Jorma Lea  Pihkala
ヨルマ & レア・ピヒカラ
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2008年7月31


暑中お見舞い申し上げます。

  何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:6〜8)

 関西空港のロビーで飛行機の出発を待っている時に、ある女性が流暢な英語で話し掛けてくれました。私のビジネスを尋ねて、宣教師である事を聞いて、次の質問をなさいました。「多神教の日本人にキリスト教を信じさせるのは難しいでしょう。」「いいえ。簡単ですよ。多神教の中に、愛に上渇いている、罪意識で悩んでいる、死を恐れている日本人に、何の答えもありません。これらの問題さえ正直に認めれば、キリストにある解決を受け入れますよ。」と答えると、あの方はちょっと驚いた調子で「死を恐れていませんか」と聞きました。恐れる必要のない根拠を時間切れで十分説明出来ませんでしたが、それは簡単に言えば、主イエス様の十字架と復活の出来事の故に義と認められた事実にあります。

 6月の終わりの神戸ルーテル神学校の卒業式の際に、卒業生の豊島さんは涙を流しながら、ルター主義の義と認められる教えで得た恵みを証した事は深く印象に残りました。神戸ルーテル聖書学院の授業の時や春の修養会の時に、この素晴らしい事実を次のように説明いたしました:

 「義と認められる」のは法廷用語です。罪を犯した人を赦す事が出来ますが、無実の人を赦す事が出来ません。義と認められる事は無罪宣言です。ですから、神様が人を義と認められるのは、その人が一生に一度も罪を犯した事のない人間として受け入れ、扱って下さる事を意味します。これは人間の経験ではなく、神様が下さる判決で、その時から人間は神様の御前で罪のない者として、ずっと見なされている立場に置かれます。

 たとえで言えば、神様は義と認められた人を天国行き大きな船の中に置かれて、天国に着くのはその人の努力や頑張りには関係なく、船次第です。船の中で本人が時には嬉しくて、時には悲しくて、時には安心して、時には恐れを感じますが、船そのものは確実に永遠のみ国の港まで彼を運んでくれます。船の大きな客室の中に彼は足を滑らして、こける事もあれば、又立ち上がる事もあります。しかし、そんな事で船から落ちる事はありません。義と認められるのは本人の状態よりも、彼が置かれた、安心できる場です。

  どうして正しいお方でおられる神様は実際に罪だらけの人間を義と認めることが出来ますか。どうして罪ある人間を罪のない者と認める事が出来ますか。それは、キリストの贖いによる「幸せの交換」です。人間の実際の罪をイエス様の実際の十字架の苦しみで罰して、代価を支払った出来事の故に、義と認められることが初めて公正さを失わないままで可能です。人間の罪はイエス様に認められて、罰せられました。イエス様の義は人間に認められて、実際の天国の喜びで報いられます。イエス様の完全な正しい生涯が信じる人のものとして認められて、罪人の堕落した生涯がイエス様に認められて、そしてその認められた通りに実際に扱われます。

 義と認められる事は法的な立場の変化です。神様の天国の法廷で下される裁きです。しかし、それから、生き方の変化も可能になります。アメリカの南北戦争の課題は黒人奴隷の解放でした。米国国会の一回の宣言ですべての奴隷が自由人と認められました。その法的な決定の裏づけは北側の軍隊の勝利でした。黒人を奴隷にする敵が力を失いました。自由宣言を受けて、黒人が自由な生き方を始める事が出来ました。イエス様が人間を罪の奴隷にした罪や悪魔や死に十字架の上と復活で打ち勝って、その勝利によって、罪人を自由な、義と認められた者として宣言なさいました。

 南北戦争の後で多くの以前の奴隷は自由人でありながらも、依然として奴隷であるかのような生き方を続けました。それは、自分の置かれた新しい場を実際の行き方に繋げる事が出来なかったからです。多くのクリスチャンもその自由な場を十分理解できないで、罪の奴隷であるかのように悩んでいます。義と認められたクリスチャンが実際の生活の中に多くの罪を依然として犯してしまうから、自分の自由な立場を見失うがちです。しかし、クリスチャンの生き方の変化や罪との戦いの中にどの位成功するかによって天のみ国に行かれる訳ではありません。行き方の中に現れて来る実際的な正しさ、義は、義と認められる理由ではありません。逆に義と認められた、新しい立場に活かされている結果です。クリスチャンは聖めで救いを得る訳ではありません。義と認められて、救われたからきよめ、すなわち清い新しい生き方を求めます。きよめは決して地上で完全なものにはありませんが、義と認められたから、初めから神様の御前で天国行き人間として認められています。

 主イエス・キリスト様を信じる瞬間に義と認められます。そしてその結果罪が赦されます。この順番はとても大切です。多くの人は自分の罪を悔い改めて、イエス様から罪の赦しを頂いて、そして後で自分が義と認められた事を知りますが、実際に順番は逆です。義とみとめられたから罪が赦されました。クリスチャンは繰り返して罪の赦しを求めて、繰り返して赦された経験をしますが、義とみとめられる事はその赦しの連続の理由です。義と認められる事は一回限りで十分です。天のみ国までそのまま有効です。しかし、罪の赦しは毎日繰り返さなければならないものです。救いの確信は義と認められた事実に基づきます。

 日本の文化は実感を強調する傾向があります。しかし、実際に人間の気持ちや感情や実感は非常にあやふやなものです。よい日には救いの確信が沸いて来て、悪い日には絶望的な気持ちになったりします。聖書は人間の決定や感情を頼りにしません。状況に寄らない、変わらない神様のみ言葉の約束は義とみとめられて、救われた事の十分な証拠です。

 もし義と認められてすでに天国へ行ける資格が与えられているなら、どうして罪を繰り返して悔い改めて、赦しを求めなければならないのでしょうか。それは、罪の赦しの本質は神様との関係回復にあるからです。罪を犯すたびに、救いを持っているクリスチャンも、喜びや平安を失います。罪を悔い改めないままではクリスチャンとしての力が沸いてきません。罪を犯すたびごとにイエス様の十字架の下で神様の新しい愛と交わりを味わって、新しい恵みの力で前進する事が出来ます。この過程の中でクリスチャンは神様の愛の大きさ、広さ、深さをもっと深く知って、主イエス様の命が聖霊によって益々彼のうちに働いて、変化をさせます。この過程はきよめであり、その最後は天のみ国でイエス様の復活の体と同じ姿で主を賛美する事です。天国に着いたら、義と認められた場は、完全な義の姿になります。

聖書学院

 「新米」の聖書学院教師が、58期生の2月末の卒業式で、「玄米」の教師になりました。一年目は小教理を担当していましたが、4月から新約聖書入門を受け持つ事になりました。58期生達は神様に用いて欲しいと言う気持ちで一杯でそれぞれの道に旅立ちました。59期生達には音楽の賜物が多くて、賛美で溢れた第一学期でした。

 58期生で、韓国のハレルヤ教会から派遣された姜根培先生ご夫妻が宣教師ビザを得て、学院のスタッフと西日本福音ルーテル教会で宣教師として働くようになって、聖書学院にアフタースクールに力を入れるようになりました。誰にでも参加できる教会生活で役に立つコンピューターの使い方、英語、フィンランド語とハングルのバイブルクラスが始まっています。

 秋から一週間のお試しコース、一ヶ月のコース、1年コースに学生を募集中です。聴講生としても多くのクリスチャンに参加して頂きたいのです。
 学院デーや一般の礼拝にも説教者として招かれて、素敵な交わりに預かった事を心から感謝致します。

青谷教会

 青谷村では今年に大きな変化が起こっています。去年から始まった青谷教会の新会堂の建築がだんだん進んで、もう上棟式でその大きさを見せています。完成は12月に予定されています。新しい会堂が完成されてからの伝道計画も進んでいます。家内は今年から料理教室と言う形で青谷教会の伝道に協力しています。

HAT神戸の開拓

 フィンランドルーテル宣教会は4月の初めにHAT神戸で新しい開拓伝道を始める決定をしました。西日本福音ルーテル教会の常議員会もそれを6月に認めました。その具体的な準備を今進めている所です。これを書く段階でまだ集会を開く事の出来る場所が見付かっていませんが、10年前に建て始められたHAT神戸の多くの復興住宅や分譲マンションに住んでいる方々に福音を伝えたい気持ちで一杯です。六甲愛ランドキリスト教会の吉田ご夫妻にも主がHAT神戸に対する重荷を与えて下さって、近隣の諸教会の協力関係の中にこの開拓を始めたいのですが、主の導きをお祈りして頂いたら幸いです。

MGTH

 6月の初めの2週間半にフィンランドからMikko Goes To HeavenゴスペルバンドとHARELの2008年コンサートツアーが行われました。バンドのメンバーが厳しいスケジュールにも関わらず、ベストを尽くしたと感じましたし、音楽も、踊りも、以前のツアーよりアップして来たと思います。又あちらこちらで、以前のツアーの恵みの証も聞かれた事でバンドのメンバーがとても喜んでフィンランドに帰りました。



それぞれの教会や学校や大学の関係者の皆様が諸コンサートの準備に力を入れて、又お祈りを持って備えて下さった事も強く感じました。コンサートの時のアンケートを読んでみると、20のコンサートに集まって来た約1400人の方々は大変好意的な評価をして下さって喜んでおります。コンサートの他に諸学校や大学で約600人の生徒との関わりもバンドのメンバーにとってよい思い出になったようです。

 音楽伝道の大切さを改めて実感したツアーでした。

 何時もお祈りの中に覚えて頂いて心から感謝致します。

暑い中に主の豊かな御祝福を皆様の上に心からお祈り致します。

J. & L. ピヒカラ