結婚に関する主な聖書の教えとその私的解釈

結婚式とは
 御承知のように、聖書の中に結婚そのものに対する教えがあっても、結婚式についてあまりたくさんあるとは言えません。結婚式そのものの存在は聖書にも出て来ますし、結婚式からの譬え話も幾つかはあります。ですから、結婚式の定義を先ず考えなければなりません。又そのいくつかの役割も考えなければなりません。

日本の結婚式の歴史
 面白い事には日本の社会には結婚式が始まったのはわずか130年前のことであって、そしてその第一号はキリスト教式であったそうです。キリスト教式が余りにも早い勢いで広がりを見せた結果、対抗措置として神道式の結婚式も作られたそうです。ですから、明治維新以前は嫁入りと披露宴があったけれども結婚式の必要性を誰も感じなかったのです。ですから、結婚式は日本文化の中に、どちらかと言うと、一種の綺麗な飾りのようなものです。結婚式に出席しなくても、披露宴だけに出席する背後にも何かこの事と関連する物が感じます。(ヨーロッパでは考えられない事です。逆はよくあります。式だけに出席して、披露宴に出席しない場合が多いかと思います。)

 法律上は結婚の始まる時も式と関係がありません。籍を入れる時から始まります。この関係の薄さは特に結婚して何十年も後行われる妙な結婚式習慣として現れます。何らかの理由で結婚の始めに式が出来なかった心残りから出る週間でしょう。(これもヨーロッパでは考えられない事です。)

 多くのヨーロッパの国では結婚式は法律上も結婚の始まりになります。(フィンランドもそうです。もし結婚が裁判所で既に成立したとしたなら、結婚式と言うより結婚を祝福式が教会でも行なわれますが、結婚式と多少違う性質を持っています。)

キリスト教式
 それでは本来キリスト教結婚式とは一体何でしょうか。それは聖書的な基準で図った結婚が始まる式典で、その結婚を神様の前に成立させて、神様の祝福を祈って、親から離れた、自立した夫婦が誕生する公の区切りです。(たとい結婚の性生活が成立しなくても、結婚そのものは式からはじまります。)ですから、本当の意味でキリスト教的な結婚式の前提は始まろうとする結婚は聖書的な基準を満たすかどうかです。そうでないいわゆるキリスト教式が一般社会でいくら行なわれても、キリストの教会が聖書の基準を無視して、一般社会の基準で結婚式をやるようになったら、結果として、教会そのものがキリストから離れるだけです。そういうやり方で伝道のチャンスを作るより教会が駄目になる恐れが十分あります。

結婚式の基準
 聖書的な基準と一般社会の法律的な基準が矛盾するのは当然でしょう。だからといって、キリスト者に対して聖書を基準として、ノンクリスチャンに社会の基準で結婚式をやったらどうかと言う事は教会にとって出来るでしょうか。もし私たちが教会の結婚式が本物のキリスト教式だと主張するなら、聖書の基準でやらなければならないと思います。この前提を捨てたら、次の聖書の学びは意味がありません。

霊的な基準
 聖書の結婚に対する基準はそんなら一体何でしょうか。幾つかのレベルで考えられます。

 先ず霊的なレベルです。果たしてキリスト教式はキリストを知らない人の場合可能かと言うレベルです。(結婚そのものは神様の創造による定めですから、罪堕落の後でも制度は成り立っています。ですから聖書はノンクリスチャンの結婚も結婚として認めます。しかし、キリスト教的な結婚ではないのです。すなわち聖霊による関わりが夫婦の間に存在しません。ですから、このレベルの基準を重視して来た教会で未だにキリスト者同士以外の結婚式が行なわれません。(ただし、洗礼を受けても、本当の信仰を持っていない、いわゆる名目上のクリスチャンがいますから、クリスチャン同士であっても、霊的な基準を満たさない結婚は一杯あります。この基準が適用しにくいから、洗礼だけを条件にする教会もあれば、この基準を事実上放棄する教会が多いかと思います。

道徳的な基準
 二番目のレベルは道徳的なレベルです。たとい霊的に生きているクリスチャンでもある道徳的な基準を満たさないと、キリスト教的な結婚として成り立ちません。この基準は結婚前の性生活、結婚後の姦淫などのような事と大いに関係します。結婚前と結婚後の性生活は余りにもプライバシーに関わる問題で、一般社会の人々のそう言う行為を教会がどのように把握出来るかは、言うまでも問題です。小さくて親しい教会の交わりの中で道徳的なレベルもかなり分かりますが、それにも限界があります。ですから、このレベルのチェックも放棄する教会が増えて来ました。

社会的な基準
 三番目のレベルは社会的なレベルです。それは法律の基準の他に、それぞれの文化の中で法律と関係なくても認められる事柄と認められていない事柄を含めます。法律的な基準が満たされるかどうかと言うチェックさえ場合によって難しいのですが、霊的な基準と道徳的な基準よりはるかに調べやすいから、多くの教会が結局法律の基準で結婚式をやっています。しかし、果たして霊的な基準と道徳的な基準を無視する結婚式は本当の意味でキリスト教式でしょうか。法律の基準が明確に聖書と矛盾する場合に特に問題が大きいのです。(離婚後の再婚だけではなく、同姓愛者の結婚式を行なう教会もあります。幾つかの国では同姓愛者の結婚はもう法律上認められています。フィンランドでもそれは一年前に可能になりました。教会の中に彼らと彼女らのためのキリスト教式をやるべき動きも強まっています。)

罪と赦し
 個人的に私はこの三つの基準全部を視野に入れて、初めてキリスト教的な式が成り立つと思います。しかしこの問題を複雑にするのは人間の罪の問題です。クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、すべての人間は罪人です。キリスト者の特徴は彼の罪がイエス様の十字架の上で購われて、彼は義と認められて、いつも罪の赦しに悔い改めて戻る事が出来ます。神様の前の赦しは完全であり、しかし罪の結果が人生に残る場合もあります。例えば人を殺した罪は神様に赦されても、社会的な処罰を受けなければならないし、又赦しによって殺された人はもとの状態に戻る事はありません。(天のみ国で新しい復活の身体に預かる事が将来にあったとしても。)同様に結婚を破った事で、それをイエス様から赦していただいても、一生に残る結果と痛みが残る場合が大いにあります。又神様の赦しは過去の罪を取り除きながらも、同じ罪の繰り返しを容認する意味ではなく、かえって、赦しによってその罪に抵抗する力が与えられます。姦淫の罪で捕まえられた女性にイエス様は赦しを与えて下さっただけではなく「わたしもあなたを罪に定めない。」と。その上に新しい生き方への招きと力も与えて下さいました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。(ヨハネ8:11)

前置きが長くなりましたが、今度聖書の幾つかの箇所を見てみたいのです。

新約聖書


マタイ5:31〜32
31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

コメント:
 この箇所は参上の垂訓からの引用です。その中にイエス様は当時のユダヤ人の旧約聖書の解釈論に対して神様の律法の本当の意味とその厳しさを伝えておられます。モーセの律法は社会の法律として離婚を認めます。それをイエス様は別のところでこう言われます。(マタイ19:7)「あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」

 イエス様はモーセよりもはるかに厳しい基準を設けます。離婚は相手に裏切られた場合は罪にはあたりませんが、見捨てる方も、見捨てられた方も、再婚したら、姦淫の罪を犯します。

 イエス様が律法をこの様に厳しくされた志士はすべての人を罪人にするためです。そして、一旦律法によって罪が認められて、悔い改めたら、キリストの義を頂いたら、人間はもう律法のもとにはありません。(ここまでは確かにその通りですが、続きは問題です。)「律法は私たちをキリストの救いに導いた以上は最早イエス様の山上の垂訓もキリスト者と関係がない」と主張する人がいて、そして罪を罪として認めながら、赦しを願うなら、このキリスト様の教えを守る必要はありません。すなわち、再婚における姦淫は確かに罪ですが、前もってそれも赦されると分かっていますから、姦淫を犯しても構いません。こんないわゆるアンティノミニズム(律法を捨てる、間違った教え)に対してパウロは何を言ったでしょうか。

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」(ローマ6:1〜2)

 イエス様の山上の垂訓は確かに律法ですが、それと同時に神様の愛の中身でもあります。聖霊様が人間の心に入ると丁度この愛を与えて下さいます。ですから、クリスチャンは最早自分の肉の欲望ではなく、聖霊によって生きるように恵みによってされます。ですからクリスチャンはこのイエス様のみことばを律法ではなく、聖霊の愛によって守ります。姦淫を容認しません。

 確かにキリスト者の肉の中に依然として情欲、姦淫を犯したい気持ち、汚い思いがたくさんあります。それを聖霊様は律法を通して示しながら、クリスチャンは繰り返して罪の赦しを必要としますが、聖霊様は肉の行いを押さえて、殺します。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)

 もし、私たちは再婚の場合にキリスト教式を執り行うなら、私たちはイエス様が姦淫と言われた行為を祝福します。そして、罪を容認します。それは本人たちは何の罪意識がなくても、私たちイエス様のみことばを知っているクリスチャンにとって大きな罪としか私には考えられません。すなわち、イエス様が罪と言った行為を私たちが祝福して認めるなら、私たちはイエス様の上に自分を置いて、自分を偶像化します。

マタイ19:3〜12 (マルコ10:2〜12も殆ど同じテキストです)
3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
7 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
9 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
10 弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。
12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」

コメント:
 この箇所は旧約聖書の結婚の定めの言葉を引用しながら、結婚についてとても大切なイエス様の教えを含みます。結婚は両親を離れる面もあれば、又夫婦が一心同体になる精神的にも、肉体的にも一つになる面もありますが、結婚の最も大切な要素は「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と言う言葉で表されているように神様が結び合わせる事です。

 しかし、離婚に対してイエス様の教えは非常に厳しいものです。話の対象はパリサイ派の人々ですが、その教えを傍で聞いた弟子たちもびっくりしました。結婚はこれほど条件の厳しいものなら、「結婚しない方がましだ」と言う反応で彼らの心の動きが分かります。現代の私たちの反応もよく似たものでしょう。「多くの罪人を赦して、愛しておられるイエス様が結婚で失敗した人々を理解出来ない」と思うぐらい厳しいです。「イエス様の優しさと赦す心はこの会話で何処に消えたでしょうか。」

 しかし、ここで語っておられるイエス様はサマリアの井戸で5回も結婚と再婚を繰り返した女性を救って作りかえした同じイエス様です。もしかしたら、私たち人間を創って、結婚も定めて下さった、恵みに満ちたイエス様が私たちより、人間に何がよいかと分かったでしょうか。このイエス様の厳しさに私たちが従ったら、罪の世の中に、最高の道が開かれると思います。

 特に9節にはイエス様は「まことに、あなたがたに告げます」と言う強調の手段を使われます。離婚は裏切り行為で認められますが、その後の再婚は姦淫に当たります。イエス様はここで特に「だれでも」と言う言葉でこの事が普遍的な事実である事を明言なさいました。又残念ながら姦淫の罪が当時も現代も余りにも広がっていた事を別の所で嘆いておられた事はイエス様の心の動きを語っています:
「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコ8:38)
「しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ12:39)

 12節の言葉はこの文脈の中でどう理解すべきでしょうか。生まれ付きの独身者と神様の奉仕のために独身者になった事は分かりやすいのですが、「人から独身者にさせられた者もいます」とは何を指すでしょうか。これは離婚の結果で独身者になった人の事としか私には読めません。特にパウロが1コリント7:11で同じ事を教えるでしょう:

「もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。また夫は妻を離別してはいけません。」

この箇所のすぐ後にイエス様が子供たちを祝福した箇所が出ます:「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」

 イエス様が不貞以外の離婚を禁じたり、再婚を禁じたりする背後に子供たちに対する深い配慮もありました。離婚の犠牲者は大いに子供たちだからです。

 しかしそれだけではありません。再婚して、又離婚して、又再婚した人々のカウンセリングをする時に感じたことは、やはり始めての結婚がずっと尾を引いている事がよく分かります。結婚して、離婚して、独身者としての生活は難しい事ですが、イエス様はそれが未だ再婚よりましだとも知っておられました。イエス様は深い私たちに対する愛からこの厳しい教えを与えられました。

マルコ6:17〜18
17 実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、――ヘロデはこの女を妻としていた。――人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。
18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。

コメント:
 ヘロデ王がその兄弟ピリピのヘロデヤと言う妻を自分の妻にした過程は私の目から見ると離婚と再婚と言う過程で行なわれたと思います。ヘロデヤが王の妻になった事に対して何の抵抗もなかったようです。かえって、ヨハネが彼らの結婚を非難した事に対して凄く腹を立てて、とうとうヨハネを殺す事で成功した。

ルカ16:16〜18
16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。
17 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。
18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

コメント:
ルカが記録したイエス様の教えはマタイとマルコと同じ事を言っていますが、ここで大切なポイントは文脈です。神様の律法は変わらないものであると強調されます。結婚に関する時代の流れがどうであれ、神様の言葉は変らないのです。

ローマ7:2〜3
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

コメント:
パウロはイエス様の教えを文字通りに適用します。結婚は死ぬまで続く制度です。

1 コリント7:1〜16
1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。
6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。
7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。
10 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
11 ――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。――また夫は妻を離別してはいけません。
12 次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
13 また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。
14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。
15 しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。
16 なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

コメント:
 現代に似て、性的に乱れたコリントの町に住んでいたクリスチャンの間に結婚に関して重大な問題が発生して、教会の会委員を一時的に教会の交わりから追い出さなければならない手段までとらなければならないほどでした。パウロはこの箇所で結婚の諸問題について重大な教えを与えています。

 1〜2節で結婚が自由選択によるものです。独身者も結婚した人も神様の前に同じ価値のある存在です。

 3〜5節で結婚の性生活が互いの義務です。性生活は本来楽しくて嬉しいものですが、自己満足のためではなく、相手の必要を満たすために、自分が欲しくない時にも相手の必要を考えなければなりません。肉体的に同体である事は自分の身体に対して結婚相手が権利を持つと言う関係です。結婚は行動範囲を決める結び付きです。パウロはキリスト者にも誘惑がある事を認識して、結婚の中に互いのコミュニケーションと祈り合いの必要性を強調します。祈りの強調は結婚を霊的なレベルまで考えなければならないことを教えます。

 6〜9節でパウロはもう一度結婚が自由意志による事を強調します。7節で結婚が神様からの賜物だと言いながら、独身者としての生き方も神様の賜物です。しかし、独身者が神様の奉仕を結婚した人と違った形で出来ますが、性的な自制が必ずしも容易とは限りませんから、場合によって未婚の人とやもめの女の結婚が独身者としての奉仕より望ましいのです。

 10節でパウロはイエス様から直接頂いた教えを教会に伝えるだけです。(ここには明確に律法の役割に対する論議が当てはまらないのです。キリスト者の行き方を語るのですから。)不貞以外の離婚はキリスト者にとって禁止です。

 11節でパウロは現実問題にぶつかります。実際に社会の法律で認められている離婚が実際に起こります。(12節で夫婦の片方が救われてキリスト者になった場合に、ノンクリスチャンが離婚する場合があります。その結果としてクリスチャンが不貞以外の場合にも離婚に追い込まれる事がこの罪の世の中に起こります。)離婚がどんな理由で起こっても、パウロはキリスト者にその後の生き方として二つの可能性しか与えません。以前の配偶者と和解するか、結婚しないまま生活するかと言う事です。社会的な基準が何であれ、キリスト者にはこの二つしか残らないのです。

 12節の「これを言うのは主ではなく、私です」と言うパウロの表現はイエス様の教えと矛盾すると言う意味ではありません。ただ、イエス様の直接的な教えがないから、イエス様の一般的な教えを特別なケースに適応すると言う意味です。しかし、私たちにとって、これはパウロを通して与えられた神様の言葉です。

 12節〜16節では片方がキリスト者で、片方がノンクリスチャンとの結婚に関してイエス様の教えんが適用されます。キリスト者が結婚を大切にしなければならないのです。結婚相手が救われるように祈り求めて行きます。難しい結婚の場合も(不貞が起こらない限り)キリスト者が離婚を求めるべきではありません。子供達の救いもキリスト者が大切にしなければなりません。しかし、現実問題として結婚相手の救いはその相手の個人的な悔い改めにかかりますから、いくら正しくて、愛に満ちた結婚生活を送ったとしても、キリスト者は必ずしも相手を救いに導く事が出来るとは限りません。キリスト者でない方が社会の法律に基づいて離婚を求めるなら、キリスト者にそれが禁止であっても、相手の要求に応じる許可が与えられます。しかし、そのような場合にも11節の教えは変りません。その後の道は相手との和解か、結婚せずに生活することです。

 15節のパウロの「そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです」と言う教えをへんに解釈する人がたくさんいます。彼らは「信者である夫か妻が縛られることはない」と言うのは再婚してもいいと言う意味だと主張します。しかしこの文脈の中でそれは全く考えられない勝手な解釈に過ぎません。パウロは11節に明確に結婚しないでいるか、和解するかを言ったばかりなのに。「縛られていない」と言う言葉はキリスト者に対する不貞以外の禁止に縛られていないと言う意味は文脈で明確です。キリスト者が離婚を望まなくても、ノンクリスチャンの相手が離婚を要求するなら、責任がキリスト者の側にはないと言う意味です。

2コロンと6:14〜18
14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

コメント:
 この箇所は結婚と直接関係がないと思われますが、間接的に深い関係があります。キリスト者がノンクリスチャンと結婚すべきかどうかと言う問いがあります。男女のバランスがよくない日本の教会の問題だけではありません。多くの国の現状です。信仰を持たない人と結婚して、信仰から離れる例は多いです。逆に相手が救われる例もない訳でもありませんが、どちらかと言うと前者の方が多いと思います。
 この箇所から明確に言える事は、もしキリスト者がノンクリスチャンと結婚したら、その基本的な条件はキリスト者にその信仰生活や教会生活を認めなければならないだけではなく、結婚先の家で偶像礼拝に一切関わってはらないと言う環境じゃないと駄目です。そう言う条件が満たされても、そのような結婚の中に人間の最も深い、霊的な交わりが成り立たないのは事実です。

エペソ5:22〜33
22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

コメント:
 この箇所はキリスト教的な結婚生活の源を描写します。この箇所のポイントは結婚を通してキリスト様と教会の関係を説明する事ではありません。全く逆です。先にキリスト様とその教会の関係があって、そしてキリストにあって救われた二人が、キリストの愛から頂いてお互いに愛し合えるのです。ですから、これを見ても霊的なレベルを抜きにして、キリスト教的な結婚が成り立ちません。ノンクリスチャンにキリスト教的な結婚を要求するのは当然無理です。

 といっても、社会的なレベルの結婚も神様の創造の秩序によって結婚として成り立ちますが、それは果たしてキリスト教的な結婚でしょうか。社会的な結婚が両者の救いによってキリスト教的な結婚に変えられる事が可能ですが、信仰を持たない人々にいわゆる「キリスト教式」を執り行われることで、その結婚はキリスト教的な結婚になりません。キリスト教式は単なる芝居に過ぎない懸念がない訳でもありません。

 今行なわれている結婚式はキリスト教式よりも神様の創造の秩序の上で行われる結婚を教会で祝福する事に過ぎません。祝福を祈る事自体は悪い事ではありませんが、本当の意味の祝福を受けるために本人たちがキリストとの関係に帰らなければなりません。救われなければなりません。結婚カウンセリングなどで当然それなりの伝道も行われますが、式文の言葉遣いを変えない限り、今のやり方に疑問を感じない訳でもありません。

ヘブル13:4
4 結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。

旧約聖書

申命記24:1〜4
1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。
2 女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、
3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、
4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

コメント:
 社会の法律と言う役割を果たして来たモーセの律法は離婚を認めました。しかし、パリサイ派のこの箇所の解釈に大いに問題があったと思います。ですから、イエス様が教えた事はこの箇所の間違った解釈を訂正する意味もあったと思います。

 「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は」とモーセが言われたのは気にいらなかったら、どんな理由でも離婚しても構わないと言う意味ではありませんでした。神様のもともとの御心は「恥ずべき事」すなわちイエス様が「不貞」と定義した事意外で離婚してはなりません。

 しかし、現実に神様に従わない社会は色々の勝手な理由で離婚をします。又再婚はします。再婚の後又離婚して、初めての結婚相手と又再婚するのは、不貞に不貞を重なる事ですから、モーセの律法でも禁じられるものです。


ネヘミヤ13:23〜27
23 そのころまた、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人たちのいるのに気がついた。
24 彼らの子どもの半分はアシュドデのことばを話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤのことばがわからなかった。
25 そこで、私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせて言った。「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。
26 イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。
27 だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」

コメント:
この箇所はキリスト者がノンクリスチャンと結婚すべきかどうかと言う論議に旧約聖書の光を当てます。
聖書は明確に偶像礼拝を非常に重大な罪として指摘します。偶像礼拝の危険があった場合に最終的な選択は、神様を選ぶか、結婚を選ぶかと言う対立に発展しかねません。(本来神様と神様の与えて下さった結婚制度そのものは対立関係にはありません。)

イエス様は弟子の資格を厳しく言われました:
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26〜27)

マラカイ2:11〜17
11 ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。
12 どうか主が、このようなことをする者を、たといその者が万軍の主にささげ物をささげても、ひとり残らずヤコブの天幕から断ってくださるように。
13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。
14 「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
15 神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。
16 「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。
17 あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。」とあなたがたは言っているのだ。


最後に

 これからの結婚式のやり方を考える時に先ず聖書を基準とすべきです。霊的なレベルの諸問題、道徳的な諸問題、社会的な諸問題を全部聖書に照らし合わせて具体策を考えるべきです。聖書の明確な言葉を勝手な解釈で取り除く作業ほど教会のいのちにとって致命的なやり方はありません。