しかし、その戦い方は基本的に間違っていました。救いはイエス様の一方的な恵みであることがよく分りましたが、救われた者として、自分で正しい生き方をし
なければならないと誤解しました。ですから、私のところまで来られて、いつも共におられるキリスト様から目を離して、自分の努力や自分の状態に目を向けま
した。しかし、それは電源から離れた電気機関車を自分の体力で動かそうとするとよく似た大変な事でした。自分の力で神様の律法を守ろうとする努力は本質的
に救われる前と救われる後は同じような無理な頑張りに過ぎませんでした。いつも罪の誘惑に負けて、頑張っても、頑張っても、自分の罪と罪深い欲望や習慣的
な罪から自由になりませんでした。
しかし、イエス様に出会った覚えがあって、繰り返して、イエス様の元に罪の赦しを求めに戻りました。又繰り返してイエス様も赦しの平安を与えて下さいまし
た。しかし、このような律法の元で頑張るとすごく疲れる場合がありました。また、少しづつ、平安に戻る時間的な距離が長くなりました。そこに悪魔は隙間を
見て、すごい攻撃に出ました。それは、救いの確信についての戦いでした。「こんなに同じ罪を繰り返すあなたは、もう何のクリスチャンでもなく、もう辞め
て、信仰を捨てなさい」と強く迫ります。しかし、幸いにイエス様の聖霊様は私の心から離れていなかったから、聖書のみ言葉を頼りにして、いつも新しい悔い
改めに私を導いて下さいました。明確な救いの体験の記憶も助けになりましたが、人にイエス様の証をしながらも、悪魔は「あなたは偽善者です。自分でもまと
もなクリスチャンでないのに、何で人に証をするのか」と迫りました。
このような中で、とにかく神様に愛されている証拠を求めるようになりました。よい家庭があって、よい友達も、好きなガールフレンドも、高校生活の成功も、
教会の青年会の楽しい交わりも、私の一種の拠り所になってしまいました。しかし、この様な戦いが4年間も続いたから、ひどく疲れました。しかし、今から考
えれば、神様がこのような戦いも許した理由がありました。それは、自分自身の罪深さがいかに深いか、又自分の力でどうしようもない現実である事を徹底的に
教えて下さった事でした。
二十歳の頃、徴兵制の軍隊生活に入らなければなりませんでした。そしてある日に、家から500キロ離れた場所で、主は私の間違った安心感の頼りをいっぺんに取り除いて下さいました。それは、私が重い心臓病にかかって、死にそうになって、1年
間の病院生活を過ごさなければならない事せした。成功も、友達も、家族の支えも、死の恐怖の前に何の役にも立ちませんでした。又自分の気持ちを高めようと
する努力も病気の疲れの中に全く不可能になります。「神様、あなたの愛は何処に消えたでしょうか」と嘆きながら祈っていました。
そ
こにやっと答えが出てきました。「私ですよ。あなたの為に十字架の上に死んで、蘇っている私がずっとあなたと共に来たのですよ。今からあなたが死んでも、
その時もあなたと共にいますし、その後も共にいますよ。」 私の頑張りではなく、ただ主イエス・キリスト様だけが答えでした。十字架の愛が見えてきまし
た。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(現在形)。」(ローマ5:8)
そして、退院して汽車で家に向かっていたある時、ルターの事をある本で読んでいた際、一つの言葉が強い力で私の目に飛びました。それは、「イエス様の十字
架の血潮は十分です。」私の救いの確信は私の何かに頼るのではなく、一方的な恵みに寄ります。はるかかなたに消えたような神様の大きな平安と喜びが戻って
きました。「私ではなく、あなたです!」
それからの罪との戦いの中に、目を主に向けて、たとい私が倒れても、主のみ手の内に倒れるから、もう一度立ち上がります。私の歩みは私次第ではなく、イエス様次第と分って、気持ちがすごく楽になりました。