女性牧師問題について



 女性牧師問題は教会管理における大きな問題と同時に世界的に広い範囲で論議を起こした神学的な難問である以上、慎重に扱わなければならない問題に間違いありません。しかし、ある意味では今は私たちはとても幸いな立場にあります。それは、この問題は多くのルーテル教会で以前扱われて、資料がたくさんあって、又40年以上前に女性牧師制度を認めた諸教会の実践的な経験も重なって参りましたからです。実際に女性牧師制度はどのように働いてきたか、又どのような結果をもたらしてきたか、かなり見えてきたからです。

1.方法論

 女性牧師問題の解決に聖書から聖霊様の導きを求めながら、その以前に反対の立場と賛成の立場を決めるのは、おかしいやり方と思うしかありません。それは、はたして神様の御心を探る道でしょうか。それよりも、白紙の所から本当の問題は何であるか先ず見て、それを互いに聖書で照らし合わせて、主の導きを求めて結論に至るのは道でしょう。そして、もしかしたらその結論は、女性牧師制度でもなく、男性牧師制度でもない、全く別の道かもしれません。初代教会が有名な異邦人クリスチャンの扱いにおける問題で聖霊によって一致を得る事が出来ました。分裂のままの決定をする必要はないと私は確信しております。ですから、先ず福音理解の一致から進んで、教会の中のそれぞれの賜物の一致を生かす務めの理解に至る道がないのではないでしょうか。

2.牧師とは何だろうかという問題

 この問題の論議では一番関心の問題は果たして牧師とは何だろうかと言う素朴な疑問です。教会の務めは日本のような小さい教会の多い状況で非常に狭く理解されてきたような気がします。一つの教会に一人の牧師がいる精精の状況の中で、ほぼ牧師と信徒と言うパターンに固まってきました。それは又牧師中心主義的な文化的なパターンに支えられる構成でもありますが、聖書の中に教会の中の務めは多様化して、色々の務めがあって、それは互いに補い合って、教会の形成と成長に貢献して来ました。この聖書的な賜物と務めの豊かさに教会の牧師の働きを照らし合わせる必要があります。果たして、私たちの教会の長老と牧師は聖書の意味で長老であり、監督であるのでしょうか。この基本的な牧師の務めの定義がされていないと、女性牧師制度についての論議は意味がありません。

 ルーテル教会は信徒主義の流れを受けついで、ルターの聖書的な万人祭司論を強調して参りました。しかし、万人祭司と牧師との関係はどうなっているべきでしょうか。万人祭司として男性も女性も随分広い範囲で教会形成と伝道に貢献する事が出来ます。万人祭司として、神様は多くの違う賜物を持っている女性を用いて来られたし、今も用いて下さいます。しかし、万人祭司論議と牧会者の務めを混同したら、結果として、教会のすべての牧師は万人祭司にすぎません。そして、もし牧師職は月給を受ける専門的に教会の為に働く万人祭司と定義したら、当然女性牧師制度に何の差支えがありません。しかし、そう言う定義で聖書的な牧会者の務めは教会からなくなります。ですから、先ず牧師は何であるかと言う基本的な、信徒にも分かるような論議をしてから、女性牧師問題に戻るべきではないでしょうか。

3.聖書解釈の問題

 上記の問題の以前にもう一つ非常に深刻な問題があります。その問題に真剣に取り組まない限り、教会の前途がとても暗いと思います。それは、反対と賛成の立場をとった人々の基本的に違う聖書理解の問題です。片方では聖書の全体的な啓示に合わせて、調和を保ちながら、それぞれの具体的な箇所の意味を理解しようとする解釈学的なアプローチです。もう一つは上辺から見たら非常に似ていますが、本質的に正反対の事をしようとしています。すなわち聖書の全体的な「教えを」決めておいて、そして、その「教えに」合わない箇所を無効にする釈義学的なアプローチです。パウロが牧会者の務めに着く人の資格に関する箇所が明確と認めながらも、聖書全体の教えから論じて、パウロの教えが普遍的な教えではなく、特別なケースで、文化的な箇所であって、もう私たちと関係がないと言う結論に我らを導きます。その為に聖書のテキストにない、文化的な特別ケースを先ず作って論議が進められますが、このような聖書解釈は危険で、客観的な神様の言葉よりも主体的な、自分勝手な解釈に道を開く方法論です。

 同じ方法論のもう少し極端な例を挙げましょう。関係がないように見えるかもしれませんが、最近実際にフィンランドであるルーテル教会のビショップが論議した例です。フィンランドの国会は同性愛者の結婚に当たる登録を一年前に認めました。こんどこのビショップは同性愛者の組を教会で祝福する(結婚式に相当する)式を提案しました。提案理由ではこう説明しました:「聖書は確かに同性愛を罪と非難しますが、それは現代の同性愛者と関係がありません。なぜなら、パウロの言っている同性愛者は偶像の神殿で行われたものであって、現代の清い愛情を持つ純粋な同性愛者と全く違うからです。」残念ながら女性牧師制度に賛成の立場の先生方の論議は本質的に同じやり方でした。しかし、そのような道でとうとう私たちは聖書そのものを失う非常に大きな危険性があります。確かに聖書の中に文化的な要素がありますが、その時に聖書自身がそれを明確にします。例えば女性の従順の印しとして、頭をかぶる事はそうです。パウロがそこに女性牧師制度を論議した訳ではなかったが、すべての女性が夫に対する従順を論議しました。その従順の印しはパウロ自身が言ったとおりに教会の習慣であったが、それで別の習慣で同じ従順を現す事が可能と示唆すると思いますが、従順そのものは神様の御心に変わりがないと思います。聖書が文化的と指摘した事と私たちが勝手に文化的と主張するには夜と昼の差があります。

 教会の中の釈義学的な方針において先ず一致を求めるべきではないでしょうか。これは当然神学校に対するチャレンジでもありますが、教会としてもこの基本的なところに戻って、今課題の女性牧師問題をやり直すべきではないでしょうか。

4.本質的な問題

 女性牧師問題が課題になった背後には多くの教会における具体的な問題があります。それは言うまでもなく、神学を卒業した女性の明確的な位置が十分定義されていない事と女性の働き人に対する評価とアイデンティティーの問題です。女性リーダーの立場が定義されていないし、その働きが十分認められていないと言う不満です。この問題を早急に解決しなければならないと思っております。しかし、その解決は果たして女性牧師制度を導入事で解決出来るとは思いません。牧師の務めに任命するのは人の功績と賜物を認める褒美のようなものではありません。聖書によるとよい奉仕をする人々は教会の中で認められます。たとえば、現在神学校を卒業して働いている女性伝道者の皆様はとても素晴らしくて、大切な奉仕を行っています。しかし、自分のアイデンティティーをその務めに結びつくのは危ないと思います。すべてのクリスチャンに認められるのはとても大切ですが、聖書を読んで見ると、特に牧会者の務めに当たる人々は多くの非難や厳しい風当たりに曝されます。又クリスチャンにも認められない戦いが多いです。ですから、先ず神様に認められる事を求めなければならないのはこの問題の本質的な解決です。

 しかし、それと同時に神学を卒業した女性の動労者に明確な働きの範囲と働きの中身を決めなければならないのは聖書の多様な奉仕の中にすべき事です。その為に特別な務めを定義すべきです。その中身は教会の教育、カウンセリング、ディアコニーなどを含めるべきでしょう。(洗礼を授ける、聖餐を執行するなどの権利は言うまでもありません。)名称は例えば「神伝師」か「牧教師」か「神教師」にしたらどうでしょうか。

5.コメント

1.女性牧師制度のある教会での影響

今まで女性牧師制度を導入した諸教団と伝統的な立場の諸教団を紹介すると、導入した教団はどちらかと言う自由神学とリベラルな聖書理解をも導入した教団であって、反対派はどちらかと言うと聖書信仰を保とうとする教団です。女性牧師制度の前提には社会の中の変化と同時に聖書に対する姿勢の変化もある事を忘れてはいけないと思います。

 10数年前に女性牧師制度を導入した教団の今の実態を見る必要があります。反対派が時間と共に姿を消すどころか、反対派が強くなった傾向が今見られます。その実例をフィンランドとスウェーデンから見ましょう:
 フィンランド福音ルーテル教会で女性牧師制度が認められた1986年の決定の前に38年の論議が続きました。しかし一旦決定されたら、この問題が解決されたと言う訳ではありません。2002年、決定の18年後特にこの問題で教会がもめています。事実今のペースで進めば、教会が分裂しそうな心配です。いわゆるリバイバル運動側はそろって未だに反対の立場を守っています。しかも、神学部を卒業した人々の中に反対派が減るどころか増える傾向にあります。
 フィンランドの教会はこの決定がされた段階で両側が仲良く働きを続けるために、反対派の教職者にも働く場を保つ法的に執行力のない約束をしましたが、数年前からこの約束は守れなくなってきました。結果として、女性牧師制度を認めない人をもう牧師として雇わない現実になりました。結果として、反対派の人々にリバイバル系のミッションのような組織に働く事しか残らない傾向です。
 女性牧師制度が導入する時には、女性パワーで教会が活気を取り戻すような期待がありましたが、実際にこの18年の間に礼拝出席が3分の1ぐらい減ってきました。

 スウェーデンの決定は戦後間もなくで、国教会で国会が女性牧師制度を全く男女平等論として、何の神学的な論議をせず認められました。スウェーデンはもう十年前から反対派の人に牧師按手を絶対に与えない決定すみです。しかし、その結果2003年にミッションプロビンスと言う組織がルーテル教会内で生まれて、年内に2、3人のビショップを任命して、教会が認めない反対派の神学を卒業した男性に牧師按手を授けることになりました。

 これらの実例から見る通りに、女性牧師制度が導入する事になったら、次の二つの問題について明確な答えを出さなければなりません:

 a) 女性牧師を認めない神学卒業生に按手をあたえるかどうかの問題です。又、もう既に牧師として任命されたけれども、女性牧師を認めないで、協力もしない牧師たちは教会内で働き続ける事が許されますか。

 b) 女性牧師制度が聖書的でない事を反対の立場の教職者が教え続ける事が出来るかどうかの問題です。言い換えれば、女性牧師制度を教会の憲法と規則に入れることによって、教理(dogma)と言う教職者を縛る内容にするかどうかの問題です。(スウェーデンのように)。

2.賛成派の主張に対するコメント

 a) 賛成派の割礼と洗礼に関する論議はこの女性牧師問題とどう関わるのか、理解に苦しみます。救いと価値において全く同じ男性と女性がどうして、秩序と使命において違うのは、どうしてアイデンティティー問題になすのでしょうか。イエス様は価値と神性において父なる神様と全く同じでありながら、すべての事において父なる神様に従ったでしょう。従う事は平等問題と全く関係のない証拠でしょう。「みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。」(1コリント12:29)ワンパターンの考え方から、もっと広い、多様な務めの理解に進むべき事を感じます。

 b)ローマ16:7のユニアス論議がなかなか姿を消さないようですが、一番古くて、一番多い写本ではこの名前は明確に男性の名前で、それを女性牧師賛成派が繰り返して引用するのは、おかしいぐらいです。

 c)聖書信仰を守ろうとする先生はパウロのIテモテの手紙の監督の資格などに関する箇所で一番苦労します。なぜかと言うとパウロの定義が余りにも明確です。「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり」(3:2)これが性別と関係なくただ道徳的に正しい生活をする意味で説明しようとしますが、明確に両方の意味が含まれる。
 リベラル派の神学者にとってテモテの手紙はもっと扱いやすいです。彼らの代表者の一人、フィンランド福音ルーテル教会のビショップは次の通りに言いました:「テモテへの手紙はパウロの書いたものではなく、神様の言葉として信じません。又意識的にそれに従いません」と。彼にとってテモテへの手紙の意味が何であるかには何の問題もないと認めます。ただし、それに従わないし、又従う必要はないと公に教えています。

 しかし、女性牧師推進派は自由神学者に限られる訳ではありません。ただし、自由主義神学者が問題に関係する聖書の箇所の理解そのものが問題ではないと正直に認める事に耳を傾ける必要があります。無理な解釈をしようとしたら、いくらでも出来ますが、聖書そのものの意味は明確です。

 ですから、聖書信仰の立場で立っている推進派は大体フィンランド福音ルーテル教会の決定の時にとられた(解釈論的に考えると無理な)態度に回りました。すなわち、聖書は牧会者の務めをちゃんと定義しますが、しかし、その具体的な内容は時代によって変ります。だから、男性が牧会者の務めに定められたのは文化的な問題で、時代によって変えてもよい事です。この主張はいくつか聖書が明確にそう示す事柄に対して当然妥当です。しかし、牧会者の務めはそういう問題だと明確に認められる聖書の箇所がないのは問題です。もし私たちは勝手にそう決めるのなら、やはり線を引く事はもはや聖書ではなく、私たち自身です。そして、上記の同性愛論議のようにはっきりした線はほぼ完全になくなります。

6.一人フィンランド人の宣教師としての個人的な見解

 牧会者の務めの問題ですが、私は女性牧師制度に対して反対の立場です。女性牧師制度に反対でありながら、女性反対ではなく、又女性の教会で凄い大切な働きをしている事を大いに認めて、又その働きに相応しい場を設けなければならないと心から賛成しています。信徒主義の血もけっこう私のうちに流れていますから、どちらかというと万人祭司論を中心として考えてきました。又フィンランドの教会で神様に用いられている女性牧師をかなり知っています。フィンランド教会で多くの自由神学の牧師と全く信仰を持たない牧師もいるから、それらの人々は確か按手を受けていますが、到底牧師として認める事が出来ない現実があります。どちらかというと女性牧師の中に聖書信仰に立っている人が多かったと思います。残念ながら今は女性牧師の多くも自由神学の方に流されているようです。しかし、神様に用いられる理由は彼女たちが女性牧師であるよりも神様に認められている万人祭司だからです。しかしながら、牧会者の務めは万人祭司と別のものだと私も認めます。

 私の聖書理解で聖餐式や洗礼式や結婚式や葬儀は全部、万人祭司の働きの方に属する課題です。牧師の使命は福音宣教と言ったら、それも当然万人祭司の使命でもあります。牧師は管理的な指導者ですか。場合によって、信徒たちがそれらの事を牧師よりもうんとよく出来ると思います。牧師はカウンセラーですか。当然信徒のカウンセラーが一杯います。

 当然牧師の仕事の中にこれらの色々の働きもありますが、しかし、そのために牧師になる必要はありません。なら、牧師は一体何でしょうか。牧師の本質的な使命は神様のみ言葉が教会の中に守られるかどうかと言う責任のある働きだと思います。又、聖礼典が聖書的に行われるかどうかを監督する使命です。すなわち異端が入ったり、分裂が起こったり、あらゆる攻撃が教会を襲ったりする時に牧師は命をかけて群れを守る使命があります。そして、聖書がこの使命にそれに相応しい賜物を持つ男性を定められた理由がその辺にあると思います。

 最後に言いたい事があります。それは、私は多くの女性伝道師をとても優れた賜物を持つ神様から使命を受けた、又神様に用いられた同労者として認めます。たとい女性牧師になったとしても、神様はきっと彼女らの素晴らしい賜物を用いると大いに期待します。それは神様が彼女らに万人祭司として与えて下さった召しと賜物を取り除く事がないからです。ただし、牧師按手を受けるだけで彼女らは聖書的な意味で牧師になるとは思いません。

J.ピヒカラ