王様は町に入られる
人間は城壁で囲まれている町のような存在です。私たちは人や物事を自分の人生に入るか防ぐかの門を持っています。その反面に自分の考えや行動を他人の方向に許す門もあります。
私たちの城壁町の中に神殿があります。それは何が大切なのか、何が価値のあるのかを決め、また私たちは誰に使えているかを決定します。町の中に王様の宮殿もあります。その王様は神殿から貰った価値によって具体的な生活の決定をします。その他に町に学者達も住んでいます。彼らは王様の取った措置を必死に理性的に正当化します。
城壁で外側から来る脅威や危険から自分を守ろうとします。城壁はまた町の中の汚い所を他人の目から守ります。外向きにとても清くて敬虔な生活を送っているように見えても、中に大変汚れた生き方をしている偽善的な現実を城壁で隠そうとします。
イエス・キリスト様はこのような町に入ろうとなさいます。ハッキリした目的をもって心の門から入ろうとしますが、決して武力や無理やりに城壁や門を壊して入る事はありません。心の門の所に静かに来られて、門を叩いて、中から開かれたら入られます。
しかし入る許可を受けたら、主が明確な目標を持って働き出されます。主は心の革命を起こすために入られます。一番先にイエス・キリスト様は神殿に入ります。
当時は神殿は神様に捧げられる祈りの家ではなく泥棒の巣になって、金銭欲、儲け、宗教的な死んだ儀式や偽善で一杯でした。イエス・キリスト様は鞭をとって、商売をやっている人々を神殿から追い出しました。そしてそこに来た病人を癒したりなさいました。神殿を主を褒め称える役割に戻されました。
今日もイエス・キリスト様は私たちの心の中で同じ事をなさいます。汚れを清め、癒しを与えて、主に向かう讃美の心を起こされます。心の神殿の中に神様はみ言葉を通してご自分の御心を表す祈りの家に作り変えて下さいます。子供たちが神殿の中にイエス・キリスト様を讃美したように、主が清めた心からも子供のような純粋な信仰が湧き上がって、主の恵みを感謝する心が生まれます。.
その後は主は王様と皇帝の支配を代表する総督ピラトに向かって歩み出されました。今度は囚人の姿だったにも関わらず世の権力者の前に真理の王様である事を主張して、最終的に大きな栄光の中に再臨する事を宣言なさいました。十字架と復活の勝利でイエス・キリスト様は私たちを暴力から愛へ、欲望の奴隷から清さの中へ開放して下さいます。イエス・キリスト様はその苦しみの結果として私たちの城壁町をご自分の支配下に移して下さいます。主の光が明らかにする汚れを十字架の血潮が清めます。主はその真理のみ言葉によって私たちの理性も神様の知恵の支配化に移して下さいます。
こうして清められた町の門から外へ新しい交通が始まります。人から奪うことなく、人に最も大切な事、救いの福音を伝える動きです。
イエス・キリスト様は私たちの町に解放する王様として入られますが、柔和で低い姿で、何の強制もないままで来られます。
イエス様を迎えた人々はホサナと叫んで歓迎しました。ホサナは「主よ哀れんで下さい」と言う意味です。それで彼らはイエス・キリスト様を唯一救いをもたらせるお方として認めました。他の救いがありえないから、イエス・キリスト様は唯一の希望でした。他の何かに頼る人は先ず主に心の門を開こうともしません。主は唯一神様からの祝福をもたらせるお方です。
この王様に心の門の鍵を渡すと彼は私たちを永遠の春の天のみ国まで導いて連れて下さいます。その象徴は棕櫚の木の葉っぱでした。服をイエス・キリスト様の歩く道の上に敷いた人々はイエス・キリスト様の支配権に無条件で従う姿勢を表しました。しかし、主の支配は愛と真理の支配であって、本当の自由です。
今年のクリスマスにこのイエス様を心の町に迎えようではありませんか。