関係を作っても念のために適当な距離を置いておく人が多いかと思います。しかし、クリスチャンがそのような対 策をとる必要はないと思います。なぜなら、人を心まで受け入れないと本当の意味で愛する事も不可能です。イエス・キリストの赦しを自分で受け入れたクリス チャンがすべての人間関係で赦してあげるプロセスを続けながらの基本姿勢が決めてです。又相手に裏切られても、傷付けられても、主イエス・キリストの働き を相手のために祈り続ける事がいつも道として残るからです。

【解説4】   日本社会の最も痛ましい問題の一つは差別です。その背後に色々の歴史的な要素も、宗教的な要素もありますが、根本的に差別的な姿勢はすべての人間の心の中 の罪にあります。自分自身の本当の価値を見出していない人は、他の人を自分より低い所に踏みにじって、自分の相対的な立場を高めようとします。「人に負け ないように」などの表現は本質的に差別的な姿勢を表すものです。差別から開放するために、自分の価値、又相手の価値が少しもその人の能力や賜物や業績によ らないものである事を受け入れなければなりません。人間の存在価値は彼はどのぐらい愛されているのかによります。その愛の大きさは主イエス・キリスト様の 十字架によって計られました。ですから、知的障害者も、寝たっきり老人も、天皇陛下も神様の御前で全く同じ価値があります。
 現代の人間は人の価値を計る計りを失っています。平等と言いながら、自分の価値がゼロと思う人には相手もゼロになってしまいます。客観的な価値のはかりはイエス様の十字架の他にどこにも見出せません。

72. 敵であっても愛さなければなりませんか。
    そうです。敵も隣人であるからです。

  しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるので す。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:44〜45)

第四のいましめ 

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、両親やめうえの人を軽んじたり、怒らせたりせず、むしろその人々をとうとび、その人々につかえ、聞き従い、愛し、また敬わなければなりません。

73. なぜ父母を敬わなければなりませんか。
    幸福と安全のために、神が私たちの上に父母を置いて下さったからです。

 おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。(レビ記19:3)

【解説1】   キリストの愛によって計られた平等の価値と秩序を保つための上下の関係は互いに矛盾する訳ではありません。親の権威はすべての社会的な秩序の基本です。人 間の価値は社会的な地位にはよりません。社会的な地位は役割分担や社会がスムーズに動くために必要な仕組みです。イエス様は仕えられるより仕える姿勢が大 切であることをよく強調されました。

【解説2】   ある私のクリスチャンの友達は次のような悩みがありました。「私が父に会うために刑務所に行かなければなりません。酔っ払って犯罪を犯した父をどう敬う事 が出来ますか。」しかし、本人が答えも見出しました。そのお父さんを尊敬しなければならない理由は、お父さんのよさではありません。神様が「父親と言う役 割を敬え」と言われたことは父親の役割が神様ご自身が定められた制度であるところにあります。結婚も家庭も神様の定めであり、人間の勝手な約束によるもの ではありません。たといその中に罪のために色々の問題が生じても、制度そのものが間違っている訳ではありません。

74. 父母を敬っていることを、子供はどのようにして示したらよいのでしょうか。
    尊敬と愛とをもって心から従うことによって、また父母がいない時でも、いる時と同じよいふるまいをすることによって示します。

 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言1:8)

 1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。 4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、 7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。 8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。 9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。(エペソ6:1〜9)

 41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。 42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、 43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。 44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、 45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。 46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。 48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」 49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。 51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。 52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:41〜52)

【解説】    イエス様は12歳に思春期を通られました。思春期は子供の成長でとても大切な時期です。神様の御心でもあります。その本質的な意味は神様の権威の下にい た父母の権威の下にいる子供が直接神様の権威の下に移る事です。言い換えれば、12歳まで子供が親に従いながら、子供の行動の責任も親にありますが、思春 期を通った子供は神様の前に自分で責任をもつ大人の世界に移るところです。思春期は親にとっても、子供にとっても難しい時期ですが、それを通ろうとしない 場合に後でもっと大きな問題が起こります(精神障害、社会性が確立しないなど)。思春期には父母に対する尊敬が要求されるものから自発的なものに変ります が、尊敬と仕える姿勢そのものには変わりがありません。

75. 死んだ両親を拝むことによって敬おうとするのは、神のみこころにかなうことですか。
    いいえ、神は、誰であろうと神以外のものをおがむことを、絶対におゆるしになりません。

 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」 (ルカ4:8)

【解説】   祖先崇拝の背後に色々の要素があるかと思います。一つは親戚の絆を確かめる事です。一つは純粋な悲しみから出てくる要素です。先に立たれら人から悲しみの 「仕事を」通って、健全な意味で離れることの出来ない面もあります。又、生きている内に十分な愛と尊敬を示さなかった罪責感も大きな要素かと思います。自 分の罪意識を和らげるために行われる一面です。客観的な権威体制が出来ていない人が死んだ両親を自己確立の手段として使う面もあります。仏教的な生死観も 当然大きな要素です。すなわち、供養で死んだ霊の苦しい状態を助ける要素です。死んだ霊を自分の権威や自分の助けに用いる面もあります。

 しかし、死んだ人々は神様のみ前で生きていますが、彼らは神様のみ手に委ねなければなりません。彼らの永遠の運命にもはや私たちはこちら側から影響する ことは出来ません。救われた彼らは神様のみ前で主を賛美して、主に祈っていますから、地上の教会と共に主の民です。救いを拒否した人々も意識して最後の裁 きを待っています。ですから、人間は死んだら、地上にいる時と本質的に変りません。死後は地上の行き方の延長線で救いを完成するか、裁きを完成するかの状 態です。

 クリスチャンにとって墓参りは死んだ霊を拝むものではなく、父なる神様に祈って、亡くなった方を通して神様が与えて下さった恵みを感謝して、主イエス様の復活のゆえに再臨の時の身体の復活を待つ信仰を燃やすためのものです。

76. 両親のほかは、誰を敬い従うことが神様のみこころなのですか。
    保護者、雇い主、先生、政府など、私たちを導き治めるために神様が定めて下さった人たち全部です。

 イエスは言われた。「納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」 彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:18〜21)

 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているので す。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル 13:17)

 1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。 5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。 6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。 7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。(ローマ13:1〜7)

 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロサイ3:20〜24)

【解説】   神様は社会の中に色々の権威範囲を定めて下さいました。家庭はその中の基本的な単位ですが、その他に学校、会社、交通機関、病院、市町村、警察、自衛隊、 国、国連などがあります。それぞれの権威範囲の中にそれぞれと違うルールや権力者があります。多くの場合(例えば警察や病院)は権威範囲の中に権威の持ち 主が服装などで示されています。しかし、一旦その権威範囲を出ると(服装を着替えて)、同じ権威を持てません。神様は秩序を保つ為に社会をそのように構成 するように定めました。第四の戒めはこれらのすべての権威範囲の裏付けです。警察はその範囲内に人を逮捕する権限があっても、私生活の中に誰をも逮捕する 権限がないのです。といっても、すべての権威範囲の上に神様の普遍的な権威があります。又、道徳性、愛、真実などはすべての権威範囲において変らないもの です。

77. 両親や目上の人たちには、たとえ罪の道であっても従わなければなりませんか。
    いいえ、私たちは人に従うよりも神に従わなければなりません。

 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)

78. 両親には、子供たちのためにどんな責任がありますか。
    子供たちを愛し祈ってやること、主のはぐくみといましめの中に育てること、どんなことにでも当面の幸福と霊的な幸福とを願ってやることです。

 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言13:24)

 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。(コロサイ3:21)

【解説】   体罰と暴力の区別ははっきりしなければなりません。聖書は正しい意味の体罰を禁じる訳ではありません。体罰で子供を心の咎めや良心の責めから解放する事が 出来ます。しかし、その反面に権力争いに発展した体罰で深い心の傷をつけることもあり得るのです。悪い事を犯した子供をいつまでもそのために攻めることは 最悪の罰です。正しい罰を与えて、けじめをつけて、神様のみ前で十字架の故に赦しがあることを伝えるべきです。

79. 神は、父母を敬う人たちに、どんなよいことを約束して下さいますか。
    めぐみをほどこして地上に長く生きることです。

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20:12)

 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(エレミヤ35:18〜19)

80. この約束は、現在どのような祝福を与えてくれますか。
    従順な子たちの上に、特別な祝福が与えられ、主にあって両親と目上の人を敬うすべての国民におよびます。

81. 神は私たちにも地を与えて下さいましたか。
    はい、神は私たちに祖国を与えて、私たちは祖国を愛し、その繁栄をはかるようにして下さいました。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17:26)

 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ29:7)

 13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11:13〜16)

【解説】   神様は私たちがこの地上で祝福された、成功する事を願っておられます。だだし、成功の基準はこの世の一般的な基準と異なります。最終的な成功は私たちが神 様の御心をどこまで実施するかによって測られます。最高の成功は最終的に天のみ国に着くことです。それを得るためには地上の一時的な成功を犠牲にする場合 もあります。

82. 第四のいましめでは、どんな悪いことが禁じられていますか。
    父母をあなどったり、目上のものにそむいたりすることです。

 愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。(箴言17:25)

83. このいましめにそむく人は、何を受けなければなりませんか。
    神の呪いと罰とです。

 「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(申命記27:16)
 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。(ローマ13:2)

84. このいましめが求めている、本質的なことがらは何ですか。
    両親を正しく深く愛することによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

【解説】  聖書的な国家論をめざして

  国家というのは、言うまでもなく、一つの領域に、一つの権威のもとにいる国民のことだろうが、深く国家を考えると、人々の意見は様々だ。例えば、日本語で 「国」と「家」の漢字を組み合せて表現することにも一つの解釈がふくまれている。それは「家」、すなわち横と縦の家族を全国民的に延長する考えではないだ ろうか。ラテン語のCIVITASいう言葉には、英語にでてくるシティゼン(市民権)という意味が強い。又、英語のSTATEという言葉は、権威をもって 発言してそのとおりに行われるという意味だ。フィンランド語のVALTIOという言葉は力と権威の両方の意味を含んでいる。

  日本憲法は西洋的な国家論のもとに作られたのだろうが、一九八五年八月十五日に中曽根総理大臣が靖国神社の公式参拝をしたことで、事実上日本では日本独特 の国家論があることを認めたようなものだ。そして、それが神道と切っても切れない関係にあることを示している。この無言のおじぎで中曽根さんは、日本が敗 戦後四十年目にやっと米国に精神的に勝ったという宣言をした。すなわちそれは、経済的な意味で日本がアメリカよりも強くなっただけではなく、日本的な国家 論が西洋的な国家論より優れている、という勝利宣言だったと考えられる。(これを書く私はアメリカ人でも日本人でもなく、ある敗戦国フィンランドの市民の 一人だ。) しかし西洋の強い影響をうけた日本人の中でも、これからも国家論について強い議論が続くだろう。

  しかし、西洋的な国家論といってもけっして一つとは言えない。権力争いの続くうちには利益の対立だけではなく、国家思想に対する対立もいつも含まれてい る。キリスト教離れのヨーロッパでは指導的な政治家のロから次のような発言も聞くことができる。「国家は何であるか、その目的は何かは、分からなくてもよ い。ただ進動するプロセスだけが大切である」 又は、「国は生命学的な社会にすぎなくて、生命学的なエゴイズムを多いに発揮すべきなのだ。」

 伝統的な西洋の国家論には、次の五つの、必ずしも互いに一致しているとは限らない要素が目立っている。その要素の矛盾によって、又何が強調されているかによって、国家論自身も変わってきた。

1、ギリシャの都市国家の形の上の民主主義。奴隷制度と、市民権 は自由人に限られていたことを考えると、本質の民主主義とは絶対にいえない。その由来はギリシャ文化の人間崇拝にあるわけだ。キリスト教離れのヒューマニズムはギリシャ思想に戻りつつある。

2、 ハムラビ法典からローマ法に発展した法律感覚。後からローマ法に旧約聖書のモーセの律法も加わってきたが、そのこと自体に、もうすでに矛盾が含まれてい る。絶対的な国家を中心にする法律と国家さえも神様の権威の下にある法律はどのように調和できるのだろう。(社会そのものを神聖化しようとする神道的な法 律観には、ローマ法との類似点がないだろうか。)

3、 キリスト教による人間の価値観は深い意味の民主主義の条件だ。なぜなら、すべての人間は平等であって価値がある存在だと唱えられても、客観的な人生の価値 を量る手段がない限り、民主主義はゼロとゼロの平等になってしまう。十字架の贖いによる人間の価値を失ったヒューマニズム主義は、にせ民主主義になるの だ。

4、権カの三分離。それには聖書的な由来もありながら、最近日本ではあいまいになっている一方だ。(憲法解釈を裁判官よりも政府がし始めることなど。)

5、 国家の上にある最高権威を認めること。政権は民主主義であっても絶対主義であっても(聖書の中で両方が認められている)その最高権威は神の御心であり、最 後の裁きであり、又そのことは、良心の中で表わされている。キリスト教離れが進むと神様である最高権威のかわりに、あいまいな社会的な自然法則などが挙げ られるが、結果としてヒューマニズム主義は全体主義への道である。

国家を成立させる要素
 聖書を見てみると、国家は神様の定めであり、又、神様はそれぞれの国民に時代と文化と活動範囲を定めて下さった。(使徒17章26節) 国家の由来を 遡っていくとバべルの塔までいかなければならない。全人類から国家区別に至る根拠は、否定的には、罪の進み具合を妨げる壁が必要だったからなのだ。しかし 肯定的には、国家という単位で、自然を耕し守る使命を罪に陥った人類が全うするためだったのだ。

  又、特にイスラエルの国家形成を考えてみると、国家は人々の定めによるものではなく、人々の互いの契約でもなく、神様と国民との契約によるものだというこ とが明らかになる。最終的に聖書的な国家論は、キリストに支配されている教会論にも結びついていく。しかし具体的に考えると、国家という神様の定めは次の ような現れを持っていると言えるだろう。

、互いの血縁関係、肉親関係、氏関係による国民関係。
2、ことば。(日本語は世界の中で唯一のことばだと言われる。確にその通りだと思うが、フィンランド語についても全く同じことが言えると思う。)国民的なアイデンティティは大いにことばに関係ある。
3、地理。
4、文化。(特に文学、美術、建築、劇)
5、歴史。(植民政策のために作られた、つまり人工的に不自然に作られた国には争いが後を絶たない。)
6、宗教。(同じ国家に多くの宗教が認められていても、宗教の役割は否定できない。)宗教の中で一番危険なのは国家そのものを崇拝すること。
7、安全確保の必要性。
8、経済的な利益。
9、自由に対する憧れ。
10、決まった枠内で認めてほしい意識。
11、国民的な目標感。(この目標感は確かに聖書的なものですが、それが歪んでしまうと大変なことになり兼ねない。例えば、良い意味では国際社会の上で弱 い国々に対する奉仕的な使命、悪い意味では自分の支配の下に、他の国々に救いをもたらせようという意識――日本の戦前のアジア政策、又、ソ連の世界的な革 命を求めた政策など。)

国家の使命
 国家は当然、法律を決め、それによって裁判をし、法律を実行する、三つの使命があるが、特に日本のそれぞれの大臣や省のリストを考えると(外務、通産省、大蔵省、 文部省、防衛庁など)私達は十戒の後の部を見ることができる(第四から十まで)。すなわち国家の使命は、罪の支配を制限し、命を守ったりいろんな意味で生 活できる環境を作り出すことだ。

  私達が国民の一員であることは主に生れによるが、それにも拘らず、上述したように神との契約によるものでなければ、クリスチャンとして正しい国家をもつこ とはできない。国家の権威の下にあることは、クリスチャンにとって義務であることをローマ人への手紙13章が教えている。自由ではなく義務なのだ。しか し、クリスチャンが税金を払い法律を守るのは、良心のため、すなわち、神様御自身のためにするのだ。神様には歴史上、又全国民の上に絶対な支配権利がある ので、国家が絶対主義であっても(パウロの手紙をもらったローマのクリスチャンはネロという最悪の皇帝の支配下にあったのにも拘らず、その支配権さえも神 からのものであることを、パウロは認めた)、民主主義であっても、国家制度そのものはアナルキー(無秩序)よりもましであって、国家の秩序は神様の権利に よるものだ。だからクリスチャンは独裁的な国においても模範的な市民であるべきだ。又、神を認めない国の益をも求めるべきだ。(エレミヤ27章5〜7節) といっても、その国家権威が神様の御言葉に逆らう場合、クリスチャンの責任は、積極的に神様に従い、そういう国家権威に逆らうことにある。(例えば、伝道 を禁じる国家の中で伝道すること、人間の命を軽視する国家の法律に逆って未生の子供の命を救うことなど)。しかし、同時に国の改善を求める政治的な活動に 参加すべきだ。けれども、クリスチャンの第一の狙いは異教的な国家制度をかえることではなく、その制度の枠内でそれに新しい命を注ぐことだ。例えば初代教 会は、ローマの奴隷制度をかえようともせず、奴隷たちにキリストにある価値、新しい命を与えることによって、心の解放を与え、その結果として奴隷制度自体 が本質的に変わって、形の上では何百年続いても、事実上廃止されたのだ。神様がそれぞれの国と文化圏を創世記15章13〜16節の原則の通りに支配してお られる。すなわち国家、又は国民の罪がある限度を越えれば、その国、又は文化が滅んでしまうので、クリスチャンは旧約聖書の預言者のような役割を果さなけ ればならない。いいかえれば、人々個人の罪だけではなく国民の罪をも指摘し、悔い改めを迫らなければならない。又、同時に本当の自由をもたらす福音をも述 べ伝えなければならない。

キリスト者と愛国心
 愛国心には二種類のものがある。聖書的で正しいものと、グループエゴイズム(集団的自己中心主義)による愛国心の二つだ。国を愛するのは、クリスチャン にとって隣人を愛する愛の一種なのだ。しかしその反面には神に対する愛もある。ヘブル11章9〜10節を見てみると、クリスチャンの本当の国家は永遠の御 国であるので、優先順序は先に天国、その次に地上の国だ。徹底的な隣人への愛は(例えば、自分の配偶者と家族の一員に対する、いわゆる自然な愛でさえ)イザとなると相手のために死ぬ覚悟を必要とする。そういう意味で、中曽根総理が言ったように「もし国民が国のために死ぬことができなければ、それは国ではな い」という発言は正しいのだ。愛の現れなら、その通りであるが、国民エゴィズムのために死ぬことが要求されれば、これは何という恐しい発言に成りうるだろ う。

  正しい愛国心は、自分の文化の良さを見、問題も認め、自分の国民のために奉仕すると同時に、世界的な視野の原動力になる。しかし、自分の国民意識で自分の 自尊心を高めるグループ意識は、日本の歴史の中にも現れたナショナリズムにいつでもなりうるのだ。だからクリスチャンは、愛国心においても模範的な本当の 愛を示すものになるべきだ。

まとめ
 国家は必ず力と権威につながるものだ。それがいかなる形で現れても、一斉の権能は、すなわち霊的な、経済的な、文化的な、軍事的な権能はイエス・キリストに与えられている。だからキリストの権威を認める国は、最後的に栄えるのだ。(1987年の執筆)

第五のいましめ 

あなたは殺してはならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、となり人に対して、その体をきずつけたり、苦しめたりしないで、むしろ、あらゆる困難の場合に、その人々を助け、またはげまさなければなりません。

85. 第五のいましめで、神は何を禁じておられるのですか。
    1 ほかの人のいのちをうばったり(殺人)自分のいのちを自分でうばったり(自殺)することを禁じておられます。

 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記9:6)

 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:52)
 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(1コリント3:17)

 5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だ が、あなたは、それを治めるべきである。」8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私 に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カ インに一つのしるしを下さった。16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(創世記4:5〜16)

    2 隣人のからだをきずつけたり、そこなったりすることを禁じておられます。つまり、どんなことでも、隣人のいのちをほろぼしたり、ちじめたり、くるしめたりすることを、行ったり言ったりしてはならないのです。

 23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、24 彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わ せ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。 28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフを エジプトへ連れて行った。29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになって ください。」と言った。33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」と 言った。こうして父は、その子のために泣いた。(創世記37:23〜35)

    3 隣人に対する怒りやにくしみを、心に持つことを禁じておられます。

  しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うよう な者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)

自殺、中絶、安楽死

【解説1】   日本の文化は伝統的に自殺を(心中まで)容認する傾向があります。幸いに心中に対する社会的な拒否反応で近年はその数が目立って減りましたが、自殺は最近 増える一方です。「責任をとって」自殺すると言う表現のように、死は人の罪と恥を取り除くと言う考え方が根強いものです。聖書によると人間の責任は死で終 わるわけではありません。死後神様の裁きを受けなければなりません。しかし、自殺と言っても一概に言えない面もあります。特に精神障害の場合、深いうつ状 態の中に多くの人々は責任能力を失ってしまう結果自殺をします。その時に自殺は他の病気でなくなると似た場合もあります。
 自殺は本質的に逃げる行為で、耐えられない苦しみからだれも逃げたい気持ちがよく分かりますから、自殺願望の人に先ず十分な理解と治療を与えるべきで す。しかしそれと同時に死に対する正しい教えも与えるべきです。(死を美化する傾向があります。又は死に対する甘えがあります、つまり、死を母親に抱いて もらうような感覚で考えている人がいます。)
 安楽死も最近課題になっています。安楽死と言う名前は間違っています。死が救われていない人に休みと楽にするものではありません。裁きを受けなければな らない現実が死の向こう側に待っているからです。救われた人にとってだけ死はいのちへの門です。安楽死は殺人に間違いないのです。自殺をしようとする人の 手伝うことも殺人に間違いありません。その反面に十分な痛みに対する治療を与えながら、病気の自然の成り行きに(例えば末期癌の場合少し寿命を延ばす苦し い治療をしないで)任せるのは殺人ではありません。
 中絶は一番よく行われる殺人で、法律上は罪にはあたりませんが、神様の御前で大きな罪です。(母親の命が危険にさらされる時に母親の命か、赤ちゃんの命かと言う苦しい選択にさらされる場合もありますが、日本のような国ではマレです。)
 中絶も自殺も安楽死も殺人も大きな罪ですが、そのためにもイエス様は十字架の上に死なれて、悔い改める人を赦して下さいます。だからと言って、殺人を犯してもよいと言うことではありません。

【解説2】 殺意がなければ殺人もありません。憎しみと恨みは本質的に人に対する殺意の心ですから、神様の目から見ると、殺人と同様です。恨みの裏腹に恐怖心が発生します。ですから恨みを正当化しないで、それを罪として認めなければなりません。そこから開放の道も開かれます。

86. なぜ人間のいのちを、それほど大切に思わなければならないのですか。
    人間は神様のかたちにつくられたからであり、神様も私たちのいのちを大切に思っていて下さるからです。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(1コリント3:16〜17)

【解説】   人間には存在価値と用いられる価値があります。前者は神様の形に創造された事とイエス・キリストの十字架の贖いによって測られました。それは人間の能力や 業績などによらないものです。神様はちょうど私たちのようなものが欲しくて、私たちを創造されました。(但し私たちの罪深さを神様が創られたわけではあり ません。)神様の愛は私たちの存在価値の測りです。私たちが罪を犯しても、神様は続けて愛して下さって、御子イエス・キリストを私たちの身代わりとして十 字架の上で罰しられて、私たちをご自分の交わりに取り戻しました。
 しかし存在価値の他に私たちには用いられる価値もあります。つまり、神様は私たちを住まいにして下さって、聖霊の実を結ばせる価値があります。
 両方の価値においてすべての人々は平等です。私たちの存在も能力や賜物もすべて神様の方から与えられる恵みだからです。

87. 神は戦争をどうお思いになりますか。
    人を殺すのは罪ですが、それでも神は私たちに、よいことをおまもらせになります。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

 1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。(ローマ13:1〜7)

 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」(創世記15:13〜16)

【解説1】 旧 約聖書を読むと多くの人にはつまづきになるのは神様がイスラエル民族に約束の国に以前から住んでいた国民を全殺しにする命令をなさったことです。それが余 りにも残忍な命令のように感じるからです。しかし上記の創世記の箇所はそのことに対して光を与えます。約束の地に住んでいた民族の罪があまりにも大きく なったからです。神様の忍耐は国民の罪をある一定のレベルまで耐えられますが、それを超えたらもう既に歴史の中にも裁きが行われます。神様は最後の裁きの 時に個人的なレベルで完全に正義をもたらせますが、歴史の中に国民や家族単位で祝福と呪いがやってきます。約束の国に住んでいた民族の罪が神様の忍耐のレ ベルを超えたから、神様イスラエルを通して国民的なレベルの死刑判決を執行させられました。(死刑判決を執行する役人は罪を犯しません。)(死刑判決を現 在実施すべきかどうかは別問題です。)

【解説2】 正義の戦争があるかどうかは最近の論議の一つですが、警察、裁判所制度、刑務所、自衛隊などは武力的な手段でも罪のはびこる事を防ぐ権利があります。クリスチャンはそのような務めに入る事が出来るかどうかにおいてクリスチャンの間に色々の意見があります。

88. 隣人のたましいを殺すこともありますか。
    あります。隣人をわざと迷いの道へさそいこんだり、よくない手本をしめしたりして、罪をおかさせる時はそうです。

 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。(1コリント8:11)

 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましで す。つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。(マタイ18: 6〜7)

【解説】 ラジオやテレビや娯楽産業の責任は最後の裁きの時にとても厳しく問われます。信仰から子供を離れさせる魂の殺人ほど大きな罪がありません。

89. 神様は第五のいましめで私たちに何を言いつけておられますか。
    隣人のよき友となって、そのからだとたましいの必要をたすけ、愛と柔和とをもっていっしょに歩いてやることです。

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)

 35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸 し、36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませて あげましたか。38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにした のは、わたしにしたのです。』(マタイ25:35〜40)

 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の 家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用が かかったら、私が帰りに払います。』(ルか10:33〜35)

【解説】 あらゆる医療、介護、看護は第5のいましめを由来にします。

90. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
    隣人のからだとたましいの幸福を心から願ってやることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

第六のいましめ 

あなたは姦淫してはならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、言葉においても、行いにおいてもきよく正しく生き、また夫婦は互いに愛し、うやまいあわなければなりません。

91. 結婚とは何ですか。
    結婚は、一人の男と一人の女とが、一生の間結ばれて一体になることで、神御自身がパラダイスで制定して下さいました。

  21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」 24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:21〜24)

  3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 7 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」 8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。 9 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」 10 弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」 11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」(マタイ19:3〜12)

離婚と再婚

【解説】   この箇所は旧約聖書の結婚の定めの言葉を引用しながら、結婚についてとても大切なイエス様の教えを含みます。結婚は両親を離れる面もあれば、又夫婦が一心 同体になる精神的にも、肉体的にも一つになる面もありますが、結婚の最も大切な要素は「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と言う言葉 で表されているように神様が結び合わせる事です。

 しかし、離婚に対してイエス様の教えは非常に厳しいものです。話の対象はパリサイ派の人々ですが、その教えを傍で聞いた弟子たちもびっくりしました。結 婚はこれほど条件の厳しいものなら、「結婚しない方がましだ」と言う反応で彼らの心の動きが分かります。現代の私たちの反応もよく似たものでしょう。「多 くの罪人を赦して、愛しておられるイエス様が結婚で失敗した人々を理解出来ない」と思うぐらい厳しいです。「イエス様の優しさと赦す心はこの会話で何処に 消えたでしょうか。」

 しかし、ここで語っておられるイエス様はサマリアの井戸で5回も結婚と再婚を繰り返した女性を救って作りかえした同じイエス様です。もしかしたら、私た ち人間を創って、結婚も定めて下さった、恵みに満ちたイエス様が私たちより、人間に何がよいかと分かったでしょうか。このイエス様の厳しさに私たちが従っ たら、罪の世の中に、最高の道が開かれると思います。

 特に9節にはイエス様は「まことに、あなたがたに告げます」と言う強調の手段を使われます。離婚は裏切り行為で認められますが、その後の再婚は姦淫に当 たります。イエス様はここで特に「だれでも」と言う言葉でこの事が普遍的な事実である事を明言なさいました。又残念ながら姦淫の罪が当時も現代も余りにも 広がっていた事を別の所で嘆いておられた事はイエス様の心の動きを語っています:

 「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ8:38)

 「しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ12:39)

 12 節の言葉はこの文脈の中でどう理解すべきでしょうか。生まれ付きの独身者と神様の奉仕のために独身者になった事は分かりやすいのですが、「人から独身者に させられた者もいます」とは何を指すでしょうか。これは離婚の結果で独身者になった人の事としか私には読めません。特にパウロが1コリント7:11で同じ 事を教えるでしょう:
「もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。また夫は妻を離別してはいけません。」

 この箇所のすぐ後にイエス様が子供たちを祝福した箇所が出ます:「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」

 イエス様が不貞以外の離婚を禁じたり、再婚を禁じたりする背後に子供たちに対する深い配慮もありました。離婚の犠牲者は大いに子供たちだからです。

 しかしそれだけではありません。再婚して、又離婚して、又再婚した人々のカウンセリングをする時に感じたことは、やはり始めての結婚がずっと尾を引いて いる事がよく分かります。結婚して、離婚して、独身者としての生活は難しい事ですが、イエス様はそれが未だ再婚よりましだとも知っておられました。イエス 様は深い私たちに対する愛からこの厳しい教えを与えられました。

92. 第六のいましめで、神は何を禁じておらせますか。
    1 不信や裏切りによって、結婚の誓いをやぶることを禁じておられます。一方の側に姦淫の罪がある時に、神は罪のない側が離婚することをゆるしておられます。

 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9)

 1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。し かしダビデはエルサレムにとどまっていた。 2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。  3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。 4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから 女は自分の家へ帰った。 5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」 6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。 7 ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。 8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。 9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。 10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかっ たのか。」 11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だ けが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしませ ん。」 12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまる ことになった。 13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そ して自分の家には行かなかった。 14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。 15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」 16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。 17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。 18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、 19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、 20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。 21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。 なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」 22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。 23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。 24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」 25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町 をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」 26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。 27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこ なった。(IIサムエル11章)

    2 神はまた、人が結婚していてもいなくても、すべて不潔なけがれた思いや、願いや、言葉や、行いを禁じておられます。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ5:3)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

93. 信者の結婚について、神は何をのぞんでおられますか。
    信者は信者と結婚して、クリスチャンの家庭をつくることです。

 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14)

 1 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ 人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、
2 かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
3 私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。
4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。
5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、
6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。
7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。
8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与え てくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。
9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私 たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。
10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。
11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、はいって行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、 忌みきらうべき行ないによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。
12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせ も求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる。』と。
13 私たちの悪い行ないと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、――事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました。――
14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行ないをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。
15 イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であ なたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」(エズラ9:1〜15)

【解説】   この箇所はキリスト者がノンクリスチャンと結婚すべきかどうかと言う論議に旧約聖書の光を当てます。聖書は明確に偶像礼拝を非常に重大な罪として指摘しま す。偶像礼拝の危険があった場合に最終的な選択は、神様を選ぶか、結婚を選ぶかと言う対立に発展しかねません。(本来神様と神様の与えて下さった結婚制度 そのものは対立関係にはありません。)
 イエス様は弟子の資格を厳しく言われました:

 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26〜27)

94. クリスチャンの家庭とはどんなものですか。
    1 キリスト中心の家庭です。
    2 神の言葉と祈りとをもって、家庭礼拝がまもられる家庭です。
    3 両親と子供とが、おたがいに愛し合い尊敬し合う家庭です。
    4 ですから、いつもよろこびと幸福とにみちていて、社会に向かって強い証をする家庭です。

【解説】  クリスチャンも罪人ですから、クリスチャン家庭は罪のない理想の家庭ではありません。ですからその中に繰り返して「すみません」、また「ありがとう」と言う言葉が使わなければならない、赦し合いの家庭です。

95. 不誠実な夫と妻は、この神のきよい制定をどう思っているのでしょう。
    こういう人たちは、このいましめを軽んじて、みずから神のさばきをまねくのです。

 結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。(ヘブル13:4)

96. あらゆる不貞潔をいましめる聖書のみことばには、どんなものがありますか。

  あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男 娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9〜10)

 イエスは言われた。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)

 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)

97. なぜこの罪は、それほどけがわらしいのですか。
    ほかのどの罪にもまさって、からだもたましいもけがしてしまうからです。

  あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に 許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われ ば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すの です。(1コリント6:15〜18)

98. では、どのようにして、不貞潔から自分をまもればよいのでしょう。
    いつも注意して、祈り、不潔な欲望を起こさせるものをさけなければなりません。

 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)
 どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。ど うか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119: 9〜11)

99. 何が不潔な欲望をさそうのですか。
    食べすぎや飲みすぎ、不道徳なみだらな娯楽、よくない友達、低俗な読物、そのほか不潔な肉的な思いを起こさせるものは全部そうです。

100. 食べすぎや飲みすぎは、それ自体でも大きな罪なのではありませんか。
     もちろんそうです。食べすぎや飲みすぎは、神からの賜物を無駄にする恥ずかしい行いで、からだもたましいもほろぼして、私達を神の国から追いやってしまいます。

 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。(ルか21:34)

101. 神は第六のいましめで、私たちに何をいいつけておられるのですか。
     結婚をした人もしていない人も、言葉と行いとにおいてきよく生きることと、そして、夫と妻とがおたがいに愛し合い、尊敬し合うことです。

  あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのです か。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(1コリント6:19〜20)

 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5:21〜33)

【解説1】 結婚の諸問題

  この箇所はキリスト教的な結婚生活の源を描写します。この箇所のポイントは結婚を通してキリスト様と教会の関係を説明する事ではありません。全く逆です。 先にキリスト様とその教会の関係があって、そしてキリストにあって救われた二人が、キリストの愛から頂いてお互いに愛し合えるのです。ですから、これを見 ても霊的なレベルを抜きにして、キリスト教的な結婚が成り立ちません。ノンクリスチャンにキリスト教的な結婚を要求するのは当然無理です。

 といっても、社会的なレベルの結婚も神様の創造の秩序によって結婚として成り立ちますが、それは果たしてキリスト教的な結婚でしょうか。社会的な結婚が両者の救いによってキリスト教的な結婚に変えられる事が可能です。

  これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。 しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからで す。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。(創世記39: 7〜12)

1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。
6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。
7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。
10 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
11 ――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。――また夫は妻を離別してはいけません。
12 次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
13 また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。
14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。
15 しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。
16 なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(1コリント7:1〜16)

【解説2】   現代に似て、性的に乱れたコリントの町に住んでいたクリスチャンの間に結婚に関して重大な問題が発生して、教会の会員を一時的に教会の交わりから追い出さ なければならない手段までとらなければならないほどでした。パウロはこの箇所で結婚の諸問題について重大な教えを与えています。

 1〜2節で結婚が自由選択によるものです。独身者も結婚した人も神様の前に同じ価値のある存在です。

 3〜5節で結婚の性生活が互いの義務です。性生活は本来楽しくて嬉しいものですが、自己満足のためではなく、相手の必要を満たすために、自分が欲しくな い時にも相手の必要を考えなければなりません。肉体的に同体である事は自分の身体に対して結婚相手が権利を持つと言う関係です。結婚は行動範囲を決める結 び付きです。パウロはキリスト者にも誘惑がある事を認識して、結婚の中に互いのコミュニケーションと祈り合いの必要性を強調します。祈りの強調は結婚を霊 的なレベルまで考えなければならないことを教えます。

 6〜9節でパウロはもう一度結婚が自由意志による事を強調します。7節で結婚が神様からの賜物だと言いながら、独身者としての生き方も神様の賜物です。 しかし、独身者が神様の奉仕を結婚した人と違った形で出来ますが、性的な自制が必ずしも容易とは限りませんから、場合によって未婚の人とやもめの女の結婚 が独身者としての奉仕より望ましいのです。

 10節でパウロはイエス様から直接頂いた教えを教会に伝えるだけです。(ここには明確に律法の役割に対する論議が当てはまらないのです。キリスト者の行き方を語るのですから。)不貞以外の離婚はキリスト者にとって禁止です。

 11節でパウロは現実問題にぶつかります。社会の法律で認められている離婚が実際に起こります。(12節で夫婦の片方が救われてキリスト者になった場合 に、ノンクリスチャンが離婚する場合があります。その結果としてクリスチャンが不貞以外の場合にも離婚に追い込まれる事がこの罪の世の中に起こります。) 離婚がどんな理由で起こっても、パウロはキリスト者にその後の生き方として二つの可能性しか与えません。以前の配偶者と和解するか、結婚しないまま生活す るかと言う事です。社会的な基準が何であれ、キリスト者にはこの二つしか残らないのです。

 12節の「これを言うのは主ではなく、私です」と言うパウロの表現はイエス様の教えと矛盾すると言う意味ではありません。ただ、イエス様の直接的な教え がないから、イエス様の一般的な教えを特別なケースに適用すると言う意味です。しかし、私たちにとって、これはパウロを通して与えられた神様の言葉です。

 12節〜16節では片方がキリスト者で、片方がノンクリスチャンとの結婚に関してイエス様の教えが適用されます。キリスト者が結婚を大切にしなければな らないのです。結婚相手が救われるように祈り求めて行きます。難しい結婚の場合も(不貞が起こらない限り)キリスト者が離婚を求めるべきではありません。 子供達の救いもキリスト者が大切にしなければなりません。しかし、現実問題として結婚相手の救いはその相手の個人的な悔い改めにかかりますから、いくら正 しくて、愛に満ちた結婚生活を送ったとしても、キリスト者は必ずしも相手を救いに導く事が出来るとは限りません。キリスト者でない方が社会の法律に基づい て離婚を求めるなら、キリスト者にそれが禁止であっても、相手の要求に応じる許可が与えられます。しかし、そのような場合にも11節の教えは変りません。 その後の道は相手との和解か、結婚せずに生活することです。

 15節のパウロの「そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたの です」と言う教えをへんに解釈する人がたくさんいます。彼らは「信者である夫か妻が縛られることはない」と言うのは再婚してもいいと言う意味だと主張しま す。しかしこの文脈の中でそれは全く考えられない勝手な解釈に過ぎません。パウロは11節に明確に結婚しないでいるか、和解するかを言ったばかりなのに。 「縛られていない」と言う言葉はキリスト者に対する不貞以外の禁止に縛られていないと言う意味は文脈で明確です。キリスト者が離婚を望まなくても、ノンク リスチャンの相手が離婚を要求するなら、責任がキリスト者の側にはないと言う意味です。

102. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
     隣人に対してきよい思いを持ち、きよい行いをすることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

第七のいましめ 

あなたは盗んではならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、となり人の金や品物をうばったり、又はにせ物や不正なあきないで、もうけたりしないで、むしろ彼の財産や生活をさらによく助けてまもってやらなければなりません。

【解説】   聖書によると財産は神様から与えられた預かり物で、最終的な所有者は神様ご自身です。ですから、人からの盗みは神様から頂いた物を奪う意味で、神様に対す る罪です。その反面に財産は神様から愛の道具として使うべき良い物で、聖書は貧乏な生活を美化する訳ではありません。ただし、神様が与えて下さった賜物が 神様より大切になって、偶像化する恐れがあります。ですから、神様から頂いた物を神様に返さなければならない姿勢で財産の管理をすべきです。旧約聖書の中 に神様の祝福は物質的な豊かさとしてよく出ます。しかし、ポイントは金を持つ人がその金を神様の前にどのように使うかと言うところにあります。

103. 盗むとはどんなことですか。
     たとえどんな小さなものでも、隣人の意思にさからって、その持物をうばうことです。

104. 盗みには、どんなやり方がありますか。
     1. 正しい権利を示そうともしないで、隣人のお金や持物をとろうとするような、直接盗むやりかた。
     2. ごまかしの取り引きによって、ほかの人の財産をうばおうとするような、かくれたやり方があります。

  あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエ パ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。(レビ記19:35〜36)

105. このいましめに対する罪は、普通一般に行われますか。
      行われています。どんなことであっても、不正直は盗みだからです。

 13 「ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、14 『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう。』と言う者。15 あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。16 彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ。―― 17 しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。(エレミヤ22:13〜17)

【解説】   一昔一番頻繁に起こる盗みは雇い主の電話を勝手に個人的に使ったり、雇い主の用紙や鉛筆などを勝手に使ったりすることでしたが、現在は著者権違反が一番頻 繁に起こる盗みでしょう。特に音楽、ビデオ、コンピュータのプログラムの著者権違反は平気で、全く罪意識がないままで行われるのは目立ちます。他の人のア イデアなど、情報に関する盗みも特に増える傾向にあります。税金だまし、又借りた物の返しを怠る事もよくある盗みです。

106. 盗人の仲間になることも罪ですか。
      そうです。たとえ仲間であっても、盗人と少しも変わりがないからです。

 盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。(箴言29:24)

【解説】  特に会社ぐるみで不正が行われる時にクリスチャンとして正しい良心を保つ事は激しい戦いに導く場合がありますが、たとい首になっても不正に賛成すべきではありません。

107. すべての強盗や盗人の上に、神はどのようなさばきをお与えになりますか。
     このような人たちは、神の国を嗣ぐことがゆるされません。

 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:10)

108. 自分の持物ならば、自分で好きなようにしてもよいのですか。
     いいえ。私たちは神様の賜物の管理人なのですから、後の世でその使い道を報告しなければなりません。持物を無駄にしたり、よくばってふやそうとしてもなりません。

 14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。 18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに 五タラントもうけました。』 21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをと もに喜んでくれ。』 22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』 23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをと もに喜んでくれ。』 24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていま した。 25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』 26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』 29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。 30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ25:14〜30)

【解説】   かなり多くのクリスチャンはその収入の10%を神様の働きの為に定期的に献金として捧げます。多くの日本のクリスチャンがこの点で模範的な献金を捧げま す。しかし、そうしたら、後の90%は自分が勝手に使ってもよいと考えるクリスチャンがいます。しかし、神様に捧げた10%の管理責任は教会やミッション や諸組織に委ねる事になりますが、残りの90%は依然として神様から頂いた預かり物で、その使い方の責任は本人に残ります。それを家族や隣人や一般の社会 の中に神様に喜ばれるように使わなければなりません。

109. 神様は私達をどんなものの管理人になさったのですか。また私たちは、いつも、どんなものを神様にかえすように心掛けなければなりませんか。
     神様は私たちに時や才能や財産を与えて下さいました。こういうものを、いつでも神にかえすようにしなければなりません。

 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:2)

110. 何かほかの人のものをとってしまったと分かったならば、どうするのが正しいことですか。
     まずそれをかえしてから、自分のでないものをとったことにたいして、その人にゆるしを願わなければなりません。また、とったものがそこなわれたり、へったりしていたならば、そのつぐないをしなければなりません。

 1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。 2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」  6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。 8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四 倍にして返します。」 9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:1〜10)

111. 神は第七のいましめで、私たちに何をいいつけておられますか。
     私たちが、あらゆることについて正直で、利己的な心を持たないこと、隣人の財産や生活を、すすんでまもり、助長してやることです。

 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ4:28)

 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(1ヨハネ3:17)

112. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
     隣人をたすけ、その持物をまもってやろうとすることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

【解説】   海外で経済的に困っている人々を助ける活動はこのいましめをまもる心から生まれます。自分の国の経済的な発展を求める事自体は間違っている訳ではありませ んが、もしそれが貧乏な国々を犠牲にして、又無視して行われるなら、組織的な盗みに当たります。貧乏な国からもっと豊かな国に生活の改善を求めて来る人々 に対する愛もこのいましめの範囲内に属します。

第八のいましめ 

あなたは隣人について、偽証してはならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、となり人をだましたり、裏切ったり、悪口をいったり、あるいは悪い評判をたてたりしないで、むしろ彼を弁護し、ほめ、そしてなんでも善意に考えて行かねばなりません。

113. 第八のいましめで、神は何を禁じておられますか。
     1.神は私たちが、法廷で、隣人に対して不真実をのべることを禁じておられます。

 偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。(箴言19:5)

     2.私たちが隣人にそむくこと、つまり、隣人についてうそをいったり、隣人にむかってうそをいったり、また、隣人を傷つけるために、真実をいうことをさしひかえたりすることを禁じておられます。

 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ4:25)

  8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しな さい。」 11 そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行 なった。12 彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。13 そこに、ふたりのよこしまな者がはいって来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々 は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。(I列王記21:8〜13)

     3. 私たちは隣人を裏切ること、つまり隣人の秘密をあばいたりすることを禁じておられます。

 歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。(箴言11:13)

     4. 私たちは隣人の悪口をいったり、その名誉をきずつけたりすること、つまり、隣人について悪いことをいって、そのよい評判を害したり、そこなったりすることを禁じておられます。

 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(マタイ18:15)

 名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。(箴言22:1)

 6 その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた。 2 アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとり ひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、 3 アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、 4 さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正 しくさばくのだが。」と言っていた。 5 人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。 6 アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。(IIサムエ ル15:1〜6)

     5. 私たちは隣人にむかって悪い考えを持ったり、隣人をおとしいれたりしようとすることを禁じておられます。

 互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ。――(ゼカリヤ8:17)

114. 舌の用い方について、神はどのような注意をあたえておられますか。
     ヤコブの手紙3:2〜12にあるように、いつも用心して、ひきしめていなければなりません。舌は、決して人々の悪いことを語るべきものではなく、いつもよいことを語るべきものだからです。

 2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるので す。 5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。 8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。 11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を 出すこともできないことです。(ヤコブの手紙3:2〜12)

115. たとえ本当のことでも、隣人のあやまちや欠点を話しあうことは罪ですか。
     そうです。隣人を傷つけようとしたり、かるはずみで、うわさずきのために、思いやりのない心から出たのであれば罪です。

34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。 35 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。 36 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。 37 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34〜37)

116. かげ口は、習慣でするにしても罪ですか。
     そうです。おそろしい罪です。 かげ口はたくさんの人をそこなうからです。特にかげ口が習慣になってしまうと、なおさらいけません。それは、罪に私たちの心を支配させていることのあらわれだからです。

 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6:37)

 そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。(Iテモテ5:13)

117. 神は第八のいましめで、私たちに何をいいつけておられますか。
     私たちが、いつも真実でなければならないこと、真理がゆるすかぎり、隣人をゆるしてやり、隣人についてよいことを話してやり、隣人の行いをできるだけよくとってやらなくてはならないことです。

 1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(Iコリント13:1、4〜7)

118. このいましめが求めている本質的なことがらは何ですか。
     私たちの言葉でも行いでも、すべて隣人のすることを、できるだけよくとってやろうとすることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

【解説1】   現代社会はうそに満ちています。政治の世界で悪口は正当化された手段と認められているぐらいです。うその代表的な形は大げさに言う事か小さ過ぎて物事を言 う事です。(新聞とニュースは真実を語るつもりで、多くの場合バランス感覚に欠けて、小さい事を大きくして、大切な事を小さすぎて報道する傾向もうその世 界の現れです。三浦綾子さんは「新聞を読むときに特に小さい見出しに注意して下さい。それらのニュースは大きな見出しより大切である場合が殆どです。」と 言われた事を思い出します。おべっか、お世辞、物事を一方的に話すこと、言うべきときに黙ること、表情で言う内容を否定するなど、うその種類は様々です。 困った時のうそは非常によく起こります。仮面をつけて、人生を芝居として生きている人も多いです。本音の代わりに建前を語る事も多くの場合にうそに過ぎま せん。自分自身を騙す事も最もよく起こるうそでしょう。多くの人々は自分自身のうそにたいして盲目です。無駄な話もうその一種です。(ユーモアーはうそと は限りません。かえって冗談は心を開いて、真実を語る道備えになりうるのです。ただし、汚いユーモアはうそに当たります。)

【解説2】  私の学校時代のキリスト教の先生は繰り返して次の事を強調しました:
 「真実を語りなさい。全部の真実を話しなさい。又真実だけを語りなさい。」 部分的な真実を語る人はうそを言う意識があまりありませんが、場合によって 関心の部分を話さない事は真っ赤なうそより遥かに悪い事です。あいまいな話し方も多くの場合にうそに近い事になります。

【解説3】  最も恐ろしいうそは異端です。その特徴は神様のみ名を使ってうそを語ることです。異端の特徴は聖書を偏って用いるところにあります。

【解説4】  愛のない真実は残忍です。真実のない愛は甘えにすぎません。

【解説5】  いつも真実を語ると自由を得ます。純粋な生き方は色々の顔を見せなくてもよい、開放した生き方です。真実で語る条件は、神様のみ前で自分自身についての真実を認めて、十字架の愛の故に赦して頂く事です。

第九のいましめ 

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、となり人に対して、その遺産や家を、悪だくみをもってねらったり、或は法律を口 実にして、それを自分のものにしたりしないで、むしろその人が、それを所有する事が出来るように、助けてあげねばなりません。

119. 第九のいましめで、神は何を禁じておられますか。
     むさぼること、つまり、どんなものでも、隣人のものにむかって、罪深い欲望をもつことを禁じておられます。

120. むさぼりの罪は、どこから来るのですか。
     よくばりの罪から来ます。むさぼりは、よくばりの罪と、密接な関係があります。

 この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。(箴言21:26)

121. なぜむさぼりは罪なのですか。
     むさぼりは私たちの心を支配して、その結果、むさぼることにいそがしくて、神のことを考えたり、神のために生き、神のためにはたらいたりする時間をなくしてしまうからです。

  自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこで は、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19〜21)

 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)

122. 神は第九のいましめで、私たちに何をいいつけておられるのですか。
     私たちの心が、きよいねがいによってのみみたされて、その結果、私たちがすすんで隣人をたすけ、隣人につかえて、その遺産と家とをまもってやることです。

  しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣 食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1 テモテ6:6〜10)

 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にい る道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてく ださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:11)

 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)

【解説】   現代のいわゆる競争社会を動かす力はねたみと欲張りでしょう。罪は恐ろしい力を持っています。決してただよい事にかけているものだけではありません。ねた みの力は経済を立てて、国を繁栄させて、競争力を強化して、文化を支えています。ですから、多くの人はねたみを肯定的な原動力としてさえ見ています。しか し、その同じねたみは自分よりもっと成功する人を憎んだり、恨んだり、破壊しようとしたり恐ろしい力です。ねたみは憎しみと恨み経由で暴力、戦争、殺人、 自殺まで人々を吸い込むとする恐ろしい力です。

 お金をあいする人は結果として人間を愛する事が出来なくなってしまいます。欲張りは相手の人間を道具化して、お金をえるための手段にしてしまいます。相 手の人格が見えなくなります。その結果もっとも親しい人間関係も駄目になりうるのです。遺産争いで親しいはずの兄弟姉妹たちが敵みたいな間柄になる場合を よく見られます。
 日本でよく商売敵と言う言葉が使われます。つまり、競争相手のカスタマーを自分の方に引っ張って行けば勝利です。出来れば競争相手をつぶして、独占的な 立場に走りたいのですが、実際に競争相手がうまく行く場合に自分の商売も繁盛する事がデーターでも実際体験からも裏付けられます。競争心そのものは罪では ありません。(「互いを尊敬しあう事で競争しましょう」と言う聖書の箇所があります。)

 神様とその義を求める所に神様は私たちの必要を満たす約束をなさいましたが、それは神信仰を経済的な利益の最も効果的な手段と考えたら、大間違いです。 私たちの全ての財産は結局神様のもので、私たちに一時預かりとして、用いるために与えられたに過ぎません。ですから、ジョン・エリオット宣教師の言葉を しっかり覚えた方だよいと思います:「何時かとにかく渡さなければならないものを今渡して、それで決して失う事のない永遠の財産をえようとする人は愚かも のではありません。」

第十のいましめ 

隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ロバ、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。家をむさぼってはならない。

これはどんな意味ですか。
答え   私たちは、神を畏れ、愛さなくてはなりません。それで私たちは、隣人に対して、その妻、しもべ、または家畜を、そそのかしたり、うばったり、そむかせたりしないで、むしろ彼らが止まって、そのつとめをはたすように、引きとめなくてはなりません。

123. 第十のいましめで、神は何を禁じておられますか。
     神は第十のいましめでも、むさぼりの罪を禁じておられます。特に、隣人の妻やしもべや家畜を引きはなそうとするむさぼりを禁じておられます。

  ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから 女は自分の家へ帰った。(IIサムエル11:2〜4)

124. 神は第十のいましめで、私たちに何をいいつけておられるのですか。
     私たちの心が、きよいねがいによってのみみたされて、その結果、心から隣人によいことをのぞみ、隣人の幸福を喜び、できるだけのことをして、その持ち物をまもってやることです。

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(ローマ13:8)

 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。(1コリント10:24)

125. 第九、第十のいましめが求めている、本質的なことがらは何ですか。
     この世のものではなく、神についてのことがらを考えることによって、神への愛と隣人への愛とをあらわすことです。

【解説】   ねたみの反対は相手の持物や成功や繁盛を喜んで、神様に感謝する姿勢です。自分ではなく、他の人に起こったよい事を感謝出来る心には感謝や喜びの課題は尽 きません。悪い欲望を消すことは不可能ですが、悪い欲望をよい欲望で乗っ取る事が聖霊様の助けによって可能です。それと同時に神様がその大きな恵みによっ て私たち自身にも与えて下さった多くの物質的や霊的な恵みを見落としてはいけません。

律法についての神の教え

126. それでは、神は、そのきよい律法の中で、私たちに何を求めておられますか。
     すべて私たちの思いと、言葉と、行いとにおける完全な純潔と、きよさです。

 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10)

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

神はこれらすべてのいましめに対して、何といわれますか。
答え  神は次のようにいわれます。

 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5〜6)

これはどんな意味ですか。
答え  神は、これらのいましめを犯すすべての人をさばくと、警告なさいます。それ故、私たちは、神の怒りの前におそれおののいて、このいましめにそむい てはなりません。しかし、神は、このいましめを守るすべての人々に、めぐみとさいわいとを約束して下さいます。故に私たちもまた、神を愛し、信頼し、そし て、喜んで神のいましめを守らなければなりません。

127. これらの言葉の中で、神は何を私たちに教えておられますか。
     神はねたむ神であり、その聖なる怒りによって、あらゆる罪を罰せられるという事実を教えておられます。

【解説】   主イエス・キリストの十字架による神様の恵みはいましめをやぶった人を神様のみ怒りの下から神様の祝福の下に移しますが、それは以前の罪の結果をなくすと いう意味になるとは限らない面があります。例えばダビデ王は姦淫と殺人の罪を犯しましたが、神様のみ前に悔い改めて赦されました。しかし、殺された人は殺 されたままで、神様の最後の裁きの前の復活によって最終的に罪の結果が取り除かれますし、ダビデ王の家族の中にそれからトラブルが後をたちませんでした。 しかし、そのトラブルの結果ダビデ王はそれから謙遜の道を歩まなければならなかったから、その罪の結果が神様の恵みによって彼の永遠の祝福になりました。 ですから、律法を破った事によるのろいの結果と神様の恵みによる赦しと祝福が同時に起こり得ます。しかし、祝福が遥かに大きいから、のろいの結果をも益に 変えて下さいます。

128. 罪とは何ですか。
     罪とは、神の律法にそむく全てのことです。

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。(1ヨハネ3:4)

 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(ヨハネ16:9)

 そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。(ヨシュア9:14)

【解説】   罪とは字から見ると四つの非です。不法で、不義で、不信で、不善です。不法は神様の掟を無視した生き方です。不義は積極的に不平、不正を行ったりする生き 方です。不信は神様に背を向けて、神様の言葉を信用しないで、自分勝手な生き方です。不善は示すべきよい行いを怠る愛のない生き方です。

129. 原罪とは何ですか。
     生まれながらの腐敗、深い堕落、悪にかたむきやすい私たちの性質です。

 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5)

 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)

 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。(創世記5:3)

【解説】   聖書が教えている原罪は日本文化に合わない事で、多くの人にとってつまづきのようです。日本の土壌で人間は本来罪のないものとして生まれて、色々の家庭 的、社会的などの影響で罪がほこりのようにそのよい心を暗ませる事になりますが、桃太郎の話の通りに悪い鬼たちさえ心を変える事で元のよいものに成り得ま す。しかし、1歳の子どもを見ても、2歳の子どもを見ても、生まれ付きの罪深さが我侭、喧嘩、妬みなどの形で早く現れてきます。

 しかし、聖書によると、原罪は人間のもともとの状態ではなかったのです。神様は人間をよいものとしてお作りになりましたが、人間は自由意志で罪を選びま した。しかし、一旦罪を犯せば、罪の虜になって、またその罪は遺伝的に全人類に広がっただけではなく、罪の裁きも全人類ののろいになっています。

 原罪の為に人間は自分自身を罪から救う事が出来なくて、また原罪はあらゆる実際の罪の源です。キリスト教的な教育の出発点は人間の原罪を認める事で、教 育の力で原罪から開放できませんが、教育である程度まで実際の罪の表れを抑える効果があります。しかし、もっとも深い意味で、教育の前提は先ず子どもを神 様の救いに導いて、そして聖霊の力で罪との戦いが本質的に可能になります。

130. 実際の罪とは何ですか。
     原罪から出てくる悪い思い、欲望、言葉、行いなどすべてです。

 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:15)

 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21〜23)

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、 遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相 続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガ ラテヤ5:19〜23)

131. よいことをしないのも、悪いことをすると同じ罪ですか。
     もちろんそうです。

人が、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』(マタイ25:41〜45)

132. 神の子たちは、いつも天の父のみこころにかなうような生活をしていますか。
     神の子たちは罪を憎み、心から神のいましめを守ろうとつとめています。けれども、それとともに、自分は毎日罪をおかし、そのうちにある新しいいのちの弱いものであるということを経験します。

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。(詩篇19:12)

 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ローマ7:15〜19)

133. 自分の中に罪を見つけた時、神の子たちはどのように感じ、どのようにふるまいますか。
     深くなげいて神のゆるしを求め、心からその罪をとり除かれるようにねがいます。

 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:1〜4)

134. この世の子たちは、罪に対してどのように感じ、どのようにふるまいますか。
     罪の中にたのしみがあり、神のゆるしを求めようとしません。

 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19〜20)

【解説】   クリスチャンとノンクリスチャンの違いは生き方の清さでそれほどはっきり現れない場合がありますが、自分自身の罪に対する態度が大いに違います。クリス チャンにとっても誘惑は魅力的な形で近づく場合がよくありますが、罪を犯した場合に内住の聖霊様は悔い改めに攻めて、罪を悲しむ心を生んで下さいます。 (その聖霊の働きにクリスチャンも抵抗する場合があり、頑なになって、信仰生活から外れる恐れがありますから、早く悔い改めるように致しましょう。)

135. 神のいましめをいかす人たちに対して、神は、どのようにして、神をおそれさせになりますか。
     神は必ずその人たちにのぞまれます。すなわち、その人たちの不義を罰しなさいます。

 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル18:4)

136. 神はどのように罪を罰しなさいますか。
     からだもたましいも、現在から永遠にわたって。

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

137. すべて神のいましめをまもる人たちに、神はどのようなよいことを約束して下さいますか。
     千代にいたるまでも、恵みをほどこすであろうということです。

 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:6)

138. ここではめぐみとは、どういう意味ですか。
     たましいとからだのための、現在から永遠にわたるあらゆる祝福です。

  それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために 守り、 あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、 新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。 あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。 主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下 す。(申命記7:12〜15)

139. それならば、律法は、どのような救いの道を、私たちにさし示してくれるのですか。
     私たちがこのいましめをまもるなら、救われるであろうということです。

  すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう か。」 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽 くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ10:25〜28)

140. けれども、神のいましめを完全にまもることによって、神のみ前に義とされ救われる人がありますか。
     いいえ、一人もありません。人みんな罪人で、律法の成就である愛に欠けているからです。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、…(ローマ3:23)

 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。(ガラテヤ3:11)

141. では、神は、そのみ言葉の中に、罪人が神のみ前に義とされ、救われる道を示して下さいますか。
     そうです。神の聖なる福音の中に、福音は、キリストが私たちに代わって律法を成就し、私たちの代わりに苦しみを受け、死んで下さったということを告げてくれます。

 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)

142. 小教理問答書では、どこで福音をとりあげておりますか。
     第二部以後でとりあげています。

【解説1】 一言で言えば、律法は神の要求であり、福音は神様のプレゼントです。

【解説2】 律法と恵み

律法
律法は神様の聖なる御心を表す啓示(神様が御自分を私達に示して下さる働き)です。イエス様はその律法の下に御自分を置いて、それを完全に従いしながら、 その最も深い要求をも教えてくださいました(マタイ5,6,7章を参照に)。憎しみは殺人の罪であり、汚い視線は姦淫であり、「本当にそうです」と言う言 葉は不誠実の証拠であり、愛は不義に親切で答えるなどです。律法の要約「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)

律法は永遠に変らないものです。神様が永遠ですから、その清い御心も永遠です。神様の御国でその御心が成就します、そこで真実、清さ、愛、正義、栄光、慈しみ以外に何もありません。

律法には三つの役割があります。先ず社会の法律の価値基盤を提供します。国会は神様の律法に従うか従わないかと問わずその上には神様の律法があります。律 法の第二の役割は人にその罪と罪がもたらす処罰を示す使命です。第三の役割はクリスチャンを愛の実行に導く使命です。これらの役割においてポイントは律法 の文字ではなく、律法を与えて下さった神様との関係です。

律法の役割
律法は決して理論的な考えのレベルのものではありません。具体的に律法に従わなければ、その役割を果たすことが出来ません。私達は律法を知らなければなら ないし、それを教えなければなりませんが、第一にそれに従わなければなりません。しかし、もう既に指摘した通りに律法は救いの道として与えられた訳ではあ りません。イエス様以外に律法を完全に守った人は罪堕落以来誰一人もおりません。肉、即ち神様に敵対する古い罪深い性質が全てのクリスチャンにも依然とし て残っています:

 「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:21)

「と いうのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行し なければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって 生きる。』のだからです。しかし律法は、『信仰による』のではありません。『律法を行なう者はこの律法によって生きる』のです。キリストは、私たちのため にのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いて あるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受ける ためなのです。(ガラテヤ3:10ー14)

100%の要求
律法に従うことは部分的に出来ません。神様が言われた事を完全に守るか、守らないのか、どちらかなのです。たとい10%しか守らなかったと思っても、 100%の罪です。神様の言われる通りかあなた自身の思う通りかです。自分自身のたとい一番小さい所でも神様の上に置けば、高ぶりの最も恐ろしい罪を犯し ます。罪の大きさは誰に対して犯したかと言う所にあります。永遠の神様の永遠の律法を破るのは永遠の大きさの罪です。ギリシャ語の罪を表すハマルティアと 言う言葉は的外れと言う意味です。弓と矢で飛んでいる鳥を討とうとしたら、当たるか当たらないかの二つの可能性しかありません。罪深い人間が律法を守って 自分を救おうとしたら、結果は呪いと奴隷状態だけです:

  「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひ とりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このこ とには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤ にあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であ り、私たちの母です。」(ガラテヤ4:21ー26)

救 いは一方的なキリスト様の十字架と復活の御業によってプレゼントされる罪の赦しとキリスト様の完全な義を信仰によって与えられる恵みによってしかありませ ん。恵みによって救われたクリスチャンにも肉が留まります。罪赦された時に与えられた聖霊様の新しい命が注がれますから、キリスト様がクリスチャンの内側 から働き出して、聖霊の実を結び出します。しかし、罪深い肉も残りますから、全て聖霊様が結んだ愛、喜び、忍耐、親切などの行動に必ず罪深い肉の影響もで ますから、最も素晴らしい行為の後でも、クリスチャンは自分の罪を告白して悔い改めなければなりません。救われたクリスチャンもいつまでもただキリストの 義が信仰によって与えられた事を頼りにしなければなりません。一番立派なクリスチャンもその愛による行為を神様の前に救いの根拠または救いを確かめる理由 として提供する事が出来ません。キリスト者が清い生活を求めるのは救われる為ではなく、救われた故です。

裁きの要求と福音の賜物
神様の清い律法は全ての罪に対して正しい裁きを要求します。神様はどんな罪にも耐えることが出来ません。罪は処罰されなければなりません。聖霊の働きを頂 きながらも、したくても律法の要求に応える事の出来きないクリスチャンは安心出来ます。それは救いは律法によらないで、福音によるからです。福音の道に律 法の要求は最早及ばないからです:

  「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリス トが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているの です。」(ガラテヤ2:19-20)

  「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖 い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御 霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(ガラテヤ4:4ー 7)

律法によって律法に死ぬ事
救われたクリスチャンは律法によって律法に対して死んでいます。律法は死刑と永遠の滅びを要求しました。しかし、キリスト様は私の身代わりとしてその死刑 と永遠の滅びを終わりまで経験して下さいました。(死と言う言葉は聖書の中に普通の肉体的な死と言う意味で使われることもあれば、最も根本的な存在が続き ながら受ける処罰を受ける意味でも使われます。この個所では後者の意味です。)律法はイエス・キリスト様を殺し、しかし洗礼で私がキリストに結び合わされ たから、私もキリストと共に死んで滅びの処罰を受けました。ですから私の受けるべき死はもう済んでいます。律法の処罰における要求が満たされました。それ 以上にもう要求がありません。イエス・キリスト様が私の死と滅びを経験して下さるだけではなく、私に代わって完全な律法に従った生涯をも過ごしました。キ リストのこの完全な生涯は私の生涯として見なされます。ですから、律法が要求したものが全部満たされていますから、もう私は律法と関係のない生活を送って もよいのです。

律法の終わり
キリスト様は律法の終わりです。ですからキリスト者の救いの確信は自分の行き方に少しもかかりません。キリスト様の完全な救いの御業にかかっています。キ リスト様が聖霊によってキリスト者の内に住んでおられますから、彼の命はキリストの命です。罪深い肉が反発を繰り返しながらも、キリスト者は絶望する必要 はありません。肉はもう既にキリストと共に十字架につけられているからです。即ち、肉が生んだ罪とこれから生もうとする罪はもう既に処罰されているからで す。罰はもう済みました:

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)

第二部 使徒信条

はじめに

143. 信条とは何ですか。
     人が何を信じているかということを、のべたものが信条です。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:13〜16)

144. キリスト教会で、一番よく知られている信条は何ですか。
     キリスト教会で一番よく知られている信条は、使徒信条で、初代教会のころからありました。今でも、キリスト教会を通じて、ひろく一般に用いられています。

145. では、なぜこれが使徒信条とよばれるのですか。
     使徒たちが書いたから使徒信条とよばれるのではなく、その内容が、使徒たちが信じ、教えていた教理を短くまとめたものであるから、そうよばれるのです。

146. 使徒信条は、いくつの部分にわかれていますか。
     神の三つの人格である父と、子と、聖霊とに従って、三つの部分にわかれています。

147. そのひとつひとつのところで、なぜ「私どもは信じます」と言わないで、「私は信じます」といっているのですか。
     だれでも、自分で信じなければなりません。ほかの人の信仰で、救われる人はないからです。

 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ7:50)
 8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。(マタイ25:8〜12)

148. 一人以上の神がありますか。
     いいえ、ただ一人、まことの神があるだけで、そのほかには、どんな神もありません。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6:4)

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:3)

149. 神にはいくつの人格がありますか。
     三つあります。父と子と聖霊とです。この三位は一体で、本性と尊厳とは、それぞれがまったく同じです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行っ て、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守 るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18〜20)

【解説】   信仰告白は人々に対する自分の信仰の表れだけではなく、神様に対する告白でもあります。信仰告白はそういう意味で賛美の一種と考えても差し支えはありませ ん。愛する人にその素晴らしさを語ると似ている面があります。ですから信仰告白はどうしても深い個人的な確信からでないと駄目です。恋人に対して「私たち 皆あなたを愛している」と言えません。「私があなたを愛しています」と言うと同様にたとい世界で神様を信じる人がいくらあっても、信仰告白は私の個人的な 愛の表れです。ですからその前提は個人的な救いなのです。礼拝の中に多くの人々と一緒に告白しても、信仰告白はいつも個人的な愛の告白でもあります。と同 時に信仰告白は祈りでもあります。「主よ、丁度あなた様のような真の神様は私に絶対に必要です。私はあなたの者で、あなたに仕える者です」と言う意味合い を含んでいます。

第一条 創造について

私は天地のつくり主、父にいます全能の神を信じます。

これはどんな意味ですか
答     私は、神がすべての物と共に、私をつくって下さったことを信じます。神は私のために、体と魂、眼と耳と両手両足、理性と凡ての感覚を与え、今もな お支えて下さることを信じます。その上に神は着物とはき物、食物と飲み物、家と屋敷、妻と子供、田畑と家畜とすべての財産とを、体と生活のために必要な凡 てと、栄養とにそえて、毎日豊にあたえ、あらゆる危害から保護し、又凡ての悪からまもり、防えいで下さることを信じます。そしてこのすべては、全く、私の ねうちとか、いさおしとかによるのではなくして、純粋に、父としての、神の慈悲と憐れみによるのであります。これらすべてのことに対して、神に感謝し、神 を讃美し、又奉仕し服従することはなさねばならぬことであります。これは確にまことです。

150. あなたが、父にいます神を信じるとは、どういう意味ですか。
     神がイエス・キリストの父であり、また私の父であることを信じて、心からの信頼をもって、神のめぐみと愛とに自分自身をまかせきるという意味です。

 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、 彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(ヨハネ20:17)

 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(エペソ3:14〜15)

 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3:26)

天地創造

151. なぜ神は、天地の創り主と呼ばれるのですか。
     神が、その全能のみことばによって、世界とその中のすべてのものを、お創りになったからです。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1〜3)

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩篇33:9)

 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(へブル11:3)

 創世記1:1〜2:3
 1:1 初めに、神が天と地を創造した。 1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
 1:6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。 1:7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。 1:8 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。
 1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。 1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。 1:12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。 1:13 こうして夕があり、朝があった。第三日。
  1:14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 1:15 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。 1:16 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。 1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、 1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。 1:19 こうして夕があり、朝があった。第四日。
  1:20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。 1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見 て、それをよしとされた。 1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 1:23 こうして、夕があり、朝があった。第五日。
  1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そ して彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せ よ。」 1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたが たの食物となる。 1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのよ うになった。 1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
  2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

【解説1】   神様が人間を御自分の形に創造された事からは、人間を知るために先ず神様の性質を見る必要があると分かります。神様に上記に使わされた動詞からもともとの 人間の性質を見ましょう。(罪の結果後で人間のこれらのすべとの性質が堕落しましたが、不完全な形で今も人間の初めの素晴らしい性質について語っていま す。)

創造する: 神様が創造的なお方だから、人間も創造欲を持っています。音楽や美術や芸や小説や詩などを無から有を作る意欲が強くて、その意欲を発揮できない時に不満を感じます。(動物には創造能力がありません。)

動く:神様は活動的な、活発なお方です。ですから人間も活動的な存在です。

おうせられる:  神様は言葉をもって語っておられます。言葉は意志や理性や愛の伝達の手段だけではなく、言葉にはいつも情報が含まれます。神様の言葉は神様の知恵からの情 報と神様の力を含めて創造の手段です。神様の言葉は今もその働きをなさいます。救いも神様の言葉によるものです。言葉は人格を伝える手段ですから、人格の 表れです。神様は人格的なお方だから、人間も人格として創造されました。

よしと見られた:  神様は価値判断をなさる方ですから、人間も何が美しいか、何が醜いか、何が正しいか、何が正しくないか判断できる存在として創造された。道徳的、美的、機 能的価値判断は人間の特徴です。罪以前にその基準を神様においたから、その判断も正しかったのです。価値判断出来る能力は自由の前提でもあります。人間は 神様の基準に従える自由の持ち主として創造されました。

名づける: 名前をつける事は研究する事の結果です。好奇心、探検心、神様のみ業を研究するのは創造において人間に与えられている使命です。学問、学び、技術発展などは人間の使命の一部でありながら、大きな楽しみでもあります。

区別する:  神様はその創造を互いに関係にある別々の物として作られました。総合的な関係は創造主御自身によって成り立っています。区別できる能力は物事の互いの関係 を理解できる考える能力を意味します。神様は考えるお方だから、人間も考える事が出来る者として理性的な存在に創造されました。

造る:造 ることは材料を使ってたくさんの物をこしらえる意味を含みます。神様が創造された宇宙と地球は余りにも豊かなものです。種類が多いだけではなく、その中に も凄くたくさんの互いに微妙に違うものが余りにもたくさんあります。人間も神様と同様に生産性と生産欲を持っています。

つかさどらせ、置き、照らさせる:これらの動詞は法則性を表します。神様は秩序のお方ですから、自然界に法則を定めて下さいました。同様に人間も社会の中に法則性と秩序を求めています。それは子供の遊びから、国会の運営まで明確に見えます。

祝福する:神様は愛のお方ですから、その創造された動物や人間を祝福なさいます。祝福は相手の益を求める愛の機能です。人間も元々愛する事の出来る存在として創造されました。愛されるだけではなく、愛を示したい意欲も凄く大きいのです。

完成を告げる: 神様はその創造のみ業を中途半端に終わらせるお方ではありません。凡てを完成させられたのです。人間も強い完成する意欲を持っています。完成を告げる場面も多いです。(終了式、卒業式など)。

休まれた: 神様は疲れたから休まれたではありません。完成を喜んで、楽しんで、お祝いなさったと言った方がよいでしょう。人間もその手の働きの結果を喜ぶ、楽しむものとして作られました。活動性と休むことのバランスの中に生きるものとして創造されました。 

創世記2:4〜25
  4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、 5 地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。 6 ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。 7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 11 第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。2:12 その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。 13 第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。 14 第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
 15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
  18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人 が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」 24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

【解説2】   創世記1章は人間を神の形として描写しますが、2章は人間を神様と他の人と自然との関係の中に生きるものとして描きます。人間は字から見ると「人」と 「間」から出来ています。人は神様と人と自然との関係の中に初めて人間として成り立ちます。罪堕落の結果、これらのすべての関係に大きな問題が生まれまし た。(罪の定義の一つは次のように言えると思います:「すべて人を神様と他の人とから切り離すものは罪です。」) 主イエス・キリストにある救いは私達を 最終的にこれらのすべての関係において正しい関係に戻します。

@ 神様との関係: 私たちは人と神様との関係を人間中心的に考えがちですが、この関係は神様から始まって、神様の方から見るべきです。神様は人間を創造した時に人間のすべての必要を完全に満たして下さいました:

(1) 人間は土と神様の霊から出来ています。肉体であり、霊的なものとして創造されました。体と霊の合う所を魂と定義したら、三つの部分から出来ていま す。体は霊と魂の動きを表現する手段で、魂は精神的な営み(感情、意志、理性など)の場で、霊は神様とのコミュニケーション(価値、信仰、良心)の場で す。この三位一体の人間は神様の三位一体の表れでもあります。罪堕落ですべての部分に致命的な欠陥が生じました。人間は罪の結果自分の統一性、アイデン ティティーを失いましたが、キリストにある救いはそれを治します。ですから、救いはただ魂と霊の救いだけではなく、体まで及ぶ復活における全人格的な救い です。

(2) 神様は人間の為にエデンの園、パラダイスの完全な環境を与えて下さいました。食べ物や使命や家族を与えて下さいました。働くことはパラダイスでは苦労ではなく、喜びに満ちた生き甲斐でした。

(3) 人間は始めから有限で、限られた存在として作られました。神様が全知でおられて、人間は物事を部分的にしか分からないものとして作られました。し かし、神様から頂いた理性を活かして、研究と言う手段をもって、神様のみ業を学んで知識と知恵を増す事の出来る人間として創造されました。しかし、人間の 営みで得られない知恵と情報が人間に始めから必要でした。そのために神様は始めから言葉を交わして人間とコミュニケーションをし続けました。神様の啓示、 言葉は神様の人格的な愛を伝える手段としても人間に必要でした。

(4) 神様は始めから人を他の人を必要とするものとして造られました。それはこの地上だけではなく、永遠のみ国でも救われた人々は神様だけではなく、救 われた他の人々の交わりの中に生きるものとして創造されました。神様と人間の関係は家族の延長のような形で表現されていることはその事を物語っています。

(5) 神様は人間を価値判断が出来るものとして創造されました。しかし、その価値判断の基準は神様ご自身が定めて下さいました。罪の本質は、人間は神様 の基準を捨てて、自分自身にその基準を奪ったと言う事でした。善悪を知るための木はなぜ禁じられたかと言うとそれで善と悪が存在して、そしてその基準を神 様の言葉から求めるべきと言う目的で与えられました。(人を殺して、人殺しは酷い罪と分かるに間違いはありませんが、人を殺さなくても神様の基準から分か る事が出来ます。)

(6) 人間は自由な存在として創造されました。動物などは価値判断が出来ないから、神様の素晴らしいプログラムに動いているものですが、人間に自由が与 えられるのは人間が自発的で、人格的な愛を示す事が出来るためです。自由のないところに愛が有り得ないからです。神様は愛であり、神様の形として作られた 人間も愛するものとして造られましたが、罪の為に自由を失って、愛する事も最も深い意味で不可能になりました。キリストにある救いは人間に自由と愛を戻し ます。

A 自然との関係: 
(1) 神様は人と自然との関係を総合依存として創造なさいました。パラダイスを耕して、利用して、開発して、食べ物、生活に必要なもの全部備えられまし たが、その反面に自然を守る使命も与えられました。罪堕落の後で人間は一方的に、利己的に自然を使ってきましたが、守る使命を怠って、現代の環境汚染、公 害、温暖化問題などを起こしてしまいました。

(2) パラダイスを耕して、守るだけではなく、神様が創造なさった被造物を研究する使命も人間に与えられました。動物との関係は家畜などの利用面だけではなく、ペットとして可愛がる使命も人間に与えられました。

 罪堕落の結果、神様は自然界を人間の状態に合せられました。自然はパラダイスから恐ろしい地震や台風や津波や病気や殺し合いの自然界に変りました。それ は罪を犯した人間がその厳しさの中に失われたパラダイスを思い起こして、神様を求めさせる為でしたが、最終的な救いは自然界をも元々の状態に戻します。そ れについて次の約束があります:

 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるので あって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(ローマ8:19 〜21)

B 人と人の関係:
(1) すべての人間関係の基本は結婚と家庭にあります。神様は女性を男性からお作りになったプロセスは現代的な表現で言えば「人類初めての麻酔手術の結 果として得られた男性の部分から遺伝子組み換え技術を使って、女性の遺伝的な情報を(神様は無駄な働きをなさるお方ではありません)作られて、それを使っ て女性を創造された」と言う事です。 聖アウグスチヌスは同じ事をとても美しく次のように言いあらわしました:

 「神は、女が男を支配しないように、女を男の頭からお取りにならなかった。また、男が女を支配しないように、男の足からもお取りにならなかった。しか し、男が女を保護するように、男の腕の近くから、また、男が女を愛するように男の心臓の近くからお取りになった。」

(2) 結婚関係は親子関係と違って、契約関係です。しかし、(一時預かりの性質を持つ)親子関係と違って、結婚は所有関係です。人間を最も深い意味で知 る為にお互いを所有する必要があります。神様も私達を所有する最も深い関係に入れて下さいます。結婚と神様との関係を聖書は次のように描写します:

 22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5:22〜33)

(3)  神様は結婚を定められました。結婚は先ず離れる事です。父母を精神的に離れて、自立していない人々が結婚すべきではありません。結婚式は公に親から離れ る場面です。しかし、同時に結婚は夫と妻が一心同体になる結びの関係でもあります。結婚と家庭は人間に喜びをもたらせるものとして神様が与えて下さいまし たが、罪堕落のため、非常に難しくなりました。キリストにある救いは結婚関係やあらゆる人間関係のために必要です。

(4) 神様に造られた人間には恥や恐れや罪責感など全くありませんでした。又人間は元々肉体的にも霊的にも死ぬ事のない存在として創造されました。パラ ダイスの使命を全うして、神様でありながら、完全な罪のない人間でおられるイエス様が変容の山で変えられたと同様に天国に上る事になっていました:

 1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。(マタイ17:1〜8)

152. 神は、そのおつくりになった世界にたいして、今もみこころを用いておら れますか。
     そうです。神は、めぐみ深いみこころによって、すべてのものを支え治められるのです。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。(使徒行伝17:28)

 1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。8 海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。9 そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。10 わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。15 悪者からはその光が退けられ、振りかざす腕は折られる。16 あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。17 死の門があなたに現われたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。18 あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。19 光の住む所に至る道はどこか。やみのあるその場所はどこか。20 あなたはわたしをその国まで連れて行くというのか。また、その家に至る通り道を見分けるというのか。21 あなたが知っている……そのとき、あなたが生まれ、あなたの日数が多い、といって。22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。23 これらは苦難の時のために、いくさと戦いの日のために、わたしが押えているのだ。24 光が分かれる道はどこか。東風が地の上で散り広がる道はどこか。25 だれが、大水のために水路を通し、いなびかりのために道を開き、26 人のいない地にも、人間のいない荒野にも、雨を降らせ、27 荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。28 雨に父があるか。露のしずくはだれが生んだか。29 氷はだれの胎から生まれ出たか。空の白い霜はだれが生んだか。30 水は姿を変えて石のようになり、深い淵の面は凍る。31 あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。32 あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。34 あなたの声を雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。35 あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです。」とあなたに言わせることができるか。36 だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。37 だれが知恵をもって雨雲を数えることができるか。だれが天のかめを傾けることができるか。38 ちりが溶け合ってかたまりとなり、土くれが堅く固まるとき。39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り、若い獅子の食欲を満たすことができるか。40 それらがほら穴に伏し、茂みの中で待ち伏せしているときに。41 烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。(ヨブ38:1〜41)

153. 神がすべてのものを支えられるとは、どんな意味ですか。
     神のみこころに仕える限り、すべてのものの存続をおゆるしになり、また、おつくりになったすべてのものに、父としての注意をはらっていて下さるということです。

 21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ること は、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(創世記8:21〜22)

 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒行伝17:25)

 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(詩篇145:15〜16)

【解説】   放蕩息子の物語を考えたら、父の家から離れて、罪深い生活を過ごす事が出来たのはお父さんから貰った財産のお陰でした。同様に最悪の悪党もその罪深い生き 方が神様から頂いた命と賜物によってしか出来ません。神様がそのみ手を引かれると命はその瞬間に地上から消えます。しかし、神様が人が悔い改めて、救われ る事を願って、人間の罪深い生き方に忍耐を持って耐えられます。しかし、それはいつまでも続く訳ではありません。最終的に悔い改めない人々は神様の裁きに 遭わなければなりません。

154. 神は、だれに一番お心やりを与えられますか。
     人間です。特に、神を信じる神の子たちにたいしてです。

 25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配し たりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたが たは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょ うか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:25〜34)

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Iペテロ5:7)

 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのでは ない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足 は、はれなかった。(申命記8:3〜4)

155. 神は、罪について、人をどのようにみちびいて下さいますか。
     はじめは人が罪をおかすのを忍耐され、それから、その罪に限界を置かれ、そして、ついには、その結果、すべてのことがはたらいて、神を愛する人に益となるようにみちびいて下さいます。

 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:20)

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

156. 私達は、神のみこころの道を、いつも理解することができますか。
     いいえ、神のみこころの道は大ていの場合、私達の眼からかくされています。けれども、私達は、それが一番愛すべく、一番よいものであるということを知っています。

  「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ 55:8〜9)

 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶること のないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリス トの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(IIコリント12:7〜9)

157. ではあなたは、自分のすべての問題を、だれの手のうちに信頼して、ゆだねなくてはなりませんか。
     神のみ手のうちにです。神はあらゆる危険から私達をまもり、すべての悪から私達をふせぎ遠ざけて下さいます。

158. あなたには、神からそれほどよくしていただく資格があるのですか。
      いいえ、少しもありません。私には何のねうちもないのに、神が、愛とあわれみの父であられるために、すべてのことをして下さるのです。

 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。(創世記32:10)

159. すべてのめぐみにたいして、あなたは神に何をしなければなりませんか。
      神にたいして、感謝、讃美、奉仕、服従をしなくてはなりません。

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)

 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:2)

 サウルはエッサイのところに人をやり、「どうか、ダビデを私に仕えさせてください。私の気に入ったから。」と言わせた。(サムエル上16:22)

160. 天にある創造物で、一番すぐれたものは何ですか。
     聖なる天使たちです。

161. 聖なる天使たちのつとめは何ですか。
      神を讃美すること、また特に神を信じる人たちに仕えることによって、神のいいつけをはたすことです。

 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。 (詩篇103:20)

 6 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」7 また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、8 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。9 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいま した。」10 またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。12 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがあり ません。」13 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(へプル1:6〜14)

 13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ 2:13〜14)

 5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が 彼の手から落ちた。8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たち まち彼を離れた。11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いか ら、私を救い出してくださったのだ。」(使徒行伝12:5〜11)

162. 悪い天使もいるのではありませんか。
     おります。ごうまんと不従順とのために、神から落ちて行ったもので、永遠に神とのまじわりからしめ出されています。悪魔が彼らの主なのです。

神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(2べテロ2:4)

【解説】  サタン

 聖書全体の中に神様とサタン(悪魔)との関係をどう理解したらよいのですか。
 創世記の第三章に人に罪を犯すように誘惑する、蛇と言う形をとったサタンが登場します。何の説明もないままです。しかし、聖書を通読しながら、悪の根源 と悪魔の最終的な運命も明確になります。しかし、私たちの理解を超える面も多いです。悪魔は私たちの感覚を超える霊的な存在だから、理解出来ない事はある 意味では当然です。しかし、キリスト者の戦いが罪とこの世と悪魔との戦いですから、私たちがその中に勝利者になる為の事を神様は聖書の中に啓示して下さい ました。

悪魔の根源
 悪魔の存在ほど明確なものが無いはずなのに、理性や学問や心理学を強調する現代の人間は悪魔を信じたくはないから、サタンに関する聖書の箇所を無視した り、心理学的な無理な説明で通過しようとします。しかし、戦争やテロや無差別殺人や子供達をその情欲の被害者にするポルノの世界などを薄っぺらに考えて も、恐ろしい、理性を超える悪の現実が明確です。悪魔は存在して、人々を今日も力強く惑わそうとしています。

  しかし、聖書を読むと大きな困難にぶつかります。サタンも神様に創造された霊的な存在と言う事です。しかし、それは神様が悪を創造した意味ではありませ ん。人間も神様に創造されたままで罪の無いよいものでした。罪堕落は神様がさせたのではなく、自由を持つ人間が自発的に選んだ訳です。同様にサタンも元々 ミカエルやガブリエルなどのみ使い長たちの仲間で、よい存在でしたが、自由を持って神様に対する謀反を起こして、又多くの他のみ使いたちを自分の側に巻き 込んでしまいました。そのみ使いたちの事を今悪霊と呼びます。この出来事が人間が創造される前の出来事です。それをヒントする二つの聖書の箇所を読みま しょう:

 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ書14:12〜15)

 「 また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の 一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げ た。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦っ た。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、 サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」(黙示録12: 3-9)

サタンの名前と性質
 サタン、悪魔、竜、ディアボロス(離れさせる者)、ルシフェロス(光の持ち主)、ベルゼブル(悪霊たちの長、住処の支配者、マタイ12:24)、神の敵など

 サタンは人格的な存在で、その(悪)知恵は人間より遥かに高いので、又サタンの力も人間より余りにも大きいのです。しかし、サタンは神様のように全知全 能ではありません。人間の力でサタンに抵抗する事は到底出来ませんが、キリスト・イエスによって救われた人間は神様に守られています。ですから悪魔に抵抗 が出来ます。

 サタンは地上の支配者で、神様の愛の対象である人間を人質にして、最終的に滅びる運命になっている事を知って、凄い勢いで神様のみ業を妨害しようとしています。

 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:1〜5)

 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示録20:10)

 「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』(マタイ25:41)

 サタンの方法は偽り、暴力、欲です:

  「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであ り、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であ り、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

 サタンは誘惑をして、又それに負けた人々を攻めて、絶望をさせようとします(イスカリオテのユダ):

 「主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サ タンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そし て彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 (ザカリヤ3:1〜4)

 イエス様も第二のアダムとしてサタンの誘惑に遭わなければなりませんでした。又それに私達に代わって打ち勝ちました:

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じ なさい。」 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、 その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である 主を試みてはならない。』とも書いてある。」 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに 差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使 いたちが近づいて来て仕えた。 (マタイ4:1〜11)

サタンの力からの救い
 主イエス・キリストにある救いは罪からの救いだけではなく、死からの救いだけでもなく、悪魔からの救いでもあります。ですから、クリスチャンは主イエス 様の恵みの内に悪魔の力より遥かに大きな真理と愛の力によって守られます。又悪魔に立ち向かって、勝利さえ出来ます。

 「 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 (ルカ10:17〜20)

 「 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさ い。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪 な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。 腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与え る剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、す べての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:10〜18)

「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」  ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあな たがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4:6〜8)

人間

163. 地上の創造物で、一番すぐれているものは何ですか。
     人間です。神は、人間が地上を治めるようにいわれました。

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの を支配させよう。」と仰せられた。 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せ よ。」(創世記1:26〜28)

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇8:6)

164. 人間が、神につくられた時の姿はどんなでしたか。
     アダムとエバとは、けがれなく、罪もなく、神のようでした。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27 )

165. 神のかたちとはどんなものですか。
     本当の知恵、義ときよさ、平和とよろこびです。

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:24)

166. 人のからだは、この神のかたちから、どんなよいものをうけつぎましたか。
     完全な健康と不死、豊かな美しいバラダイスの園にあって、心配のいらないいのちなどです。

 28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せ よ。」 29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたが たの食物となる。 30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのよ うになった。そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。(創世 記1:28〜31)

 8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。11 第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。12 その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。13 第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。14 第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(創世記2:8〜15)

罪堕落

167. 私達の最初の両親は、いつまでもけがれなく、罪もないままでおりましたか。
     いいえ、堕落して、神のかたちをうしないました。そのために、罪と死とがこの世にはいって来たのです。

 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ 5:12)

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16〜17)

 1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3:1〜24)

【解説1】  人の世界への罪の侵入 (H・トレボ著の「初心者のための聖書研究」より)

 聖書では、世界における悪の根源は、明らかにされてはいません。しかし、神の使いの一人が自尊心を高ぶらせて、神に反抗し、その結果、天から追放され悪 の根源となり、今は悪魔と呼ばれていることが示されています。この第3章では、その悪魔がどのように蛇の形をとって妻エバを通して人を惑わし、神に反抗さ せようとしたかが述べられております。

 ここで使われている誘惑の方法は、今日、人が経験するものと非常によく似ています。

・ まず、1節において神の命令は道理に合わないものだということが、ほのめかされています。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはいけないと、神は本当に言われたのですか?」

・ 第二に、4節において、神が言われたことがきっぱりと否定されています。「あなたがたは決して死にません。」

・ 第三に、5節において、人の自尊心にうったえるようなことが言われています。「あなたがたは、神のようになります。」エバは、そういう蛇の話を聞き、その木を見、食べたいと思い、取って食べました。

・ そして最後に彼女は、彼女と―緒に神にさからうように他の人(彼女の夫)にも、その実を与えました。その結果、二人とも罪悪感、しゅうちしん羞恥心を体験することになりました。

 以前は、喜んで神との交わりを持っていた二人も、今や、神からかくれるようになってしまいました。神に見つけられた時、二人は言い訳をしました。男は女 のせいに、女は蛇のせいにしました(12〜13節)。それに対する罰が神によりまず蛇に(14節)、次に女に(16節)、そして男に(17〜19節)言い 渡されました。神は、アダムとエバを彼らの不従順のために園から追放し、永遠のいのちの源からも、お引き離しになりました。ただ、あわれみにより二人に皮 の衣を作り与えられました。それ以来、神と人との間の関係は、以前のようではなくなったのです。今日においても、人は簡単には神との交わりを持つことはで きません。


 人にとって最大の問題は、しばしば新聞などで見かけるような貧困・戦争・教育不足・その他の様々な社会問題ではありません。実はもっと深いもの、つま り、罪が最大の問題なのです。罪の中には、もちろん殺人とか、盗みも含まれていますが、それだけが、罪のすべてではありません。放蕩息子は、素晴しい父親 と多大な財産に恵まれた家庭に生活していながら、それに満足してはいませんでした。彼の心は落ち着かず、放蕩な生活に幸せが見つかるものと考え、父の気持 ちなどかえりみずに町へ行ってしまったのです。これこそが罪だったのです。私たち現代人は、ちょうど、この放蕩息子のようなものです。神が私たちに与えて くださったいのち、健康、喜びなどの祝福があっても、もし神に対して無関心ならば、私たちもまた、罪を犯しているのです。ローマ1:18〜32節では、あ らゆる種類の悪い行ないが横行している社会の様子が、描かれていました。そこでは、そのような悪の根源は、神を認めようとせず、感謝しようとしなかった人 に帰されていました。今日の社会において、私たちは、神を認める人が少なくなるにつれて、悪ロ、犯罪、離婚、不道徳、不正直などが増えるような状態を目の あたりに見ています。

 18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。(ローマ1:18〜32)

  アダムとエバが犯した人類最初の罪、つまり、神に対する不従順はすベての罪の中で、最も根源的なものです。神はすべての善の根源でおられます。神をないが しろにし、わけても、神に従わないでいると、人は神との交わりを持てなくなってしまいます。そのような神の聖霊によって守られない人の心には、罪が芽ば え、成長しやすくなっています。

 聖書は、「すベての人が罪人である」と主張しています。多くの人々は、それに対して抵抗を感じますが、私たちの社会を見ると、罪深いことがわかります。 すべての人の心の中に、罪の根があることを否定することはできないでしょう。誘惑があれば、それに応じてしまいます。もし私たちが罪のない者であったなら ば、その誘惑に応じてしまうことはないはずです。
 「愛は寛容であり、親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のし た悪を思いません」と書いてあります。そのような愛の性質を持たない人はすベて神の前に罪人ということになります。

 大抵の宗教は人間の罪を認めていますが(仏教はそうですが、神道はちがいます)。しかし、多くの場合、人間の心は基本的には善であって罪は人間の本質的 な善を回復するために払い落さなければならないほどのようなものと考えます。しかし、聖書は罪をらい病やガンのようなものと見ます。こういう病気は、悪く なると遂には死をまねくのですが、それと同じように、人の心の中の罪はだんだん悪くなります。性格は利己主義、誇り、不正直でますます影響されます。罪の 最後の結果は霊的な死と神からの永遠に分離です。

 アダムとエバが神にさからった時、二人はそれまでの神との親密な関係を失ってしまいました。二人はエデンの園から追いだされ、より困難な生活をはじめ、 死の宣告を受けました。一つの罪を犯せば、他の罪も犯しやすくなります。エバの実例では、誘惑がだんだん強くなりました。聖書にも、今日の時代にも、高慢 が憎しみを生み、憎しみが喧嘩と人殺しを生むという事実を見ています。神は、人間を愛しているがゆえに、人間の罪に対しては怒りを持って、その罪を罰さな ければなりません。人は、自分の罪を悔い改めなけれは、神のさばきを受けて永遠の刑罰にはいらなければなりません。

【解説2】  創世記3章には誘惑、罪、霊的な死、罪の呪いの他に神様の救いの約束も含まれます。

 誘惑は罪ではありません。誘惑は人間の外側からやって来ました。それに抵抗する力も始めの人間に与えられていました。しかし、一旦罪を犯せば、誘惑に抵 抗する力も失いました。人間は罪の奴隷になりました。誘惑の本質は神様の言葉に対する疑いの種を蒔くところにあります。罪は行動から始まった訳ではありま せん。人間が神様の言葉よりも魅力的なサタンの嘘を信じたその瞬間は罪の始まりでした。人間は神様から価値基準を自分の手にとってしまいました。

 罪の一瞬のうちにもたらせた結果は霊的な死でした。後で肉体的な死がやってきて、最後に救われていない人に永遠の死(滅び)がやってきます。霊的な死の 特徴は罪責感、羞じ、恐れ、人生の意味と目的が分からなくなった状態で(「あなたはどこにいますか」という問いに人間は最早答える事が出来なくなりまし た)、又責任逃れの傾向です。

 罪の呪いには神様の哀れみが否定的な形で隠れています。産みの苦しみ、仕事の苦しみ、自然界の厳しさ、肉体的な死は、人間に対する神様の招きでもあります。「私の交わりに悔い改めて戻って来なさい。私の所に初めて失われたパラダイスがあります」と。

 しかし、神様は女の子孫(すなわちイエス・キリスト)が最終的に人間を悪魔と罪と死の支配から開放して下さる約束をも与えて下さいました。その印として アダムとエバに皮衣を着せて下さいました。(皮は動物を殺して得るもので、犠牲の上のものです。イエス・キリストの十字架上の犠牲の死によって、罪を悔い 改める人に、義の衣は着せられます。)

 パラダイス(エデンの園)から追い出された事にも神様の哀れみが含まれています。命の木から食べたら人間は霊的な死のまま、肉体的に死なない状態で生き るなら、人間は永遠に「生き地獄に」のままになってしまったでしょう。(人間は大体80年でもうこの世の罪深さや苦しみに疲れてしまいますから。)肉体的 な死はイエス・キリストによって救われた人に罪の結果としての体の腐敗からの開放であって、新しい復活の体への道になります。

168. かれらの罪は、特にどんなものでしたか。
     特に不信仰、自己本位、心の不従順などです。

 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ5:19)

169. かれらをこの罪にさそいこんだのはだれですか。
     かれらは自分で、悪魔のさそいに身をまかせてしまったのです。

 1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」 4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:1〜5)

 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真 理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、ま た偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)

170. 罪は、人間のたましいを、どのようにそこなってきましたか。
     1 理解をくもらせました。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(2コリント2:14)

     2 善にたいしては意志を無力にさせ、悪にたいしては、かたむきやすくさせました。

15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ローマ7:15〜19)

 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ8:7)

     3 良心のよろこびと平和とを、かきみだしました。

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。(創世記3:8)

 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10)

171. 罪は、人間のからだをどのようにそこなってきましたか。
     罪は人のからだを、あらゆる悪い欲望の道具にし、病気や悲しみや、数えきれないほどの苦しみをもたらし、最後には死をもたらしました。

 16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕う が、彼は、あなたを支配することになる。」17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれて しまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 (創世記3:16〜19)

172. 最初の両親がだらくしたために、すべての人が罪人となったのですか。
     そうです。罪と死とは、最初の両親から人間全体にうけつがれたのです。(問129を見なさい。)

 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(ローマ5:18)

173. それならば、人が永遠にほろびてしまうのが神のみこころなのですか。
     いいえ。神はその愛により、罪人を救うために、御子イエス・キリストをこの世におくって下さいました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

174. この救主の約束が、はじめてこの世に与えられたのはいつですか。
     人間の堕落のすぐ後です。

 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3: 15)

175. キリストが、この世におくられたのはいつですか。
     時がみちたとき、つまり、神ご自身があらかじめ定めて、そのために準備をなさったその時にです。

 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。(ガラテヤ4:4)

第二条 罪の赦しについて

私はそ の独り子、私たちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけ られ、死んで葬られ、よみに降り、三日目によみがえり、天にのぼり、父にいます全能の神の右に座して下さいました。主は生ける人と死んだ人とをさばくため に、そこから再び来て下さるでしょう。

これはどんな意味ですか。
答  私は父から永遠の中に生れて下さったまことの神であって、おとめマリヤから生れて下さったまことの人イエス・キリストが、私の主であると信じます。 主は金や銀をもってではなく、御自身のきよい貴い血と、罪なくして受けて下さった御苦しみと死とをもって、失われ、罪にさだめられた人間である私を、すべ ての罪と、死と、悪魔のカとから救い出し、あがない出し、わがものとして下さったことを信じます。ここにおいて、私は主のものとなり、御国において主のも とに生き、あたかも主が死からよみがえり、永遠に生きてすべ治めて下さるように、永遠の義と、純潔と祝福との中に、主に仕えるためであります。これは確に まことです。

【解説1】   使徒信条の中心は第二条です。救い主イエス・キリストを通して始めて父なる神様を知る事が出来るし、聖霊様は主キリスト様の事を明らかになさいます。イエ ス様を見た者は父なる神様を見る事になります。又、聖霊様の働きは十字架と復活のキリストから切り離して行われません。三位一体の奥義はキリスト中心に初 めて開かれます。父なる神様をイエス・キリストから離すと一般的な宗教意識になってしまいますし、聖霊様の働きをキリストから離すと神秘主義的な一般宗教 になってしまいます。リベラル主義は前者の方に走りやすくて、カリスマ運動は後者の方に走りやすいのです。キリスト中心で初めて、聖書的な三位一体論が成 り立って、バランスのとれた信仰生活が出来ます。

【解説2】   ルターの説明の中心は「私はイエス・キリストが、私の主であると信じます」と言う文章です。多くの人はイエス様を救い主、すなわち罪を赦して、癒して下さ る方として受け入れたいのですが、その人生の指導権をイエス様に委ねたくはありません。言い換えれば、イエス様を主として受け入れたくはありません。しか し、イエス様を主として受け入れない人は、救い主をも持つ事が出来ません。

【解説3】  イエス様は人間を罪と死と悪魔の支配から神様の愛の交わりといのちと神様の支配の中に移って下さいます。救いはイエス様との交わりの中に初めて可能です。救い主抜きの「救われた」状態はありえません。

176. あなたがイエス・キリストを信じるとは、どういう意味ですか。
     私の心からの信頼をもって、イエス・キリストこそ、罪と死と悪魔の力からのただ一人の救主であるとして、自分自身をすっかりおまかせすることです。

 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒行伝 4:12)

信仰の定義

【解説】  キリスト信仰とは一体何でしょう。その定義は簡単なものではありませんが、それは人間の心の状態ではなく、人間が別のお方でおられる主イエス・キリスト様との関係において存在するものです。信仰について次のような短い定義があげられています:

 「信仰とは、贈り物をただで受け入れるように、キリストを受け入れることです。」 又は「信仰とは、悔い改めて、心の戸を開き、キリストを迎え入れ、彼 に信頼して従うことです。」 しかし、信仰は案外誤解されていると思います。一般的な信仰心と混同される場合がよくあります。

 私が15歳の時にイエス様に出会って、天の御国を目指して歩んでいる幸いについて話をする時に未だクリスチャンではない方々の口から何回も次の言葉を聞いた事があります。「信仰を持つのは本当にいいですね。」

 どう言う意味でそう言われたかと確かめてみると、「神々や仏様を信じたらいいですが、信仰心の薄い者ですから、どうも私には出来ません。もし出来たらあなたみたいに心の拠り所があっていいのに」と言うような返事が帰ってきます。

  もう少し突っ込んで話を進めると、信仰って一体何なんだろうと言う定義の問題にぶつかります。小さい子供を嘘のような話でも安心させる事が出来ます。何故 かと言うと大人の言う言葉を信頼して、大人そのものを頼りにするからです。一般的な宗教信仰にそう言う要素があるから、信仰を持つ人はある程度まで人よし のようなものでないとだめと言う考えが結構多いかと思います。もう一つの考えは、信仰が確かに(道徳的な、精神的な)力ですが、生まれつきのもので、ある 人にはありますが、ある人々には無い性質です。又ある人々にとって信仰は実際に無いものを精神的な力で目の前に現れるようにさせる安心させる錯覚です。色 々の修業や方法で自分の精神に宗教的な体験をさせて、そのような体験を安心の基にする作業のようなものです。

  しかし、キリスト信仰の出発は決して人の体験でもなく、信じたい気持ちでもなく、宗教的な作業でもありません。キリスト信仰は歴史の中に起こった出来事を出発点にします。イエス・キリスト様が実際に2000年前にイスラエルと言う国に現れて、教えを広めただけではなく、身代わりとして人類の罪を全部背負うって、十字架の上で酷い苦しみの末、なくなられました。そして復活の体をもって三日目に墓から甦られました。それによって、全ての人々のために罪の赦しと 死に打ち勝つ命を与えて下さいます。この事実があるから、イエス様は今も生きておられて、イエス様に実際に出会う事が未だに可能です。イエス・キリストご 自身とその御業が先にあって、信仰はそれを作る訳ではありません。信仰はこの人格的な方を受け入れて、その救いのプレゼントをただで頂くことに過ぎませ ん。もし与えるプレゼントが無かったら、いくら信じても無駄です。パウロはその事を次のように言い表します:

 「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世 に あってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中 からよみがえられました。」(1コリ15:16〜20)

 信仰は助けのない人が助ける事の出来るお方により頼むことです。罪深かい、有りのままの姿でイエス様に自分自身と自分の必要を任せる事です。父なる神様 は罪深い、弱い、不敬虔な人々を受け入れて、キリスト様の十字架の苦しみと復活の勝利の故に彼らに義をプレゼントして下さいます。信仰はこの賜物を受け入れる 空っぽの手です。信仰は神様の約束を信頼することです。信仰は乞食のように謙遜して主から助けを求める事です。信仰はイエス・キリスト様を主として認め、 主の支配に従う心です。信仰は心を開いて主イエス・キリスト様を受け入れることです。

  信仰の反対、不信仰は信仰に欠けている事ではありません。不信仰は自分自身、自分の可能性、能力、知恵、判断を信じることです。不信仰は自分の人生の指導 権をあくまでも自分で握ることです。不信仰は自分で物事をすることです。不信仰は宗教的な形でも現れます。それは超自然的な力(神々を含めて)を自分の益 になるように利用する心です。

  救いはイエス・キリスト様の死と復活の福音を信じる事によってしか与えられません。福音を信じる信仰は行いによらないで、イエス・キリスト様の御業の祝福を受け入れます。信仰によって人間は新しくされます。なぜなら、イエス・キリスト御自身がその心に入って下さるからです。

  信仰の反対は自分自身を頼りにする行いだからといって、信仰は消極的に怠けると言う意味ではありません。信じたら全ての問題が自動的に解決されると言うよ うなものでもありません。自己中心的な生き方からキリスト様を中心とする生き方が信仰によって生まれます。電線を通して電気が流れると同様に、信仰によっ てキリスト様の人格的な命が活発的に働くようになります。信仰はキリスト様との交わりを保ちながら、問題や罪や苦難に直面することです。信仰は向かい風の 時にもイエス様に従うことです。

  信仰から生まれる生き方にはこの地上には戦いと重荷も含まれますが、主イエス様との歩みですから、その重荷も主の力で負う事が出来ます。信仰は神様の御言 葉である聖書を通して生まれます。イエス様の言葉の真実性そのものが心を打って、信仰を与えて下さいます。ですから復活のイエス・キリスト様の御声に耳を 傾けようではありませんか。

神であり、人であるイエス・キリスト様

177. イエス・キリストとは、どなたですか。
     神とマリヤの子、まことの神であり、まことの人であられるお方です。

 18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になっ たことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っている ものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイ1:18〜25)

 26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行っ た。39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:26〜45)

 1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て 来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。(ルカ2:1〜21)

 1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに 満ちておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この 方のことです。」16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:1〜18)

【解説1】  信仰は相手でおられるイエス様を知ることに従って深まって、大きくなります。ですから、イエス様をみ言葉を通してもっともっと深く知りたい意欲は信仰の特徴です。

【解説2】  ヨハネの1章の始めはもっとも深い意味でイエス様の性質を語っています。その1節と14節を次のようにつないでもよいと思います:

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。ことばは神であった。私たちはこの方の栄光を見た。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:1、14)

人間になられたイエス様は神様の本当の姿を私たちに示して下さいました。その姿は真理と恵み(十字架の愛)として現れて、私たちを神様の交わりに戻して下 さいます。イエス様のすべての行動はその本質の現れです。ですから、私たちのいのちはこのお方を知るところにあります。

178. キリストは、どなたの神性を持っておられるのですか。
     永遠のむかしから、父の神性を持っておられます。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 (ヨハネ1:1〜2)

179. キリストは、だれの人性を持っておられるのですか。
     その母マリヤから、人性をおとりになりました。

  「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) (マタイ1:23)

【解説1】   キリストの神性と人生は半分人間、半分神と言ういみではありません。キリストは100%の神様でありながら、100%の人間です。無限の神様がどうして有 限の人間になれるかは、私たちの理性を遥かに超える素晴らしい事実です。キリストの神性と人性は混じっている訳ではありませんが、別々でもありません。キ リストはクリスマスで誕生するまでは、人間性を持っておられなかったから、始めのクリスマスは新しいスタートですが、今復活のキリストが天国におられると ころにもその人間性が変わっていませんから、キリストは永遠に真の神と真の人間として存在を続けられます。神様の創造の一番深い意味はキリストの永遠の人 間性に現れていると思います。

【解説2】   教会の歴史の中にキリストの神性と人性のどちらかを失って、一方的に教える異端がかなりたくさん現れました。例えばエホバの証人たちはキリストの神性を否 定しますが、伝統的な福音派のクリスチャンの誘惑は反対のところにあると思います。キリストの神性を強調しながら、その人性を見失う危険があります。

180. イエス・キリストがまことの神であるということを、聖書はどのように示しておりますか。
     聖書は、キリストを神のひとり子とよんで、父にいます神と一つであるといっています。また、あきらかにキりストを神ともよんでいます。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(ヨハネ5:18)

 「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)

181. キリストが、神であって人であるということを、聖書はどのように示しておりますか。
     「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)といっています。また、「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)ともいっています。

182. なぜ、神の子が、まことの人にならなければならないのですか。
     私達人間のために、苦しみを受けて死ぬためです。

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリソト5:21)

183. 私達の救主は、なぜまことの神でなくてはならないのですか。
     その死と血とが、罪のための永遠のあがないの力となるためです。

 12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさ せ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(へブル9:12〜14)

【解説】  人 類の罪は一人の人間の堕落から始まって、全人類に広がったと同様に一人のキリストの贖いのみ業がキリストによって新しく生まれた、救われた人類に広がって 行きます。キリストが人性を持たなかったら、人間の罪の責任を負う事も出来なかったのです。 しかし、キリストが神性を持つ事は、救いで人々に神様の永遠 の命を与える事が出来ます。救いは罪の赦しだけではなく、神様のいのちに与ることでもあります。

184. イエスは、罪のうちにやどって生れたのですか。
     いいえ、イエスは聖霊によってやどられましたから、罪がありません。

 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ1:35)

 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(マタイ1:20)

【解説】   もしキリストが一つの罪も犯したならば、その十字架の死は身代わりの死になれなかったのです。ですから、イエス様は御自分が罪一つも犯さなかった事を強調 なさったのです。罪はアダムの堕落依頼遺伝的に次の世代に移りますから、イエス様の生れ方も違いました。しかし、聖霊によって生れたイエス様は真の人間性 をマリアから頂きました。真の人間としてイエス様は悪魔の誘惑にも直面しなければならなかったが、その中に完全な勝利を得られました。

185. 「イエス」という名前は、どんな意味ですか。
     「イエス」とは、「救主」という意味です。

 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)

【解説】   イエスと言う名前は元々旧約聖書の中でイスラエルの民を約束の国に導いたヨシュア(神は救い)から由来があります。それはギリシャ語でイエスと言う形 になっています。当時はごく普通の名前でした。しかし、神様のみ使いはイエスと言う名前を選んだ理由は、永遠のみ国にその民を導く神様の救いはイエス様だ からです。

キリストの役目

186. 「キリスト」という名前は、どんな意味ですか。
     「メシヤ」と同じです。つまり、「油そそがれたもの」、「きよめわかたれたもの」という意味です。

 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。(ヨハネ1:41)

【解説】   キリスト(ヘブライ語でメシヤ)は名前と言うよりも役目や地位を表す呼び方と考えた方がよいと思います。(例えば現在の天皇陛下は「明人」と言いますが、 一般に役目を現す天皇陛下と言う呼び方が本人を指す意味で使われています。) 現在のユダヤ教はイエス様をキリストとして認めていないから、別のメシヤ (キリスト)を未だに待っています。何故かと言うと旧約聖書は明確にメシヤの来臨を預言しているからです。

187. イエスは、何をもって油そそがれましたか。
     聖霊と力とをもって、油そそがれました。

 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。(使徒行伝10:38)

188. キリストは、油そそがれ、きよめわかたれて、何になられましたか。
     大祭司、預言者、王になられました。

【解説】   旧約聖書の中に祭司、預言者、王がそれぞれ別の役目であって、それぞれその務めに入る時に油注ぎの儀式が行われました。しかし、これらの三つの役目を一人 の人が同時に持つ事がありませんでした。祭司はアロンの家系でしたが、王はダビデの家系でしたが、イエス様においてこれらの三つの役は完全な形で一人のキ リストとして現れました。

189. 大祭司としての、キリストのつとめは何ですか。
     私達の罪のために、御自身をささげて下さったこと、いつも私達のために祈っていて下さることです。

 24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるか らです。26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリス トは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。(へブル7:24〜28)

 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)

【解説1】  祭司の務めは罪の赦しが与えられるために償いの供え物として羊などを捧げる事でした。しかし、イエス・キリストは大祭司でありながら捧げ物でもありますから、イエス様の名前の一つは「神の小羊」です。

【解説2】  神様はその世界支配を教会の祈りに結びついておられます。ですから、教会の頭でおられるイエス・キリストはその体なる教会と共にいつも執り成しの祈りを捧げます。

190. 預言者としてのキリストのつとめは何ですか。
     私達の救についての神のみこころを教えて下さることです。

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。(ルカ24:19)

 44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:44〜47)

【解説】   キリスト信仰はイエス様の教えを信じ従う宗教ではありません。確かに、イエス様は預言者として私たちに余すところ無く父なる神様の御心を伝えて下さいまし た。又イエス様の教えは完全な真理でもありますが、キリスト信仰のポイントはイエス様が何を教えて下さったよりも、その教えを誰が語って下さったかに重点 を置きます。「まことに、まことに、私があなた方に言います」と言う表現でイエス様は御自分の権威を現して下さいました。イエス様の言葉は父なる神様との 人格的な交わりをもたらす預言的な真理であり、人を自由にする力のある言葉です。

191. 王としてのキリストのつとめは何ですか。
     神を信じる子たちを治め、まもり、その敵をふせいで下さることです。

 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:33)

 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。(ヨハネ17:2)

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。(1コリント15:24〜25)

【解説】   かなり多くのクリスチャンはイエス様を自分の人生の罪を赦す救い主、慰め主として受け入れていますが、自分の人生の支配権、指導権を自分で握っています。 しかし、イエス・キリストを主として、決定権の持ち主として受け入れないと、本当の意味で救い主としても受け入れる事になりません。イエス様は一人のお方 で、全面的に受け入れるかどうかは決め手です。

192. 信じる人たちは、キリストにちなんで何とよばれますか。
     クリスチャンとよばれます。つまり、油そそがれたものという意味です。

 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒待伝11:26)

 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。(1ヨハネ2:20)

【解説】   元々初代教会はお互いを兄弟姉妹と呼んで、又「道を歩む人」と言う呼び方を使いました。クリスチャン、キリスト者と言う名前は外部の人々がつけたレッテル のようなものでした。何故かと言うと彼らは余りにもキリストと言う名前を口にしていたからです。(日本でキリスト教が「ヤソ」と呼ばれた理由もよく似たも のです。イエスと言う名前を日本のキリスタンがよく使われたでしょう。)

キリストによるあがない

193. キリストは、何によって私達をあがなって下さいましたか。
     御自身のきよい貴い血と、罪がないのに受けられた苦しみと死とをもって、私達の罪の代償を支払って下さいました。また、そのきよい御生涯と、完全な服従とをもって、私達にかわって律法を成就して下さいました。

 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ぺテロ1:18〜19)

【解説】  イエス・キリストの十字架上の贖いは幾つかの面があります:
1.イエス・キリストは神様の律法の要求する罪の罰を私たちの代わりに完全に、終りまで経験して下さいました。それで、神様の罪人に対するみ怒りは罪のないイエス様にあたって、代わりに神様の愛と恵みのみ顔は私たちに向かわれた。
2.イエス・キリストは私たちの罪の借金を全部払いました。
3.罪と悪魔の奴隷状態からイエス・キリストは私たちを自由に買い取れて、私たちを暗闇の支配から神様の光の支配に移って下さいました。
4.罪は神様の栄光に対する傷つけるもので、イエス・キリストは神様に「賠償」を払って下さいました。
5.イエス・キリストは罪のために神様から離れている人々を神様と和解させて下さって、神様の国への道を備えて下さいました。

194. キリストは、だれをあがなって下さいましたか。
     あわれな、うしなわれた、罪にさだめられるはずの私をあがなって下さいました。

 1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― (エペソ2:1〜5)

主のくるしみは、わがためなり
われは死ぬべき つみびとなり
かかるわが身にかわりましし
主のみこころはいとかしこし
        讃美歌136:2

195. キリストは、すべての人をあがなって下さったのではありませんか。
     そうです。キリストは、すべての人のあがないとして、そのいのちを与えて下さいました。(1テモテ2:6を見なさい。)

 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(1テモテ2:6)

 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。(1ヨハネ2:2)

 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:14〜15)

【解説】   イエス・キリストは天国に救われる人々のためだけではなく、自分の選択で地獄に行かなければならない人々の罪の贖いを完全に払いました。誰一人も地獄に行 く必要がありません。イエス・キリストの贖いはすべての人に十分ですが、イエス・キリストの唯一の救いを拒否する人には別の救いの道がありえません。

196. けれども、キリストがあがなって下さったのに、多勢の人が失われてゆくではありませんか。
     そのとおりです。悔い改めないし、不信仰のためにキリストをしりぞけているからです。

 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端 をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。(2ペテロ2:1)

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18)

197. キリストのあがないにあずかるものは、だれですか。
     自分の罪を悔い改めて、キリストを信じる人たちです。

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒行伝2:38)

 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。(使徒行伝16:31)

198. 信じる人たちは、キリストのあがないからどんな利益をうけますか。
     キリストのあがないによって、罪と、死と、悪魔の力とから自由になります。

【解説】  罪と死と悪魔とからの開放はそれぞれ三つの段階で行われます。第一段階は初めて信じて洗礼を受ける救いの段階です。第二はクリスチャン生活を送っていく清めの段階です。第三は死またはイエス様の再臨の時の体のよみがえりの段階です。

 第一段階において罪からの開放は罪の赦し、キリストの十字架の贖いのゆえに義と認められて、神様の怒りから神様の恵みの区域に移す事です。罪の処罰から 開放されます。暗闇から神様の国の中に入ります。この大きな立場の変化は罪を悔い改めてキリストの十字架の恵みを信じ受け入れる事、狭い門を通る事で行われます。罪赦された神様の子供は自分の努力や行いと全く関係のない恵みのずっと続く場に置かれます。それは父なる神様は罪赦されたクリスチャンをキリス トの完全な義を持つ罪のない存在のように扱って下さいます。クリスチャンの救いの確信はこの一方的な恵みの大きさにあります。

 第一段階で霊的に死んだ人間に聖霊による新しい命が注がれます。このいのちは神様との交わりによる永遠の性質があります。その上に肉体的な死は最早何の力もありません。

 第一段階で悪魔は人間を攻める資格を失います。ですから、悪魔の虜の状態から神様の子供の自由の中に入ります。

 第一段階でクリスチャンは罪赦されて天国を受け継ぐ資格が与えれれいますが、未だ救いがそれで完成している訳ではありません。義と認められた、罪赦され た神様の子供に未だ罪深い性質が残ります。ですからクリスチャン生活の中に繰り返して罪を犯して、新たに罪の赦しを必要としますが、罪の赦しへの道がいつ も開かれています。又肉体的な死の影は未だ神様の子供にも苦しみや病気という形で迫ります。悪魔がクリスチャンを攻める立場を失っても、色々の誘惑を通し て神様の子供をも苦しめようとしますが、最早神様の恵みから彼を奪い去る事が出来ません。

 第二段階は清めです。その中に聖霊様は神様の子供の内に支配権を増やして、罪深い性質が生もうとする行いを殺して、具体的な罪から清めて、愛の行いを生 んで下さいます。と同時に真理の光で益々心を照らして、細かい所でも正しい道に導いて下さって、罪の力から開放して、恵みの大きさを示して下さいます。し かし、この地上で完全に罪深い性質から開放する事が未だありません。

 第二段階で新生の時に与えられた聖霊によるいのちが成長して、キリストの復活の力が弱って行く体の中にも益々霊的ないのちの力が見えて参ります。

 第二段階で悪魔はその燃える矢を神様の子供の心に向けますが、真理の武具でそれに打ち勝つ力が与えられ、悪魔の戦略に負ける事が減って行きます。

 第三段階では救いが完成されます。それは罪深い性質が完全に取り去られて、復活の体に与って、悪魔が完全に滅ぼされます。

199. キリストのあがないによって、信じる人はどのように罪から自由になりますか。
     1 罪の咎と罰とが、信じる人たちからとりのぞかれます。

 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ1:14)

     2 罪が、もはや信じる人たちを支配することがありません。

 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:14)

     3 祝福された死によって、信じる人たちは、主のおられるところに行きます。そこにはもう罪がありません。

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

200. キリストのあがないによって、信じる人はどのように死から自由になりますか。
     霊的な死はもはやカを失い、この世の死も完全ないのちヘの入ロとなって、永遠の死をおそれる必要もなくなります。

 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15:55〜57)

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)

 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1:10)

【解説】   イエス様は不思議な事を言われました。「生きていてわたしを信じる者が決して死ぬことはありません。」と。イエス様を信じる人が何故死なないのでしょう か。だって、クリスチャンも皆死んで行くのではないでしょうか。聖書の中には死と言う言葉には二つの意味があります。第一は私達が意識的な存在を持ち続け て神様から罪の罰を受ける恐ろしい意味なのです。第二は体の死と言う日常的な意味です。イエス様を頼りにする人には絶対に死後には何の罰もありません。イ エス様は私達の受けるに値する裁きと罰を十字架の上で私達に代わって終まで経験してくださいましたので、その罪を告白してゆるしを願う人には平安と天のみ 国の永遠のいのちしかありません。そういう意味ではイエス様を信じる人には死がありません。しかし、今の肉体を離れて新しい永遠の体を迎えるための死は勿 論ありますが、そこには恐ろしさがもはやありません。イエス様と共に天のみ国におられる喜びですよ。そして、その神様の御国は実に現実的なものです。そこ に行かれた人々に又会える希望もありますから、死はただの一時的な別れに過ぎません。

201. キリストのあがないによって、信じる人は、どのように悪魔の力から自由になりますか。
     信じる人が、悪魔に仕えるために、自分をわたさない限り、悪魔は、信じる人に対して力を失ってしまいました。

 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力 を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(へブル2:14〜15)

 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(1ヨハネ3:8)

 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

202. なぜ、キリストはあなたをあがなって下さいましたか。
     私がキリストのものとなり、そのみ国でキリストのもとに生き、永遠の義と、きよさと、祝福のうちにあって、キリストに仕えることができるようにです。

 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)

 29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となら れるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあ りましょう。33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして いてくださるのです。35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:29〜39)

【解説】  律法主義は神に仕える事によって自分を救おうとしますが、福音は人間を救って、そして救われた人間は自発的に、喜んで神様に使える心が与えられて、神様を賛美して神様に使える事を最高の喜びにします。

203. 私達の救主、あがない主となるために、キリストは何をして下さいましたか。
     キリストは御自身をひくくして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。

 5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリビ2:5〜11)

十字架の道

204. キリストのひくい御姿には、いくつの部分がありますか。
     五つの部分があります。まずしい誕生、受難、十字架、死、ほうむり、です。

【解説】  キリストの低い姿はただその人間性に属する性質だけではありません。キリストの謙遜は神様の性質です。人間が大きくなるのを求めるが、神様は人間の謙遜を求める理由は神様の偉大さはその小さくなられた姿で一番よく現れるからです。

205. なぜキリストは、御生涯を、うまごやのまずしい誕生から、おはじめになったのですか。
     キリストの御国が、この世のものでないことを示すため、キリストのまずしさによって私達を富ませて下さるためです。

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)

【解説】 イ エス様が馬小屋で生れた事は人々の罪のための冷たさの結果でした。(人目で出産が真近かな事が分かっていても、人々は宿屋の中に彼女を入れなかった無関 心。)しかし、同時に神様の選びでもありました。新しく生まれる救いの象徴です。新生において人間の罪深い、暗い、臭さい心にイエス様の聖霊様が入って下 さる事のためにイエス様はこの世の暗闇にお生まれになったのです。

206. キリストのみくるしみが、一番大きかったのはいつですか。
     死の前の晩と、聖金曜日とです。この時、キリストは、敵の手にわたされ、しばられ、せめられ、むちうたれ、いばらのかんむりをかぶせられ、最後には釘で十字架につけられたもうたのです。

マタイ26章、27章
26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。
26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。
26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
26:58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。
26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、
26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」
26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
26:66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
26:68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」
26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
27:3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
27:4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
27:5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
27:6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
27:7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
27:8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。
27:10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
27:12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
27:14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
27:16 そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。
27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
27:21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
27:28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
27:31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。
27:33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
27:36 そこにすわって、イエスの見張りをした。
27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
27:61 そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うか もしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。
27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

ルカ23:24〜49
24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

ヨハネ19:16〜30
16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
18 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

十字架上で七つのみ言葉

【解説】  イエス様は十字架上で七つのみ言葉を大変な肉体的、精神的、霊的な苦しみの中から言われました。それらは恐らく大体次の順番で言われたと思います。それらを通して十字架の出来事を考えましょう。

@  「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 イエス様の第一のみ言葉は父なる神様に対する取り成しのお祈りです。ご自分を十字架につけようとするローマ人の兵隊の罪の赦しを願うお祈りです。それは 十字架の苦しみは人々の罪の赦しのためのものだとハッキリ示します。又その赦しは自分の罪を認めて悔い改める人のためだけではなく、まだ自分の罪に全然気 が付いていない、まだ無知の世界で生きている人々のためでもあります。(兵士たちは恐らく自分の義務を果たして、罪を犯した人に正しい罰を執行しようとし ていると勘違いをしていたでしょう。しかし、十字架上のイエス様のみ言葉と姿勢で彼らの目も開かれたでしょう。少なくとも、百人体長は「ほんとうに、この 人は正しい方であった。」と言って、自分の過ちに気が付いて、イエス様のこの祈りに大きな慰めを得たでしょう。分からない内に犯した罪も罪であり、赦しを 必要とします。

 このイエス様の祈りによってどれほど多くの人々が神様の愛の御心を知って、赦しに預かったでしょう。また後でクリスチャンたちに対する迫害の中に、この祈りによって多くのクリスチャンは敵を赦すところに至ったに間違いはありません。

A 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」 「そこに、あなたの母がいます。」

 十字架の下にイエス様の母と弟子のヨハネがいました。母の心を剣が通るような苦しみが刺したでしょう。イエス様のみ言葉は深い愛情から出る親孝行の言葉 です。イエス様はヨハネにマリアの世話を頼んで、ヨハネはマリアをこの耐えられない場から町に連れて行って、又後で一人で十字架の下に戻りました。イエス 様の愛はもっとも大変な苦しみの中にも周りの人々の苦しみを見て、理解して、助ける愛です。

B 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 十字架の両側に同じ刑を受けている犯罪人は始めに両方がイエス様を罵ったが、イエス様の赦しを願う祈りを聞いて片方は悔い改めて、イエス様を見つめ直し て、自分の罪深さを認めて、もう一人の犯罪人にも姿勢を変えるように促しました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではない か。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして、イエス様に向かって一 つの願いを言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 

 この犯罪人の言葉はすべての人々のすべき悔い改めの要素を含めます。まず第一に自分の罪を正直に認める事です。第二にイエス様を神様の国の王様として認 める事です。第三に自分には地獄に行く以外に何の資格もありません。第四に、にも拘らず十字架のイエス様から思い出してくださるように願う事です。(資格 のない人が十字架のイエス様から恵みをお願いする事は信仰です。)

 イエス様の答えは十字架の意味を明言します。イエス様はその犯罪人の受けるべき永遠の苦しみの罰を代わって受け取って下さって、その故にこの犯罪人は天 のみ国にあるパラダイスにその日に入ることが出来ました。犯罪人を救ったのは悔い改めの祈りではなく、イエス様の身代わりとしての苦しみでしたが、悔い改 める心はその恵みを受け入れるには必要です。悔い改めの反対は救いを拒否する、自分で自分の始末をする高ぶりの姿勢です。

C 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 このイエス様のみ言葉は十字架の苦しみの最も深い事を表します。十字架上の6時間の間、父なる神様はご自分の御子イエス様を見捨てられました。神様に見捨てられる状態は地獄です。滅びです。燃えるゲヘナです。「神は燃えつくす火です」と書いてある通りです。
 もし一人の人間のすべての罪が苦しみの杯の一滴に比べると、イエス様は全人類のすべての人々のすべての罪の罰としての杯を最後の一滴まで飲まれて、味わって下さいました。

 ある人は次のような質問をしました。「イエス様の救いを拒否する人は永遠に続く滅びの火の中に掘り込まれるなら、イエス様の僅か6時間は比べ物にはなら ないではないか」と言いました。しかし、そうではなくて、イエス様の苦しみの長さはポイントではなく、その永遠の深さです。その深さで私たちのすべての人 の罪の長い処罰は完全に負えられました。

 イエス様のこのみ言葉は詩篇の祈りの始めからの引用です。その続きを言える肉体的な力がイエス様にはなかったのですが、周りのユダヤ人たちはその詩篇の 内容を知ったでしょう。その詩篇22篇をここに全部引用しましょう。その詩篇の中にイエス様の苦しみとその後の栄光が預言されていました。

1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
23 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
27 地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
28 まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

D 「わたしは渇く。」

 十字架上の6時間の最後の時に、イエス様は、すべてのことが完了したのを知って、「わたしは渇く。」と言われました。このすべての完了は大切な意味を持 ちます。何が終わったかと言うとイエス様の地上の生涯と言う意味ではありません。それは、十字架上にまだ体が生きておられた時の滅びの苦しみが終わったと 言う意味です。全人類の罪の代価は最後の一文まで支払われたと言う事でした。すべての人の永遠の火の地獄の処罰が最後まで経験されて、救いが完了したと言 う意味です。イエス様の霊的な苦しみがピタッと終わりました。その苦しみに比べるとイエス様の肉体的な苦しみは余りにも軽かったのです。その苦難が終わっ て、イエス様は初めてご自分の肉体的な痛みに気が付いたほどと言っても言い過ぎではありません。しかし、飲むことによってイエス様は最後の勝利宣言を叫ぶ に必要な肉体的な力を得られました。

E 「完了した。」

 私たちのすべての罪が赦されるためのイエス様の重いみ業が完成しました。これは何とも言えない素晴らしい勝利宣言でした。罪の代価が払い済みです。我らの罪の要求する処罰は最後まで受けられて、私たちは自由です。天国の門が犯罪人に開かれました。

 イエス様が経験した罪の処罰はイエス様が肉体的に生きておられた内に終わりました。イエス様の肉体的な死は罪の処罰ではなく、罪の結果としての死を勝利 者として取り除く働きに属します。主の復活は罪の支払いではなく、その領収書に似た役割があります。十字架の贖いが十分であった証拠です。

F 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

 イエス様の最後のみ言葉は夜寝る前の安心する祈りです。同時に肉体的な死が何を意味するかと言う大切な教えでもあります。真の神様であり、真の人間であ るイエス様はクリスチャンに正しい死に方を示して下さいました。イエス様の贖いによって罪赦された人は、安心して自分の霊を父なる神様に委ねて、新しい体 の復活の日まで体から離れて、人格として主の下にパラダイスに体の蘇りを待つことになります。

207. キリストは、みからだのくるしみだけをお受けになったのですか。
     いいえ、一番ひどいみくるしみは、私達の罪のために受けられた、たましいのおそろしいなやみでありました。

【解説】  旧 約聖書では罪の為のいけにえの動物は血を流してほふられてから祭壇の上で燃やされました。それはイエス様の霊的な苦しみの性質を現す儀式でした。神様の罪 に対する永遠のみ怒りの火がイエス様の魂を十字架の上に燃やしました。それは滅びの火、永遠の地獄の火でした。その本質はイエス様の十字架上の言葉で次に 現れました:「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」 神様に見捨てられる滅びの処罰をイエス様が私たちの代わりに終りまで経験 して下さいました。

208. 特にキリストが、このなやみをお受けになったのはいつですか。
     ゲッセマネの園で、血の汗を流しながら(ルカ22:44)、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」といわれた時(マタイ26:38)、ま た、十字架の上で、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』とさけばれた時(マタイ27:46)です。

 1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数え られたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:1〜12)

 22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:22〜25)

209. キリストは、これらすべてのみくるしみに、どのようにたえてゆかれましたか。
     忍耐づよく、ほふり場にひかれる小羊のようにたえてゆかれました。

 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7)

210. 私達は、キリストの死からどのような利益をうけるのですか。
     罪の支払う報酬は死でありますが、これを、キリストは御自分の死によって支払って下さいました。

 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:21)
 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

【解説】   私たちの罪の為に払われた代価、キリストの経験した滅びの苦しみはイエス様が肉体的に生きておられた間に完成して終わりました:「イエスは、酸いぶどう酒 を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30) ですからイエス様の肉体的な死は私たちの 罪の処罰を受けるよりも、私たちの罪がもたらせた結果に甦りで打ち勝つためのものでした。

211. 私達は、キリストのほうむりから、どのようななぐさめをうけるのですか。
     キリストは、私達の罪をほうむり、墓をきよめて、そのおそろしさをとりのぞいて下さいました。

【解説】   キリスト教の墓は魂の休むところではありません。魂と霊は亡くなる瞬間にイエス様の御前に行きます。墓は体の休む所です。墓の意味はイエス様の再臨の時の 体の復活を待つ信仰の現れです。体はその時に新しい、キリストの復活の体と同様に甦って、魂と霊と一緒になって、救いが完成します。

212. キリストのまずしい御生涯とみくるしみとを、私達はどのように考えなくてはなりませんか。
     キリストの御生涯とみくるしみとは、私達の罪のためのあがないであり、また、信じる人々にとっては、きよい生活と、くるしみに対する忍耐との手本です。

 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(1ペテロ2:21)

213. キリストは、まずしさと死との中に、いつまでもとどまっておられましたか。
     いいえ、神はキリストを高くひき上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9〜11)

214. キリストの高くひき上げられた御姿には、いくつの部分がありますか。
     五つの部分があります。よみに降られたこと、よみがえり、昇天、父の右に座られたこと、生きているものと死んだものとをさばくために再び来られることです。

215. キリストは、よみに降られた時、何をなしとげて下さいましたか。
     キリストが悪魔にたいしてかちえた勝利を示し、まだ獄にとらえられている霊にのべつたえられました。

 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。(1ペテロ3:18〜19)

【解説】   キリストがよみの中に勝利者として死んだ人の霊に福音を述べ伝えられました(1ペテロ4:6)。この箇所がどう理解すべきかについて色々の解釈がありま す。生きている間に福音を聞いた事がなかった人々にこのキリストの福音宣教によって救われるチャンスが与えられる解釈もあれば、それを否定する解釈もあり ます。いずれに致しましても、救われるためにキリストの福音以外の道がないと言う事は聖書の教えから明白です。

キリストの復活

216.  キリストのよみがえりから、私達はどんな利益をうけるのですか。
      1 よみがえりは、キリストが神の子であり、死にうち勝って、私達のすべての罪の支払いをして下さったことを示します。もしもキリストのよみがえりがなかったならば、いのちも救いもありません。

 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:3〜4)

 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(1コリント15:17)

【解説】  イエス様の十字架を支払いに例えば、復活は領収書のようなものです。

よみがえりについてマタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章、21章

マタイ28:1〜20
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ルカ24:13〜53
13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。
42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48 あなたがたは、これらのことの証人です。
49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

ヨハネ20:19〜21:25
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエス に言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われた ので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは 彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで 彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
21:25 イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

     2 キリストのよみがえりは、私達も霊的な死からよみがえって、新しいきよいいのちに生きる力を与えてくれます。

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

     3 キリストのよみがえりは、私達のからだも、終りの日に栄光のうちによみがえらせられることの保証を与えてくれます。

 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20〜21)

1コリント15:1〜58
1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
26 最後の敵である死も滅ぼされます。
27 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
30 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。
35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。
37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。
38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

【解説】  大雑把に言えば新約聖書の福音書は事実を語って、手紙はその意味を語ります。上記の箇所は1〜8節に事実を要約して福音の内容を語ります。福音の中味はイエス様の死と復活とによって用意されたものです。
 始めのクリスマスに神様が人間になられて、御子イエス・キリスト様として私達人間の一番根本的な問題を解決する為に地上に来られました。罪と死と悪魔か ら私達を開放するためです。罪から神様の愛の交わりへ、死から命へ、悪魔の支配からキリストの恵みの支配への救いです。イエス様が人間にならなかったら、 この三つの問題に何の解決もありません。

 イエス様の誕生は歴史上の出来事です。イエス様の愛に満ちた生涯も歴史に記録されています。その十字架上の死と墓からの肉体的な蘇りも歴史に起こった出 来事です。だから、私達の救いの為に必要なものは完成されています。私達の方から何の努力も働きも頑張りも要りません。神様が一方的に何もかもなさって下 さったからです。プレゼントは完成品です。組み立てるような準備的な手段は何も要りません。

 神様からの福音の中味の第一はイエス様の十字架上の身代わりの死による罪の赦しです。もし、あなたは心の良心の責めを覚えるなら、この赦しはあなたの為です。おめでとうございます。神様はあなたを赦して下さるからです。

 そのプレゼントの第二は永遠の命です。イエス様があなたの心の中に入られて、神様との平和や喜びや愛を注いで下さり、最終的に復活の体をも与えてくださいます。神様の愛に満ちた命はあなたへの贈り物です。

 そのプレゼントの第三はイエス・キリスト様を信仰の目で見る事です。イエス様はあなたにも御自身を現わして下さいます。おめでとうございます。あなたにもキリスト様を見る恵みが与えられます。

 神様のプレゼントを私達の心に届く手段は福音なのです。この福音は神様の力です。福音は四つの文章で書けるはっきりした内容のメッセージです。目で読む ことも出来れば、耳で聞くことも出来る簡単な知らせです。又反対に聞きたくないなら、簡単に耳を閉じる事が出来ますし、目をつぶる事もできます。そして、 何の影響もありません。福音はその意味であまりにも弱々しく見えるメッセージです。それにしても、福音は神様の力です。もし、人間はその耳を開いて、心を 開けて、福音の簡単な知らせを受け入れると、素晴らしい奇跡が起こるのです。その言葉と一緒に蘇られたイエス様御自身が人の心に入られて、罪の赦しと永遠 の命とイエス様を見る恵みを与えてくださいます。救いと言うプレゼントは福音と言う小包のなかに届きますから。福音は麦の種のように良い土に入ったら、成 長して実を結びます。砂や岩の中に実は出てきません。

 もし、福音に心を開くなら、あなたも確実に救われます。神様はあなたの救いを望んでおられるし、その為に総てを用意して下さったからです。

 もし、あなたはもう既に福音によって救われたならば、その福音によって歩んで下さい。毎朝起きるたび毎に、先ず第一に、福音の言葉を御自分の魂に述べ伝 えてください。「魂よ。今朝素晴らしい事を聞いて下さい。あなたは神様の子供です。あなたの罪が赦されています。キリスト様が十字架までの愛をもって今日 もあなたを愛して、共におられます。キリストの復活によってあなたはもはや死ぬことがなく、永遠の命をもっています。」と。今日この福音をどうぞ受け取っ てください。福音の力によって清い生活を送ることが出来るし、外の人にも福音の中味を分かち合うことが出来ます。

 9〜11節で福音の力のパウロの人性における結果が証されています。福音によって自分の本当の価値と人性の役割とその原動力が与えられます。

 12〜21節でキリスト信仰が如何にイエス様の復活の出来事によるのかが明らかになります。キリスト信仰は歴史的な出来事に、それに明確な奇跡的な出来 事によるものです。決して単なる心の信仰だけではありません。イエス様の復活がなかったと言う事が証明出きたら、キリスト者は政界一惨めな、騙された存在 として立証できます。ですから、イエス様の復活の証拠を一々調べて、それを崩そうとした動きが2000年も続いたが未だに成功していません。キリストの復 活の主な根拠は次の6つです:

1. 墓は空っぽで、遺体を包んでいた亜麻布が残されていました。復活以外に満足の行く説明はなされたことがあり
ません。
2. 40日の間、復活されたキリストは、いろいろな人々に、いろいろな時間に、頻々と姿を現されました。
3. 11人の弟子たちは、復活についてかたくなな不信から確固たる確信へと変えられました。
4. 弟子たちは、性格的には、恐れやすくぐらつきやすい人から、恐れを知らない証人へと変えられました。(復活が偽りであるならば考えられないことです)
5. 高度の教育を受けた人、パウロが教会を迫害する者から偉大な伝道者へと変えられた主な原因は、彼が復活のキリストを見たからです。
6. キリストの復活は、人類を救う神の永遠の御計画の一部であり、旧約聖書の中に預言されていました。

 22〜28節で復活から永遠のみ国までの道のりが描写されます。

 29〜34節でキリストの復活によって苦難に耐える力が与えられる事が強調されます。

 35〜50節は復活の体が人間的な想像を超える性質を幾つかの譬で説明されます。

 51〜57節でイエス様の再臨の時に起こる出来事が説明されて、キリストにある最終的な勝利が褒め称えられます。

 58節で復活の勝利のために今の働きが永遠のみ国まで意味のある事が強調されます。

217. キリストはよみがえられてから、弟子たちにどんな命令をお与えになりましたか。
     全世界に出ていって、すべてのつくられたものに福音をのべつたえよと、お命じになりました。(宣教)

 15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:15〜18)

 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに 命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28: 19〜20)

キリストの昇天

218. キリストの昇天には、どんな意味がありますか。
     キリストは、見える御姿ではもはやこの世を去られ、天で私達のために場所を用意して下さるために、父の栄光のうちにおはいりになりました。

 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(ヨハネ14:2)

 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。す ると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたが たを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒行伝1:9〜11)

219. キリストの昇天は、私達に何を教えてくれますか。
     私達も聖い心を持ち、この世をはなれてキリストとともにおりたいと願わくてはならないことを、教えてくれます。

 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ3:1)

220. キリストが、父の右に坐っておられることには、どんな意味がありますか。
     キリストが、その人性にしたがっても、神のカと栄光とにあずかって、すべてのものを支配しておられることを意味します。

 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(1ペテロ3:22)

 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1: 20〜22)

221. キリストが父の右に坐っておられることから、私達はどんな利益をうけるのですか。
     キリストは、その敵からみ国をまもり、私達のために祈り、私達に聖霊をおくって下さいます。

 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(黙示録11:15)

 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(へブル7:25)

 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(テトス3:6)
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)

222. キリストは、もうこの世にはおられないのですか。
     いいえ、目には見えませんが、力強く存在しておられます。

 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

キリストの再臨

223. キリストは、この次には、いつ目に見える姿でこの世に来られるのですか。
     おわりの日に、生きている人と死んだ人とをさばくために、ふたたび来られます。

 7 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
9 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
11 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。
14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、
17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:7〜28)

 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5:10)

 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示録1:7)

 31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ25:31〜46)

【解説】   最後の裁きはどうして必要でしょうか。イエス様の再臨の時に罪と死と悪魔が完全に滅ぼされますが、過去において地上ですべての人々は罪の被害者になった り、加害者になったりしてきました。神様の愛は地上のすべての不正、不義、不公平などを正す事を要求します。しかし、それだけではありません。裁きの時に すべての隠れたよい業も明らかにされて、報いられるのです。ただし、地上で既に赦された罪は一切最後の裁きの対象になりません。もう既に支払い済ですか ら。

224. 私達は、このおわりの日が、いつなのか知ることができますか。
     いいえ、これは神がおさだめになる日で、人間には知ることができません。

 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(使徒行伝1:7)

 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。(2ペテロ3:32)

225. その時、キリストは何を標準にして、私達をおさばきになりますか。
     キリストのみことばに従って、おさばきになります。

 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。(ヨハネ12:48)

226. キリストについて、これらすべてのことを知り、それがまことであるとみとめれば、それで十分なのですか。
     いいえ、本当の生きた信仰によってキリストを知ることができるように、教えていただかなくてはなりません。

 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 (1コリント12:3)

第三条 きよめについて

私は聖霊を信じます。又聖なるキリスト教会、即ち聖徒の交り、罪のゆるし、からだのよみがえり、かぎりない生命を信じます。 アーメン

これはどんな意味ですか。
答    私は、私自身の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信ずることも、主にきたることも出来ないことを信じます。けれども聖霊は、福音を通 して、私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えて下さいました。それはあたかも主が、この地上の全キリスト教会を召し、 あつめ、照らし、きよめ、そしてイエス・キリストによってまことの、一つの信仰のうちに支えて下さるようにであります。主はこのキリスト教会において私と すべての信徒に、日毎に凡ての罪をゆたかにゆるし、そして終りの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、私と、キリストを信ずる凡ての者に永遠の生命をあ たえ下さいます。これは確にまことです。

【解説1】   第三条を説明するルターは興味深い表現を使います。「私は...主イエス・キリストを信ずることが...出来ないことを信じます。」 一見矛盾のように聞 こえますが、とても大切な真理を語ります。とは、信仰は人間の理性や能力や決定や行動などによって生まれるものではない事をルターは強調します。救いをも たらせるキリスト信仰は聖霊様の働きによって始めて生まれるものです。

 私はこの真実が救われた日の次の朝によく分かりました。その過程を少し証しさせて頂きます。

 私は1944年に6人兄弟の4人目として信仰の家庭に生まれました。そして間もなく幼児洗礼を受けました。小さい時から神様の話やイエス様の話をよく聞 かされました。日曜学校や礼拝によく通いました。しかし、中学校時代に自分の現実と社会の現実が説教の中に聞いている聖書の教えと余りにもかけ離れてい る事に気が付きました。自分が罪深い存在である事が益々分かりだしました。その反面によい暖かい家庭、親しい友達、学校での成功などの事が分かりきった事 ではなく、神様の私に対する愛の表れとして感じ始めました。神様はそのよい事柄を通して私を招き始めました。母が私の心の動きを案じて、色々と信仰のよい 本を私に読むように渡し、それらを貪るほどに読み始めました。

 15歳の時から上の兄弟姉妹と一緒に教会の青年活動に参加し始めました。個人的な信仰を持つ他の若者と自分の状態を比べると、自分には何か大切なものが 欠けていたような気がしました。彼らが持つ喜びや平安が私にはなかったからです。羨ましくなって、私も本物のクリスチャンになりたいと願う気持ちが益々強 くなりました。そして、1960年の正月にキリスト者になる事を決めました。と言うのは、クリスチャン青年がしている事と同じ事をしたらクリスチャンにな ると誤解していたので、彼らの真似をし始めました。

 彼らがやっていた事柄は聖書を読む事、お祈りをする事、教会の集会に参加する事、証しをする事、道徳的に正しく生きる事でした。それらを真剣に、全力を 出して、やりだしました。聖書を毎日3章づつ読む事は何の問題もありませんでした。教会の諸集会に一週間に8回も出席する勢いでクリスチャン青年の交わり を楽しみました。祈りの方はかなり苦痛でした。5分祈ったらもう限界と何回も感じました。(本物の祈りは聖霊様によるものですから、聖霊様がまだ心の中に 入っていなかった時に祈る事は辛い義務に過ぎませんでした。)証しも大変な挑戦でしたが、一ヶ月半経つとある青年たちの集会で初めて口を開いてイエス様の 証しをしました。(まだイエス様を知らなかったのに、皆の真似をしました。)しかし、最も難しい事はやはり正しく生きる事です。聖書を読めば読むほどイエ ス様の道徳的な要求の厳しさにぶつかって、自分の心のどうしようもない罪深さが益々明らかになりました。頑張れば頑張るほど絶望の沼に沈んでしまいまし た。「どうして私がクリスチャンになれませんか。他の青年に出来るのに、どうして私が何時も罪を犯して、罪の奴隷でしょうか。どうして私には喜びや平安が ないでしょうか。」

 半年以上の一生懸命な努力の結果、絶望の余りに至りました。神様を信じる信仰さえ失いかけていました。丁度その時期に堅信礼を受けるために2週間の教育 キャンプに100人の他の15歳の男女と一緒にある島のキャンプ場に行きました。ルターの小教理問答やその他の聖書の学びを中心とするとても楽しいキャン プでしたが、私の心は罪意識や罪責感で一杯、又自分が絶望的な人間だと言う気持ちで一杯でした。あるキャンプファイヤーの時に牧師がイエス様の十字架の血 潮による罪の赦しの話しをしました。その時に神様に向かって心の中に次のようなお祈りをしました。

 「神様、あなた様がいらっしゃるかどうかさえ分からなくなりましたが、もしいらっしゃるなら、私を助けて下さい。私のところに誰かを送って下さい」と言う不信仰の祈りでしたが、しかし正直な祈りでした。

 あの当時のキャンプでは宿泊はテントで行われましたが、私には一人用のテントがあって、夜の10時前にもう既に寝袋に入ろうとした所にキャンプのある リーダーが現れて、私に次のような言葉を言いました。「あなたは確かにいい子ですが、あなたの心の中にまだイエス様が入っていないから、今入れるように 祈ってもいいですか。」私は涙で頷く以外には何もいえませんでしたが、あの方はお祈りをして帰りました。それから10分後ですべてのリーダーが集まって、 眠る前の賛美歌を歌ってくれました。その内容は天国についてでした。罪のない、幸せの国についてでしたが、その時に主の聖霊様が私の心に入って下さいまし た。心の重い荷物が何処かに転がって、何ともいえない平安に包まれて静かに眠ってしまいました。

 次 の朝起きると心から喜びの泉のようなものが湧き出て、自然の緑が何とも言えないほど美しく見えて、鳥の綺麗な鳴き声に始めて気が付いたような時でした。そ の時にキリスト信仰が自分の理性や能力によって生まれるのでなく、聖霊様からの大きな贈り物、プレゼンットである事が分かりました。ルターの教えとピッタ リの体験を致しました。

 聖霊様を頂くと信仰が与えられます。しかし、その事は人間の業ではなく、神様ご自身がなさって下さる業ですから、奇跡で、自分に起こった事は確かです が、それを説明できません。聖霊様の奇跡です。ただ、その奇跡はどのような環境や状況の中に起こりうるかは、イエス様はニコデモにヨハネの3章の中に説明 して下さいました。それは、イエス様のみ言葉に心を開いている時に起こります。又イエス様の十字架と復活のメッセージを聞いているところに起こり得ます。

【解説2】   信仰が聖霊様のみ業によるプレゼントなら、どうしてある人々が信じないのですかと言う質問が当然出るでしょう。信仰は神様のみ言葉の招きに答える形で生ま れますが、その招きを拒否する事が出来ます。しかし、神様の招きがなければ、人間が自分の力で信じることが出来ません。神様の招きの時をも勝手に選ぶこと が出来ません。神様のみ声を聞く時は人生で最も大切な恵みの訪れの時で、それを見過ごせば、救いのチャンスを失って、自分自身に裁きを招く結果になりま す。

227. あなたが聖霊を信じるとは、どういう意味ですか。
     聖霊が私のみちびきて、きよめぬしであり、また、私がイエス・キリストを信じて、そのみこころに従って生きることができるようにさせて下さる方であるとして、心から信頼するということです。

 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。 (1コリント2:12)

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(1コリント12:3)

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 (ヨハネ14:26)

228. 聖霊とはどなたですか。
     聖霊は、父と子とともにおられるまことの神であられるお方です。

 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人の うちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(1コリント2: 10〜11)

 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(創世記1:2)

229. 聖霊のはたらきは何ですか。
     私達をまねき、てらし、きよめ、まもって下さることです。

聖霊様のまねき

230. 聖霊が人をまねくとは、どういう意味ですか。
     私達の心を目覚めさせて罪を知らせ、キリストにある神のめぐみを受けいれるように、まねいて下さることです。

明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」 (エペソ5:14)

231. 聖霊は、何によって人をまねかれるのですか。
     神のみことばによってです。律法によって私達を罪に目覚めさせ、それから福音によってキリストへとまねいて下さいます。

 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による 信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリスト の栄光を得させてくださったのです。(2テサロニケ2:13〜14)

232. 神はどのようにして、人間が聖霊のまねきに注意を向けるようにさせて下さいますか。
     時には苦しみ、時には親切、時にはほかの人の手本など、神はあらゆるものを用いて、人が反省するようにみちびいて下さいます。

233. このまねきは、すべての人のためのものですか。
     そうです。神は、すべての人が福音によって救われることをのぞんでおられます。

 彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生き ることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』(エゼキエル33:11)

 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるので あって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)

 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)

234. けれども、すべての人が聖霊のまねきに従いますか。
     いいえ、多勢の人が聖霊にさからっていて、悔い改めてキリストのところへ来ようといたしません。

 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。(使徒行伝7:51)

 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。(イザヤ65:2)

 1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。 2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。 3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。 4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』 5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、 6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。 7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。 9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』 10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。(マタイ22:1〜10)

235. 自分をかたくなにするとは、どういうことですか。
     良心に対する聖霊の警告を、頑固にあなどり、けがし続けるような時、心をかたくなにしているのです。

(出エジプト7、8、9章を参照に読んで下さい。)

236. だれが聖霊のまねきに従う人ですか。
     悔い改めて福音を信じる人たちです。

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

237. 悔い改めとは何ですか。
     自分の罪をみとめて、心からなげき悲しみ、それを神の前に正直に告白して、キリストにある神のめぐみをせつに求めることです。

 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:7)

 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 (2コリント7:10)

聖霊のてらし

238. 神のめぐみはキリストの中に求めなければならないということが、どうしてわかるようになりますか。
     聖霊のてらすはたらきによってです。

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(1コリント2:9〜10)

239. 聖霊のてらしとは、どういう意味ですか。
     聖霊が福音の真理についての生きた知識を、私達の心にもたらしてくれるということです。

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて 起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ 16:13〜14)

【解説】   聖霊の働きのルートはまず人に聞く耳を与えて、そして、聞いた聖書のみ言葉を理解させて、そして、心の良心に訴えて、それから感情と志をおこして下さいま す。聖霊様の働きは人間の人格の中に、その人格を無視しないで進みます。人間は自分で悔い改めて、自分で信じて、自分で意思を働かせて、自分でみ言葉に応答しますが、それらすべてを聖霊様が起して下さいます。ですから、救いにおいて人間には自由意志がありません。霊的に死んだ人は悔い改めも、信仰も出来ませんが、聖霊のみ業で、福音の言葉を通して新しい命が与えられて、そしてその命の中に理性や意思や感情が働きます。聖霊様は人間の理性を無視して、直接感 情か意思に訴える事をなさいません。

240. もしも聖霊が私達の心をてらさないならば、これらの真理について、私達が持つことのできる知識はどんなものですか。
     死んだ知識です。私達を悔い改めへも、信仰へも導くことができないし、また、罪の中にいる私達を、どうすることもできないような知識です。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14)

【解説】   罪堕落で人間の感情や意思だけではなく理性も歪んでしまいました。ですから、聖霊様がその理性を照らさない限り、聖書を一生涯研究してもその本当の意味が 分かりません。自由神学者の中にそのような人がいます。イエス様の時代の律法学者もみ言葉を読んでも、暗記しても、その本当の意味が理解できなかった事が 福音書を読んでよく分かります。

信仰

241. イエス・キリストを信じるまことの生きた信仰とは、どんなものですか。
     信仰とは、次のようなものです。悔い改めた罪人が、罪と死と悪魔のカからのただ一人の救主として、キリストに自分をまかせ、キリストとその義のうちにかくれ家をみつけ、心から信頼してよりたのむことです。

 5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、 6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」 7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれ ば、私のしもべは直りますから。 9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言え ば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信 仰を見たことがありません。 11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マ タイ8:5〜13)

 21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。 22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。 24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。 25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。 26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。 27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイ15:21〜28)

242. このようなイエス・キリストへの信仰を持つことができるのは、悔い改めたたましいだけですか。
     そうです。イエス・キリストとその功績にたよる信仰は、罪の下にある自分の求めとみじめさとを深く感じている心にだけはたらくものであるからです。

 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。(マタイ9:12)

【解説】   悔い改めも、信仰も人間の心の動きのようなものだけではありません。悔い改めはイエス様と人格的な関係の中に、イエス様と人の触れ合いの中の出来事です。 信仰も相手でおられるイエス様から助けや救いを頂く作業です。悔い改めはお医者の診断を受けて、その内容を認める事に喩える事が出来ます。信仰はそのお医 者さんが癒すことが出来る事を信頼して、自分をそのお医者さんの扱いに委ねる事に喩えられます。

243. まことの信仰は、いつでも、だれのでも同じように強いものですか。
     いいえ、時として非常に弱くなり、神のめぐみを思いきって自分のものにすることができないような時もあります。

 言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。 (マルコ9:24)

244. 弱い信仰でもまことの信仰であることが、どうしてわかるのですか。
     心から罪をにくみ、せつにめぐみを求めることによってわかります。

 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(詩篇51:10〜12)

245. 神は、このような弱い信仰でもうけいれて下さいますか。
     そうです。もしそれが真実なもの、心からのものでさえあれば。

 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)

【解説】   強い信仰と弱い信仰は精神的な状態を意味することではありません。イエス様は見本的な信仰を小さい子供の信仰に見られました。大人が子供のようにキリスト 様を受け入れないと救われないぐらいです。信仰の大きさは信じる人よりも信仰の対象であるイエス様をどのぐらい大きく見るかによります。自分がいくら小さ くても、弱くても、傍におられるイエス様の偉大さを見る人には大きな信仰があります。信仰は成長するものです。色々の人生の場でイエス様の力や恵みを、以 前より大きなものとして見えるようになる過程で、信仰が深まり、信頼が拡大します。しかし、大きな試練の時にイエス様を見失ったら、信仰が弱ったりするこ ともあります。しかし、イエス様は弱い信仰の人をも救って助けて下さいます。弱い信仰も信仰で、不信仰ではありません。弱い信仰もイエス様から助けを求め るからです。不信仰はイエス様が要らない姿勢です。

246. キリストを信じるまことの生きた信仰には、どんな利益がありますか。
     その信仰によって義とされ、生まれかわり、きよめられ、そして最後には永遠に救われます。

 15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。 16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとお りに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるため でした。 19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。  20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4:15〜25)

義と認められる事

247. 義とされるとは、どういうことですか。
     義とするのは、神のめぐみのはたらきで、神が、悔い改めて信じる罪人の罪と罪過とを、キリストのために取り去って、キリストにあれば、今まで決して罪をおかさなかったようにみなして下さるということです。

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされましたそれは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)

【解説1】   義とされると翻訳された言葉の本来の意味は義と認められる法廷用語です。罪を犯した人を赦す事が出来ますが、無実の人を赦す事が出来ません。義と認められ る事は無罪宣言です。ですから、神様が人を義と認められるのは、その人が一生に一度も罪を犯した事のない人間として受け入れ、扱って下さる事を意味しま す。これは人間の経験ではなく、神様が下さる判決で、その時から人間は神様の御前で罪のない者としてずっと見なされている立場に置かれます。たとえで言え ば、神様は義と認められた人を天国行き大きな船の中に置かれて、天国に着くのはその人の努力や頑張りには関係なく、船次第です。船の中で本人が時には嬉し くて、時には悲しくて、時には安心して、時には恐れを感じますが、船そのものは確実に永遠のみ国の港まで彼を運んでくれます。船の大きな客室の中に彼は足 を滑らして、こける事もあれば、又立ち上がる事もあります。しかし、そんな事で船から落ちる事はありません。義と認められるのは本人の状態よりも、彼が置 かれた、安心できる場です。

【解説2】   どうして正しいお方でおられる神様は実際に罪だらけの人間を義と認めることが出来ますか。どうして罪ある人間を罪のない者と認める事が出来ますか。それ は、キリストの贖いによる「幸せの交換」です。人間の実際の罪をイエス様の実際の十字架の苦しみで罰して、代価を支払った出来事の故に義と認められること が初めて公正さを失わないままで可能です。人間の罪はイエス様に認められて、罰せられました。イエス様の義は人間に認められて、実際の天国の喜びで報いら れます。イエス様の完全な正しい生涯が信じる人のものとして認められて、罪人の堕落した生涯がイエス様に認められて、そしてその認められた通りに実際に扱 われます。

【解説3】   義と認められる事は法的な立場の変化です。神様の天国の法廷で下される裁きです。しかし、それから、生き方の変化も可能になります。アメリカの南北戦争の 課題は黒人奴隷の解放でした。米国の国会の一回の宣言ですべての奴隷が自由人と認められました。その法的な決定の裏づけは北側の軍隊の勝利でした。黒人を 奴隷にする敵が力を失いました。自由宣言を受けて、黒人が自由な生き方を始める事が出来ました。イエス様が人間を罪の奴隷にした罪や悪魔や死に十字架の上 で打ち勝って、その勝利によって、罪人を自由な、義と認められた者として宣言なさいました。

【解説4】   南北戦争の後で多くの以前の奴隷は自由人でありながらも、依然として奴隷であるかのような生き方を続けました。それは、自分の置かれた新しい場を実際の行 き方に繋げる事が出来なかったからです。多くのクリスチャンもその自由な場を十分理解できないで、罪の奴隷であるかのように悩んでいます。義と認められたクリスチャンが実際の生活の中に多くの罪を依然として犯してしまうから、自分の自由な立場を見失いがちです。しかし、クリスチャンの生き方の変化や罪との戦いの中にどの位成功するかによって天のみ国に行かれる訳ではありません。行き方の中に現れて来る実際的な正しさ、義は、義と認められる理由ではありません。逆に義と認められた、新しい立場に活かされている結果です。クリスチャンは聖めで救いを得る訳ではありません。義と認められて、救われたから聖め、すなわち清い新しい生き方を求めます。聖めは決して地上で完全なものにはありませんが、義と認められたから、初めから神様の御前で天国行き人間として認めら れています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

248. では、信じる人は、義とされて何をうけるのですか。
     罪のゆるしをうけて、神の子とされます。

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)

 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3:26 )

【解説1】   主イエス・キリスト様を信じる瞬間に義と認められます。そしてその結果罪が赦されます。この順番はとても大切です。多くの人は自分の罪を悔い改めて、イエ ス様から罪の赦しを頂いて、そして後で自分が義と認められた事を知りますが、実際に順番は逆です。義とみとめられたから罪が赦されました。クリスチャンは 繰り返して罪の赦しを求めて、繰り返して赦された経験をしますが、義とみとめらる事はその赦しの連続の理由です。義と認められる事は一回限りで十分です。 天のみ国までそのまま有効です。しかし、罪の赦しは毎日繰り返さなければならないものです。救いの確信は義と認められた事実に基づきます。

【解説2】   日本の文化は実感を強調する傾向があります。しかし、実際に人間の気持ちや感情や実感は非常にあやふやなものです。よい日には救いの確信が沸いて来て、悪 い日には絶望的な気持ちになったりします。聖書は人間の決定や感情を頼りにしません。神様の状況に寄らない、変わらないみ言葉の約束は義とみとめられて、 救われた事の十分な証拠です。

【解説3】   もし義と認められてすでに天国へ行ける資格が与えられているなら、どうして罪を繰り返して悔い改めて、赦しを求めなければならないのでしょうか。それは、 罪の赦しの本質は神様との関係回復にあるからです。罪を犯すたびに、救いを持っているクリスチャンも、喜びや平安を失います。罪を悔い改めないままではク リスチャンとしての力が沸いてきません。罪を犯すたびごとにイエス様の十字架の下で神様の新しい愛と交わりを味わって、新しい恵みの力で前進する事が出来 ます。この過程の中でクリスチャンは神様の愛の大きさ、広さ、深さをもっと深く知って、主イエス様の命が聖霊によって益々彼のうちに働いて、変化をさせま す。この過程は清めであり、その最後は天のみ国でイエス様の復活の体と同じ姿で主を賛美する事です。天国に着いたら、義と認められた場は、完全な義の姿に なります。

249. このように、神が罪をゆるして下さる動機は何ですか。
     ただ神の限りない、めぐみとあわれみとによるのです。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)


250. 神はどなたのために、私達の罪をゆるして下さるのですか。
     十字架の上で血を流して、全世界の罪をあがなって下さったキリストのためにです。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

【解説】   悔い改めの涙、罪を悲しむ心、ざんげの祈り、罪の告白などは罪の赦しの理由ではありません。多くのクリスチャンは徹底的なざんげの心で赦しを得ようとしま すが、それは間違いです。罪の告白は赦される理由ではなく、条件に過ぎません。例えば、犯罪人が警察に言って、犯した罪を自供する事で、処罰を免れること は出来ません。かえって、物的証拠を得やすくして、裁判所に引き渡されるのを早めるに過ぎません。神様に罪を認めないなら、赦しは出来ませんが、認める事 は赦される理由ではありません。理由は神様の恵み深い心です。神様は真実ですから、イエス様に罰した罪をもう二度罰する事はありません。赦しの理由はイエ ス様の十字架の贖いです。

251. 罪のゆるしに、必ずともなってくるのは何ですか。
     神の子に与えられる、祝福された特権をたのしむこと、天の父とのまじわりと、日ごとの祝福、栄光のうちに永遠のいのちをうけつぐことです。

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32:1〜2)

【解説】   聖書の中に罪と赦しがとてもよく出るから、キリスト信仰は大変否定的な宗教と言うイメージが多くの日本人にはあるようですが、罪の赦しは人間の一番根本的 な問題の解決であり、キリストの愛の交わりへの入り口ですから、そこから最高の喜びや心の平安に預かります。父なる神様の交わりは最高の幸福です。

生まれ変わり

252. 生れかわりとは、どんなことですか。
     生れかわりは、神の御霊のめぐみのはたらきで、これによって神が私達の心の中に住み、私達の中に神のかたちを新にして、新しい霊の人をつくって下さるということです。

 だれでもキリストのうちあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)

【解説1】   生まれ変わり、新生とも言われますが、義と認められると全く同じ瞬間に起こります。ですから、救い、クリスチャンになる事は、義と認められる事と生まれ変 わる事の組み合わせのようなものです。論理的に考えると義と認められる事は生まれ変わりの条件ですから、義と認められる事は先で、生まれ変わりは後です。 しかし、時間的に同時に行われます。義と認められることは天国の法廷での無罪判決なら、生まれ変わりは聖霊様を通してイエス様が人の心の中に入る事です。 主イエス・キリスト様の命がクリスチャンの霊的な命になります。義と認められる事が養子にする法的な手段だとすると、生まれ変わりは実際に出産によって子 供になる事です。義と認められる事も、生まれ変わりも両方とも100%に神様のみ業で、人間の努力で得られるものではありません。

【解説2】  イエス様の十字架と復活が先にあって、それから50日後のペンテコステの日に聖霊様が注がれたと同様に、十字架の恵みによって義と認めれれる事は聖霊を頂く生まれ変わりの前提です。罪が赦された心に新しい命が注がれます。

 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(使徒2:32〜33)

【解説3】   生まれ変わりは聖霊によって主イエス様の命に与かる事だから、その特徴はイエス様との人格的な交わりです。人間には罪のために全く無かった命が与えられる 事ですが、その命はイエス様との関係の中にしかありえません。一旦その命を得て、イエス様から独立して生きる事は不可能です。ですから、霊的な新しい命は 私たちの命よりもキリストの命が私たちを通して現れて、私たちを活かして下さいます。ですからその命の結果として現れる変化はその本質ではなく、その命の 実です。

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

253. 生れかわると、私達の中にどんな変化がおこりますか。
     新しい心、つまり、新しい霊的ないのちが与えられます。すなわち、理解の中に新しい霊的の光が与えられます。

 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(2コリント4:6)

 8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― 10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。 11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。 13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(エペソ5:8〜14)

     良心の中に、まことの平和とよろこびが与えられます。

 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)

 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(1ペテロ1:8)

     意志の中にきよい願いと力と求めとが与えられます。

 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル36:26)

 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)

 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(1コリント2:4)

【解説】   新しく生まれた事の第一の変化は罪赦された新しいクリスチャンの罪に対する態度が変わることです。救われる前は罪のいやな結果が嫌いであっても、罪そのものを愛していましたが、罪が赦されて、救いに与った新しい自分が罪そのものを憎むようになります。なぜなら、罪の反対は神様への愛です。主の愛を味わった以上罪がいやになります。たとい罪をその後犯しても、主の十字架の愛を味わった人は繰り返して悔い改めて、主の恵みの下に戻ります。

254. 生れかわりによってつくられる、新しいいのちの意義はどこにありますか。
     はじめに、私達を愛して下さった神を愛することにあります。

 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛し ます。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守る ことです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:1〜3)

255. 生れかわりは、何を通してはたらきますか。
     神のみことばと、洗礼によってです。

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5)

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(1ペテロ1:23)

【解説1】  生まれ変わりも義と認められると同様に出産に似て一回切りの出来事ですが、そこから始まる新しい命はずっと続きますし、それを支えるために霊的な食べ物の聖書のみ言葉が必要です。

【解説2】  聖 霊様による新しい命が人生に入ると、古い性質の罪深い肉が一変でなくなる訳ではありません。最終的に天国に着くと肉が完全になくなりますが、その時までは 同じ人間の中で新しい性質と古い性質との戦いが行われます。イエス様の聖霊の新しい性質が支配を増やして行く過程は清めか聖化かキリスト者の成長などの名 前で呼ばれます。しかし、罪がクリスチャンに残っても、彼は義と認められているから、その罪のために最早裁きがありません。

  私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は 肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5: 16〜17)

【解説3】   み言葉、洗礼、聖餐は恵みの手段と呼ばれます。それは人間がその手段で恵みを得ると言う意味ではなく、聖霊様がその手段を通して働いて、生まれ変わりの奇 跡を与えて下さいます。ですから、救いのみ業が神様のみ言葉がないところにはあり得ません。悔い改めも、信仰も聖霊様がこれらの手段を使ってプレゼントし て下さいます。

256. 生れかわりは、どうしても救いに必要ですか。
     もちろんです。私達は、生れかわらなければ、神の国にはいることができないからです。

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハネ3:5〜6)

【解説】  信仰には聖書のみ言葉を理解して、納得する面もない訳ではありませんが、救いをもたらす信仰は聖霊の働きによる神様の生きた交わりに与る事です。

257. 忠実な神の御霊は、信じる人に、このほかどんなはたらきをしますか。
     信じる人をきよめ、まもってくれます。

きよめ(聖化)

258. きよめとは何ですか。
     神の御霊のめぐみのはたらきで、信じる人を神のかたちに似せて、日ごとに新しくして下さることです。

 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

【解説1】   救いは出産と同様に一瞬の内に起こる事に対してきよめ、聖化、クリスチャンの歩み、成長は一生涯かかる、長い過程です。その目的は救われた人間が復活のイ エス様と同じ完全に罪から離れた栄光の姿に変えられる事です。ですから広い意味で肉体的な死(罪から最終的に開放される時)と体の蘇りもきよめの過程に属 します。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(1ヨハネ3:2)

【解説2】   「きよめは罪意識と神様の恵みの意識が深まるものだ」とルターが定義しました。それは地上においては、きよめは人間の古い罪深い性質が消えると言う意味で はなく、かえって主イエス様の光によってその恐ろしさが益々分かって、聖霊の力によって古い肉の行いを殺して、又聖霊の力で積極的に新しいキリストの命に 自分をささげる事です。きよめはそういう意味でイエス様と共にしか出来ません。きよめの過程でイエス様を益々深く知るようになって、十字架の恵みの大きさ が益々体験できるようになります。きよめはイエス様から離れては全く不可能です。ですからイエス様は次のように言われました。

 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)

259. 日ごと新になるということは、どのようにしておこるのですか。
     古い人、すなわち罪が日ごとにぬぐい去られて、新しい人、すなわち新しい霊的ないのちが、私達のふるまいの中にますますあらわれてくるようになります。

 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22〜24)

260. それならば、クリスチャンはどのような日常生活をおくるのですか。
     クリスチャンは自分を捨て、悪魔と、この世と、自分自身の肉とに対してたたかいます。そして、神と人とをますます愛して、なにごとでも神のみこころを行うようにつとめます。

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)

 1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられ ます。 2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なので す。 6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。 7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。 8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。  9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、 10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちに おられるのです。 12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさ い。 14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。 15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさ い。 16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向 かって歌いなさい。 17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3: 1〜17)

 16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをする ことができないのです。 18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。 19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者た ちが神の国を相続することはありません。 22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(ガラテヤ5:16〜26)

 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)

【解説1】   多くの若いクリスチャンが救いは恵みによって行われた事を感謝しながらも、クリスチャンの成長、きよめ、聖化は自分の努力によると誤解して、新しい律法の 下に自分を置いてしまうがちです。私自身も例外ではなく、上記のクリスチャンに対する勧めを物凄い大変な新しい律法として感じて、自分の力で頑張っても頑 張っても、守る事が出来なくて、クリスチャンになっても、明確な救いを経験しても、時には絶望に近い気持ちになりました。おまけに、自分の救いの確信をみ 言葉の勧めをどのぐらい守る事が出来たかと言う事にかけました。苦労と失望の連続が長い間続きました。その中で繰り返して主の十字架の下に赦しを願う為に 行くしかありませんでしたから、信仰を失う事はありませんでした。失敗に失敗を重ねる中で、救われた自分の古い性質の罪深さが分かって、自分の力では救い だけではなく、クリスチャンとして生きる事も全く無理だと分かりました。

 主は後で二つの事を明確に示して下さいました。先ず第一に私の救いの確信はきよめの成功に少しもよらない事が分かりました。失敗を繰り返しても、十字架 の贖いによって義と認められた事実は変わらなくて、それにだけ私の救いがかかっていると言う事でした。第二に、新しく生まれることだけではなく、クリス チャンとして生き続けることも神様の聖霊の働きによってしか出来ない事でした。そして、主のみ言葉の勧めは決して律法ではなく、聖霊の力を伴う恵みだと言 う事でした。主のみ言葉に従う事は自分の努力ではなく、聖霊の導きや力に任せると主ご自身が可能にする恵みです。

 確かに、クリスチャンがみ言葉を聞いて、従う必要がありますが、自動車に比べると、エンジンをかけなければ、いくらハンドル操作をしても車が動かないが、聖霊のエンジンがかかったら、道路(すなわちみ言葉の勧め)に従って走らなければなりません。

【解説2】 かなり多くのクリスチャンは私と同様に聖めについて誤解を抱いているようです。救いは十字架の恵みによって与えられた自由なプレゼントですが、聖めは自分の頑張り次第で、言葉そのものも疲れを起こすぐらいです。救いは恵みですが、聖めは律法を必死に守る事です。頑張ることは非常に深く日本文化の中に入っていますから、聖めについての正しい教えを聞いても、受け止める方の心にそれは立法的な要求にしか聞こえない場合が多いかと思います。

 しかし、救いも、聖めも、両方とも神様の恵みのみ業です。又共通して、どちらも私たちの人格を無視して、自動的に、ロボット的に行われるものではありません。救いは十字架の下で罪深い人間が主イエス・キリスト様に出会う事です。その出会いの中に主の赦し、和解、交わりが成立して、神様の子供の特権が与えられます。しかし、その全ては主と共にいる時に、主ご自身を人格的な信頼と触れ合いの中に行われます。主と離れた所で、いくら正しい教えがあっても救いがありません。

 それと全く同じように聖めは主との人格的な交わりの中にしかおこりません。救いを出産に比べると、お母さんがなかったら、出産は不可能ですが、赤ちゃんの成長もそれからお母さん(またはお母さん代わりのお方)がずっと一緒出なければ不可能です。同様に聖霊によって新しく生まれた神様の子供の成長、聖めは、主イエス・キリスト様と共に歩む事によって初めて可能です。主の人格的なみ言葉の糧を頂きながら、成長と力が増えて行きます。主の言葉に信仰と従う事で答えるのは律法による業ではありません。主がそのみ言葉と共に力を与えてくださるからです。たとえば、お母さんがその子供に美味しい食事によって、又愛情によって肉体的力と精神的な力を注ぐと、子供がお母さんの頼みに心から応答することが出来ます。

 同様に聖めに含まれる、聞き従うことは決して律法ではありません。主は先に十字架の血潮によって全ての罪と汚れをきよめて、そして、み言葉を通してご自分の心、考え、愛を示して、この世の人々に対する救いの思いなどを示して、そしてその愛の御心は私たちの目にも最高の事の様に分かってから、初めて「あなたはこの事をして下さい」と言われます。主の御心が私たちの心にもなっている中に私たちは従う事が出来て、又その結果として主のみ業を見ることが出来ます。

 聖霊様による新しい命が人生に入ると、古い性質の罪深い肉が一変でなくなる訳ではありません。最終的に天国に着くと肉が完全になくなりますが、その時までは同じ人間の中に新しい性質と古い性質との戦いが行われます。イエス様の聖霊の新しい性質が支配を増やして行く過程は清めか聖化かキリスト者の成長などの名前で呼ばれます。しかし、罪がクリスチャンに残っても、彼は義と認められているから、その罪のために最早裁きがありません。

【解説3】勧めの言葉と聖め

 聖書の中に沢山の勧めがあります。例えばパウロの手紙に初めに素晴らしい恵みのメッセージが一杯ありますが、後半に沢山の命令形を使う勧めが出ます。しかし、命令形だからと言って、それは私たちの頑張りにしなければならない律法ではありません。

 イエス・キリスト様の所に4人の人が中風の人を運んで連れて来た話を皆様がよく覚えているでしょう。(マルコ2章)イエス・キリスト様がその方に一番最初に言われた言葉は「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪が赦された」とでした。素晴らしい一方的な恵みの言葉でした。その瞬間にその方の心の中に大きな変化が起こりました。罪赦された喜びと平安、神様との交わりといのちが心を満たしたに違いあちません。しかし、イエス・キリスト様のその中風の方に対する次の言葉は命令形に変わりました。「起きなさい、床を畳んで、家に帰りなさい」とです。

 もしこれは律法なら、歩けない人に全く無理な要求です。しかし、そのイエス・キリスト様の言葉に癒す力が含まれていました。その言葉に従った瞬間に奇跡が起こりました。立つ事が出来るようになりました。聖書の諸勧めは聖霊を頂いたクリスチャンにとって力のついている恵みの言葉です。しかし、私たちはその主のみ言葉に全人格で応答する必要があります。力はその時に始めて働きます。

 しかし、主のみ言葉に従う事を妨げようとする力も私たちの罪深い性質に残っていますから、聖めに、聞き従う事には戦いも付き物です。ですから、私たちはよく失敗して、主のみ声より自分の肉に任せてしまいます。そして、言い訳として、「私は未だ未だ弱いものです。」しかし、この言い訳は全くポイントはずれです。確かに私たちは弱いものです。しかし聖めは私たちの力によりません。主が弱くはありません。ですから、毎回失敗すると私たちはもう一度主の十字架の下に悔い改めて戻って、主の愛の力を頂く必要があります。

 イエス・キリスト様の言葉を思い起こしましょう。

  「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。・・・あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:5,7-8)

【解説4】聖めの目的

 救われた瞬間に私たちは天国の世継です。そして十字架の恵みがずっと有効ですから、必ず天国に行けます。聖めは救いの結果であり、そのプロセスの過程で最終的に救われた人は復活したイエス・キリスト様と同じような姿に変えられます。体の復活も聖めの一部です。しかし、きよめは救われるためではありません。きよめは私たちが多くの愛の実を結んで、神様に用いられて、多くの人に福音を伝えて、神様に栄光を与えるためです。


261. それでは、信じる人は自分のよい行いによって、神の前に義とされ、救われることができるのですか。
     いいえ、私達のどんなよい行いでも、このためには何の役にも立ちません。ただキリストとその功績にだけ、救いの希望がかけられるのです。

 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。(ルカ17:10)

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8〜9)

聖霊のまもり

262. 聖霊のまもりとは、どういう意味ですか。
     まもりとは、神の御霊のめぐみのはたらきで、私達がどんな誘惑の中にあっても、キリストを信じる生きた信仰のうちに、最後まで私達をささえて下さいます。

 あなたがのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)

 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に。(ユダ24)

【解説】   私たちは神様の守りを祈る時にはよく災害や事故や病気や怪我や死や悲しみや非難や迫害などを考えて主に願い事を表します。そのような祈りには何の問題もあ りませんが、それらよりも遥かに大切なことはキリスト様への信仰が天のみ国まで守られる事です。罪や誘惑から守られる事も祈るべきですが、聖霊の守りの本 質的な働きは私たちを悔い改めない、頑なな心、主に背を向ける背信の恐ろしい状態から守る事です。信仰生活を続ける事は私達の自分の力では到底無理です。 信仰を始めた主イエス様が聖霊の働きによって私たちを天国まで信仰の内に守って下さいますから、安心出来ます。

 聖霊の守りの確かさについてイエス様は次のみ言葉を言われました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼 らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28〜29)

263. 信じる人を、聖霊は何によってきよめまもるのですか。
     神のみことばと、主の晩さんによってです。

【解説】   神様のみ言葉は聖書ですが、聖書を読む時に書かれている文章よりもその文章を通して主ご自身に出会って、主に触れて、主のご臨在からいのちを頂いて、きよ められ、信仰のうちに守られます。聖書を食べ物に比べると、人は一般的に食べ物で肉体的な命が守られると言っても、実際毎日一つ一つの食事を食べないとだ めです。聖書も一般的でなく、神様の口から出る一つ一つの言葉を受け入れて、主に出会って、信仰が保たれます。聖餐式も一緒です。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 (マタイ4:4)

264. 聖霊は、信じる人をどのようにしてまもるのですか。
     信じる人の心を教え、導き、叱り、慰めます。

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)
 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。(使徒行伝9:31)

【解説】  聖霊の働きがなければ、聖書を読んでも、知識を増やしても、結局人間は変わりませんが、聖霊はみ言葉を鋭く心にその場その場に示して、生きた、力ある恵みを与えられます。

265. 聖霊がきよめ、信仰のうちにまもって下さる人たちを何と呼びますか。
     聖徒、神の子、神に愛され、えらばれた人、イエス・キリストのからだにつながる人と呼ばれ、この人たちが聖なるキリスト教会をかたちづくります。

 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。(ローマ1:7)

 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わた しの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9:25〜26)

 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(コロサイ3:12)

 私たちはキリストのからだの部分だからです。(エペソ5:30)

【解説】   多くのクリスチャンは自分が一般の人々と変わらない事や自分が何時も恵みを必要する人である事を強調しようとしてこう言います。「クリスチャンはただ赦さ れた罪人に過ぎません」と。この主張にそれなりの真実性があります。救われたクリスチャンの中に住みついている罪深い性質(聖書では肉と言う名前が使われ ます)が救われる前と全く同じものです。きよめの過程でこの古い性質は少しもよくなりません。ですから、肉に任せば、クリスチャンは世界の一番悪党の人間 と同じ罪を犯すことが出来ます。又実際に肉の誘惑に負けて、罪を繰り返します。ですから、繰り返してその罪を認めて、赦しをイエス様の十字架のゆえに祈ら なければならないし、繰り返して赦された者として再出発の必要がありますが、これは決してすべてではありません。

 先ず、罪の赦しそのものは、この世の人々と大きな違いをもたらせます。十字架の恵みを決して軽視すべきではないと思います。

 そして、クリスチャンの中には古い性質だけではなく、聖霊による全く新しい性質もあります。それは、救われていない人にはない霊的ないのちの原動力、新 しい人と呼ばれます。聖霊の力でこの新しい人は自分の内に住みついている肉の行いを殺したり、コントロールしたりします。聖霊に任せば肉の欲望を満たす必 要がありません。

 しかし、それだけでもありません、クリスチャンは神様の子供で、神様の所有の中に入って、神の家族に属して、その立場で、神様の永遠のみ国の世継でもあ ります。神様に特別に愛されている者です。聖徒と呼ばれる特権はキリストのきよさが彼にプレゼントされているからです。ですから、クリスチャンは自分の高 い、素晴らしい身分を軽視してはいけません。

キリスト教会

266. それでは、聖なるキリスト教会とは何ですか。
     聖徒、すなわち本当の信者のまじわりで、純粋に神のみことばが説教され、聖礼典が正しくとり行われるところです。

【解説1】  教会と言う言葉は幾つかの意味で使われています:

1.全世界でキリストを信じている人々と既に天国に召された信仰者の大きな一つの共同体を普遍的な教会で、聖書がエクレシヤ(外へ選ばれたもの)と言うギリシャ語の言葉で表す意味の教会です。そのしるしは七つと言われます: 神のみ言葉、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦し、牧会者の務め、お祈り、十字架(主のみ名のための迫害) 。この本物の教会の境を人間の目で見る事が出来ません。聖霊の働きによる本物の教会はその意味で信仰の対象です。
2.それぞれの違う信条を持って組織されている教会。カトリック教会、ルーテル教会、改革派教会など。
3.教団と言う意味でも使われます。幾つかの小教会から組織された教会。
4.地域にある組織されたクリスチャンの群れと言う意味の教会、小教会とも呼ばれる場合があります。
5.教会建物を指す意味。

【解説2】   教会は単なるクリスチャン同士の互いの交わりや奉仕などの地上の組織だけではありません。教会は霊的な存在で、その生きたメンバーはお互いに結ばれている だけではなく、キリストご自身の命につながれて、キリスト様は教会の頭で、クリスチャンたちはその肢体です。ですから、教会は地上から永遠まで続く存在 で、ただキリスト信仰を伝える共同体だけではなく、救いの目的でもあります。永遠のみ国では栄光の教会はキリスト様の花嫁として主に捧げられます。

【解説3】   教会と言う日本語の言葉はあまりよいとは言えない面があります。教える会と言うイメージで勉強をする所で、頭の良くない、勉強嫌いの人には関係の無いよう なイメージがあるからです。本来教会はキリスト様と交わりをする会ですから、かなり多くの教会がフェローシップと言う英語で交わりを持つ会と言う名前を使 います。

267. なぜ教会が聖なるものといわれるのですか。
     そこには聖霊がやどっていて、すべての教会員のきよめのためにはたらくからです。ですから、教会は、たとえそこに罪や不完全さが見られても、聖なるものといわれるのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9)

268. 教会がその中に抱こうとしているのは、どんな人たちですか。
     時と所とをこえて、すべての国民を抱こうとしていて、まことの信者であるならば誰でもふくまれます。

 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに 命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28: 19〜20)

269. 教会は、この世ではどんな姿をしていますか。
     神の教会は、この世では戦う教会です。

 11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 15 足には平和の福音の備えをはきなさい。 16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、 また祈りなさい。(エペソ6:11〜18)

270. 教会の敵はだれですか。
     悪魔、この世、私達自身の肉、そして最後の敵が死です。

  悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:11〜12)

 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。(ローマ8:7〜8)

 最後の敵である死も滅ぼされます。(1コリント15:26)

271. 教会の姿は、天国ではどうなりますか。
     勝利の姿です。その時には、あらゆる敵が征服されてしまうからです。

 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、 御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:9〜10)

272. 「教会」という言葉は、いつも信者のまじわりにだけ使われますか。
     いいえ。広い意味で「教会」という言葉は、その人が本当に主のものであるかどうかにかかわらず、キリスト教の洗礼をうけ、キリストの名を告白したすべての人のあつまりにも用いられることがあります。

273. 教会の外面的なまじわりの中には、どんな人たちがおりますか。
     二種類あります。偽善者と本当のクリスチャンとです。

 24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほう は、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24〜30)

 47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。 48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。 49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、 50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ13:47〜50)

274. だれが偽善者ですか。
     口先ではキリストを告白していても、心と行いとではキリストにそむいている人たちです。

 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:5)

275. だれがまことのクリスチャンで、本当の教会員ですか。
     心からキリストを信じ、言葉と行いとでキリストを告白する人たちです。

 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

【解説1】   時間と共に教会が大きくなってそのメンバーの中に偽善的な会員が増えて、その人々の影響力が増えると、教会がその本来の姿から程遠い、堕落した状態になっ て来たことが教会歴史の中で繰り返して起こってきました。そのような時に元の堕落した教会から本当の信仰を持つクリスチャンが追い出された事も時にはあり ました。又幸いに主が霊的に死んだほどの教会に新しいリバイバルを与えて下さった事もよく起こりました。

【解説2】  教 会のメンバーが罪を繰り返して犯す場合があっても、その罪をいち早く認めて、悔い改めて、誘惑との戦いを続ける者ですが、時には罪を犯しても、悔い改めよ うともしない場合があります。その時に教会が聖書によって規律を適用する必要が起こる場合もあります。それによって本人を悔い改めに導くのが狙いですが、 頑なに悔い改めを拒み続ける場合に、教会を守って清める為に除名処分する必要が起こり得る場合もあります。

276. まことの信者の、したしい結びつきを何といいますか。
     聖徒のまじわりといいます。

 4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。 (エペソ4:4〜6)

 19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2:19〜22)

教会の一致

【解説1】  キリストの教会が一つであるなら、どうして多くの教団や教派がありますかとよく聞かれます。又クリスチャン同士も教理的な対立でよく喧嘩をするのではないでしょうか。洗礼と聖餐式の理解についても随分違う立場があるのではないでしょうか。幾つかの理由があります。

1.肯定的に言えば、多くの家族や家系から一つの国民が成り立っていると同様に一つの大きな神様の民は多くの霊的な家族から出来ています。ですから多くの 教会や教団が存在するそのものは問題ではありません。それぞれの文化、言語、国柄の中で本質的に一つの教会が色々の形で現れています。イエス様ご自身も違 う群れがある事を指摘して、主イエス様はそのすべての群れの羊飼いであると宣言なさいました。赦された罪人からキリスト者の共同体の中に兄弟喧嘩みたいな 事が起こる事も可笑しいことではありません。互いに赦しあって行けば、謙遜が生まれて、きよめられる結果になりえます。

 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲 いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハ ネ10:15〜16)

2. しかし否定的な理由も幾つかあります。その第一は人間罪の深さです。人間の理解(聖書理解も含めて)は限られていますが、人間の高ぶりは自分を絶対化し、 自分の聖書解釈を絶対化して、他のクリスチャンの上に自分を置いてしまう傾向があります。しかし、そのような態度で人間は自分自身を神様の言葉の上に置い てしまう結果になりかねません。そのような所から簡単に異端が生まれます。自分の影響力を保つために異端を起したリーダーが異端集団を作って、教会に分裂 を起します。ですから、私たちは自分自身を聖書の下に置かなければなりません。正しい聖書理解の出発点は謙遜です。

3.悪魔も教会の一致を破壊しようとして、人間の罪深い性質を通して働きかけています。経済的な問題、偽善の罪、迫害、裏切りなどを利用して教会の一致を破ろうとします。

4.歴史の中にキリスト教会の中に本物のクリスチャンより偽善的なクリスチャンが多くなって、教会の教理を自分勝手に変えたりする場合もしばしばありました。現在もいわゆる自由神学の影響で聖書からかけ離れた教会があります。
 教会の一致は人間的な会議や教義に関する話し合いで生む必要がありません。本物の教会の一致は既に聖霊の働きによって存在していますから、互いの話し合 いや理解を深める事などの超教派的な動きでキリストにある一致を発揮できます。しかし、そのような働きは聖書を基本として行わなければなりません。真理を 捨てた上の一致は神様の教会の一致ではありません。

【解説2】   プロテスタントとカトリックはどう違うのかとよく聞かれます。カトリックとプロテスタントの両派は聖書が神様のみ言葉や使徒信条や二ケア信条やアタナシウ ス信条を認めて、主流のキリスト教の派として認められますが、基本的な差は聖書の役割をどう理解するかと言う所にあります。プロテスタントの主張は聖書、 すなわち聖書のメッセージが教会を生んだから、教会の権威は聖書そのものです。カトリックの基本的な主張は歴史の中に教会が聖書を生んだから、正しい聖書 理解を得るには教会の権威が必要です。ですから、カトリック教会は教会の伝統の中で生まれた諸教えが正しい聖書理解には必要だと主張します。プロテスタン トは聖書のみを主張します。

罪の赦し

277. このキリスト教会で、聖霊はどんなよい賜物を私達に与えて下さいますか。
     私も、ほかのすべての信者も、毎日ゆたかに罪をゆるして下さいます。

 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またの血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(1ペテロ1:2)

 1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:1〜4)

278. きよめられた人でも、日ごとのゆるしが必要ですか。
     そうです。きよめは、この世では決して完成しないからです。信者がこの世にいる限り、罪はいつでもつきまといます。

 12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12〜14)

【解説】   ルターは「罪の赦しのある所にいのちと幸福がある」と言われました。多くの日本人はキリスト教を否定的な宗教として見ているようです。「罪、罪の赦し」を 繰り返すからです。しかし、罪の赦しは関係の回復ですから、赦しのある所に相手の愛が自由に届きますから、赦されていない所には豊かさや喜びのいのちがあ り得ません。人間関係にも繰り返して赦しあわないと平安と喜びと愛が経験できなくなります。主の下に愛の確認の為に毎日戻るのは悔い改めの祈りですが、そ の中に赦しがあるから、愛の交わりが経験できます。

279. 神は、罪のゆるしを宣言する権威を、だれにお与えになりましたか。
     キリスト教会の会員であればだれでも宣言することができます。(告白)

 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:23)

【解説1】  カトリック的な影響で多くのプロテスタントのクリスチャンも罪の赦しを伝える権威が牧師先生にしかないと考えているようですが、それは明確にすべての教会の信徒に与えられた使命です。福音宣教の中心はそこにあります。

 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしを するように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししていま す。」(使徒10:42〜43)

【解説2】   礼拝の中に罪の赦しの宣言を行う教会が多いですが、個人的にカウンセラーに罪を告白して、個人的に罪の赦しの宣言を頂いた所で多くのクリスチャンは大きな 恵みを経験しています。そうするのは義務ではなく、大きな特権です。個人的な罪の告白は何時必要かと言う、主に向かって罪を告白しても、中々平安が得られ ない場合に、カウンセラーに話して、一緒に主の恵みに預かった方がよいと思います。


280. クリスチャンが、日ごとの罪のゆるしをうけるためには、何が必要ですか。
     毎日悔い改めなくてはなりません。つまり、毎日自分の罪をみとめて悲しみ、神に告白して、キリストにある神のめぐみを心から求めなくてはなりません。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

281. このように罪を悲しむ心は、特に何によっておこされるのですか。
     私達にたいする神の限りない愛を思い、それなのに私達は恩知らずであるということを考えることによって。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

【解説】  クリスチャンになる道は罪の赦しを頂く事ですが、初めての赦しはきよい怒りを持っておられる裁き主から頂く恵みですが、クリスチャン生活の中の赦しは悲しませられた父なる神様の恵みです。その違いと共通点を次のチャートで表しましょう。

神 様 の 赦 し 
裁き主として 父として
正しい裁きとして受けるべき 成長と清めの為に受けるべき
永遠の滅びをもたらせる 地上の懲らしめをもたらせる
罪を犯して有罪 罪を犯して有罪
裁き主としての 父としての
神様から 神様から
裁きの 懲らしめの
み言葉を受ける み言葉を受ける
生まれる罪責感は 生まれる罪責感は
裁きの恐れに満ちている 父を悲しませた事の後悔だ
降伏をする敵としての 謙って悔い改める子どもの
罪の告白 罪の告白
キリストの十字架の故の キリストの十字架の故の
罪の赦しは 罪の赦しは
滅びの脅威から解放して 地上の凝らしめから解放して
神様に対する 神様に対する
新しい 以前より深い
関係を作り上げる 関係を作り上げる

282. 悔い改めるクリスチャンは、自分の罪をだれに告白しなくてはなりませんか。
     第一に神に対してです。次に必要と思うならば牧師に対して。そして最後に、もし隣人にゆるしを願わなくてはならないことがらがあれば、その人に対してです。

 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。(詩篇51:3)

 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにし て、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23〜24)

【解説】  前にも触れたように、牧師の他に信用できる信徒のクリスチャンも罪の赦しを伝える権限が与えられていますから、カウンセラーとして使えます。ただし、牧師は任命上、カウンセリングに関する秘密を守る義務があります。

283. 日ごとの罪のゆるしによって、信者のうちには何がおこりますか。
     日ごとの心の一新です。すなわち、神への感謝と、子供のような従順と忠実さとが日ごとに深くなってゆきます。

【解説】   罪の赦しは十字架の主イエス様の御前で行われますから、主との個人的な交わりが深まって、十字架の愛が益々深く分かるようになって、成長する愛の原動力に なります。ある方は心の罪深さを痛感して、果たして神様はこのようなだめなクリスチャンを知るでしょうかと嘆いた所に、傍にいた牧師はこう答えました。 「何回も、何回も、十字架の下に赦しを求めに来たあなたをイエス様が知らないはずはありません。」

体の甦り

284. 死んでから、信者はどこへ行きますか。
     信者のたましいは、そのすみ家である神のみもとに行きます。そこで祝福された神とのまじわりの中にあってやすみ、あらゆるあらそいやわずらわしさから解放されて、からだのよみがえりを待つのです。

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」(黙示録14:13)

【解説1】   人間の肉体的な死は体と霊(魂)が分かれます。土から作られた体は土、灰に戻ります。魂は死ぬ瞬間にパラダイス又はよみに行きます。パラダイス(アブラハ ムのふところとも呼ばれます)とよみは天国と地獄と似ている性質を持ちながらも、最終的な状態ではありません。天のみ国の一部にあるパラダイスにいる救わ れた人々に天国の喜びを味わって、主を見て、主を褒め称えますが、まだ体のよみがえりに預かっていないから、中間的な状態です。しかし、その霊(魂)は ハッキリした人格と個性が分かる形を取っている事も聖書から分かります。イエス様の再臨の時に彼らは新しい復活の体を頂いて、最後の裁きを通して、永遠の み国の完全な状態で、主の御前で賛美する事になります。

 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で 叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 すると、彼らのひとりひとりに 白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばら くの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示録6:9〜11)

 罪を悔い改めなかった魂はハデスと呼ばれるよみに下ります。よみの状態は地獄の前触れですが、彼らもイエス様の再臨の時によみがえりの体を受けて、最後の裁きに臨まなければなりません。

 22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎 の中で、苦しくてたまりません。』 25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここ で彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもで きないのです。』 (ルカ16:22〜26)

【解説2】   人間の魂は死ぬ瞬間にパラダイスかよみかに行って、神様の直接支配の下に移りますから、死んだ魂が遺体や墓などの近くにもういる訳ではありません。又死ん だ人の霊が幽霊などのような形で現れる事が出来るわけではありません。幽霊を見たりする体験事態は事実ですが、それは死んだ人の魂にに触れることではな く、悪霊に触れることですから、聖書は霊媒を厳しく罪として禁じます。

クリスチャンは亡くなった方々の魂を神様のみ手に委ねます。主は彼らを受け入れて、愛と真実をもって扱って下さいます。

285. からだのよみがえりとは、何ですか。
     最後の日、主がふたたび来られた時に、死人のからだが生かされて、今一度そのたましいと結ばれることです。

 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネ5:28〜29)

 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あな たがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8:11)

286. その時に、信者のからだにはどんな変化がおこりますか。
     復活されたキリストのみからだのように、朽ちぬ栄光の姿によみがえらされます。

 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ。(1コリント15:42〜43)

【解説】   灰と土になった体が新しい復活の体に甦るのは余りにも大きな奇跡です。それを理解できる人は当然いませんが、体の甦りは創造のみ業と同じ大きさの奇跡です が、創造と違うところは、新しい復活の体は以前なくなった体の延長のような特徴があります。神様は体を創造なさった時に、物質性、具体性がよいことである と示して下さいました。ですから、救いはただ魂の救いだけではなく、体の救いも含まれています。私達の魂が個性を保つと同様に甦りの体も個性を持つもので す。地上と同様に天国においてもすべての人々はそれぞれ違います。

 「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」(黙示録2:17)

287. 死人の中からよみがえった人たちは、さばきの日の後にどこへ行きますか。
     えらばれたものは、永遠のいのちに行き、罪にさだめられたものは、永遠の死にはいります。

 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイ25:46)

永遠のいのち

288. 永遠のいのちとは何ですか。
     えらばれた人たちがあらゆる悪から解放されていつも神と救主とのもとにおり、聖なる天使とともに、限りない平和とよろこびのうちに主をさんびし、感謝をささげることのできる祝福された姿のことをいいます。

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。(マタイ25:34)

 14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊 の血で洗って、白くしたのです。 15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。 16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。 17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくだ さるのです。」(黙示録7:14〜17)

【解説1】  パウロは天のみ国を次のように描写します。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が 完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれている のは愛です。(1コロント13:12〜13)

  天のみ国を天国にするのは、そこに主イエス様がいらっしゃる事です。顔と顔を合わせて主イエス様を見る事、そのみ声を聞く事、主に語って、主を賛美するの は、天国の本質です。イエス様をこの地上で聖書の鏡を通してもう既にある程度まで見ることが出来ますが、天国ですべてが完全になります。天国の賛美は父な る神様と小羊でおられるイエス様に向かって行われます。その内容は十字架の愛の深さです。

 天国は大変ダイナミックな所です。そこには何時までも続くのは信仰と希望と愛です。どうして天国にも信仰が必要かと言うと、信仰の反対は見ることではな く、信仰の本質はイエス様から頂く愛といのちに心を開いたままで、ずっと受け入れっぱなしの姿勢です。父なる神様と小羊でおられるイエス様のみ座から聖霊によるいのちの水の流れが出て、集まっている、救われている教会の一人一人の心に入って、益々深まる愛と喜びで彼らを満たして、彼らの中に益々深い感謝と賛 美を生み出します。

 信仰は永遠に心をこのいのちの流れに開いたままにおいて、何時も新しいものを頂いています。天国ではすべてが新しいと言う事は、急流の川の水が何時も新しくて、天国でもどこまでも新しい命が注がれるから、希望がいつも沸いて来ます。飽きる事がありえない状態です。

もっとも大切な天国の特徴は愛です。それはいのちの水の流れの中身と言ってもよいでしょう。しかし、天国の愛と神様が十字架の上で示して下さった、救い の愛は同じものです。ですから、十字架の主に対する賛美は止みません。又十字架の愛を知らない人にとって、天国は余り魅力的に感じないかもしれません。愛 の特徴は自分自身を忘れて、愛の対象を喜ばせる事でしょう。天国に着いた人々は自分自身の素晴らしい幸福を全く忘れて、主イエス様の素晴らしさで圧倒され るからこそ、彼らは最高の幸いの中に生きられます。

【解説2】  勝利を得て、天国に入ろうとする人の姿を聖書は次のように描写します。

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」(黙示録 3:5)

 救われた魂は喜びと平安を持ってこの地上から主のもとに行かれる時にご期待以上の素晴らしい小羊の婚礼の祝会に入られるのです。天のみ使い達は神の小羊 でおられるイエス・キリスト様と父なる神様の栄光を褒め称える会衆の所に案内されて、彼の上にイエス・キリスト様の尊い血潮で払われた、真白で輝いている義の衣が着せられます。地上の最も綺麗な着物や花嫁衣裳はその衣に比べると影にすぎません。その衣は主の栄光や清さを放つ余りにも素晴らしいものです。

  その時、天に召される者の傍に主イエスご自身が現れて、地上で夢さえ見られなかった程の完全な愛と慈しみを示して下さいます。イエス様はそのみ手を彼の手 に伸ばして下さると、その手には十字架の釘跡が見えます。彼の心はイエス様に対する感謝の気持ちで満たされて、ご一緒にいのちの本の所に歩かれます。そこ に彼ご自身の名前が刻まれていて、又その横にイエス様が与えて下さった天国で使われている新しい名前も書いてあるのではありませんか。読んで見ると、そこ には洗礼の日付も書き記されていて、その日に彼は今傍に歩いておられるイエス・キリスト様の死と復活の恵みに結ばれたからです。益々大きくて深い感謝と喜 びが傍に歩かれておられる主に対して心から湧き上がります。

 そしてお二人は天の王座の前に着かれます。そこから神様の栄光が輝いて、聖霊様のいのちの水の川が流れ出しています。いのちの水の川は、周りにおられ る、数え切れない程多い、救われた人々の会衆とみ使い達の群集の心を満たして、新しい賛美と褒め歌を起しています。

 彼とイエス様が父なる神様の王座の御前に着かれると、賛美の声が短い一時の間に止まって、イエス様は深い愛情をもって彼の手を上げて言われます。「この方は私のもので、彼は私の教会である花嫁に属します。今私と共にこの王座に座らせます。」

 天のみ国の祝会は父なる神様と救われた会衆とみ使いのコーラスで続きます。彼らはほふられた小羊の賛美を歌われます。そして、イエス様はいのちの木の実 と天のみ国の聖餐のぶどう酒を持って来られて、み国の宴会が始まります。そしてみ使い達の群集は改めてクリスマスの賛美を始めます:「いと高き所に、栄光 が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

289. 永遠の死とは何ですか。
     神の祝福からのぞかれることと、地獄でからだとたましいとにうけるおそろしい限りない苦しみです。

 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25:41)

 19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎 の中で、苦しくてたまりません。』 25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここ で彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもで きないのです。』 27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」 (ルカ16:19〜31)

【解説】   永遠の死、滅び、ゲヘナは聖書の中に神様の正しい、罪のために公平に行われて、何時までも続く処罰の状態であることが聖書から分かります。仏教の中にも地 獄と言う概念があります。すべての人間は罪を犯した存在ですから、皆無意識の内に死後の裁き、すなわち自分の罪に対する報いが行われる事を恐れています。 ですから、滅びや地獄の話になると皆嫌な感じをするでしょう。裁きを恐れる経験は人類共通の体験です。しかし、聖書の滅びと仏教的な地獄は基本的に違う概念です。仏教の地獄の支配者は閻魔、すなわち悪魔そのものです。閻魔は地獄の中で惨めな人々に苦しみを付け加えて、針の山や血の池や火の中で彼らを苦しめ ていますが、聖書では滅びは清い、罪の無い所です。それは神様の正しい裁きの火であって、その中に悪魔が支配するどころか、悪魔そのものが一番の処罰を受 けます。聖書によると滅びは人間のために備えられた訳ではなく、悪魔と悪霊を罰する為に用意されています。神様はすべての人の救いを望んでおられるだけで はなく、すべての人の為に罪の罰から解放の道をイエス様の十字架で開いて下さいました。

 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。(マタイ25:41)

 私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル12:29)

290. だれが、このような罪にさだめられるのですか。
     死にいたるまで悔い改めず、不信仰をつづける人たち全部です。

 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)

【解説】   滅びは人間の罪の正しい処罰ですから、キリスト・イエス様にある罪の赦しを拒むなら、自分で自分の罪の罰を経験しなければなりません。最後の裁きの基準は その人がどのぐらい光を持っていたかにあります。知らない内に犯した罪に対する罰は、知った上での罪の罰より軽いのです。

 すべての人が罪人ですから、すべての人が滅んだら、正しい事が行われます。ですから、人間の滅びは100%にその人自身の責任です。罪に対する罰は当然であり、正しい事ですから。

 もし、罪人が赦されるなら、それは一方的な恵みにすぎません。イエス様は十字架の恵みの故にすべての人々に提供する事は驚くべき恵みです。誰一人も救われる権利を持っている訳ではありません。

 神様はこの十字架の恵み以外に救いがないと明言なさいましたから、その道を拒む人は自分の罪を滅びで償うしかありません。罪の永遠の深さのために、罪の処罰も永遠の長さがあります。そこから天国に行く道が最早ありません。

291. その反対に、永遠のいのちにあずかるのはだれですか。
     死にいたるまでイエスを信じ、かたく信仰を持ちつづける人たち全部です。

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとして いる。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2:10)

【解説1】   多くの日本のクリスチャンは次の悩みを持っています。「私のお爺さんやお婆さんはイエス様の救いの福音に触れる機会が無いまま無くなりましたが、彼らの永 遠の運命はどうなりますか。」 神様は正しいお方ですから、彼らを主のみ手に委ねるしかありません。私達は裁き主の立場ではありませんが、今生きている人 々に救いの福音を述べ伝えるのは私達の急務です。
 神にはえこひいきなどはないからです。

 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。(ローマ2:11〜13)

 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまと い、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたの だったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20〜24)

【解説2】  「信仰を長年続けていても最後の病気の苦しい中に呪ったりして、亡くなるクリスチャンがどうなるのですか」とよく聞かれます。そこに信仰を持つ事は罪の無 い状態ではない事をハッキリ覚えなければなりません。死が近づくと人間の精神的な力、肉体的な力、罪深い性質である肉が起す反応をコントロールする事が出 来なくなりますが、主の恵みによって義と認められている事実はかわりがありません。ですから、臨終に近づく時のポイントは人間はどんな精神状態かではな く、主がその人をどう扱って下さるかが決め手です。
 私の親しい信仰の友の一人の経験を証しさせていただきましょう。彼女は36歳の時癌にかかって、その過程で主に出会って、平安が与えられて、洗礼を受け て救われました。癌との闘いは5年かかりましたが、もう一週間しかない時にその時まで続いた平安が消えて、信仰が崩れかけました。そのような状態で一時的 に心臓が停止し、三日間無意識状態でしたが、そして目が覚めました。その時に何をおっしゃったかと言うと「神様は天国を見せて下さって、余りにも素晴らし かった」と言う事でした。平安が戻って、半年後に主の元に行かれました。自分が崩れた時に主のみ手が彼女を受け入れたのです。

 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼ら をお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:27〜29)

292. なぜあなたは、信仰告白を「アーメン」という言葉で結ぶのですか。
     私がここで告白したことが、たしかに真実であると自分で確信しているからです。

【解説】  「アーメン」という言葉はイエス様の一つの別名でもありますから、信仰の通りに物事が進むのは主イエス様次第であり、私によるものではありません。だか ら、この表現で信仰者は「主よ、この信仰に生きるのは、あなたに任せている事ですから、答えて、真実させて下さい。主よ、今はあなたの出番です。」

293. いつまでも信仰のうちにいて、その信仰を成長させるために、あなたは何をしなくてはなりませんか。
     神のめぐみによる力ぞえとたすけとを、私は毎日神に願わなくてはなりません。

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

第三部主の祈り

294. 祈りとは何ですか。
     心の中ですなおに神と話をすること、神になやみを告げること、そして、熱心に神に願い求めることです。

 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(詩篇 50:15)

【解説1】   色々の祈りがありますから、祈りと言うのは一体何であろうかと言うことを説明しなければなりません。お祈りをするのはクリスチャンだけではありません。し かし、本当の祈りは神々と仏に自己中心的な願い事を並べ立てるようなことではありません。祈りは創造主でおられる真の神様との愛の交わりで、会話で、コ ミュニケーションです。相手から何を貰えるかと言うより相手と一緒におられる喜びなのです。祈りでは大切なことは何を求めるかというより誰と語りあってい るかと言うことです。祈りそのものには力がありません。祈りを聞いてくださる創造主は全能者です。神様には出来ないことはありません。

 ある40歳くらいの女医に会いました。ある集会で証をなさいました。5年前から胸の癌にかかって、3年前に膵臓に広がって、お会いした時に又広がり出し て、もう駄目と言われたそうです。しかし、その中に神様との祈りによる交わりが素晴らしい恵みになったそうです。癒しより癒し主が全てでした。本当の祈り の秘訣を知ったよい証でした。

 イエス様が祈りについて凄い約束を与えてくださいました。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるため です。」この約束はその全体の文脈の中に読まなければなりません。神様のために生きるところに、神様のために実を結ぶところに、永遠に残る実、即ち、人々 がイエス様を信じて、永遠の救いを得ようとするところに、どんな願いでも答えられます。

 もう一つの条件があります。全ての祈りはイエス様の名によって祈るべきです。イエス様の名によって祈るとはどういう意味でしょうか。イエス様の名前は救 い主であり、主であります。だから、まず第一には、イエス様のみ前に遜って、自分が罪人で救いを必要とする人間であることを認めて、悔い改めて、お祈りを することです。自分の罪を悔い改めない人には主からの答えがありません。

 第二には、イエス様を主として認めるべきです。「私の思うとおりではなく、あなたのみ心を行ってください」と言うのは真の祈りです。聖書からイエス様の 御心が分かりますから、そのとおりの祈りには不思議な答えが与えられます。その答えによって神様御自身が栄光を受けて、多くの実が結ばれます。

 ノーンクリスチャンは祈りの中に自分の求めを得ようとしますから、祈る人が中心になります。仏と神々に祈る人は、どの仏、又はどの神が答えたかは、関心 がないぐらいです。欲しい事が与えられたら、感謝の気持ちになるぐらいです。祈りの対象を人格的に知る必要を感じません。クリスチャンの祈りの中心は相手 であるキリスト・イエス様です。祈りは神様の交わりの手段ですから、それは神様の方から、み言葉の中から始まります。主の御心が分かったら、その御心の通 りに祈るのです。たとい、自分の願うような事がなくても、主の御心を喜ぶように祈りの中に導かれます。

【解説2】  クリスチャンの中に住みついている罪深い性質(肉)も祈る事が出来ますが、本当の祈りは聖霊によるものですから、イエス様は肉の祈りに答える訳ではありま せん。又、罪を悔い改めない心の祈りにも答えが与えられないのです。又、たとい願いが叶えられたとしても、それは肉の祈りよりも神様の一般の恩寵(恵み) の故であり、祈りの答えではありません。

 例えばクリスチャンが癌にかかった時に、「主よ、お癒し下さい」と言う祈りに次のような答えがあり得ます。「私は私の栄光の為にあなたを癒します」、又 は「あなたにあなたの罪の為に何回も話しかけても、あなたは聞こうともしませんでしたから、先に悔い改めなさい。そうすると、今度は癌の問題に戻りましょ う」、又は「もうあなたを天国に招く事にしましたから、準備をしなさい」など。決めるのは主イエス様です。祈るクリスチャンではありません。

 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1〜2)

295. 祈らなければならないのは、だれですか。
     すべての人です。小さい子供でもそうです。

296. 祈りは、だれに祈るのですか。
     父と子と聖霊のまことの神にだけ祈るのです。神だけが祈りをうける価値があり、また私達の祈りをきいて、こたえて下さるのも神だけですし、神だけにおできになることだからです。

 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。(エレミヤ29:12)

 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。(イザヤ45:20)

 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 (マタイ6:6)

【解説】   祈りはコミュニケーションだから、何を祈るよりも、誰に祈るかは大切です。祈りの相手を知ろうとする事はポイントです。しかし、その反面に主イエス様にど んな事について話しても差し支えはありません。小さい課題も、大きい問題も、小さい感謝も、大きい賛美も、心配事も、嬉しい事も、すべての考えを主に向 かって考える姿勢も祈りです。何も隠せず、開いた心で主に向かって働くことも祈りです。

297. 私達は、どなたの名前で祈らなくてはなりませんか。
     イエス・キリストのみ名によって、祈らなくてはなりません。

 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(ヨハネ16:23)

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

298. イエスのみ名によって祈るとは、どういう意味ですか。
     私達の祈りが、イエスの功績と、その父へのとりなしにもとづいてなされるということです。

299. どんな態度で、祈らなくてはなりませんか。
     1 謙遜に忍耐づよく。

 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、 (詩篇40:1)

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 (マタイ7:7)

     2 子供のような信頼と信仰とをもって。

 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 (ヤコブ1:6)

 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 (マルコ11:24)

     3 まごころから。

 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。 (詩篇145:18)

 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。(歴代志下7:14)

     4 つつしみ深く敬虔に。

 しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。 (ハバクク2:20)

 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(詩篇4:3〜4)

     5 感謝と讃美とをもって。

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 (ピリピ4:6〜7)

【解説】 祈 りの基本的な出発点は助けを必要とする姿勢です。それは、手伝うと言う意味の助けではなく、自分では何も出来ないと言う状態を意味します。自分で半分ぐら い出来て、後は神様に頼むのはクリスチャンの祈りではありません。霊的ないのちも、肉体的ないのちも、100%主の恵みによるものですから、神様の働きが なかったら、何も出来ないところから純粋な祈りが生まれます。小さい子供の特徴は自分が出来ないから何もかも親に頼むと言う姿勢です。ですから、イエス様 は私たちに小さい子供を信仰の模範において下さいました。

 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

 聖書は熱心な祈りを求めますから、多くの方々は熱心さを祈りが聞かれる資格のように錯覚しますが、聖書が求めている熱心さは小さな助けのない子供の叫び 声の熱心さです。親が答えなかったら、生きられない必死の叫びの熱心さであって、資格ではないのです。祈りの答えは100%の恵みに過ぎないから、祈るこ と自体は神様の御前で功績ではありません。

 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。(Tテモ6:11)

300. けれども、すベての人がこのように祈ることができますか。
     いいえ。悔い改めない人にはできません。こういう人たちは、神の前にその心が正しくないし、熱心に神を求めることもしないからです。

 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 (ヤコブ4:3)

301. どんな時に祈るのですか。
     私達の心の求めは、いつでも神に向いていなくてはなりませんし、神とのまじわりも、決してきまった時に限られるものでもありません。ですから、いつでも必要を感じる時に神と話しをすることができますし、またそうしなければなりません。

 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 (ヤコブ5:13)
 絶えず祈りなさい。 (1テサロニケ5:17)

 私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈ってい ます。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。 (詩篇5:1〜3)

 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。 (ダニエル6:10)(ダニエルが一日に三度祈ったことを見なさい。)

 こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。 (使徒行伝27:35)(パウロが食事の前に祈ったことを見なさい。)

 そのほか、小教理問答にあるルターの朝の祈り、夕の祈り、を見なさい。

【解説】 祈 りはよく呼吸に喩えられます。呼吸が3分以上止まったら、人間が死にます。同様にクリスチャンが絶えず祈らないと、霊的に死にます。しかし、それは意識的 に祈ると言う意味ではありません。聖霊様は絶えずクリスチャンの心の中に父なる神様と交わりを持ちます。結婚した夫婦はたとい意識しなくても夫婦関係の中 に何時も生きていると同様に主に向かって生きるのは祈りです。と言っても、夫婦が互いに時間を持って意識的な会話をする必要があります。同様に意識的な祈 りの時間を決めて、神様の交わりをする必要があります。ですから、祈りの習慣を作ることは大切です。ルターの有名な言葉は特に聖書の学びと祈りについて通 用します。「習慣を守りなさい。そうすると、習慣はあなたを守ります。」

 祈りはコミュニケーションだから、一方的に神様に語るだけではなく、主が語って下さる事に耳を傾ける必要があります。主のみ声は聖書の中に記されているか ら、聖書を開いたままに祈る事は大切です。み言葉が語った内容をそのまま主に語るのは瞑想の祈りです。クリスチャンの瞑想は仏教的な瞑想と本質的に違いま す。仏教の瞑想(例えば座禅)は人間の心を空っぽにしますが、聖書を読みながらの祈りは頭と心を活発に動かします。聖霊による平安は無の状態ではなく、深 い交わりによる安心感です。

302. どこで祈るのですか。
     どこででも祈るのです。特に個人で祈りますが、家族とー諸に祈ったり、多勢で礼拝の時にも祈ります。

 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1テモテ2:8)

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 (マタイ6:6)

 私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。 (詩篇26:12)

【解説】   主イエス様は密室の祈りを強調なさいました。なぜかと言うと、礼拝の時の祈りや祈祷会の祈りは他の人が聞こえるから、本音ではなく、建前で、偽善的に 祈る恐れがあります。その反面に二人、三人が心を一つにして祈ることに対して特別な約束も与えられました。ですから、個人的な祈りとクリスチャン同士の祈 りが両方ともバランスよく保たなければなりません。

 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)

 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父 は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19〜20)

303. だれのために祈るのですか。
     自分自身のためばかりでなく、ほかの人のためにも、祈らなくてはなりません。たとえば、私達の隣人、牧師、子供たちのために、また敵のためにも祈らなくてはなりません。けれども、死んだ人のたましいのために、祈ったりしてはなりません。

 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられ るようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前にお いて良いことであり、喜ばれることなのです。 (1テモテ2:1〜3)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 (マタイ5:44)

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23:34)

 54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。 55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、 56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。 59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。 (使徒行伝7:54〜60)

304. どんなことのために祈るのですか。
     1 特に救いときよめに必要な、霊的なもののために祈らなくてはなりません。

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 (マタイ6:33)

 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 (ルカ11:13)

     2 また、この世で必要なことや、祝福のためにも祈ります。

 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。 (ルカ7:3)

305. 神は、いつでも私達の祈りにこたえて下さいますか。
     神は、いつでも私達の祈りをきいて下さいますが、それにこたえるには、神ののぞまれる時、神ののぞまれる方法でなさいます。また多くの場合、私 達が祈り求めたものとちがうよりよいものでこたえて下さいます。ですから、救いに必要でないことについて祈り求める時には、「主よ、もしみこころにかない ますなら」と心から言いそえなくてはなりません。(マタイ16:39)

 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。 (マタイ7:11)

 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。 (エペソ3:20〜21)

 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶること のないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリス トの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 (2コリント12:7〜9)

306. 神は、いつでもすぐに私達の祈りにこたえて下さいますか。
     そういう時もありますが、大ていは、私達をこころみて、信仰と希望とを強めるために、こたえをおくらせになることが多いのです。

 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)

【解説】  「いいえ」と言う答えも、答えです。又場合によって、神様がハッキリした答えを与えたにも関わらず、それを答えとして認めたくないから、別の返事を待つ事もあります。

307. 私達に正しい祈りを教えてくれるのは、どなたですか。
     聖霊だけが、私達に正しい祈り方を教えて下さいます。

 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 (ローマ8:26)

【解説】  本物の祈りは神様の所から始まって、聖霊を通して祈る人の心を通して神様の元に戻って、そして主はその祈りに答えて下さいます。その意味では祈りは私達の業ではなく、主のみ業で、私たちが聖霊の流れに飛び込むようなものです。

308. 一番完全な祈りはどれですか。
     主の祈りで、イエスが御自身で弟子たちに教えられたものです。(マタイ6:9以下、ルカ11:1以下を見なさい。)

呼びかけ

天にいますわれらの父よ。

これはどんな意味ですか。
答     神はこれによって、神が私どものまことの父であり、私どもが神のまことの子であることを信じ、あたかも愛する子供たちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって祈るようにすすめて下さいます。

309. なぜ神は私達に、御自身を「われらの父よ」とよばせられるのですか。
     神は、私達がそう呼ぶことによって、神がまことに私達の父であり、私達がまことに神の子であるということを、信じられるようにさせて下さるので す。そして、その結果、私達もちょうど子供が親しい父に願うように、よろこびと信頼とをもって、神に願い求められるようになるのです。

 4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。 5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。 (ガラテヤ4:4〜7)

 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1ヨハネ3:1)

310. まことの信頼をもって、神を父とよぶことのできるのはだれですか。
     神の子だけが、神を自分の父とよぶことができるのです。

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 (ローマ8:15〜16)

311. なぜ「私の父」といわないで、「われらの父」というのですか。
     世界中でキリストを信じる人は、みんな神の家の家族ですから「われらの父」というのです。ですから、私達は、おたがいに、おたがいのために祈らなくてはくなりません。

 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。 (エペソ4:6)

 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 (ガラテヤ3:26)

312. 「天にいます」ということばの目的は何ですか。
     この父は、愛でも、力でも、地上のあらゆる父よりすぐれておられるということを、私達に教えるたためです。

 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:11)

【解説】   最近よく神概念について心理学的に話されるようになっています。父親のない母子家庭育ちの人々は聖書の父なる神様をも十分理解出来ないと主張されています が、聖書は全く逆の考えを教えています。父なる神様を知って、初めて地上の父達の役割も分かると言う事です。神様に対する考え方は人間関係の反射のような ものなら、そんな神は偶像に過ぎません。神様の啓示によって父なる神様を知ることが出来て、又父なる神様から正しい地上の父の位置づけが分かるようになり ます。

 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(エペソ3:14〜15)

第一のねがい

御名があがめられますように。

これはどんな意味ですか。
答     神の御名はもちろんそれ自身きよいのですが、しかし私たちはこの祈りによって、私たちの間においても、きよくあるように祈るのであります。

それはどうして実現しますか。
答     それは神のみことばが、正しく、まじりけなく教えられ、また私達が神の子として、みことばに従ってきよく生活する時に、実現します。天にいます愛する父よ、このために私達を助け下さい。
      しかしながら、神のみことばの教える所とちがって教えたり、行ったりする人は私達の間にあって、神の御名をけがすのであります。天にいます父よ、このことから私達を守って下さい。

313. 第一のねがいでは、何を祈るのですか。
     神の御名が、私達の間であがめられるように祈ります。

 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(詩篇72:19)

【解説1】   主の祈りの第一の願いはすべての続きの祈りを含めます。ですから、第一願いを祈ったら、もうすべての祈りが祈られたと言っても言い過ぎではありません。第 一戒めが十戒のすべてを含むと同様です。ですから、他の願いは第一願いの内容を説明する意味もあります。十戒と主の祈りの関係は非常に深いものです。第一 戒めで命じられている事が実現出来るように第一願いで祈られるからです。十戒は人間の頑張りや決意や意志で守る事のできるものではありません。主ご自身の 聖霊の働きで始めて第一戒めを守ることが出来ます。人間は自分でどうしようもないものですから、祈って主の働きに頼らなければなりません。出来ないから祈 ります。十分出来ないから主の助けと協力が必要と言う意味ではありません。全然できませんから、初めから終わりまで主に頼るしかありません。
 しかしその反面に主がこの祈りに答えると、主のみ名をあがめるのは祈っている人と祈っている教会です。と言うのは神様はこの祈りに答える時に、私達の人 格を通してご自分のみ名に栄光や誉や栄や尊厳を与えて下さいます。主の答えはそのようにクリスチャンの中に働いている聖霊のみ業として、その人と教会の中 に明らかになります。

【解説2】   第一願いで求められる事は聖化(きよめ)です。きよめの本質はクリスチャンが清くなって、正しくて、御心に従う者のなることではなく、人間中心的なもので はありません。きよめの本質は神様のきよさ、神様の愛、神様の正しさ、神様の栄光がクリスチャンと教会の生活の中にあがめられる事です。きよめの結果は私 たちが立派に見えるのではなく、主の光と主の愛が大きく見えて、主のみ名があがめられる事です。

【解説3】   主のみ名があがめられるには神の国(神様の支配)が私達の人生と他の人々の人生に、諸国民の中に広がらなければならないし、そのために私たちが主の御心を 行わなければなりません。それは大宣教命令も含む御心です。しかし、具体的に主の御心を行うためには、私たちは食べ物も、その他の生活に必要なものを頂か なければなりません。又主の御心に反する罪の赦しと兄弟姉妹達の互いの赦し合いを必要とします。又あらゆる誘惑や試練の中に勝利を得ないと出来ません。悪 魔とその力からの開放もその使命を全うするために必要です。これらの祈りが全部答えられるところに神様のみ名があがめられます。なぜかと言うと、主のみ業 がなければこれらの事柄は到底実現しないからです。

314. 神の御名が、私達の間であがめられるのはいつですか。
     神のみことばが、正しくまじりけなく教えられて、私達の心の中にはいりこむ時にです。

315. どんなふうにして、神の御名が、私達の間であがめられますか。
     1 神のみことばにしたがって、私達が人々の前で神の御名を告白する時、

 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

 8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。 9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、 10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者 の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。 11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。 12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていな いからです。」 13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来 た。 (使徒行伝4:8〜13)

     2 私達が神の子として、神のみことばにしたがう、きよい生涯をおくる時です。

 5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 (ピリピ2:5〜11)

316. 神の御名をけがすのはだれですか。
     神のみことばでないものを教え、そのように生活する人たちです。

 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 (1ペテロ2:1〜2)

 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』 (エレミヤ34:16)

【解説】   この世の人々は聖書を読まないが、クリスチャンの生き方を非常に詳しく読んでいます。ですから、私達の生き方次第で主のみ名があがめられるか汚されるかに なります。教会の中に「それは証しにならない」と言う表現が使われていますが、その本来の意味は私達が間違った生き方で恥をかくか教会のイメージダウンが 起こるかと言う意味ではなく、主ご自身のみ名が汚されると言う意味です。私たちは自分の為にクリスチャンではなく、主の為にクリスチャンです。

第ニのねがい

御国がきますように。

これはどんな意味ですか。
答     たしかに神のみくには、私達の祈りがなくても、みずから来るものであります。しかし私達はこの祈りにおいて、御国が私達の間にも、また来るように祈るのであります。

それはどうして実現しますか。
答     それは私達が、神の恵によって、聖なるみことばを信じ、現世にあっても永遠の世にあっても、敬虔な生活をするために、天の父が聖霊を与えて下さるときに、実現します。

【解説】   国とは領土があって、国民があって、政府がある支配されている共同体を意味します。日本国は、日本の領土で日本国籍の人々が日本政府に支配されて生活して いる共同体です。神の国の領土は全世界で、その国籍の人々は聖霊によって救われて支配されている人々で、その支配者は主イエス・キリストです。クリスチャ ンは主イエス様に支配されている人です。ですから、神の国が来るのを祈るのは、主が益々人生の中にその支配を深めて、そしてまだ主に支配されていない人々 が救われて、神様の支配が広がりますように求める事です。

 必要に応じて、武力でもその意思を通すこの世の国と違って、神様の国の中にその支配はみ言葉を通して愛と真実と言う手段で行われます。ですから、神様の国は本当の自由と愛の支配です。

 イエス様の再臨の時には神様の支配を妨げる罪、悪魔、死は完全に取り除かれますから、神の国の来る事を祈るには、永遠のみ国の完成を待つ姿勢が含まれています。

317. 第二のねがいでは、何を祈るのですか。
     神の御国が、私達の間に来るように祈ります。

318. ここでは、どんな神の御国を祈るのですか。
     1 めぐみの御国です。そこでキリストは、この世の信者たちに、聖霊による義と平和とよろこびとを与えて下さいます。
     2 天の栄光の御国を祈ります。そこではえらばれた人たちが、キリストとともに完全な祝福にあずかるのです。

319. 神の御国が私達のところへ来るとは、どういう意味ですか。
     私達が、その御国の一員になるということです。

320. この神の御国は、いつ私達のところに来るのですか。
     1 天の父が私達に聖霊を与え、そのめぐみによって、私達がきよい神のみことばを信じる信仰により、御国の一員となる時に来るのです。

 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではあり ません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるので す。」 (ルカ17:20〜21)

     2 私達の天の父が、福音を世界中にのべ伝えさせられる時にです。

 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)

 「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 (マタイ9:38)
 終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。(2テサロニケ3:1)

     3 キリストがふたたび来られる時に、完全なかたちできます。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 (1ヨハネ3:2)

 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:13)

321. このように、信仰によって神の御国の一員となった人たちの中に、聖霊はどんなはたらきをして下さいますか。
      現在この世で、また永遠に、天でもきよく生きることができるようにして下さいます。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)(この世)
 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救 い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメ ン。(ユダ24〜25)(永遠)

第三のねがい

みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

これはどんな意味ですか。
答     神の善にしてめぐみのあるみこころは、私達の祈りがなくとも、たしかに行われるのでありますが、私達の間にもまたそれが生ずるように、この祈りにおいて願うのであります。

それはどうして実現しますか。
答     それは、私達に神の聖名をあがめさせず、私達にみくにのきたることをさまたげる悪魔や、この世や、私達自身の肉の意志のようなすべてのよこし まなくわだてと意図とを、神が打ちこわして下さって、反対にみことばと信仰のうちに、最後まで私達を力づけ、かたく保って下さる時に実現します。これこそ 善にして恵みあるみこころであります。

322. 第三のねがいでは何を祈るのですか。
     神のみこころが、天と同じように地上でも、私達の間に行われるようにと祈ります。

323. 神のみこころとは何ですか。
     すべて神に理性を与えられてつくられたものが、完全なきよさと祝福のうちに、永遠に神を讃美することです。

 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 (ヨハネ6:40)

 9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、 10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなの です。このキリストにあって、11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定 められていたのです。 12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 (エペソ1:9〜12)

324. このような意味で、神のみこころが完全に行われているのはどこですか。
     天です。そこではきよい天使たちが、自由な平和とよろこびのうちに神を讃美しています。

 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。(詩篇103:20)

 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)

325. 神のみこころが、天と同じように私達の間にも行われるのはいつですか。
     神の御名をあがめさせず、御国を来させようとしないあらゆる悪とその目的とを、神がうちくだかれ、ほろぼされる時。また、神が、私達を、死にいたるまでみことばと信仰のうちにしっかりと強め、まもって下さる時です。

326. 神のみこころが、私達の間に行われるものをさまたげようとするものは何ですか。
     悪魔、この世、私達自身の肉です。

 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(1ペテロ5:8)

 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。 (2コリント4:4)

 15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。 (1ヨハネ2:15〜17)

 18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 (ローマ7:18〜20)

327. 反対に、私達が神のみこころを行えるように、たすけてくれるのはどなたですか。
     あわれみ深く真実な私達の神が、御自身で私達をたすけて下さいます。

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるよ うなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですか ら、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9)

 33 主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。 34 私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。 35 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。 36 私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。 37 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。 38 あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。 (詩篇119:33〜38)

【解説】   私たちクリスチャンの意志と神様の御心が食い違うときには、心の葛藤が起こる場合がよくあります。クリスチャンは神様の御心が良くて、正しいと知りながら も、自分の意思の通りに物事が運んでほしい気持ちがよくあります。神様の御心と道は必ずしも易しくて、気持ちのよいものとは限りませんからです。そのよう な葛藤の時にこの祈りをどう祈ったらよいでしょうか。いやいやしながらも神様に従うクリスチャンがいますが、それは決して正しい姿勢ではありません。

 正しい姿勢はどこから生まれるかと言うと、先ず全面的に自分自身を神様の支配に委ねるところから始まります。それは、自分の人生の決定権を無条件で神様 に明け渡すことから始まります。次には、神様の御心の内容を理解するように祈り求める事です。神様の道が最も素晴らしくて、最も知恵のある事と分かってか ら、今度喜んで自分の意思で神様の御心を願うようになります。

 ですから、神様の御心に否定的な姿勢で従うのではなく、かえって神様の御心を自分の意思にして、それを喜んで求めるようになる事を祈ります。神様の考え が分からなくても、それが最も素晴らしい事である信頼がこの祈りの出発点です。ですから、この祈りの答えとして、クリスチャンは自分の意思を殺すどころ か、積極的に神様の御心と同じ事を欲する事になり、その通りに行動するようになります。

第四のねがい

わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与え下さい。

これはどんな意味ですか。
答     まことに神は、日ごとの食物を、私達が祈らなくても、すべての悪人にさえ、与えて下さるのであります。しかし私達はこの祈りにおいて、神がこのことを知らしめ、そして感謝をもって日ごとの食物を受けるように願うのであります。

それでは、日ごとの食物は何ですか。
答     それは肉体の栄養や、生活になくてならぬすべてのものを含んでおります。たとえば、食物と飲物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財 産、信仰深い夫婦、信仰深い子供、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、又よい友達、信頼できる隣人、 等であります。

328. 第四のねがいでは何を祈るのですか。
     日ごとの食物を祈ります。

329. ここで日ごとの食物とは、どういう意味ですか。
     からだの必要をみたし、からだをささえるためのすべてのもので、食べ物、飲み物、着る物などです。

330. 「日ごとの」ということばについて、私達が忘れてならないことは何ですか。
     神が与えて下さるもので、十分満足しなくてはならぬということです。

 6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 8 衣食があれば、それで満足すべきです。 (1テモテ6:6〜8)

 11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境 遇に対処する秘訣を心得ています。 (ピリピ4:11〜12)

331. なぜ「きょうも」ということばがつけくわえられているのですか。
     あすのことは思いわずらわずに、一日の苦労は、その日一日だけで十分であるからです。

 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)

 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。(詩篇145:15)

 1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。 2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。 3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよ かったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」 4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これ は、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。 5 六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」 6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、 7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろ う。」 8 モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そ のつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」 9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』と言いなさい。」 10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。 11 主はモーセに告げて仰せられた。 12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたし があなたがたの神、主であることを知るようになる。』」 13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。 14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。 15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたが たに食物として与えてくださったパンです。 16 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる 者のために、それを取れ。』」 17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。 18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたの である。 19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」 20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。  21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。 22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、 23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮 よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」 24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。 25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。 26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」 27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。 28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。 29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分 の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」 30 それで、民は七日目に休んだ。 (出エジプト16章)

332. 神が日ごとの食物を与えて下さるのは、それを神に祈り求める人にだけですか。
     いいえ、神は、悪い人たちにも、すべて日ごとの食物を与えてくださいます。けれども、この人たちは感謝もしないで受けとっているので、祝福をうけることがありません。

 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

333. 日ごとの食物をいただいた時、神の子はどうしなければなりませんか。
     神がそれを祝福して下さるように祈って、神に感謝しなくてはなりません。

 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:20)
 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(詩篇145:16)

334. このように、日ごとの食物を神に祈り求めれば、もうはたらかなくてもよいのですか。
     いいえ。神のたすけに頼りながら、私達一人一人が、それぞれの召しに従って一生けんめいにはたらくことが、神のみこころであります。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記3:19)

 10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。 11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。 12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。 (2テサロニケ3:10〜12)

【解説】  主の祈りはある意味で朝の祈りです。その日その日の必要をその日に頂く為です。明日の心配は要らない理由は、主が今日私達の必要を満たして下さるからです。今日は明日のための計画を立てるのは当然ですが、神様の祝福がなかったら、私達の普段の仕事にも報いがありません。

 日毎の糧は非常に広い意味ですが、食事の人カップぐらいのものも含まれますから、どんなに小さい事についても祈る事が許されています。又どんなに大きな課題も主に奉げる事が出来ます。

第五のねがい

わたしたちに罪を犯す者を、わたしたちがゆるすように、わたしたちの罪をもおゆるしください。

これはどんな意味ですか。
答     私達は、この祈りにおいて、天の父が私たちの罪を心にとめて下さらないように、又この罪のために、このような願いを拒んで下さらないように願 うのであります。というのは、私達は祈ることに対して、何らのねうちもなく、いさおしもないからであります。むしろ神が恵によってすべてのものを私たちに 与えて下さることを願うのであります。というのは、私達は日々多くの罪を犯し、まことに、刑罰に値するのみだからであります。それで私達もまた私達に罪を 犯したものに対して、心からゆるし、喜んでよくしようと願うのであります。

335. 第五のねがいでは、何を祈るのですか。
     神が、私達の罪過や負債をゆるして下さるようにと祈ります。

336. ここでいわれる負債とはどんなものですか。
     自分の罪で、自分自身の上にまねいた神に対する負債のことです。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)

 11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそ うだ。 18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口 づけした。 21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。  23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:11〜24)

337. この罪の負債を、神は本当にゆるして下さるのですか。
     そうです。イエス・キリストが私達のすべての罪をあがなって下さったからです。

 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトス2:14)

 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 (ヨハネ1:29)

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 (1ヨハネ1:9)

338. なぜ信者は、毎日罪のゆるしのために祈らなくてはならないのですか。
     毎日罪をおかすために、いつでも神のゆるしが必要であるからです。

 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。 (伝道7:20)

339. このねがいの中で、私達は神に何を告白するのですか。
     願い求めるものがどんな小さなものであっても、私達にはそれを受ける価値もないし、資格もないことを告白します。ですから、神がただそのめぐみによってすべてを与えて下さるようにと祈るのです。

 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。(創世記32:10)

 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』(ルカ15:21)

340. このねがいで、神のゆるしを祈る時、私達は神に何を約束するのですか。
     私達にたいして、罪をおかす人たちを、ゆるしてやることを約束します。すなわち、罪をおかす人を心からゆるし、いつでも善をもってむくいてやることです。

 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6:37)

 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:33)

341. 隣人の罪をゆるしてやらない人でも、神のゆるしをうけることがありますか。
     隣人の罪をゆるしてやろうとしない人は、神のゆるしをうけられません。かえって、このねがいによって、神の怒りを自分自身にまねくことになるのです。

 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してく ださいます。〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕。(マルコ11: 25〜26)

 23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。 26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。 29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。 30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。 32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。 35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 (マタイ18:23〜35)

恨みからの開放

【解説】   すべての人々は「幸福で豊かな人生によい人間関係が必要だ」と言う主張に賛成します。しかし、聖書の中にもっと厳しい条件が教えられます。「幸福で豊かな人生にすべての人間関係がよいものでなければならない」と。よい人間関係がある程度まであっても、それで不十分です。豊かな、幸福な人生を過ごすには一つの憎しみ、恨み、赦さない気持ちの人間関係があってはいけません。多くの最も素晴らしい人間関係も一つの人間関係に抱いている恨みを償う事が出来ません。一つの人間関係の中の恨みは確実に人生から喜びを奪い取るし、幸福を駄目にするものです。すべての人間関係が神様の御心のような正しい状態でなけれ ば、人間は幸福になりません。

 孤立的で、プライバシーを強調する現代にはよい人間関係を結ぶのは決して容易いなものではありません。しかし、人間関係が生まれたとしても、多くの人は起こり得るトラブルに初めから対策をとって、あまり大きな失望や落胆がトラブルの際に起きないように、適当な距離をおく場合が多いかと思います。特に私たちの時間、世話、苦労をたくさん要求しそうな人を避ける傾向がこのごろ強くなっています。
 
 人間関係が一旦生まれたとしても、それをいい状態で保つのは益々難しくなっています。私たちの周りにその内に難しい人間が現れます。彼らには欠点があって、私たちに苛立ちや怒りを起こしたりして、又多くの場合彼らの方から私たちは純粋な悪口や悪い態度や行為を受けて、私たちは純粋に彼らの悪の被害者になります。私たち自身の同じような行為に対して盲目であっても、彼らの行為は痛いほど感じます。その内に私たちは彼らに対して恨みを抱くようになります。こいう難しい人は家庭にも、親戚の中にも、職場にも、学校にも、教会にもいます。どこに行っても彼らにぶつかります。逃げるところは何処にもないようです。

 経済的に困難なこの頃に他の人々とうまい事が出来るのは、経済的にもとても大切ですから、特に私たちに経済的に大切な人間関係を保つために、嫌いな感情を 抑えて、建前のよい人間関係を義理人情で保とうとしますが、家や友達と一緒に同じ人々の悪口もよく行われます。

 しかし、家や酒で感情的な怒りが十分消えないと、とうとうそのような人間関係を切る事に至る場合が多いです:職場を代えたり、学校を代えたり、住む所を代えたり、最悪の場合配偶者を代えたりするまで至ります。難しい人間関係から逃げたいからです。誰でも、自分の過去を振り返って見れば、何人か切られた人間 関係があると分かります。しかし、人間関係を切ったとしても、会わない事にしたとしても、その人に対する恨みが残る以上、たとい地理的な距離が1000キロあって、感情的にその人の虜になってしまいます。

 恨みを抱くと、人間は最終的に孤立してしまう傾向があります。何故かと言うと、人間はその心にある事を人に語りますから、恨みを抱いた人々はそれを回りに語り続けずにはいられないから、とうとう他の人々は恨みを生む一方的な話に飽きてしまい、恨みの虜を避けるようになります。そこから簡単に悪循環が生まれて、益々恨みが深まって行くのはよくあることです。

 その反面に恨みを抱いている人は一つの深い願望の中に生きています。それは、何時か、何処かから、王子か皇女のような愛に満ちた人間が現れて、その寂しい心を愛で満ちて、結局彼を幸福にする事が出来ると言う希望です。しかし、人間の心の無限な愛に対する渇きを満たす人間は何処にもいません。それは神様の愛 にしか出来ない事ですから。

 恨みを抱いている人にも時たまに真実に直面する時もやって来ます。「もしかしたら、私自身にも何か問題があるかもしれない」と言う、過ぎ去る瞬間です。 しかし、そのような問いは早くも消されます。何故かと言うと、自分の恨みを理解してくれる人を探して、その方に何もかも語って、恨みの対象が一方的に悪いと言う事を自分に言い聞かせる事で大体成功します。

 ユダヤ人は人を3回赦せば、それこそ寛容の証拠だと自慢していました。ペテロの7回赦す提案は一般の人の倍以上でしたが、イエス様の要求はそれに比べて余 りにも非現実的に聞こえたでしょう。「七度を七十倍するまで赦すべきです。」事実それは、相手が悪い事をする度ごとに、毎回赦すべきと言う意味です。(実際お母さんたちは大体その子供たちに対してそうするでしょう。神さまの赦しはいつもそこまでの赦しです。)

 真実を認めて、それに直面する道は罪深い人間にとってもっとも嫌な事です。しかし、神様のみ言葉である聖書はその真実を痛いほど私たちに明らかにします。 私たちの問題は、難しい人間関係ではありません。本当の問題は、私たちは一回も人を赦そうとしない頑な心です。それだけではなく、聖書を見てみると、人間 関係の難しさの根本的な原因は他の人にはありません。(たとい彼らが純粋な悪い事を犯したとしても)、本当の理由は私自身の妬み、高ぶり、わがままにあります。たとい周囲のすべての人々が天使のような存在であっても、私が自分よりうまい事をやっている人に対する妬みや傲慢で自己憐憫を抱いているなら、私は恨みを容認して、その虜に残ります。
もしそのまま進んで行けば、妬みは硬い恨みを生み出して、それが広がって、憂鬱を生み出します。そのまま続けば、絶望に終わってしまいます。

 恨みを抱いて、人を赦そうともしない人に助けがあるでしょうか。上記の聖書のテキストは非常に厳しいものです。自分の恨みと赦さない心を捨てようともしない人には、神様からの赦しも地上でも、永遠にもあり得ません。

「でも、神様は悔い改める人殺しを犯した人も赦すでしょう、姦淫の罪も赦すでしょう、罪を告白する泥棒も赦すと聖書に書いてあるでしょう。どうして恨みが 赦されないのか」との疑問が聞こえます。それは、恨みの本質は不信仰と同じです。と言うのは、恨みの本質は、他の人が罪人で、悪い事をして来たが、自分が被害者に過ぎません。恨みを抱いている人は罪の赦しを必要ともしないし、それを求めようともしません。事実、一方的に他の人を攻めながら、自分が正しいと主 張とするからです。罪を認めない人を神様さえ赦す事が出来ないからです。

 不信仰の本質は神様の恵みを必要ともしないし、それを拒否さえします。恨みの本質は同じです。ですから、上記の例え話で赦さない心は、自分自身に対して 相手が犯した罪よりも250 000倍ほど大きな罪です。(百デナリは100万円に相当する金額です。一万タラントは250,000,000,000円に相当します。)人があなたに対 して犯した罪は1なら、あなたが抱いている恨みは神様の前で250 000ぐらいの罪です。確かに、イエス様はその罪のためにも十字架の上で死んで下さいましたが、恨みを抱いている人はそれを罪として認めないなら、十字架 の恵みを無にします。しかし、十字架以外のところに人間に赦しがありません。ですから、自分の恨みを罪と認めない人間は自分自身を永遠の滅びに裁くと言う 酷い結果になります。

 しかし、幸いにこれはこの問題の全てではありません。自分の恨みを罪として認めて、その恐ろしさを告白して、自分が恨みの虜であって、自分の力で恨みから自由になれない事を認めて、イエス様から助けを求めて、開放を願う人には助けがあります。どんな罪でも、罪として告白したら、イエス様の十字架の苦しみと死のゆえに赦されます。

  自分の本当の姿に直面して、恨みのままで滅んでしまう事を認めて、その罪の赦しと開放をイエス様から求めさえすれば、100%赦されます。それに、一瞬の 内に赦されます。それは自分が相手を赦した気持ちになった所で与えられた赦しではなく、恨みの罪を主に向かって告白して、赦しを願った途端に完全な赦しが与えられます。

 その時に主があなたの所に止まって、あなたの恐ろしい程大きな罪を赦しの言葉で取り除いて、神様との関係の回復を与えて下さいます。それはイエス様の十字架の愛はあなたの為です。

 イエス様は赦して下さるだけではなく、あなたの心の中に入って下さって、あなたの内側からあなたの対人関係を癒しだします。イエス様から頂いた赦しの大 きさの光で相手の罪を赦したい心が始めて生まれます。イエス様はあなたの難しい相手をも愛して、相手にも赦しの恵みを与えようとする御心を示しだします。 イエス様はあなたの目から恨みの拡大レンスを取り除きだします。(恨みは相手の悪い所を何十倍にも拡大して、又そのよい所が見えなくなります。)赦された 心は初めて現実を正しく、バランスよく見えるようにさせます。

 赦された時から相手の為に執り成しの祈りが始まります。「主よ、私は気持ちの上であの人を呪いたいのですが、私の気持ちと反して、あの人を赦して、祝福 して、よい事をして下さい。」イエス様の恵みで相手を赦す決定をするようになります。(たとい感情が全く反対であっても。感情は決して先ではなく、後からやってきますから。)

 赦しとは私たちの交わりの妨げになった事が最早妨げではない事を言葉で表現する決定です。その決定のゆえに相手との関係回復を具体的に求め始めます。そ れは、先ずその相手の悪口をやめて、その代わりにその人のよい所を人々に漏らしだす作業が始まります。その次に相手に対して具体的な親切の業をして、そして相手とのコミュニケーション、会話を求め始めます。赦しの狙いは相手との交わりの回復です。

 相手からの謝りが赦しの条件ではありません。相手があなた自身の罪を赦すかどうかは問題ではありません。あなた自身が相手を赦さない限り、相手の虜であ り、解放されていません。当然相手も変って、あなたと同じ側に回るのはイエス様の狙いですが、先ずあなた自身が自由にならなければなりません。たとい相手 はあなたを一生赦さなくても、あなたは恨みから解放されて、相手から自由になって、愛の行動が出来るようになるのはポイントです。ですから、純粋に相手を 赦す事は自分の相手に対して抱いた罪深い態度を謝る事を含むものです。

  イエス様に完全に赦されても、恨みの感情から開放されるには長い道のりがありうるのです。私自身の経験から語りましょう。日本に宣教師として来てから間も なく、別の同じ団体の宣教師から今考えても悪い事の被害者になりました。(相手はその事に未だに気づいていないし、謝った事もありません。)私の心に半年 で凄い恨みが発展して来ました。その恨みを取り除いて頂く為に5年もかかりました。朝起きて、一番初めにあの人に対する恨みの気持ちが湧き上がって、神様 の前に謙って、祈らなければなりませんでした。「主よ、この心のままで私は滅びに行きます。人に罪の赦しの福音を述べ伝える資格はありません。こんな惨め な私を哀れんで、赦して下さい。十字架の故にあなたの赦しを頂きます。感謝いたします。あの兄弟を今日も祝福して、御用の為に豊かに用いて下さい。」こう 祈ってから、1時間も経たない内に又同じ恨みの気持ちが湧き上がりました。又繰り返して同じ祈りをしなければなりませんでした。この祈りを何万回祈って来 たか、数えられませんが、やっと5年、ある朝に肩が軽くなった事に気がついて、やっと恨みの気持ちから開放されたと分かって、主に感謝いたしました。

 この長くて、痛い戦いの素晴らしい恵みは何処にあったかと言うと、自分の心の罪深さが徹底的に示されて、又イエス様の十字架の愛による赦しが如何に大き いかと味わって参りました。私は確かに世界一の罪人ですが、このような私を赦して下さった主の恵みを感謝します。 又素晴らしい事にはあの宣教師と肩を抱いて、愛する兄弟と言えるまで至りました。それは一方的な主の恵みでした。

 しかし、恨みとの戦いがそのように長くなる必要はありません。私自身の為にその長い戦いが必要でした。しかし、神様は別のような恵みも与える事がありま す。ある健康的にそれほど強いとはいえないクリスチャンの奥さんが離婚に追い込まれました。二人のお子さんの為に一生懸命生計を立てるには必死で、以前の 御主人を恨む暇さえなかったが、ある日には、その御主人が再婚して、赤ちゃんまで恵まれた事を聞いて、恨みが噴火する火山のように爆発的に出てきました。 神様を恨んだり、聖書を捨てたりしたほどでした。その事をしった私が何とか助けようとしました。ある日その奥さんが家に来て、私は早速上のような話をし始 めました。奥さんはそれを聞いて、こうおっしゃいました:「先生が教えて下さった事は正にその通りですが、実は私ともう何の関係もありません。何故かと言うと、イエス様は今朝一変に私を恨みから解放して下さいました。それを言いに来たわけです。」

 時々こう言う文章が聞こえます:「あの人を赦しましたが、もう互いに関係が出来ないから、平和的に離れて行きました。」これは嘘に過ぎません。本当の赦 しは関係の回復に至る道です。関係回復を求めない所には本物の赦しがなかったのです。もし神様が、「人々を赦しますが、彼らと最早関係が出来ない」と言われたら、私たち皆滅びるに過ぎません。主イエス・キリストの恵みによって、赦しは神様と関係の回復を意味します。人間関係の場合もそこまで進む道はキリスト者の道です。

 主イエス・キリストの恵みの故に恨みからの解放は可能です。完全な赦しは可能です。私たちには希望があります。ですから、今日主イエス様の所に悔い改めの心を持って行こうではありませんか。主はその御許に来る人を捨てる事はありません。

342. もしもほかの人をゆるしてやらなければ、それはどういうことですか。
     自分が憎しみと報復の罪をすてようとしていないこと、その結果私達の心が、神のゆるしに向かっても閉ざされていることを示します。

 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(1ヨハネ3:15)

343. このことは、私達が自分の肉の弱さのために、隣人をゆるしてやることができなければ、神のゆるしとたすけとにあずかることができないという意味なのですか。
     決してそうではありません。私達は、神にゆるしていただくために、ほかの人をゆるしてやるのではなくて、神のゆるしに感謝するからほかの人をゆ るしてやるのです。そして、人をゆるせる心と、隣人に対するキリストのような心とを、たえず祈り求めていなくてはなりません。

 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13)

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 (1ヨハネ4:10〜11)
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23:34)

 55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、 56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。 59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒行伝7:55〜60)

第六のねがい

わたしたちをこころみに会わせないで

これはどんな意味ですか。
答     まことに神は、なにびともいざなう事がありませんが、私達はこの祈りにおいて、悪魔やこの世や私たちの肉が、私達をあざむいたり、又間違った 信仰や絶望や、又はその他の大きな汚名や罪悪に落ち入らせないように、助け守って下さることを、又、たといおち入ったとしても、私達がなおも最後には打ち 勝ち、勝利を得ることができるように願うのであります。

344. 第六のねがいでは、何を祈るのですか。
     神が私達をこころみに会わせないようにと祈ります。

345. 「こころみ」が二重の意味に用いられていますが、それはどんな意味ですか。
     1 こころみとは、しらべたり、ためしたりする行いという意味です。
     2 こころみとは、悪に誘惑されるという意味もあります。

346. 私達に罪をおかさせようとして、神が私達をこころみられることがありますか。
      いいえ。とんでもないことです。きよい愛の神は、決して私達を悪にさそうようなことをなさいません。

 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。(ヤコブ1:13)

347. ではなぜ神は、私達がこころみにあうのをおゆるしになるのですか。
     神は、その子たちに、罪に勝って生きることを教えるために、またその信仰と愛と忍耐とを強めるために、試錬としてこころみにあうことをおゆるしになります。

 2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 (ヤコブ1:2〜4)

 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。 (使徒行伝14:22)

 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:6)

 1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答え た。 2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の いけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼 は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのとこ ろに戻って来る。」と言った。 6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のい けにえのための羊は、どこにあるのですか。」 8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上 に置いた。 10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あ なたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼 のいけにえとしてささげた。 14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。 15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、  17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろ う。 18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。 (創世記22:1〜19)

348. 私達を、罪に誘惑するのはだれですか。
     悪魔とこの世と私達自身の肉とが、私達を神からひきはなして、あやまちや不信仰や、絶望や、ほかの大きな罪へとみちびこうとしているのです。

349. 悪魔は、どのようにして私達を誘惑するのですか。
     私達の心の中に、よこしまな考えをもちこむことによって誘惑します。

 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く 信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。 (1ペテロ5:8〜9)

 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、(ヨハネ13:2)

 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」 (ヨハネ13:27)

350. この世は、どのようにして私達を誘惑するのですか。
     この世の人々は、私達をおどかしたり、おびきよせたりして、神と教会とを忘れさせ、この世のたのしみに仲間いりさせようとして誘惑します。

 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。 (箴言1:10)

 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 (ローマ12:2)

 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 (ヤコブ4:4)

 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。 (2テモテ4:10)

351. 私達自身の肉は、どのようにして誘惑するのですか。
     私達の罪深い肉は、次のような情欲とよこしまな欲望とによって誘惑します。
     1 不道徳

 24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 アーメン。 26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身 に受けているのです。 28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 (ローマ1:24〜28)

     2 うわさばなし

 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)

     3 むさぼり

 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。(1テモテ6:9)

     4 あらゆるよこしまな欲望

 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。(ローマ6:12)

 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。(ヤコブ1:14)

 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。(2サムエル12:9)

352. 私達は、この世で、誘惑から完全に解放されることがありますか。
     いいえ。現在の私達の生活は、必ず誘惑のやって来る生活で、神の国のために自分を訓練するのにも、誘惑は必要なのです。

 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。(マタイ18:7)

353. それでは、「ころみに会わせないで」と神に祈るのは、どういう意味なのですか。
     神が私達をこころみに会わせられる時でも、神が私達をまもりささえて、罪をおかさずに誘惑に打ち勝たせて下さるようにと祈るのです。

 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるよ うなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)

354. こころみに対して、どんな武器がありますか。
     毎日、神のみことばを用いて、警戒し、祈らなくてはなりません。そして、進んで自分を誘惑にまかせてしまうようなことをしてはなりません。

 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ26:41)

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:13)

 9 どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。 10 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。 11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。 (詩篇119:9〜11)

【解説】   誘惑と罪は違う事を認識しなければなりません。イエス様も試みに遭われましたが、一切罪を犯さなかったです。イエス様が荒野で、40日の断食で肉体的に非 常に弱い状態で、悪魔の誘惑に遭われました。第一の誘惑は優先順序を神様の御心から変えようとするものでした。肉体的な必要を霊的な神様との交わりより大 切に変えようとする誘惑でした。第二は神様から劇的なしるしを自分のために求める、信頼に関する誘惑で、第三は使命を神様の十字架の道より易しいやり方に 代えようとする誘惑でした。イエス様はそれらすべてにみ言葉の力で打ち勝ちました。ですから、誘惑されている私たちと共におられて、勝利を得るようにみ言 葉の力を与えようとしておられます。その助けをこの願いで祈ります。

第七のねがい

悪しきものからお救いください。

これはどんな意味ですか。
答     私達は、この祈りにおいて、ひとまとめにして、天の父が体と魂、財産と名誉にかかわるすべての悪から、私達を救い、そしてついには私達の臨終 に際して、祝福された終りをゆるされ、めぐみをもって悲しみ多いこの世から、天のみもとにみちびいて下さることを願うのであります。

355. 第七のねがいでは何を祈るのですか。
     神が私達を悪しきものから救い出して下さるようにと祈ります。

356. ここでは、どんな悪から救い出して下さるようにと、祈るのですか。
     いまなお私達につきまとっているすべての罪から、また、からだとたましい、財産と名誉におよぶ罪の、あらゆる破壊的結果から救い出して下さるようにと、祈るのです。

 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 (ヘブプル12:1)

 1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。 3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。 4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。 5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。 6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。 7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。 8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 (エペソ5:1〜8)

357. この世で、あらゆる悪しきものから完全に解放されることを期待できますか。
     決してできません。けれども、この世で、神が私達をますます悪しきものから救い出して下さるように、そして、最後に死の時が来たならば、祝福された終りを与えて、この悲しみの世から、めぐみによって天のみもとにともなって下さるようにと祈るのです。

 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。(2テモテ4:18)

 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 (ピリピ1:23)

 29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 30 私の目があなたの御救いを見たからです。 31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、 32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2:29〜32)

【解説】  クリスチャンの祈りは神様を中心とするものですから、あらゆる悪から守られるのは最後の願いです。神様の近くにいると、その事が実現されるからです。この世の一般的な祈りは人間中心ですから、先ず無病息災から始まります。優先順序が大きく違います。

結びとアーメン

国とちからと、さかえとは、かぎりなくあなたのものだからであります。アーメン。

アーメンとはどんな意味ですか。
答     私に、たしかでなければならぬことは、これらの祈りが天の父に喜ばれ、きき入れられるということであります。それは神御自身このように祈れと 私達に御命じになり、その上、神がきき入れると、私達に約束して下さったからであります。アーメン、アーメンということは、しかり、かくなるべしという意 味であります。

358. 「国とちからと、さかえとは、かぎりなくあなたのものだからであります」という結びのことば、私達に何を教えてくれますか。
     神が、私達の祈りにこたえて下さること、また、私達の祈り求めたものが与えられた時には、神にだけ栄光が帰せられるということを教えます。

359. 「アーメン」ということばは、どんな意味なのですか。
     たしかにその通り、そうなるでしょうという意味です。

360. なぜこのことばが、つけ加えられているのですか。
     「これらの祈りが天の父に喜ばれ、きき入れられる」ということを、自分で十分に確信するためにです。

361. これらのことが、すべてまことであると確信することができますか。
     できます。「神御自身このように祈れと私達にお命じになり、その上、神がきき入れると、私達に約束して下さったからであります。アーメン、アーメンということは、しかり、しかり、かくなるべしという意味」だからです。

【解説】   アーメンは「祈りが終わった」と言う意味ではありません。アーメンはイエス様の別名としても聖書の中に使われています。ですから、アーメンと言ったら、私 たちは主にこう言います。「主よ。私たちは今まで祈って来た事を一つも自分で出来ませんから、実現させて下さるのは忠実でおられるアーメン、すなわち主 よ、あなたです。これからイエス様の出番です」と言うような意味合いが含まれます。

362. 神がきき入れて下さると約束なさったのは、主の祈りだけですか。
     いいえ。神のみこころにしたがってささげられる祈りならば、すべてききあげてくだ下さると約束して下さいました。

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)

 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父 は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:19〜20)

 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなこと ができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何 でも与えられます。」 (マタイ21:21〜22)

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)

 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14)

363. 神と話す時には、今自分が願っているよいものだけを祈り求めればよいのですか。
     いいえ。今までにいただいたよいもののために、神に感謝もしなくてはなりません。

 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:20)

礼典

364. めぐみの手段とは何ですか。
     神のみことばと、ふたつの礼典とです。

365. 礼典とは何ですか。
     礼典とは、神がさだめて下さったよい行為で、神が眼に見える手段をとおして、眼に見えないめぐみを与えたり、保証して下さったりするものです。

366. キリスト教会の礼典は何々ですか。
     洗礼と、主の晩さんとです。

【解説1】  恵みの手段の定義

   恵みの手段と言う言葉は聖書の中に出て来ませんから、色々の意味で使われてきました。広い意味なら聖書の中にイエス・キリスト様が定められた信仰生活を 保つための具体的な手段は全部(み言葉、洗礼、聖餐、教会の交わり、祈り、礼拝など)を指す意味で使う場合があります。しかし、これらは基本的に二つの種 類に分けられます:
 a 神様の豊かな恵みの倉から、すなわち上から注がれる恵みの手段(み言葉、洗礼、聖餐)
 b 空っぽの心と手を開いて上から与えられる恵みを受け入れようとする手段(祈り、礼拝、教会の交わり)
 ですから、ルターは恵みの手段と言う言葉の意味を前者の狭い意味に絞り込みました。
 恵みの手段は神様が主イエス・キリスト様の十字架と復活の恵みを私たちの人生に具体的に与えて、イエス様ご自身が定められたものです。

【解説2】  恵みの手段は三つです。まず神様のみ言葉である聖書です。特に聖書が伝える福音の言葉です。(律法は私たちに恵みを伝えるわけではありません。しかし、律法は私たちに恵みの必要性をはっきりさせます。)そして二つの礼典、すなわち洗礼と聖餐です。

【解説3】  恵みの手段に関する対立や軽視の歴史

 福音のみ言葉が恵みの手段と言う点ではすべてのキリスト教会がほぼ同じ理解をもっています。ただし、み言葉がどのぐらい中心的なものか、強調の違いがあります。

 カトリックはみ言葉の唯一の解釈の権威が教会にあり、又教会の伝統や法王の発言をみ言葉と並んで考えて、聖書と矛盾する歴史が宗教改革の背後にあります。

 現代のカリスマ運動が基本的に聖書の権威とそれが恵みの手段である事を認めながらも、預言の賜物などを強調して、実際に聖書と並んで、場合によって聖書の上におく傾向が見られます。

 ルター派は教会歴史の中の多くの恵みを否定するわけでもなく、主体的な聖霊の働きによる体験も否定しませんが、その両方の上に明確に客観的なみ言葉を起きます。

【解説4】  聖礼典における対立

a カトリック: 礼典は7つあって(洗礼、堅信、聖餐、結婚、聖職、ざんげ、りんじゅう臨終ぬりあぶら塗油)、礼典は行為として(ex opere operato)神様の恵みをもたらせます。(聖餐はキリストの十字架上の血を流さない繰り返し)。礼典は聖職に強く結びついています。

b ルター派: 礼典は2つ(洗礼と聖餐)で、定めのみ言葉と外面的な印(水、パンとぶどう酒)が一つになったら、初めて礼典として成り立つ。キリスト御 自身がその中におられます(real presence)。信仰によって恵みが与えられます、不信仰なら効き目がないわけではありません。裁きをもたらせます。礼典はその執行者(牧師、長老、 または教会が任命して信徒)の信仰によるものではなく、礼典に預かろうとする人の信仰によって恵みが注がれます。

c 改革派: 唯一の恵みの手段はみ言葉です。聖礼典も守りますが、恵みをもたらせる手段ではなく、み言葉を信じた恵みの印に過ぎません。洗礼と聖餐をみ言葉に聞き従う事の外面的な証拠として行います。神様のみ業よりも人間の業として受け止めます。

 聖礼典の理解において教会歴史に激しい対立があったから、礼典を軽視する超教派運動も起きて、その影響は未だに強いのです。しかし主イエス様が私たちのためにお与えになった洗礼と聖餐は私たちに必要で、大きな恵みをもたらせます。

【解説5】  恵みに手段としての福音

  「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立ってい る福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって 救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 a  キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
 b  また、葬られたこと、
 c  また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
 d  また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生 き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らず で生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」 (1コリント 15:1ー8)

  福音は主イエス・キリストの小ロバのようなものです。目で見える、耳で聞こえる福音のみ言葉の中に、それに乗ってイエス御自身が私たちの心の中に入りま す。又福音の出来事(十字架、墓、復活)の恵みを心の中まで届けて下さいます。十字架による完全な罪の赦し、墓による肉(罪深い性質)の滅ぼし、復活によ る新しい永遠の命です。又福音のみ言葉を通して私たちは使徒たちがイエス様を見たように信仰の目で復活の主を仰ぎ見る事が出来ます。信仰はただ福音と言う ロバに乗っておられるイエス様に心の門を開いて、受け入れる事に過ぎません。

【解説6】  恵みの手段の具体性

 恵みの手段には私たちの理性を超える奥義があります。しかし、み言葉と聖礼典を通して私たちはキリスト様の交わりを経験し、又何の体験がなくても救いの確かさの確認をします。

 恵みの手段の五感で受け止められる具体性を理解しない人が結構多いかと思います。しかし、霊でおられる神様は具体的で、物質的な人間をお作りになっただ けではなく、その具体性を高く評価しておられます。御自身がイエス・キリスト様として人間になられて、私たちに魂の救いだけではなく、復活で体の救いまで 備えて下さいました。聖礼典の具体性は私たちに必要なもので、その客観的な形は特に苦しみや戦いの時に大きな力と慰めになります。

第四部 洗礼の礼典

第一  洗礼とは何ですか。

答     洗礼とは、単なる水ではなく、神の命令にふくまれ、神のみことばと結びついた水であります。
神のそのみことばはどれですか。
答     私達の主キリストが、マタイによる福音書の終りにいわれた次のみことばであります。
     「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施せ。」(マタイ28:19)

367. それでは、どなたの名によって、洗礼をうけるのですか。
     父と子と聖霊との名によって洗礼をうけます.

368. これはどういう意味ですか。
     洗礼によって私が、父と子と聖霊の三位一体の神と結ばれて神のものとなり、あらゆるめぐみのたまものをうけつぐという意味です。

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ローマ6:3)

 4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、 5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:4〜7)

369. だれが洗礼をうけるのですか。
     若い人も、老人も、すべての人がキリストを信じ、洗礼をうけて救われるのが神のみこころです。

 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、・・・(マタイ28:19)

 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)

370. いつ洗礼がとりおこなわれるのですか。
     1 新約聖書は、おとながイエス・キリストを信じた時に洗礼をうけるように教えています。信仰は神のみことばをきくことによって、心の中につくり出されるものですから、普通おとなの人は、みことばの基本的教理を学んでから洗礼をうけるようにしています。

 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒行伝2:41)
 31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。 33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。 34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(使徒行伝16:31〜34)(ピジピの獄吏と その家族とが、神のみことばをきき、信じて洗礼をうけたこと。)

 26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)  27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝の ためエルサレムに上り、 28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。 30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。 31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。 32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を 開かなかった。 33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」 34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人 についてですか。」 35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。 36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょう か。」 37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神 の子と信じます」と答えた。〕 38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。 39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。(使徒行伝8:26〜39) (エチオピヤ人が、洗礼をうけるまえに教えをうけたこと。)

     2 クリスチャンの家庭では、子供でも小さいうちに主のところへ来て洗礼をうけます。子供たちを、主のいましめに従って教えそだてるのは、両親の責任であるからです。

 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)

371. 小さな子供でも洗礼をうけるのは、キリストの御命令にかなうことですか。
     そうです。キリストも、そのみことばのなかで、次のようにはっきりと言っておられます。
     1 小さな子供たちも、神の国のものとして祝福をうけるようにのぞんでおられます。

 14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」 16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ10:14〜16)

     2 若い人も、としよりも、すべての人が洗礼によって神の国の一員になることをのぞんでおられます。

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5)

     3 子供でもキリストを信じることができるのです。

 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。(マタイ18:6)

     4 「すべての国民」を弟子として、洗礼をほどこせというキリストの御命令には、子供たちもふくまれているのです。

 18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいま す。」(マタイ28:18〜20)

     5 聖霊降臨の日に、ペテロが洗礼をうけるようにとすすめた中には、小さな子供たちもふくまれておりました。

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そ うすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの 神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒行伝2:38〜39)

372. だれが、洗礼をとりおこなうのですか。
     洗礼は、みことばに仕える人がとりおこないますが、必要の場合には、クリスチャンならばだれがとりおこなってもよいのです。

第二 洗礼は何を与え、どんな役に立ちますか。

答     それは、神のみことばと約束とが宣べているように、罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し、信ずるすべてのものに、永遠の祝福をあたえます。

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒行伝2:38)

 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒行伝22:16)

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませ んか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみが えられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3〜4)

 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(1ペテロ3:21)

その、神のみことばと約束とは、どれですか。
答     私達の主キリストがマルコによる福音書の終りにいわれた次のみことばであります。
     「信じてバプテスマ(洗礼)を受けるものは救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

373. なぜ洗礼は、私達を罪と死と悪魔とから救うのですか。
     洗礼によって私達がキリストと結びつき、その救いにあずかるようになるからです

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ3:27)

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませ んか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみが えられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3〜4)

第三 どうして水が、このような大きな事をすることができますか。

答      いうまでもなく、水がするのではなく、水とむすびつき、水とともにある、神のみことばと、水とともにあるこの神のみことばを信じる信仰であります。という のは、みことばなしには、水は単なる水であって洗礼ではないからであります。しかし神のみことばとともにある時、それは洗礼であります。すなわち、それは めぐみ深い生命の水であって、聖霊による新しいうまれかわりの洗いであります。聖パウロがテトスヘの手紙第3章に、次のようにしるしている通りです。
      「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われ たのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって 義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願って いる。」

374. なぜ洗礼は、うまれかわりの洗いといわれるのですか。
     聖霊が洗礼によって私達を罪からきよめ、新しい霊のいのちを与えて下さるからです。

 4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、 5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:4〜7)

375. 洗礼は、契約ともよばれるのではありませんか。
     そうです。洗礼は契約です。洗礼で神は私達にめぐみといのちを与えて下さり、私達の側からは、悪魔と、そのすべてのわざ、すべての道をすてることを約束し、また父と子と聖霊を信じることを約束するからです。

376. けれども、神が洗礼で約束して下さる祝福にあずかるのはだれですか。
     洗礼の契約をまもる人だけです。

377. 幼児のうちに洗礼をうけた人に、主の晩さんにあずかる特権を与える、きよい礼式は何ですか。
     堅信礼です。

378. 堅信礼とは何ですか。
     堅信礼は、神と会衆の前で信仰を告白し、洗礼の時に神が立てて下さった契約を、忠実にまもることを約束する、きよい礼式です。この信仰告白は、 神のみことばによって教えられ、信仰を確信するようになってから行われますが、この時に、聖さんにあずかることのできる教会員となるのです。

379. 洗礼の契約をまもることができますか。
     できます。神のめぐみによってできるのです。

 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)

380. 洗礼のめぐみのうちにとどまっているために、私達は何をしなくてはなりませんか。
     よく注意をして、祈り、神のみことばと聖壇の礼典とを、まじめにまもってゆかなくてはなりません。

381. 私達はどのようにして、洗礼の契約からおちてゆくのですか。
     次のようなことがおこります。
     1 知らず知らずわからないうちに。少しずつ洗礼の約束を忘れて、聖霊にさからい、祈りをおこたってゆくうちに、心は次第にこの世的になり、うつろになってゆきます。
     2 あきらかに悪いやり方で、あからさまな罪におちこんでゆきます。

382. 一度洗礼の契約からおちてしまっても、なお神のめぐみをのぞむことができますか。
     できます。神の側では、契約はいつまでもかわらないままだからです。もう一度神に向きなおるなら、神はいつでも、喜んでうけいれて下さいます。

 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15:20)

383. 悔い改めた罪人をはげまして、神のみもとに近づかせるものは何ですか。
      福音にあるキリストのやさしいまねきを正しく考えること、祈りの中でキリストを求めることです。

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

384. 洗礼の契約にとどまっている人も、悔い改めが必要ですか。
     必要です。毎日悔い改めて新しくされる必要があります。(問278を見なさい。)

第四  このような水の洗礼は、何を意味しますか。

答     それは私達のうちにある古いアダムが、日毎に悔いと、ざんげとによってすべての罪とよこしまとともに溺れ死に、そして再び、日毎に新しい人が現れ、よみがえり、神のみ前に、義と純潔とをもって永遠に生きることを意味します。

それはどこにしるされていますか。
答     聖パウロは、ローマ人への手紙の第6章に次の如くいっています。
      「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」

385. 私達のうちにある古いアダムが死んで日毎に新しい人が現れ、よみがえるとはどんな意味ですか。
     毎日のなげきと悔い改めとによって、罪が私達からとりさられること、神と人とにたいする愛が私達のうちでますます成長すること、その結果、私達がキリストの心を持っているということが、あらゆる行動の中に示されるということです。

 4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられ たように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは 知っています。(ローマ6:4〜6)

 22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、 23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、 24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22〜24)

386. 洗礼の保護者とは何ですか。
     保護者とは、子供が洗礼をうける時に、その両親がえらんだクリスチャンで、その子供の霊的な幸福についての責任を依頼される人で、特に両親がなくなったり、キリスト教信仰からおちたりした場合に大切です。

387. 子供の洗礼の時に、保護者としてえらばれた人の責任は何ですか。
     保護者は、その子供が聖なる三位一体の名によって洗礼をうけたことの証人でなくてはなりません。また、この子供のことを、神のみまえで祈りの中 におぼえ、その子供が分別のある年頃にならぬうちに両親がなくなったような場合には、その子供が教理問答書によって教えられ、その結果、すでに洗礼によっ てうえつけられたキリストを、成長して後もまもりつづけることができるように、できるだけの世話を見てやらなくてはなりません。

【解説1】  洗礼の意味

  日本で誰かが洗礼を受けようとしたら、多くの場合大変な戦いにぶつかります。周囲の人々が洗礼に反対するからです。その反対の理由は様々でしょうが、洗礼 を受けた人々は社会から除け者になったり、又キリスト教と言う宗教に縛り付けられたりする心配があるようです。洗礼が神様の恵みの手段どころか、頭の髪を 刈って、お坊さんになる決断のようにノーン・クリスチャンに受け止とめられる場合が多いかと思います。諸宗教にある、清められる事を求める儀式として受け 止められる場合もあるでしょう。
 しかし、クリスチャンはどうでしょうか。

 「あなたにとって洗礼はどんな意味をしますか」と色々のクルスチャンに聞くと答えは様々です。「それはイエス・キリスト様を信じた事を公にする告白でし た」と答える人がいます。「しかし、毎日のクリスチャン生活にはもう大した影響はないのです」と付け加える場合もよくあります。

 「私は幼児洗礼を受けたから、洗礼についての見覚えがないから、今イエス様を信じているのは大事ですが、洗礼はぴんと来ません」と答える人もいます。

 「洗礼の前とその後でこの世の娯楽の味が変わりました。この世的な物が空しくなりました」と答えた人も知っております。
 「洗礼は私の救いの確信の基礎です。救いに対する疑いが頭を横切った時には、洗礼の事実を思い起こして、平安が戻ります」と言う人もいます。

 ルターは毎日のクリスチャン生活でいつも洗礼に戻りました。毎日の悔い改めに罪をバプテスマの水におぼれさせて、十字架と復活の力で清められて、新たな出発をすると言う意味の話をルターがよくしました。

【解説2】  キリストの死と復活につぎあわせる洗礼
 フィンランドでよく学校のキリスト教の時間に日本伝道を紹介しながら洗礼の話しをしてきました。私の決まり文句は「洗礼は死刑だ」と言う事でした。洗礼 を受ける人は自分の罪を死刑よりも遥かに恐ろしい永遠の死に値する酷いものとして認めて、その正しい裁きを洗礼で受けると言う事です。洗礼の中に本人はお ぼれ死ぬと言う形で永遠の滅びの罰を受け入れます。(だから水は頭の上につけます。頭の天辺まで水の中に入って、おぼれる意味です。)しかし、主の大きな 恵みの故にその死刑はイエス・キリスト様に十字架の上で与えられました。洗礼はイエス・キリスト様の死刑を受ける人を死刑にします。しかし、イエス様の十 字架と言う形で実際にその死刑と滅びの処罰が行われました。そう言う意味で洗礼は決して芝居でもなく、比喩でもありません。現実に起こったイエス様の十字 架の死に私たちを結び合わせるものです。

  キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプ テスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新 しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるか らです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、 私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ6:3〜7)

 ですからルターは毎日の生活の中に罪と戦ったときに必ず洗礼の事実に戻りました。洗礼に罪からの開放の鍵があるからです。
 しかし洗礼は死刑だけで終わるわけではありません。死んだはずの人が洗礼の水から生きたままで出るのは、それも比喩だけではありません。主イエス・キリ ストの復活の命が与えられ、主と共によみがえる出来事です。自分の裁きとしての死がイエス様の十字架で終わって、復活された、生きたキリスト様と結び合わ せる恵みの場です。

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

【解説3】  イエス様のバプテスマ

 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(ルカ12:49〜50)

  多くの人は洗礼式の時に何か特別な体験を求めて、受洗しますが、そんな体験がなかった事で失望してしまいます。しかし、洗礼の体験は主イエス・キリストだ けがなさいました。そう言う意味で唯一本当の意味で洗礼を経験した方はイエス様だけです。それは十字架の苦しみと死者の中からの復活の体験でした。しか し、その出来事に預かったら、私たちは別の体験を期待出来ます。それは聖霊の火が私たちの内に燃える体験です。その火が燃えるのはイエス様の一番願ってお られる事です。

【解説4】  洗礼と信仰

 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16:16)

 イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』 (ヨハネ3:5)

  聖書を読めば、洗礼が救いに必要だと言う事は明白に分かります。しかし、その反面に主イエス・キリスト様を信じるだけで救われると言う教えも聖書から明ら かです。矛盾のように見えても、実際なんの矛盾もありません。主イエス・キリスト様を信じる信仰はちょうど主イエス・キリスト様の十字架と復活の出来事を 通して与えられる恵みを受け入れる事に過ぎません。しかし、それこそ洗礼の内容です。ですから、主イエス・キリスト様を信じる事は人を自然に洗礼に預かる 事に導きます。イエス様を信じながら、洗礼を拒否するのは、果たしてキリスト信仰だろうかと思います。

【解説5】  信仰と洗礼の順序

 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(ヨハネ3:8)

  使徒の働きの中にみ言葉の宣教によって先に信仰が生まれて、聖霊が注がれて、そしてその後で水のバプテスマが授けられた例もあれば、逆の例もあります。で すから、聖霊様はその働きにおいて自由であり、私たちは何か神学的なパターンを作る事が出来ません。信仰と洗礼の時間的な関係より内容的な関係の方が大切 と思います。信仰がなかったら、洗礼は神様の契約として残りますが、人を救う事がありません。洗礼の恵みから落ちた人も放蕩息子のように悔い改めて、神様 の許に戻る事が出来ます。洗礼は神様の忠実さを語る揺るぎない契約だからです。

【解説6】  洗礼がもたらせる恵み

 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(1ペテロ3:21)

 洗礼は新生の洗いです。洗礼は罪の赦しをもたらせます。罪の赦しは神様と関係の回復を意味しますから、洗礼の恵みは、神様のあらゆる恵みに預かる出発点です。又前にも触れたように、救いの確信の基礎で、信仰の原点で、罪との戦いで勝利への鍵です。

【解説7】  洗礼の時期と方法
 洗礼の中身はその形より大切ですから、その中身からやる方法も決まります。例えば、幼児洗礼の聖書的な由来は、子供も罪ある人間として救いを必要とすることです。しかし、マタイの大宣教命令に従って、イエス様の教えも洗礼を受けた子供に与えるべきです。

  イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行っ て、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守 るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:18)

第五部 聖壇の礼典

第一  聖壇の礼典とは何ですか。

答     それは私たちの主イエス・キリストの真の肉、真の血であって、私どもキリスト者が、パンと葡萄酒と共に食し飲むようにと、キリスト御自身さだめて下さったのであります。

それはどこにしるしてありますか。
答    それは聖なる福音記者マタイ、マルコ、ルカ、及び聖パウロが、次のようにしるしています。
      「すなわち、主イエスは渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。これはあなたがたのためのわたしのからだである。わた しを記念するため、このように行いなさい。」「食事ののち、杯をも同じようにして言われた。みなこの杯から飲め、これは、罪のゆるしを得させるようにと、 多くの人のために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。」

388. この礼典をさだめるみことばは、どれですか。
     「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記 念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの 記念として、このように行いなさい』」 (1コリント11:23〜25)

389. イエスが、聖壇の礼典(聖さん)をおさだめになったのはいつですか。
     イエスが死にわたされたその夜です。

 26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ26:26〜29)

 22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」 23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。 24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」 25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マルコ14:22〜25)

 14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。 15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。 16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」 17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。 18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」 19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」 20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。 21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。 22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」 23 そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。(ルカ22:14〜23)

390. イエスが主の晩さんをおさだめになった時をおぼえるのは、大切なことですか。
     大切です。それによって、私達の救主の愛のおこころづかいを知ることができるからです。キリストは、やがて苦しみをうけ、死なねばならぬことがわかっていても、御自分のことよりも、私達のことを考えていて下さったのです。

391. 聖壇の礼典で、私達がうけとるものは何ですか。
     パンと葡萄酒のうちに、またそれとともに、キリストが私達のために死にわたして下さったそのからだと血とをうけとるのです。

392. どうしてこのことがわかるのですか。
     キリストは、パンについて、「取って食べよ、これはわたしのからだである」と言われました。(マタイ26:26) また、葡萄酒についても、「みなこの杯から飲め、この杯は、わたしの血で立てられる新しい契約である」といわれました。(ルカ22:20)

393. ここで、「新しい契約」とはどういう意味ですか。
     神がイエスの血によって立て、保証して下さった新しい契約です。

 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。(1コリント10:16)

394. それでは、このパンと葡萄酒とを、キリストのからだと血の礼典にするものは何ですか。
     パンと葡萄酒にともなっている主御自身のみことばです。
     「パンも葡萄酒も、もし神のみことはがなければ、ただのパン、ただの葡萄酒でしかありません。けれども、神のみことばに結びついているために、 キリストのまことのからだ、まことの血になるのです。キリストの言われることは、なにごとでもその通りになるからです。キリストは、決してうそをいった り、人をあざむいたりなさる方ではありません。」とルターが言っている通りです。

395. 主の晩さんがさだめられたのは、だれのためですか。
     主の晩さんは、自分で反省できるまでに年令も理解もすすんだ、まことのクリスチャンのためにさだめられました。

 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(1コリント11:28)

第二  このような飲食が、どんな役に立ちますか。

答      それは「これは、罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのためにあたえられ、流されるのだ」とのみことばによってしめされています。すなわち、この礼 典において、このみことばを通して、私たちに、罪のゆるしと、生命と、祝福とが与えられます。それは罪のゆるしのある所に、又生命と祝福とがあります。

 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

396. でも信者は、主の晩さんに来る前に、罪のゆるしをうけているのではありませんか。
     そうです。信者は洗礼とみことばとを通して罪のゆるしをうけています。

397. それならば、どうして罪のゆるしが、特に聖壇の礼典に帰せられるのですか。
     私達は、聖壇の礼典で、私達のためにささげられたキリストのからだと血とを、罪のゆるしの力強い保証としてうけとるからです。

398. 信者は、聖壇の礼典で、いのちと救いとをどのようにうけるのですか。
     この礼典は、信者を、その主である救主と霊的に結びつけ、主も御自身を信者に与えて下さいます。こうして聖壇の礼典は、信者を永遠のいのちにいたるまで、信仰と希望と愛とのうちに、まもりつよめてくれるのです。

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。(1コリント10:16)

399. この礼典は、信者と信者との間をも、密接に結びつけるものではありませんか。
     そうです。主イエス・キリストと、その中にある生命とを、信者がともにうけることによって、おたがいがかたく結ばれてゆきます。

 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(1コリント10:17)

第三  肉体的な飲食が、どうしてこのような大きなことをすることができますか。

答      もちろんそれをするのは飲食ではなく、ここにしるされた「これは、罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのためにあたえられ、流されるのだ」とのみこ とばであります。このみことばは、肉体的な飲食と共に、礼典中の主要な部分であります。そしてこのみことばを信ずる者は、このみことばが語り宣言するこ と、すなわち罪のゆるしを得るのであります。
 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

400. 私達が主の晩さんをうける態度は、それほど大切なものではありませんか。
     とんでもないことです。これらの主のたまものをうけるためには、準備ができていなくてはなりません。心の準備なしに主の晩さんに出ることは、晩さんに出ないよりも、はるかに悪いこと、価値のないものであるからです。

 27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。 30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。(1コリント11:27〜30)

第四 だれが、この礼典にあずかるねうちがありますか。

答      断食や、肉体的準備をすることは、たしかに外面的にはよい訓練であります。しかし「これは罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのためにあたえられ、 流されるのだ」とのみことばに対して、信仰をもつものこそ、まさしく、ねうちのある、ふさわしい人であります。しかし、このみことばを信ぜず、疑うもの は、ねうちのない、ふさわしくない人であります。「あなたがたのために」というみことばは、純粋に信ずる心を要求するからであります。(マタイ26: 28)

401. では、主の晩さんに出るために、本当にふさわしく、よく準備ができているという人はだれですか。
     「罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために与えられ流されるもの」というみことばを信じている人たちです。(マタイ26:28)

402. これらのみことばを「信じる」とはどういう意味ですか。
     自分の罪と、自分が神のみ前に価値のないものであるということを心から認めながらも、主イエス・キリストのめぐみを信頼し、それを自分のためのものとしてうけいれることです。

403. 主の晩さんをうける価値のない人は、だれですか。
     自分の罪を感じないし、悔い改めもせず、心からイエスを信じていない人です。

 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。(1コリント11:29)

404. このように価値のない人たちが、なぜ主の晩さんをうけるのですか。
     それが、習慣やくせになっているのです。また主の晩さんに出ないことを恥ずかしく思ったり、主の晩さんにまちがった慰めを求めたり、外面的なおこないによって、神との和解をうけることができると思ったりしているからです。

 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。(1コリント11:29)

405. このような人たちが、主の晩さんに出ることは、ゆるされてよいのですか。
     明らかによこしまで不信仰な人には、決して主の晩さんに出ることがゆるされてはなりません。人の心の中のかくれた思いは、神だけがさばくことができるのです。

 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

406. ふさわしくないままで、主の晩さんに出ることのないようにするには、どうすればよいのですか。
     祈りをもって自分の心の中をかえりみること、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じているかどうか、たとえ一番好きなものであっても、罪であるならば全部すててしまうだけの真剣な意志を持っているかどうかを、神のみ前でよく反省してみることです。

 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(1コリント11:28)

407. 主の晩さんには、どのくらい出なければならないのですか。
     キリストは、きまった時をおさだめにはなりませんでしたが「飲むたびにわたしの記念として、このように行いなさい」ということばからわかるように、たびたび出席することがよいのです。

 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。(1コリント11:25)

408. 私達をうながして、たびたび主の晩さんの礼典をうけさせてくれるものは、何ですか。
     第一に、私達の主である救主のいいつけと約束、その次に、私達自身の深いねがいです。神は、私達のこのねがいのために、私達にいいつけて、うながし、そのめぐみを約束していて下さるのです。

409. ふつう主の晩さんをおろそかにさせるものは何ですか。
     霊的ななまけ心と不注意、この世的な心、たかぶり、神のめぐみとさだめとをけいべつする心などです。

410. 自分に価値がないと感じることのために、礼典から遠ざかっていてよいのですか。
     いいえ、価値のない自分を深く感じれば感じる程、神のゆるしを熱心に求めれば求める程、それだけ神のめぐみをうけるにふさわしいのです。

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3)

 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5:5)

 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(1ヨハネ3:20)

411. 聖壇の礼典をうける時に、しなくてはならないことは何ですか。
     私達の救主と、その死をおぼえることです。

 24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(1コリント11:24〜25)

412. どのようにして、キリストの死をおぼえるのですか。
     イエスのくるしみと死とを、つつしみ深くかんがえること、またそうすることによって、イエスにたいする信仰と愛とをつよめられることです。イエスは限りない愛によって私達のために、それ程くるしんで下さったのです。

 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(1コリソト11:26)

413. 主の晩さんをうけてからの私達のふるまいは、どうなければなりませんか。
     神が私達に示して下さった大きなめぐみについて静かに考えること、そのために心から神に感謝することです。そうして、一日ないし数日のことでな く、いつでもイエスと密接に結びついていて、ことばとおこないとによって主の死を示し、イエスのからだと血には、罪をおさえ、うちくだく力があるというこ とを、まことのきよめによってあかししなくてはなりません。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:24)

414. どのように信じて、イエスとのまじわりに生きる人は、祝福された死をも確信することがでぎますか。
     できます。最後まで信仰をもって、たえしのぶならば。

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24:3)

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとして いる。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2:10)

【解説1】  聖餐 (C.F.ヴィスロフ博士の「キリスト教入門」からの引用)

  ルーテル教会の聖餐の教えは、聖書のみことばと正しく結びついている。「聖餐は、パンとぶどう酒の下にあるわたしたちの主イエス・キリストのまことのから だと血であって、わたしたちクリスチャンが食べ、飲むようにキリストご自身が制定されたのである」(ルター小教理問答書)。

  「わたしは、あなたがたと、この過ぎ越しの食事をしようと、せつに望んでいた」とイエス様は聖餐を制定された時、言われました。イエス様は、わたしたちと 交わりをもちたいと願っておられるので、わたしたちを聖餐の食卓に招かれます。イエス・キリスト様の教会において、この交わりは、明確な方法、すなわち、 みことばと聖礼典によって保ちつづけられます。両者をとおして神様はわたしたちに語られ、祈りによって、わたしたちは神に答えます。

 それゆえ、信仰者はいつも聖餐の食卓につきたいと切望します。主の食卓につくことを、まれに、不規則にしか求めないクリスチャンは、その理由を自分自身 に問うてみるべきです。少なくとも、それは通常の状態ではありません。聖餐によってイエス様と交わり、信仰の兄弟姉妹たちと交わろうと心から願うことは、 健全なクリスチャン生活のしるしです。

 初代教会での聖餐は、感謝と、礼拝と、喜びと、信仰によって特徴づけられていました。聖餐の交わりには、なんら、重苦しい自己吟味は見られませんでし た。また、心を刺すきびしい悔い改めもありませんでした。それは、神様の言うに言えない贈りものに対する心からの感謝と讃美によって特徴づけられていまし た。そこには勝利と喜びがありました。

 その後の教会史は、聖餐において、いつも、このような雰囲気を保ちつづけてきたわけではありません。悔い改めと自己吟味は、クリスチャン生活の中で独自 の立場を占めています。そして、その精神と意味からして、聖餐は、まず、これらの事柄と結びつけられるべきではありません。。聖餐は、救われた会衆が、天 にいます父なる神と交わる喜びのつどいです。それは、救われたものが、お互いに交わり、そして、イエス様と交わる親密な食卓の交わりです。聖餐は、疲れは てた天国への旅行者がイエス様のふところに憩う場所であり、天国への旅路の安全な避難所です。

 主の食卓にあずかろうとする時、自分自身が、それにふさわしくないという思いが生じてくるのは当然です。教会におけるもっとも聖なる行為にあずかろうとする時、このような思いが、全然生じないようであるならば好ましくありません。「その飲み食いによって自分にさばきを招く」(1コリント11:29)というきびしいことばが、特に注目すべき警告として発せられています。

 しかし、この聖句を誤解しないようにしなければなりません。使徒パウロは、同じ章で、聖餐についてのおそろしい誤用について述べています。ふだん食べる 食物と、主のからだと血の飲食の間に区別をしない人たちに警告しています。パウロは、自己満足のうちに眠っている魂を目ざめさせようとしています。しか し、一方では、食卓につくことを切望し、キリスト様にある神の恵みに信頼しつつも、自分がそれにあずかるだけの十分の資格をもっているとは思わないクリス チャンが、ひとりでも主の食卓からもれることがないように願っています。

 どんな人でも、自分の資格だけで、聖餐につくのに「ふさわしい」人はいません。わたしたちは、キリストにあって与えられているもの以外に、神のみ前で誇りうるものはありません。このことは聖餐においてもあてはまります。

 イエスは聖餐を制定された時、天にいます父の家に、すべての友を集める日を仰ぎ望んでおられます。「わたしの父の国であなたがたとともに、新しく飲むその日までは、わたしは今後決してぶどうの実から造ったものを飲むことはしない」(マタイ26:29)。聖餐は、わたしたちの思いを上にある故郷へと引き上げる、おどろくべき力を持っています。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、(主がこられる時に至るまで)、主の死を告げ知らせるのである」(1 コリント11:26)。聖餐の食卓にあずかることにより、イエス様の友は、主が再臨される前ぶれを認めるのです。イスラエルの民が荒野において、約束の地 で生じたぶどうとざくろを味わうことができたように(民数13章)、聖餐は、すべての救われたものが、やがて父の家で食卓につく時にいただく最高の飲食の 前ぶれの賞味である。そしてすべての信仰者は、こう歌います。

  「ハレルヤ、主の食卓、
  そは、やがてかのみ国にてあずかり、
  今、この地上にてあずかる食卓なり」。

 聖餐は聖礼典である。すなわち、イエスの制定のみことばから、力と効力を受けている恵みの手段です。それゆえ、聖餐は、「聖礼典として」の効力を有しま す。すなわち、聖餐にあずかるすべての人は、生けるイエス・キリスト様との交わりにはいります。それは、パンとぶどう酒の下にある主のからだと血をいただ くからです。陪餐者は、信仰のあるなしに関係なく、それぞれ、イエス様のからだと血にあずかるのです。それは、聖餐の要素を普通のパンとぶどう酒以上の何 かにするのは、わたしの信仰ではなく、イエス様の制定のみことばによるからです。イエス様は、信仰者であろうとなかろうと、聖餐にあずかるものとの決定的 な関係にはいられます。同じ原則により、聖礼典は、それを執行する牧師が不信仰であろうと、無資格であろうと、たしかに有効な正真正銘の聖餐です。聖餐を 聖餐とするのは、牧師の信仰でも、陪餐者の信仰でもありません。(しかし、信じない人によって、聖餐が執行されたり、陪餐されたりするのは、不自然であ り、忌むべきことであることは明らかです)。

 また、陪餐者が、信仰者でない時は、陪餐によって救いをもたらすことはありません。回心も信仰もなしに、ただ、聖餐にあずかったり、死の床で陪餐を受け ることによって、罪のゆるしを得られると考えるならば、おそろしいことです。不信仰な陪餐者も、イエス様のからだと血にあずかることは明らかです。そし て、イエス様が聖礼典をとおして、彼に直面せられていることも明らかです。しかし、生ける信仰がないならば、陪餐は無益であるばかりでなく、さばきと心の かたくなさの結果を招くことになります(1コリント11:27以下)。

 神様の子が聖餐にあずかる時、それは、彼にとって、新しさと、励ましと、人格の成長をきたらせます。彼は、イエス様のからだと血をいただく、すなわち、 イエス様のからだと血にあずかることにより、信仰により、罪のゆるしを得ているのです。これを聖餐の(救いに至らせる)効力と呼びます。このような効力 は、信仰者にだけ働くものです。そして、この効力は、聖礼典的に、すなわち、イエス様のみことばと制定によって生じるので、この効力は、陪餐の瞬間におけ るわたしたちの感情によるのでもなく、肉的体験によるのでもありません。(ヴィスロフ以上)

【解説2】  聖餐式の意味 (キリストに預かる恵みの場)
 1. 主の十字架を覚える場
 2. 契約の確認の場
 3. 罪の赦しの場
 4. 癒しの場
 5. 感謝と喜びの場
 6. 交わりの場
 7. 主の死を伝える証しの場
 8. 祝福の場
 9. 天国の前触れ

附録: 仏式葬儀と法事について

  クリスチャンとして、仏式の葬儀や法事に行った場合に、どのようにしたらいいか、だれでも悩むところです。又クリスチャンの間にも色々の違う意見がありま す。一方神様のみ言葉は偶像礼拝を最も恐ろしい罪として裁きますが、他方では日本文化が相手主義であり、たとい自分が何かを信じなくても、相手の気持ちを 尊重して、相手に感情的な傷をさせたくない力が心の中で働きます。特にノンクリスチャンの家庭で唯一のクリスチャンとして生きる時に家族の方針に従わせる 圧力を強く感じて、愛する人々と仲良くしたいから、自分の信念や信仰に逆らって、周りの人々を喜ばす誘惑が強いのです。日本の文化の中で個人のアイデン ティティー(自己の確立)は所属する集団、特に家族によって成り立っていますから、多数派の感情に傷をつける事によって、孤立して、一匹の狼に、町外れの 人間になってしまう恐れは非常に強いのです。日本人が世間様を恐れて、又笑われる事を特に嫌がるでしょう。ですから、多くのクリスチャンは仏式葬儀や法事 の時に周りの人々のやり方と同じ事をして、聖書のみ言葉と矛盾する行為をとります。しかし、同時に心の攻めや後ろめたい感じをします。このようなやり方や 自分の聖書との妥協を正当化する傾向も見られます。その代表的な例をあげましょう。

 1.クリスチャンは自分の家族や他の人々に躓きを与えたくはありません。無駄な誤解を起さないように、人に対する思いやりから皆に合わせるのです。家族 の絆を大切にして、このような寛容な愛の心を見せて、クリスチャンとしての証しを立てて、別の場面で福音を語るチャンスを狙うと言う正当化があります。ノ ンクリスチャンがキリスト教の葬儀に参列する時に彼らはクリスチャンのやり方に合わせますから、同じ寛容な心を仏式の時に示すべきだと言う正当化も見られ ます。

 確かに、ノンクリスチャンの方々はこのようなやり方で怒らないし、家族の絆が保たれるでしょうが、しかしそれは果たして愛から来るものでしょうか。愛の 反対は恐れです。実際にこのような妥協は恐れから出て、自分の家族に対するメッセージは「あなた方はクリスチャンにならなくてもよい」のです。すなわち、 クリスチャンである私には他の人と違うものがないと言うメッセージです。「私には神様より皆様が大切であり、私の神様は大した者ではない」と言うメッセー ジです。本当の愛は恐れを超えて、たとい一時的な困難に直面しても、神様の偉大さ、大きさを証します。それは、偶像礼拝と妥協しない形でしか表す事が出来 ません。

 実際に、仏式の葬儀や法事でクリスチャンとしての行為を示して、とてもよい証の場面は出来て、後で愛する人々を主の元に導く証を聞いた事がありますが、 妥協した所から導かれた証を聞いた事がありません。(藤井圭子先生の「輝く日を仰ぐ時に」など参照にして下さい。)

 2.仏式の葬儀は多くの人々に形に過ぎません。にも関わらず、多くのノンクリスチャンも習慣としてそのしきたりに従うに過ぎないから、クリスチャンも単なる形だけで同じ習慣に乗るのは、別に何の意味もありませんから、そうしても構わないと言う正当化です。

 確かに、焼香を炊く事そのものはちょっと別の形で聖書の中にも出るし、カトリック教会などが未だに祈りの時に香が炊かれる事があります。だからといっ て、クリスチャンが仏式の葬儀などに焼香を炊く事はどうでも良い事ではありません。焼香の意味はポイントです。焼香は仏陀を賛美する仏教の一番中心的な礼 拝です。それを形だけでやる人は日本では結構たくさんいるのは間違いはありませんが、それを本気でする人もたくさんいます。ですから、形だけでやっても、 周りの人々の中にそれを仏教徒としての最高の信仰告白と礼拝として受け止める人が沢山います。焼香するクリスチャンは彼らにとってどのようなメッセージを 伝えるかと言うと、仏陀はキリスト教の神様より偉いです。焼香は踏絵みたいなものです。木の板の上に足を踏まないで、殉教に行ったクリスチャンが沢山日本 の歴史の中にいたでしょう。形だけで踏んだら、いのちが助かるにも関わらず踏まなかったでしょう。外面的な行為が内面的な信仰のしるしと言う意味があった ら、形だけでそのような行為が出来ません。形だけでしても、自分の信仰、すなわち、主イエス様を否定する事に過ぎません。ですから、焼香するのはクリス チャンにとって偶像礼拝に過ぎません。

 ペテロはイエス様を否定して、大きな罪を犯しましたが、悔い改めて、イエス様の十字架の恵みによって赦されて再出発が出来たように、偶像礼拝の罪を犯し たクリスチャンも正当化を辞めて、罪を罪として認めて、十字架の故に赦されて、再出発が出来ますが、そうするともう二度同じ罪を繰り返さないように主の助 けや力や愛や知恵を祈りましょう。

松岡広和先生の仏式葬儀と法事についての教え

 (以前僧侶、今牧師である松岡広和先生の「イエスに出会った僧侶」より)

 クリスチャンとして、仏式の葬儀や法事に行った場合に、どのようにしたらいいか、だれでも悩むところです。どのように対処するかは、やはり、それらの本来の意味などを知るところから、解答を得なければならないでしょう。

 以下、その意味などを考えながら、どのようにしたらいいか、述べたいと思います。しかし、対処の具体的方法は、本人の信仰や、所属する教会の指導に従うべきと思っておりますので、あくまでも参考という程度に考えていただきたいと思います。

年忌
 古代インドでは、人が死んで次の生を受けるときまでを四十九日間であるとされていました。これがやがて仏教にも取り入れられ、中陰(ちゅういん)または 中有(ちゅうう)といわれるようになりました。これが現在の四十九日の由来です。日本では、死者の霊が不安定な状態(アラミタマ)の期間が、この四十九日 間に適応されました。すなわち、四十九日を「忌明け(きあけ)」といい、このときに納骨するのが一般的です。

 次に、中国に十王信仰があり、これも日本にもたらされました。それは、死者が「あの世」で受けるべき裁きをする十人の王がいるとする信仰です。その配分 は、初七日から四十九日までの七日ごとの七回と、百箇日と一周忌、そして三回忌の合わせて十回です。ひとつひとつの名前などあげる必要もないと思います が、ちなみに三十五日目は閻魔です。閻魔はもともとインドのバラモン教のヤマ神に由来し、死者の国の支配者と考えられていました。

 これで三回忌までは登場しましたが、さらに日本において七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌、三十三回忌などの年忌が定められました。いずれも、十二支の巡り合わせと関係があるとされます。

 三十三回忌を弔(ともら)い上げといい、その霊は子孫を守護する祖霊となったとして仏事をしなくなることもありますが、続けて五十回忌、百回忌を行うこともあります。さすがに百回忌以上は、普通はまずないと言ってもいいでしょう。

法事の思想
 なぜこのように細かく分けて法事をし、死者を供養するのでしょうか。

 まず、そこには日本古来の民族信仰が大きくかかわっていることが考えられます。その信仰によると、人が死ぬと、その時点での死者の霊は、「アラタマ」と いわれ、大変混乱した状態の、危険な霊であるとされます。ですから、そのままにしておくと、他の人に「たたり」を及ぼすと考えられていました。その霊を、 供養することによって、次第に霊が清められ、最後に「ミタマ」「ナギミタマ」と呼ばれる祖霊となって、子孫を守る守護神となるのだとします。

 次に、この民族信仰に、仏教の修行という観念が結びついたと考えられます。すなわち、「アラタマ」が清められていく過程を修行と考え、修行を積んで悟りを開いて仏となることが、守護霊である「ミタマ」になることとするのです。

 仏教式に葬儀をする場合、まず戒名をお坊さんにつけてもらいます。戒名は本来、出家した人に授けられる名前です。出家をして修行者となるということは、 戒律を受けることで、その戒律を守りながら修行をするのです。ですから、出家をすると戒律を受けたという意味で戒名をもらうのです。

 したがって、死者に戒名を授けることは、出家をさせるということです。生前は、いろいろと忙しくて仏道修行はできなかったが、死んでから「あの世」で修 行をするということです。ちなみに、この「あの世」がどのようなところなのか、大変あいまいで、はっきりした定義などありません。

 しかし、死者がひとりで修行をするより、やはり応援があったほうがいいでしょう。年忌ごとに法事をするのは、この応援をすることです。法事を追善供養 (ついぜんくよう)または追善回向(ついぜんえこう)などと言います。漢字を見ればわかるように、善を行って、それを追いかけて供養する、つまり、善いこ と(仏を供養する=法事)をして、その功徳を自分たちが受けるのではなく、死者の霊に振り向ける(回向する)という意味があります。その功徳を受けなが ら、死者は修行に励み、どんどんその位を高めていくと考えるのです。ですから、法事がないがしろにされていると「ホトケが浮かばれない」などと一言うので す。

焼香
 クリスチャンとして、最も多く問題を覚えるのが、法事や仏式の葬式に出たときの「焼香」の件でしょう。

 焼香の由来は、インドにあります。インドのような暑い国では、体臭が多く発散してしまいます。したがって、高貴な人の前では、よい香りのする香を焚いて 体臭を消すことが礼儀であり、相手を敬うこととされていたようです。これが仏教に取り入れられ、仏の前で香を焚いて、仏を供養するという形になりました。

 つまり、焼香は煙に意味があるのではなく、その香りに意味があります。しかし今では、香りではなく煙さえ出ればよいというようになっています。

 このようなことを考えると、やはりクリスチャンが焼香をするということは、仏を敬うことにつながるので、偶像礼拝であると言わざるを得ず、避けることを考えるべきでしょう。

 最もよいと思われる方法は、法事や葬式に出る際、施主などの中心的な人に、自分はクリスチャンであるから、キリスト教式にお祈りをさせてほしい、そのた めに、お焼香はしないので了承してほしい、とはっきり告げることです。「お祈りをする」という言葉を忘れずに言うことです。日本人は、「お祈りをしてもら う」ということに対しては、寛容な面があるのではないでしょうか。このようにすれば、拒否されることはまずないと思われます。

 焼香には普通、前に出ていってする場合と、回し焼香の二種類があります。まず、回し焼香が回ってきたら、すぐに隣に回してしまうのではなく、いったん自 分の前に止めて、軽く一礼するのがよいと思います。次に、前に出ていく場合も、同じように頭を垂れ、一礼してお祈りの姿勢を取ることです。人によっては、 「主の祈り」をするという人もいます。それはそれでいい方法と思いますが、少々時間が長いのではないかとも思います。

 一礼する短い間に祈ることは、遺族の方々の悲しみが慰められること、そして、福音を聞く機会が与えられ、救われる方が起こされることなどをがよいのではないでしょうか。

 法事などには絶対に出ない、という信念の方もいらっしゃると思います。また、そのように指導している教会もあります。ですから、所属する教会で、明確な指導がされていましたら、それに従ってください。

 このように、出席するにしろ、お断りするにしろ、十分知恵を用いて、よけいなトラプルは避けるようにしなければなりません。

数珠
数珠(じゅず)は念珠(ねんず)ともいいます。本来は、念仏や密教の真言(呪文)を唱えたりする際、その数を数える道具です。

 例えば、天台宗の数珠は、一回りに百八の珠が付いています。よく知られているように、百八とは、人間の煩悩の数を象徴するといわれます。さらに、その中 の一つの珠が大きく、その大きい珠から、蝶の触覚のように二つの短いひもが出ていて、その一方に十、片一方には二十の珠が付いています。百八が一周する と、十のほうの珠を一つ移動します。そのように十の珠が全部動かされると、百八×十で、千八十回になります。さらに、十の珠が全部動かされるたびに、二十 のほうの珠を一つ移動するというようにしていきますと、さらに千八十×二十で、二万千六百回数えることができます。

 このように、数珠は修行の道具です。つまり、数珠を持っているということは、「私は仏教徒で、修行もしています」ということを公にしているのと同じです。

 葬式や法事などで、ブレスレットのように簡略化された数珠をよく持ちますが、もちろん、クリスチャンは持つべきではありません。また、持つように強制されるようなときは、数珠の本来の意味をお話しして、お断りしましょう。

【解説】  伊 藤栄一先生は仏式の葬儀と法事の場合に松岡先生と同じアドバイスをしました。ただし、自分がクリスチャンである事を前もって断っておく事は多くの場合に難 しいと思いますから、焼香をしないで、その代わりに主イエス様に祈る事を一番近くにいる人々に聞こえるぐらいの声で前もって書いておいた短い祈りをした ら、回りの人に伝わります。主の祈りが長いから、例えば詩篇23篇の1節を使って次のように祈ってもよいと思います。

 「よい羊飼いでおられる主イエス様。ご遺族の一人一人を復活の希望で慰めて下さい。」

救いの真理のまとめ

  1. まことの神はただー人しかなく、父と子と聖霊の三つの人格をもっておられます。

  2. この三位一体の神が全世界をおつくりになり、今でもこの全世界をまもり支配しておられます。

  3. 天使はみな神によって罪なくつくられましたが、不従順のために神からはなれ、堕落したものもあります。かれらは悪魔とよばれます。

  4. 人間も神によって、罪をもたぬ神のかたちにつくられました。神につかえるためにです。

  5. この神のかたちとは、神ににていること、神と調和していることです。いいかえれば、本当のちえ、義、きよさ、平和、よろこびです。

  6. この罪のない姿で、人間は祝福されておりました。最高の善の神とともに生きることができたのです。

  7. ところが、人間のはじめの先祖アダムとエバは、自分で悪魔のあざむきに自身をゆだね、内面的には心の中で神にそむき、外面的にも禁じられた木の実を食べました。

  8. その結果、人間は神のかたちをうしないました。すなわち、理解がにぶくなり、意志がよこしまになって、善に無感覚となり、反対に悪にかたむきやすくなって、良心の平和がみだされました。

  9. そのために人間は、今までの祝福された神とのまじわりを失って、神の怒りの下におち、死に価する罪あるものとなったのです。この死とは、この世と、たましいと、永遠とにわたる死なのです。

 10. この人間の最初の先祖アダムとエバとは、すべての人間のみなもとであるために、子たちはみなその姿に似て生れました。そして、人間性とともに、罪と死とが子孫全体につたわりました。

 11. ですから、すべて人間は、生れつきのままでは神の姿を持っていないのです。罪と、盲目と、けがれと、反逆性とをうけついで生れてくるのです。

 12. そして、この生れつきの原罪から、あらゆる実際の罪が、思いと、欲望と、ことばと、おこないとなって生じてくるのです。

 13. このように、みじめな罪の状態にある人間は、みな生れつき神の怒りのもとにあって、あらゆる罰をうけるにふさわしいものなのです。この罰も、この世と、たましいと、永遠とにわたるものです。

 14. このような永遠のみじめさから、人間を救い出すことのできるものは、何もありません。

 15. けれども、神は、この深刻なみじめさと、人類の求めとを、永遠のはじめから知っておられ、価いしないものをも愛する愛と、やさしいあわれみの心とから、御自分のひとり子を救主として、すべての人におくることにきめて下さいました。

  16. この救主は、イエス・キリストといって、人間が罪におちたらすぐあとで、この世に約束され、後には預言者を通して約束されておりました。旧約聖書 の中には、この救主のひどいみじめな死についてのべられており、その死は、たくさんのいろいろな犠牲によって代表されておりました。

 17. そしてついに時が満ちたとき、神の永遠の御子が聖霊によってやどり、処女マリヤを母として、罪をもたずにこの世にお生れになりました。

 18. ですから、この祝福された私達のあがない主は、神性と人性との二つの人格を持っておられます。神であられると同時に人でもあられます。

 19. このあがない主のつとめは、神と人間との間の、ただ一人のなかだちになることで、私達の大祭司、預言者、王として、へりくだった面と、たかめられた面とを持っておられます。

  20. キリストは、きよい御生涯と、完全な従順とによって、私達にかわって律法をみたして下さいました。また、はげしいくるしみをうけて、私達への罰に たえて下さいました、そのたましいとからだとで、律法ののろいを経験して下さったのです。神のさばきによって、私達の罪にたいして与えられるはずであっ た、この世と永遠とにわたる死が、キリストにおわされたのでした。

  21. この従順とみくるしみとによって、キリストは神の義をみたし、私達を神と和解させ、私達のために、罪とすべての悪からの救いをかちえて下さいまし た。そればかりでなく、私達に特権を与えて、神と結ばれるようにし、そこからあふれる祝福にあずかることができるようにして下さいました。こうして、キリ ストは、大きなあがないのみわざを完全になしとげて下さったのです。

  22. イエスは死んでから三日間だけ墓の中にとどまっておられ、三日目に父によってよみがえらされました。そして、御自身大きな勝利の力をもって死人の 中から生きかえり、キリストの敵にも私達の敵にもうち勝って、私達にかわって、罪の報酬を完全に支払って下さったことを、お示しになりました。

 23. 復活の後、キリストは天にのぼり、神の右にお坐りになりました。そこでキリストは私達のために祈り、また聖霊をおくって、キリストが私達のためにあがなって下さった救いの利益をうけることができるようにして下さいます。

 24. 聖霊は、すべての人を熱心にこの救いへとまねき、めぐみの手段、つまりみことばと二つの礼典とによって、力強くはたらいて下さいます。また、それと同時に、このあがなわれた救いを得るただ一つの道である、きまった法則をさし示して下さるのです。

 25. この法則は、救いの法則といわれ、神にたいして本当に悔い改めることと、イエス・キリストを信じる信仰とです。

 26. 悔い改めには、二つのことがあります。罪をなげきかなしむことと、熱心に神のめぐみを求めることです。

 27. 罪をなげきかなしむとは、次のことをいいます。すなわち、私達の生れつきの堕落と実際の罪とを、律法によって正しく認め、心からかなしく思い、それを真剣に憎むことです。

 28. このように、たましいのみじめさを強く感じるようになると、福音によって、神のめぐみを心からねがい求めるようになってきます。

  29. こうして、罪人が、福音が与えるキリストによる神のめぐみを熱心に求めるようになると、聖霊が、福音のみことばと洗礼の礼典とをとおして、その人 の心に信仰をおこして下さいます。この信仰がキリストの価値と功績とを、救いのただ一つのより所として熱い心でうけとるのです。

 30. この信仰によって、人は神の前に義とされます。すなわち、キリストの義がその人に与えられ、罪過と罪のための罰とから解放されて、キリストにあれば、あたかも罪をおかしたことがないかのようにみなされるのです。

 31. そして又、人間はこの信仰によって生れかわり、失われた神のかたちをとりもどします。すなわち、良心にはまことの平和とよろこび、理解には霊の光、意志にはきよいのぞみと力と求めとが、あたえられるのです。

 32. こうしてはじめて人間は、祝福されたまことの神の子となり、天において永遠の世嗣となる、生きた希望を待つのです。

  33. こうなると、神と人とに対する愛と、心の日ごとのきよめの中に、その人の信仰が生きてはたらいていることがあらわれてきて、もはや良心にさからっ て罪をおかすようなことはなく、こころをつくして善に従い、いつでも神の国と神の義のたすけを求め、この世にいるうちも、天の心をもって神のみ前で生活い たします。

 34. この人は、どんなくるしみにあっても、まことのなぐさめをうしないません。時には自分の弱点や誘惑のためにかくれていることもありますが、神の国がその人の心の中にあるからです。この神の国とは、聖霊による義と平和とよろこびとです。

 35. けれども、この祝福されためぐみの状態からおちることのないためには、あらゆる誘惑にたいしても、かたく信仰のうちにおれるように、聖霊のめぐみによってまもって頂かなくてはなりません。

 36. 信仰をまもり強めるためには、心からの祈りと、つつしみ深い態度で、神のきよいみことばと聖壇の礼典とを、たえず用いなければなりません。

 37. また、悪魔と、この世と、まだ自分にまつわりついている罪とにたいして、たえず警戒して、祈り、たたかわなくてはなりません。そして毎日、自分を捨て、主に従って忍耐強く、せまい道を十字架を背負って行かなければなりません。

 38. この救いの法則に従って、自分を神のめぐみにゆだねようとしない人は、生れつきのままの罪の状態で、神からへだてられ、悪魔とその使いたちとともに、永遠のほろびをかくごしなくてはなりません。

 39. けれども、だれでも、一生涯せまい道を歩みつづける人には、ついには死も益となって、あらゆる悪から完全に解放されるのです。

 40. そして、この人は、終りの日、生きている人と死んだ人とをさばくためにキリストがふたたび来られる時に、永遠に栄光あるいのちによみがえって、神との限りないまじわりにはいるのです。