先日正木茂先生がHAT神戸キリスト教会で「救いの保証」と言う題でメッセージをして下さいました。その内容から少し引用致します。
聖書は私たちが神様と共に生きて、生活をしなければならないと言う事をあまり語っていません。逆に神様ご自身が私たちと共におられると述べ伝えます。それは何と言う大きな恵みと愛でしょう。私たちが主のご臨在を全然感じることがない時にも、何時も私たちと共におられます。「主は我らと共に、インマヌエル」でキリスト信仰を一言で表現出来ます。インマヌエルはイエス・キリスト様の別名ですから。主が私たちと共におられるのは抽象的な事ではなく、初めのクリスマスに神様が本当の人として来られて、私たちの経験した事を完全に理解して、又完全に救って下さいます。
人間は何時も自分自身に向かって話をする存在です。しかし、その話の内容はほとんど否定的な内容です。自分の欠点、欠けているところ、罪、暗い動機などを見て、一日中それらについて自分に語ります。クリスチャン生活の中にも足らない事、失敗、出来ていない事ばかり見る傾向が強いのです。
その中に永遠のみ国に入れるかどうか、天国まで確実に救われるかどうか、と言う最も大切な問題において平安と確信を得るためには、私たちが自分自身を神様の方から、イエス・キリスト様の目から見なければなりません。
三位一体の神様は創り主として、そして贖い主として、又救いの封印でおられる聖霊様として私たちを見ておられます。三位一体の神様のすべてが私たちと共におられて、私たちを見ておられます。
創造主であられる父なる神様は宇宙と全世界を創る前から私たちの存在を計画して、そして丁度私たちのような者が欲しくて、私たちを選んで下さいました。それは私たちにあらゆる霊的な祝福を与えるためです。(エペソ1:3)。私たちの性格、賜物、能力、また他の人に比べて私たちの欠けたところも、父なる神様ご自身が選んで下さいました。私たちは主の傑作です。丁度 私たちのような者が欲しくて、私たちの命、私たちの愛が、私たち自身が欲しくて、主は私たちを造って下さいました。作り主の無限の愛で私たちを愛して下さいます。
人間が罪堕落で罪深い性質を持つようになっても、又そのためにあらゆる具体的な罪を犯しても、神様の愛は終わりませんでした。神様は、その独り子のイエス・キリスト様を始めのクリスマスに、この世に送って下さいました。それはイエス・キリスト様が私たちの全ての罪をご自分に受け入れて、私たちに代わってその処罰を最後まで十字架の上で経験して下さいました。それで私たちの罪(過去に罪、現在の罪、将来の罪)を丸ごと贖って下さいました。罪の借金は払い済みです。十字架の上でイエス・キリスト様の勝利宣言は「全てが完了した。」と言うことでした。ですから、主は今あなたに宣言して下さいます。「あなたにプレゼントとして救いの義と永遠のいのちを与えます。」(エペソ1:7)
しかし、主の愛はここでも止りません。述べ伝えられている福音を通して、主ご自身が受け入れる人の心の中に聖霊様として入って下さいます。聖霊様は私たちが滅びることがない、永遠の救いの保証になって下さいます。(エペソ1:13,14)
福音はこの神様の三重の愛についてのメッセージです。ですから、全ての主の者は自分自身を見る特権が与えられています。自分の心によい知らせを伝える事が許されています:「あなたは神様に創られています。ですから、神様の者です。あなたはイエス・キリスト様の血潮の代価で罪の裁きと有罪から自由にされています。ですから、主の者です。あなたは聖霊様の封印で神様に永遠に所有されることを保証されています。ですから、あなたは主の者です。あなたは主の者だから、主のために、その恵みの栄光のために生きる特権もあなたに与えられています。神様はあなたと共におられます。」インマヌエル!
もしこれを読んでいらっしゃるあなた様が未だこの神様の大いなる恵みの外にいると感じるなら、主はあなたにもこの無限の恵みを与えるためにあなたの近くまで来れらています。ですから、あなたの救い主と主として心を主に向かって開いて下さい。「主よ。私の人生にも入って下さい。私の罪も赦して下さい。」と頼んで下さい。主は恵み豊かで、全ての人の救いを願っていらっしゃいます。あなたは例外ではありません。