イエスは(ピ
ラトに)答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に
属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 (ヨハネ18:37)。
イエス様に
とって、約2030年前の最初のクリスマスに誕生したことは、宇宙を作られた神様が人となられたことでした。イエス様は完全な神様であり、完全な人です。
イエス様が天から地上に来られたことは、王の即位でした。上記の言葉は、イエス様がいばらの冠を戴かれ、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と刻まれた木の上
の十字架という王座に昇格される直前に語られたものでした。真理の王の生涯は、人々が誇らしげに自分の人生の王であることを宣言するこの時代の王としての
生き方と比べて、どのようなものだったのでしょうか。
聖書は、ヘロデ王と呼ばれる4人の王と、同時に「小さな王」になりたいと願う私たち一人ひとりについて語ることで、私たちをも描写しています。最初のヘ
ロデは大王と呼ばれ、派手な宮殿を建て、神殿を立派にし、権力を維持するために自分や他のライバルを残酷に殺しました。赤ん坊のイエス様をも殺そうとした
彼は、ベツレヘムの2歳以下の男の子たちを殺しました。現代の私たち 「王 」は、子供たちが 「自由
」を脅かさないように、生まれる前の子供たちを簡単に殺すことによって、ヘロデと同じことをすることができます。
一方、ヘロデ王の息子は姦淫に生きており、バプテスマのヨハネが悔い改めるよう促しても心をかたくなにし、ついにはヨハネの首をはねました。彼は後でイ
エス様に直面したが、イエス様は彼に一言も答えなかったのです。現代の姦淫王である私たちも、同じように心を頑なにさせ、幸せになる自由を主張し、最後に
は真理の声を聞くことができなくなる方法を知っています。
第3代ヘロデのアグリッパ1世は、民衆を喜ばせようとするあまり、使徒ヤコブを殺し、やがて自らを神と宣言し、致命的な結果を招きました。2週間後、体
が虫に食われ、ひどい苦しみの中で死にました。神様は人に栄光をお与えにならないのに、現代の『王』である私たちは、新宗教に溺れ、自らを神とし、闇と嘘
の力に陥れようとしています。
第4ヘロデ、アグリッパ2世は、囚人であったパウロに福音をすべて説き明かされ、この最後のヘロデである彼に救いのチャンスが与えられました。しかし、
彼は神様の招きを拒否して言いました: 「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている!」。現代の私たち 「王たち
」もまた、自分がとても賢いので、十字架上のキリスト様の犠牲による神の恵みのみによる救いでは簡単すぎるではないかと考えています。私たちは、それ以上
の何かを求めて救いを失います。
この世界における神様の王権は、なんと異なっていることでしょうか。生まれた時にイエス様は宮殿ではなく、動物たちの洞穴に入って来られ、動物のエサ桶
がその寝るところとして与えられました。イエス様は誰も殺さず、数え切れないほどの病人を癒し、死者を生きがえらせ、人間の罪についての真理を明らかに
し、その名を叫ぶ人々を赦し、解放をされました。ご自分を弟子たちの下に置き、彼らに仕え、足を洗われました。罪人や貧しい人々は真理を認めてイエス様を
を受け入れました。
イエス様は力や暴力によって支配するのではなく、真理と愛の力によって人々を説得し、御心を行わせます。十字架の木の上の御座から、隣に十字架につけら
れた盗人を罪の重荷から解放されました。その王権的な力によって、彼にパラダイスの門を開いて下さいました。最後に、イエス様は死を打ち負かし蘇りまし
た。主の前で真理にひれ伏し、イエス様の名を叫び求め、人生の王としてイエス様を受け容れるすべての人に救いを開いて下さいます。それらの中にイエス様は
その王としての力を示されます。「
人の子(イエス様)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
(マタイ20:28)。
王でおられるイエス様はこの世の王権をひっくり返し、真の力、愛と真実はその力を発揮しました。最後に、イエス様は大いなる栄光のうちに再び天から下っ
て来られ、すべての人をその行いによって、生きている者も死んだ者も、真理に従って裁かれます。主は地上に正義と平和をもたらしてくださいます。今年のク
リスマス、主は私たちが真理に心を向けるよう招いておられます。そうすると私たちは再臨のイエス様を安心して、喜んで迎える事が出来ます。今日はイエス様
を読み求める人にそのを憐れみを示して、罪を赦して下さいます。
夏からクリスマスへ
今年も終わろうとしていま
す。この歳になると、新しい一日の始まりに、「主よ、私は今日、あなたのもとに行くことができますか?」と尋ねるのが賢明です。新しい年の始まりには特
に、ここから主のもとへ向かうために必要な準備がすべてできているかどうかを確認することが大切です。今回もまた、何人かの親愛なる友人や動労者が天に召
され、おそらくもうすぐ、私たちも彼らとともに主を仰ぎ見るでしょう。春にはすでに、あお教会の熱心な信者である大谷勝子様が天からの召しを受けました。彼女はたくさんの詩を書き、新聞や雑誌
に載せて貰いました。そのひとつがこうです:「再臨の主を待ちに待ちます / 感謝せよ感謝せよ / 主は来られます / み心ならば / すみやかに
すみやかに / 来て下さい」
10月には、4年間ご一緒させていただいた阿南教会の元牧師、川上新一先
生が主のもとに行くことができました。11月末には、私たちの親しい友人であり、日本での50年以上の働きの祈りと支援の担い手であったヤーッコ・パルツキラ様を主が御許に召されました。この原稿を書いている今、淡
路教会のメンバーの一人がその人生の歩みの最終段階にいます。彼女は最後の力を振り絞って、自分を救い、平安を与えてくださった主に感謝を表しています。
イエス様はこう言われました:
「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわた
しのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51)イエス様を信じる人は死ぬ瞬間にイエス様
の御顔を見ます。安心できます。
私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死
ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行
くからである。」(黙示録14:13)
伝道活動
8月末から、レアと私は、東ヘルシンキにある開拓教会のサポートに行っています。月に
2回説教をし、求道中の方に日本語で聖書の勉強をする機会もあります。礼拝には様々な国籍の若者が参加しています。親教会であるエスポー家庭教会と同じよ
うに、集会は英語に通訳されます。
また、フィンランドの南の地域にあるミッションサークルや、聖書学院でも聖書を教えました。秋には牧会カウンセリングも多少ありました。
日本との繋がり
10月、阿南教会の中川和也牧師と奥様、教会役員会のメンバーとその娘さんが
ミッションのゲストとしてフィンランドからの支援に感謝するためにフィンランドに来られました。最も美しい紅葉の風景の中で二日間を共に過ごすことができ
て楽しかったです。
11月には、福山から渡部光子さんがドイツ在住の息子さんを連れて訪れ、5回のコンサートを開いて下さいました。そのうち4回はマーンツァラ、ヴァルケ
アコスキ、ヒュヴィンカー、ハウスヤルヴィの教会で、1回はミッションの聖書学院で行われました。
渡部氏がフィンランドを訪れるのは6回目でした。以前は東福山教会のハンナ・ゴスペル・クワイアーのディレクターとしてをツアーしていたが、現在は声楽
伝道者としてリュート演奏伝道に専念しています。私がコンサートで彼女のマネージャー兼通訳を務めました。
ルターが最初の40曲の賛美歌集を出版してから500年という節目の年に、このコンサートは開催されました。ルターの名前は「リュート奏者」を意味し、
ルターは家庭での歌唱セッションの伴奏にリュートを使っていました。
パルム朝子・ラウリ夫妻は日本の北鈴蘭台会衆で、長女夫妻は中国の上海でそれぞれ
活動を続けています。孫のうち日本にいるのは一人だけで、他は全員フィンランドにいます。家内と私は、この秋の間、年齢の割に元気でおりました。主に感謝
しています。お祈りを感謝します。
あなたの友情を心から感謝致します。主の祝福をお祈りいたします。
主イエス・キリスト様のご降誕を心より喜び申し上げます。主の恵みの2025年をお迎え
下さい。