「喜」という字は元々二つの同じ「喜喜」字があわせたものから略したものです。というのは二人の侍(士)が同じ机で杯を口に入れて話し合う意味でしょう。互いの気持ちが通じ合う所に心の喜びを感じます。ですから、喜びの反対は悲しみではなく、寂しさで孤立です。人間的な喜びを経験するには相手が必要です。自然の中にすてきな風景を一人で見ると、感動はしますが、その反面に物足りなさをも感じます。もし傍にもう一人の人がいて、その人に自分の感動を分かち合うなら、喜びが倍になる気持ちです。
しかし、どんなに親しい人であっても、「分かる、分かる」と言いながらも完全に自分の気持ちを伝える事が出来ないし、相手の気持ちも完全に分かりません。また喜びの深さも、長さも、人それぞれ違います。ですから、喜びを感じながらも人間はもっともっと深い喜びに憧れています。心のそこまでの喜び、裏腹のない喜び、妬みがぜんぜん混じっていない喜びがどこにあるでしょうか。
始めのクリスマスにみ使いがすべての人間に公平に与えられる「素晴らしい喜び」(別の約で「大きな喜び」)を告げ知らせました。それは他の人々のためだけではなく、丁度私たちのための喜びです。それは救い主がお生まれになったことです。
赤ちゃんが自分の家族や子供の家族に生まれるととても嬉しいことですが、他の家庭に子供が生まれるのはごく普通な気持ちで歓迎します。しかし、救い主、イエス・キリスト様が生まれたことはすべての人、全人類の喜びです。その理由はこのお方を通して私達は全知全能の創造主であり、父なる神様と何の妨げもなく交わることが可能になるからです。主イエス・キリスト様を知る事で父なる神様の心と私たちの心が通じ合う事になるからです。救い主イエス様は神様と私たちの間にある隔ての隔壁を倒して、神様との和解を与えて、罪を赦して下さるからです。
イエス・キリスト様はあらゆる意味で私たちを救って下さるお方です。自分の欲望の奴隷状態から自由に愛を示す者に作り変えて下さいます。また過去の罪責感や恥から開放して下さいます。また悪魔の攻撃に打ち勝たせて下さいます。死の力からも復活の体の永遠のいのちに救って下さいます。愛と平安と希望をクリスマスプレゼントとして与えて下さいます。これらのことは全部主イエス・キリスト様の十字架の死と復活の勝利で得られた、私たちに対するただの贈り物です。
これらの素晴らしい賜物よりも最も大きな喜びは、父なる神様ご自身を知ることで、何の妨げもなく、安心して、心のすべてを主イエス・キリスト様に語って、完全に理解して頂いて、助けて頂くことです。
人間的な愛のある関係の中に、相手からいろいろのサービスを受ける事は嬉しくて、感謝すべき事ですが、それは本当の喜びではありません。相手の人格を喜ぶ喜びは本物です。神様の場合も、多くの賜物を頂く事は恵みであり、感謝ですが、最も素晴らしいことはイエス・キリスト様を通して父なる神様御自身を喜ぶ喜びです。
ですから、本当のクリスマスは、心の中に神様の深い愛、主イエス・キリスト様の限りない恵みと交わりに預かることです。それは自分の心をありのままに主に打ち明けて、明け渡す事です。
「心をイエス・キリスト様に明け渡す事はどんな事ですか」とある小さい子供がその父親に聞きました。父は「あなたの財布を持って来て下さい」と答えました。それで子供は空っぽの財布を持って来てくれました。そして父親は自分の財布からお金を出して、子供の財布に入れました。
私達は暗くて汚い心を主にありのままで渡せば、主ご自身がその中に入って、それを綺麗に掃除して、その中をご自分の交わりの愛で満たして下さいます。それはクリスマスの喜びです。皆様の上に本当のクリスマスの喜びをお祈り致します。