恵みの手段

1. 恵みの手段の定義:
  恵みの手段と言う言葉は聖書の中に出て来ませんから、色々の意味で使われてきました。広い意味なら聖書の中にイエス・キリスト様が定められた信仰生活を保つための具体的な手段は全部(み言葉、洗礼、聖餐、教会の交わり、祈り、礼拝など)を指す意味で使う場合があります。しかし、これらは基本的に二つの種類に分けられます:
a 神様の豊かな恵みの倉から、すなわち上から注がれる恵みの手段(み言葉、洗礼、聖餐)
b 空っぽの心と手を開いて上から与えられる恵みを受け入れようとする手段(祈り、礼拝、教会の交わり)
 ですから、ルターは恵みの手段と言う言葉の意味を前者の狭い意味に絞り込みました。
 恵みの手段は神様が主イエス・キリスト様の十字架と復活の恵みを私たちの人生に具体的に与えて、イエス様ご自身が定められたものです。

2.恵みの手段は三つです。
  
まず神様のみ言葉である聖書です。特に聖書が伝える福音の言葉です。(律法は私たちに恵みを伝えるわけではありません。しかし、律法は私たちに恵みの必要性をはっきりさせます。)そして二つの礼典、すなわち洗礼と聖餐です。

3.恵みの手段に関する対立や軽視の歴史:
 福音のみ言葉が恵みの手段と言う点ではすべてのキリスト教会がほぼ同じ理解をもっています。ただし、み言葉がどのぐらい中心的なものか、強調の違いがあります。
カトリックはみ言葉の唯一の解釈の権威が教会にあり、又教会の伝統や法王の発言をみ言葉と並んで考えて、聖書と矛盾する歴史が宗教改革の背後にあります。
 現代のカリスマ運動が基本的に聖書の権威とそれが恵みの手段である事を認めながらも、預言の賜物などを強調して、実際に聖書と並んで、場合によって聖書の上におく傾向が見られます。
 ルター派は教会歴史の中の多くの恵みを否定するわけでもなく、主体的な聖霊の働きによる体験も否定しませんが、その両方の上に明確に客観的なみ言葉を起きます。

4.聖礼典における対立:
  a カトリック
礼典は7つあって(洗礼、堅信、聖餐、結婚、聖職、ざんげ、りんじゅう臨終ぬりあぶら塗油)、礼典は行為として(ex opere operato)神様の恵みをもたらせます。(聖餐はキリストの十字架上の血を流さない繰り返し)。礼典は聖職に強く結びついています。
  b ルター派 
礼典は2つ(洗礼と聖餐)で、定めのみ言葉と外面的な印(水、パンとぶどう酒)が一つになったら、初めて礼典として成り立つ。キリスト御自身がその中におられます(real presence)。信仰によって恵みが与えられます、不信仰なら効き目がないわけではありません。裁きをもたらせます。礼典はその執行者(牧師、長老、または教会が任命して信徒)の信仰によるものではなく、礼典に預かろうとする人の信仰によって恵みが注がれます。
  c 改革派
唯一の恵みの手段はみ言葉です。聖礼典も守りますが、恵みをもたらせる手段ではなく、み言葉を信じた恵みの印に過ぎません。洗礼と聖餐をみ言葉に聞き従う事の外面的な証拠として行います。神様のみ業よりも人間の業として受け止めます。

 聖礼典の理解において教会歴史に激しい対立があったから、礼典を軽視する超教派運動も起きて、その影響は未だに強いのです。しかし主イエス様が私たちのためにお与えになった洗礼と聖餐は私たちに必要で、大きな恵みをもたらせます。

5.恵みに手段としての福音:
 「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 a  キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
 b  また、葬られたこと、
 c  また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
 d  また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」 (1コリント 15:1ー8)

 福音は主イエス・キリストの小ロバのようなものです。目で見いえる、耳で聞こえる福音のみ言葉の中に、それに乗ってイエス御自身が私たちの心の中に入ります。又福音の出来事(十字架、墓、復活)の恵みを心の中まで届いて下さいます。十字架による完全な罪の赦し、墓による肉(罪深い性質)の滅ぼし、復活による新しい永遠の命です。又福音のみ言葉を通して私たちは使徒たちがイエス様を見たように信仰の目で復活の主を仰ぎ見る事が出来ます。信仰はただ福音と言うロバに乗っておられるイエス様に心の門を開いて、受け入れる事に過ぎません。

6.恵みの手段の具体性
 恵みの手段には私たちの理性を超える奥義があります。しかし、み言葉と聖礼典を通して私たちはキリストの交わりを経験し、又何の体験がなくても救いの確かさの確認をします。

 恵みの手段の五感で受け止められる具体性を理解しない人が結構多いかと思います。しかし、霊でおられる神様は具体的で、物質的な人間をお作りになっただけではなく、その具体性を高く評価しておられます。御自身がイエス・キリスト様として人間になられて、私たちに魂の救いだけではなく、復活で体の救いまで備えて下さいました。聖礼典の具体性は私たちに必要なもので、その客観的な形は特に苦しみや戦いの時に大きな力と慰めになります。