私の生涯の証詞

岩 井 恭 三

 1.生い立ち

「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エペソ2:3)

 私は1901年1月9日岡山県真庭郡落合町で生まれました。両親は若い時からの信者で幸な信仰のふん囲気の中に育てられ、教会にも絶えず出入しておりました。然し、その信仰は純粋の福音ではなく、私の魂には満足が与えられず魂のほうこうを続けておりました。14才で幼年学校に入学、1922年21才で少尉に任官しました。爾来軍籍にある事約25年、1946年敗戦とともに中支より復員、軍籍を退いた次第です。

 2.救われる為の準備

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

 元来私の性質は我ままで、気が短かく、自分ではルーズなくせに人を責むる事は実に鋭く、毎日の勤務も不平不満に満ちたものでありました。1924年1月から東京の陸軍砲工学校(後の陸軍科学学校)に学び、ここでも学業はそっちのけで享楽を主とした学生生活を続けておりました。

 然し、父母の涙の祈りに応え給いし神の愛は、私の身の上に不思議な出来事となってあらわれて来ました。その一つは、柘植不知人先生によって救われた私の昔の悪友が無理矢理にその教会に私を導いた事です。その二は、神の不思議な摂理により高等科学生として1925年1月から引続き1年間砲工学校に在学する事になった事です。この学年末の休みに新年聖会に出席する事が出来、妙なる恩恵によって救われるようになったのです。

 3.救   い

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」 (マタイ9:2)

 右のようなわけで、1925年新年聖会に出席した私の心に神様は深い深い聖業をなし給い、その先に照らされて1月2日午後10時私は物心ついて以来良心に責められて居ったすべての出来事を神と祭司(藤村壮七先生)の前に悔い表して憐みを求め、十字架を仰いで罪赦され、全く肩の重荷を降して新しい人生の出発を致しました。そして、聖霊に導かるるまま悔改めの実を結ぶために一生懸命努めました。

 旧上官の或方には(私が心で審いて実に失礼をしておりました方)その非礼を示され長さ二間に及ぶ御詫びの手紙(私として今までの最長の手紙)を出してお詫びをしました。その他示さるるままお詫びの手紙を書くと共に、軍の許可なく勝手に結婚して居りました妻を離別して実家に帰し(神は憐みによって師団長をしてこの結婚に同意せしめ後改めて神の御前に結婚させてくださいました。)一歩一歩御光に従って歩むように変えられました。従来の雲霧は全く晴れて私にとっては紀元前紀元後というように素晴しい感謝と讃美にみちた生活が始まりました。

 4.神  癒

「あなたがたの神、主に仕えなければならない。そうすればわたしはあなたがたのパンと水を祝し、あなたがたのうちから病を除き去るであろう」出23:25)

 自堕落な生活、殊に客気にかられて暴飲暴食の結果患っておりました胃病、7年の間食べ物にも飲物にもきびしい制限を受けて困りぬいた胃病、或は入院し、或は医者を変え、或は方法をかえ手をつくしてもどうしても治らず、私の難病であったこの胃病は、救いと同時に全く癒されました。始めの中その事に気がつかないでいましたが、二週間後になって朝味噌汁を飲んでも胃痛がおきないので気がついてみると救われて以来すっかり癒されて居った事を悟り今更のように神を崇めた次第です。

 5.一円の旅費と信仰

「わたしの仕える万軍の主は生きておられます」(王下3:14)

 私は救われて以来喜びにみたされ、朝に晩に集会に出席して平安と力にみちた生活をさせていただきました。

 ある時の事、学校から船橋の海軍無線電信隊の見学に行く事になりました。ところが旅費の一円がありません。従来であれば友達からすぐに借金をするところですが、神様は「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」とお語りになって、借金に行く事をお許しになりません。

 丁度その時の礼拝に神はピリピ書4章6節「何事も思い煩ってはならない。ただ事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」とのお言葉で御旨を深く示され、この1円のために御言葉にかたく立ち切に祈り求めました。神は不思議な御手をもってまづ半分の50銭を与え、そして心から感謝して求めを神に告げる事を教え、引き続き残りの50銭をも与えて旅費を満たしてくださいました。この経験は私にとっては信仰の大躍進でありました。これはただ旅費が満たされたばかりでなく、同じくピリピ書の続き7節にある「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」との御言葉の如くすべての人の思にすぐる神の平安に守られる為の大きな出発点となりました。私の凡てを知り給う神、祈りをきいて答え給う活ける神が私の心の中にはっきりと姿を見せて下さいました。

 6.恩恵と多忙

「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」 (コロサイ1:29)

 私は救われると同時に一切の生活が神第一の生涯に変えられると共に、今まで嫌だった科学さえも好きになり、大感激でありました。

 朝5時半から早天がすむと自宅の玄関で聖書の包みと学校道具とを取り替えてすぐ登校、帰ると又夜の集会と、目のまわるような多忙で且めぐまれた生活をしました。

 1年間めぐみに満ちた機工学校高等科の学生生活を終り、香川県善通寺の工兵隊に帰って来ました。すぐに1月から発動機工教官、3月からは士官候補生教官を兼任、7月には召集兵教官をも兼任、更に8月には召集将校教官をも兼任、4人分の仕事を一度に命ぜられ殺人的な多忙さです。救われる前は何一つ仕事のなかった私(何を命ぜられても快よくしたことがなく、結局何も仕事を命ぜられなくなっていたわけです)は、この多忙さの中に、切り出された岩と堀り出された穴を思い見ながら喜びに満ちて働きに働きました。

 後でわかった事ですが、これは中隊長が私を試験していたのでした。2年前と全く変った私をためす為に、つぎつぎと任務を加え、私がいつ不平をうったえて来るかと見ていたのです。或日中隊長が私の部屋で私の旧新約聖書を見つけ、どの頁にもどの頁にも赤線が引いてあるのを見て、おどろいて、「岩井君、君の変った原因はこれか」と私に問いました。そこで私は救の証詞をしましたが、それ以来中隊長は私をまたなきもののように愛し、重んじてくれたのでした。

 7.めぐみの第一船橋時代

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)

 善通寺から船橋(実際は隣町の津田沼)の鉄道連隊に転任をおおせつかり1927年の新年聖会に引越して参りました。柘植先生最後の新年聖会(エホバの聖会といわれる)に出きせていただいた後、めぐみの船橋生活が始まりました。妹二人弟一人が兄さんの信仰が欲しいと飢渇いて参りました。当時の月給84円で、什一献金又軍隊に必要な金を差引きますと70円が一寸きれるという予算、その中で家賃が20円かかります。(身分不相応な家賃のように思われますが、家庭集会が出来るのが根本条件です)からこれを支払い信仰によって大奮斗いたしました。

 上の妹は内職をしましたが、下の妹は津田英語塾に、弟は東京の中学校に通学させました。予算はとても立ちません。ただ、お約束を握って前進するのみです。始めの中は神様と角力をとりました。すると、神様は不思議な手を差しのべて叱驚させてくださいました。

 親切なくばり物があったり、親戚からお金が来たりして奇しき神様の御手際のよい御業を拝しましたので、半年もたつと貧乏がほんとうに楽しくなって参りました。「神様今月も私の方は全部おしまいになりました。今度はあなたの番です。何を御馳走してくださいますか」とすっかりゆだね切ったお祈りができるようになりました。

 するとソーメンが一箱贈られてくる、おすしがくる、学生から為替がとどくといった具合。又結婚のお祝いが遅れたと3年も経ってから突然、丁度困っているところにお金を送ってくださる方があり、神様の御業を疑うことが出来ず、なくてならぬ物を必ず与え給う神への信頼は爾来全家の者のゆるがぬ信仰の基礎となった次第です。

 8.青島時代

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ロマ8:31)

 一年を経て済南事件が起り私は青島に派遣を命ぜられました。出征のため手当を与えられ、それで船橋聖会を開いていただくことができ、神は留守宅を霊的にめぐみ給うと共に私を不思議な聖手をもって青島の日本キリスト教会へと導き給いました。

 その教会の先生と共に祈らしていただいている間に、奥さんが加わり、子供さんと信者さんが加わり、約20人の早天集会が自然にできるようになりました。先生は私に話を頼まれました。私は話ができないと思いましたが、その時神様が生きておられるという証ならば出未ると大たんに証人にしていただきました。始めは柘植先生の御説教の受け売りをしていましたが、その記入のある聖書をある時神様がとり上げておしまいになりました。仕方がないので一生懸命に神様にお祈りをしました。

 然るに之は神様の御摂理で、聖霊をもって私を導き、私に自由を与えてくださいました。

 その教会は数年前借金をして、会堂を建てたのが、そのまま支払えないで残り、婦人会等バザーその他何とか働いてやっていましたが、事変の関係ですっかり駄目になっていましたので、私は「金を得るために働くよりも直接神にぶつかっていって神様に求めましょう。金も我がもの銀も我がものとおっしやる神は祈りを聞き給います」とすすめそれから真剣な祈会が聞かれたのでした。

 時を経て献金を集めてみますと、驚くぺし、ニケ年分の年賦に当る金を神は集め給うて、一同あきれて感謝いたしました。かくして神はいたるところで、栄光をあらわし給うのでした。

 9.憲兵隊に呼び出される

「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。……それだから、恐れることはない」 (マタイ10:29,31)

 1928年5月、済南事変のため、青島日本キリスト教会に導かれた私は、前述のように多忙をきわめた軍務のかたわら、毎日の早天祈祷会、日曜礼拝、夜の家庭集会、時には午後の婦人会等まで寛容な部隊長鴻沢又彦氏−当時少佐−の許可を得て、御用をさせていただいていますと、或日憲兵隊より呼び出しがあり、出向きますと、私に関する投書が数通来ており、軍服を着て伝道することの非をならし、殊に「自分の本職は神に使える事(伝道もこの中の重要なもの)軍務はいわば副業である」との説款中の言葉をとらえて憲兵に善処を促したものでした。

 憲兵隊の問いに対し、この投書のとおり説教せし旨を答えたので、同隊長は今後伝道をしないようにと要求した。そこで私は、信教の自由は即ち伝道の自由なるを説明し、断じてひかないので、憲兵は大いに立腹し、直ちに陸軍省に対し「岩井中尉は現役に適せず、直ちにかく首すべき」旨申告の手続きをとった。

 私はそこで間もなく予備役に編入されることと心待ちに待っていたのですが、その事なく、反って、大尉に進級すれば間もなく、中隊長、少佐になれば大隊長、中佐になれば連隊長と逐次任命され、憲兵がいかに躍気になっても、天のお父さまのお許しがなければどうすることの出来ぬ事をしみじみと感じた次第である。

 10.楽しき交わり

「それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」 (ヨハネ第一1:3)

 青島在住一年間、神は主に在る友を与え、楽しい楽しい交わりを心ゆくまで昧わしめられた。まことに父と子と聖霊との交わりに我らをも入れ給い、その喜びは例えようのない程であった。家庭集会を間くと、集会が終っても、証詞がなお続出して、夜の更くるのを覚えず、2時、3時までになること一再ならず、天国そのままの交わりは、事変終結帰国後一年半、再度の青島訪問となり、三度の青島訪問となり、この交わりは30年後の今日まで、なお続いている楽しき哉、主に在る友の交わり。

 11.第二次船橋時代

 1929年5月青島より帰還して(留守宅は引きつづき船橋にあったが)第二次船橋時代がはじまった。青島出征後間もなく聞かれた船橋聖会は果を結び、私が帰って来たときは既に「船橋基督伝道館」が設立され、水上仙平師が御用に当って居られ、引続き柴田繁馬師、田添幸雄師が御用をせられた。

 この時代も様々とめぐみの証詞を与えられたが、忘れることの出来ない事の一つは、或年の11月21日のことである。これは長男従男の誕生日なので、教会の先生はじめ諸兄姉を夕食にお招きしてあった。ところがこの日のために準備してあった費用が止むを得ぬ出費のためになくなった。当日になって御信者の有志の方が数人手伝いに来られたが、米もなければ魚も買えない。ただ全能なる神を仰いで待ち望んでいた。

「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」(ヘブル10:36)

 人をたのまず、ただ見上げて待ち望んでいる者に、神は全能を示して、昼すぎ必要を与えられ、大急ぎでもち米を買い、赤飯をふかすやら、魚やその他を買って吸い物、煮しめなどつくるやら、その夜の赤飯のおいしかったこと、それよりもなおめぐまれたのは、祈りにきき給う全能なる神のあかしであった。

 12.大阪時代、満州時代

 1932年8月、大阪高槻の工兵隊に転任、1935年3月、ハルピンの鉄道第三連隊に転任、至るところで家庭集会が開かれ、祝され、主にある友を与えられ、感謝の証詞も少くないが、余り長くなるので省略して支那事変に進みたいと思う。

 13.支那事変のため出動

 1937年7月7日北京効外ろ溝橋にて日支両軍の衝突、同11日出動発令、13日ハルピン出発、先づ、天津に集結した。この出動の際も出動計査では私はハルピンに残留することになっていたが、神の不思議な御手は鉄道連隊材料廠長として以下述べる経験をさせる為、戦場に送り給うのである。

「たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」(ヘブル12:10)

 14.天神鐘紡工場(公大第七廠)における奇跡

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ロマ8:31)

 1937年7月29日午前2時、思いもかけぬ敵襲を受け、私の部隊(方々に分遣、鐘紡工場には約50名残留)は数百の敵に完全に包囲せられてしまった。

 しかし愛なる神は不思議な摂理の御手をもって私に敵襲に先立つこと4時間、28日午後10時より防禦設備をなさしめ給うた。これは実に不思議で敵襲後考え合せると防禦工事を始める時刻はどうしても28日午後10時でなければならなかったのであり、且つ、私は防禦工事をする気持は少しもなかったのであるが、不思議な御手がこれをなさしめ給うたのである。午前2時敵襲と共に私の部下50名はそれぞれ勇敢に防戦した。当時工場内に社宅がニケ所あり家族合せて300人の日本人が居たが、敵の迫撃砲が盛んに落下するので避難命令を出し、午前4時すぎ工場内で比較的安全と思われる場所に集結した。この集結は至極平静裡に行なわれた。それは神が次の敵の侵入を隠していたもうたからであった。

 午前4時20分頃だったと思う。私の居た所のすぐ近所で数発の銃声が聞えると同時に一人の会社員が転がるように飛んで来て、敵の侵入を告げた。私は追っ取り刀で直ちに数名の部下と共に現場に駆けつけた。そこでは羽入という兵が一人で防戦をしていたのであった。その敵は約100名の決死隊でその時までに厚いれん瓦の塀を破って工場内に浸入動力室に集結していたもので、夜明けの薄明りを利用して襲撃に移りかけたところであった。

 この時の戦況はくわしく話さねば理解は出来ないが、弾薬を運搬していた羽入一等兵が襲撃に移る敵と遭遇した場所を考えると、それが30秒前後しても我が方は大変な危機に頻する危いところであったし、羽入一等兵がその場を死守せず退却したとするならば我が方は防戦の手段が全くつかなかった筈であったのである。

 この侵入して来た敵の決死隊に当る兵力は殆んどなかったのであるが、外の敵に対して戦斗中の者からかき集めて18名を得てこの敵と死斗を繰り返した。侵入して来た敵約100名は全滅(後で当方で埋葬した死体は83体)したが、この戦斗では我が方は負傷2名(後の戦斗で戦死2名)を生じたのにとどまった。

 何と考えても不思議な摂理に守られた不思議な戦斗であった。服誠3夜に及び北京からの救援隊到着と共に包囲の敵も逃げ去って安全を回復し在留邦人を無事に2里程離れた日本租界に避難させることができた。日本人達の喜びは天にも昇るものであった。

 15.天津襲撃の真相

鐘紡で襲撃を受けた時当時天津に居た日本軍は巧妙な作戦により、一小隊を残して全部北京周辺にひき寄せられた後交通を絶たれ、天津に残っていたのは、満州からやって来た我が鉄道連隊の主力と轜重隊のみであった。天津の日本軍並びに日本人を皆殺しにする目的で敵は周到な計書の下に前記29日午前2時を期して天津地区五ケ所を同時に襲撃したのであった。私の部隊の前面の敵は、夜の12時頃には既に工場を包囲して我々が防禦工事を完了するのを静かに見守っていたのである。その時に何故襲撃しなかったのかと捕虜に問いただすと、午前2時にと厳命せられていたからとの事であった。

 もし午前2時に敵が襲撃しなかったら、それが早くても遅くても私の部隊は大混乱を起す筈であった。午前2時には防禦工事の大部分が終了し、部隊は殆んど全部集結して(一部の者は工事の仕土げと共に敵の警戒に当っていた)作業に使った器具を返納したばかりであったので、襲撃と同時に銃をとって直ちに防禦配置につく事が出来た。敵の襲撃が2時よりも早かったなら、兵は武器を持たないで敵と遭遇して大混乱に陥っていたに相違ないし、もし午前2時よりも遅かったなら、兵の大部分は殆んど素っ裸同様(当時の暑さは格別で狭い部屋に大勢身動きも出来ない程であったので、兵はふんどし一つで寝ていた)で敵襲を受け大混乱に陥り、私の部隊は不覚の汚名の下に全滅し、邦人も亦皆殺しにあっていたであろう。凡てを知り給う愛なる神に守らるる身の不思議を思い神をほめたたえずには居られない。

「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない」(詩篇91:7)

「わが助けは、天と地を造られた主から来る。見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる」(詩篇121:2,4,7)

 16.聖書は共通のパスポート

天津襲撃の後、私達は北京の北方、南口鎮という所まで進出しました。有名な万里の長城の居庸関のすぐ下で、長城線では彼我盛んに砲火を交えていましたが、その戦斗を真近に見ながら南口鎮の鉄道工場(北京から内蒙古の張家口包頭に到る京包鉄道唯一の鉄道工場)で機関車、車両の修繕や以後の進出のための諸準備をして居りました。

 その工場のすぐ近くに大きな教会堂があり、戦災者が多数避難していました。その教会堂の入口の扉には日本軍の出入を禁止する旨の告示が日本憲兵隊の名で大きく張出され、扉は厳重に閉っていました。けれども私が扉をたたくと扉についている小窓が開き、中から人の目だけがのぞき、私が無言で聖書を見せるとすぐにその扉は聞かれました。聖書こそは万国民共通の心の扉を開くパスポートであります。

 17.神の賜う平安

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)

 教会堂の中に入って見ますと、広い庭一面に仮小屋をこしらえて避難民が何百となく仮住居をしています。真近に聞える砲声の中で彼らの顔色はすっかり青ざめ恐れおののいています。所が中には全く恐れを知らず平然とした人々もいます。これは皆クリスチヤンでした。こわくないかと通訳に尋ねさせると「神様が守ってくださるから少しもこわくない」との返事です。度々の戦斗の中で鍛練された信仰は実に見事なものでありました。中国語の聖書を借りてその時私の与えられた聖言を彼等に示すと彼等は又大喜びで、自らの喜びと平安を聖書で答えてくれます。言葉は通じなくても、愛なる神による我らの交わりは少しも害われる事はなく、共に父なる神をほめ崇める事が出来て実に感謝でありました。

 18.主に在る者に対する信頼

 南口鎮の鉄道工場を占領した際、数名の従業員が捕虜になり、恐怖にふるえておりました。私は彼等に対して自分のクリスチャンである事を告げ、彼等の生命と生活を神の名を以って保証し、明日以後或るべく多数就業するよう勧め、全部自由に釈放しました。

 翌日はせいぜい十数名位の就業を予想していましたが、驚くべし殆んど全員と言ってよい程の就業率ですっかり驚いてしまいました。その為作業は大変な進捗ぶりです。

「主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

 私は従業員の中のしっかりした信者を選んで食糧の配給について従業員とその家族の数を考え適当に按分するよう命じ、食糧の購入に際しては部隊の下土官に護衛させました所、彼らは非常にこれを徳とし、私達が前進した後も日本の鉄道担当者とよく協力し、私が北支を去るまで時々喜んで連絡をしてくれました。主に在る者の交わりは、真に言葉を越え、民族を越えて美しい花を咲かせるものであるとしみじみと感じた次第であります。(この時から約10年を経過し、日本の敗戦後、彼我立場を変えた時にも主に在る交わりは少しも変らなかった事を中支で実際に体験しました。

 19.祈りに聴き給う神

 南口鎮の鉄道工場で作業中或日の事でした。私は主の前に聖書を開き祈りを捧げつつ祈りの友の与えられる事を祈り求めました。間もなく部隊の衛兵が、信者である先輩の軍人を案内して来ました。余りにも早い祈りの答に驚いて問いただしますと、更に驚いた事にその先輩は転任を命ぜられその日の朝新京を飛行機で発ち、熱河省の承徳に着任した処が、所属の旅団が北京の北方、南口鎮にあるとの事にて即刻別の飛行機で南口鎮に到着し、着任の途中偶々衛兵にも会い部隊名を尋ねたところ、岩井部隊との返事にて驚いてそのまま案内されてやって来たとの事でした。

 私は先刻の祈りの証詞をし共に神を崇め、神を讃美し、聖書を読み、共に祈り、満ち足りた一時を送り、爾後も時々相交わるときを与えられ、後にも神は時に応じ不思議に祈りの友を与え、神の全能と至仁至愛とを如実に示してくださいました。

「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに……栄光が世々限りなくあるように、アーメン」(エペソ3:20,21)

「主にとって不可能なことがありましょうか。」(創世記18:14)

 20.伊藤牧師を知る

 支那事変の進展に伴なって内蒙古鉄道の終点包頭まで進出した時、急に内地に転任の命を受け、即日飛行機と特急でハルピンヘ帰隊、千葉県津田沼の鉄道練習部教官(鉄道将校養成機関)として赴任し約一年間内地勤務の後1939年12月末北支鉄道司令部部員として、北京に赴任しました。

 北京到着後の聖日、礼拝を守るため道標の立っているまま、東堂子胡同に在る「日本人基督教会」に出席し、その主任牧師伊藤栄一師に逢いました。

 神は不思議に同師と深い交わりに入らしめ結い、ダビデとヨナタンのそれのような神に在る愛情で深く結ばれ、後に義兄弟(妻の妹と結婚)ともなり、今に至って益々確く結ばれ文字通りの同労者として、み聖栄の為に、助け助けられて励む者とせられましたこと、実に不思議な摂理であり、感謝に堪えない次第であります。

「世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(蔵18:24)

「ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した」(サムエル上18:1)

 

 21.太平洋戦争始まる

 北支で鉄道司令部から鉄道第六連隊の大隊長に転出した私は、華北各地で鉄道の建設、運転等に従事していましたが、1941年末、太平洋戦争準備のため部隊と共に台湾に進出、台湾で12月8日の開戦の日を迎えた。その前日は日曜日だったので、ある台北の教会で礼拝を守った私は、乞わるるままその夜の集会の御用をさせていただいた。風雲急を感じていた信者たちに、主が語らせ給うた聖言は、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)であり、私は支那事変の際の奇しき御業の証詞を交えて、夜の更けるのも忘れて、主に在る、たぐいのない平安と幸とについて語った。

 翌8日、眼がさめると同時に開戦のニュース、ニュース、ニュースである。第一線の台湾である。人々は意外の開戦に驚き、空襲の恐怖におののいたのであるが、神が不思議の聖手でそなえ給うた主の民たちは、実に平安そのものであった。(9ケ月後にもう一度台北を訪れたときに、そのめぐまれた証詞をきく事が出来たのであった)

 22.フィリッピン語の説教

 開戦の日直ちに台北から台南にうつり、ついでフィリッピンのリンガエン湾に上陸した我々は、徹底的にこわされた鉄道修理のため、連隊の一部はリンガエンからマニラに向かって、主力は自動車でマニラに進出して、マニラからリンガエンに向かって修理をはじめた。私は主としてマニラにあって、修理と輸送の指揮をしたのであるが聖日には恵によってフィリッピンの教会の礼拝に出席した。英語も、フィリッピン語も知らない私は、説教も一言もわからない。ただ引照の聖句だけは、さぐりあてることができるので、その引照聖句によって一人で(多勢のまん中で)恵まれた礼拝を守っていた。ところが、驚いたことに、信者の大部分は礼拝に出席するのに聖書も、讃美歌も持って来ない。彼等はみ言を信じ、み言にかたく立つことを知らないらしい。これは気の毒だと集会ごとに示され、なんとかしてみ言を重んじ、み言に立つ信仰の喜びを伝えたいと切なる思いをもっていると、ある日、その教会の牧師から、日本人牧師(当時フィリッピン在住の唯一の日本人牧師中島氏)をとおして、説教の委頼があった。

 私が日本語で説教する、それを中島牧師が英語に、それをバーニヤ牧師がフィリッピン語(この教会はタガログ語の教会だった)に通訳するとのことだった。

 私はその時、聖霊の導きで三段通訳の不可を示され、直ちにフィリッピン語で説教する旨を返答した。何故かというと、私は三段通訳の挨拶をしたことがあったので、大切なみ言を伝えるには、とても困難なことがよく判っていたからである。

 驚いたのはバーニヤ牧師である。

 それはその筈、私のフィリッピン語は稽古を始めて、やっと20回、その先生が実は当のバーニヤ牧師であり、まだ挨拶の言葉もわからぬ程度である。

「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒2:4)

 ベンテコステの日弟子連に、異邦の言葉にて語らしめた神は今も生きてい給う。私の心にみ言にかたく立つことを語れと命じ給う主が私に語らせ給わないはずがない。確信にみちて私は決意し、飭一言した。そして自分で出来るだけの準備をした。

 全員が聖書を読むことが出来るよう軍政部に連絡して、フィリッピン語の旧新約聖書も準備した。当日、私の語るフィリッピン語の証詞を主とした説教は、吸いとるように全会衆に理解されたことがよく判った。準備した聖書は、礼拝後全部売れた。そして彼等は毎日聖書を読むこと、み言が約束であることを信じて、これに堅く立つことを約束した。

 礼拝後バーニヤ牧師は採点を示した、説教100点、フィリッピン語95点と。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」(ヨハネ第一5:14)

この説教の日には既に私は北支に帰還する命令が出ていたのであった。

 23.鉄道廠隊長となる。困難な進軍と温るるめぐみ

「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に合わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(コリント第一10:13)

 前に書きましたようにマニラから部隊より先に飛行機で北支に帰りました私は間もなく、更に満州牡丹江の鉄道監部(鉄道旅団司令部)の部員として、牡丹江に赴任、一年余在職しました。その間多くの主に在る友と楽しい思い出とを与えられましたが、1944年3月、鉄道第一連隊長として、中支溝口に転任、直ちに諸準備をととのえ、6月いわゆる大陸進攻作戦の動脈として、鉄道の無きず占領とその連用とを目ざして、第一線兵団にきびすを接して大たんな進軍を続けました。

 この進軍は、例えようもない泥ねい、敵の飛行機のしつこい銃爆撃、食糧の欠乏、等等困難の連続でしたが守られ守られて平安と感謝の中に終始しました。

 元来私はそれまで歌など作ったことはないのですが、この当時の感激は、不思議に私をかりたてて、歌のようなものが自然に出来てしまったので、少しく記録してみたいと思います。

 6月5日最前線であった岳州を出発し、連日の雨と泥ねいに悩まされ、ある日などは、朝から晩までかかって、やっと一里しか歩けない始末、そればかりでなく、ひどい所では、前に進軍した部隊が、泥にはまりこんでどうにもならなくなった軍馬を、あちらでも、こちらでも銃殺して、行ける者だけが進軍しているのに出会いました。

   屍馬満ちて 雨の猛進 物語る

   泥になやみ 眼の 窪みしと人のいう

           (6月11日新市に到着して)

   せんすべの つきはててなお望みにし

   聖徒のすがた わずか知り得し

           (コリント6:4,8)

   暇難に克ちてここまで すすみきぬ

   祈らるる幸 身におぼえつつ

       (6月22日、ようやく株州に到着して)

途中食糧の不足になやみつつも、胡瓜、すもも等にてうえをいやす。

   いくさばに 山川の幸残しありて

   神のめぐみに みちあふれけり

7月12日衡陽に進出、敵機の猛爆撃にさらさる。

   前も横も みな火の海となりぬれど

   守らるる身は 常に安けし

   伝えばや 天地くづるる爆音に

   静かに祈る わがこの幸を

 24.意外、鉄道連隊の敵陣突撃

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)

 衡陽まで進出した私の連隊は、その後本部を株州におき、長沙−株州−衡陽問の鉄道の大部分を担任して運転輸送を実施していましたが、8月26日優勢な敵が、区間内である昭陵、朱亭附近に出撃してきて、我が鉄道及び地上の交通をたち切ったのみでなく、その兵力がだんだん増加し、堅固に陣地を構築し、本腰をすえて我軍の動脈をたち切ってしまおうとするので、早々師団の出動を要求しましたが、友軍もそれぞれ、敵とほこを交えているので、中々やって来てくれません。

 9月4日に軍命令がありました。それは私の連隊に独立歩兵大隊を二大隊つけるから、当面の陣地にある敵を攻撃して、これを撃退し、鉄道交通を回復せよとの事でありました。私は即日出発、部下の一大隊をつれて翌5日昭陵につきました。すぐ目の前の山々には敵が陣をこしらえてがんばっています。

 元来鉄道部隊は自衛のための戦斗は平素から研究していますが、すすんで敵の陣地を攻め落すなんてことは考えて見たこともなかったので、すっかり面くらって、陣地攻撃の要領を書いてある本をひっぱり出して急に泥縄の研究をするやら大騒ぎでした。

 9月9日に、やっと待っていた歩兵大隊が到着したのですが、ここに来るまでの戦斗で弾薬をつかい果していたので、これの補充と攻撃準備の偵察で思わぬ日時を要し、9月14日にやっと準備を終り、いよいよ翌9月15日夜を期して全員突撃と決定、私白身の突撃の道すじ、翌朝の位置まですっかり決めました。

 夜、いつものように、カンテラのあかりで静かに聖書を読みながら、フト考えました。明晩はいよいよ生まれて始めての突撃だから、少しは感情がたかぶったり、武者振いが出たりしそうなものだが、いつもとちっともちがわないのは、ほんとに不思議だと思い、しみじみと神に守られる身の幸を感じた次第でした。

   突撃の 前の静けさ み書よむ

            (9月14日夜昭陵)

 処が、翌早朝、監視部隊より敵がいなくなったとの報告があり、そんな馬鹿な事がと、どんなに双眼鏡をふいて見ても敵は居りません。昨夜まであんなに沢山居た敵が影も形もないとは実に驚いた事です。ちょうど、列王下7章の4人のらい病人の驚きのような気がしました。

 昼すぎ、やっと理由がわかりました。敵地に深く入っていた友軍が、何も情況を知らないで帰ってきて、それが敵陣をはさみ撃ちするような格好になったからでした。

 しかし、ほんとうの理由は、愛なる神が私によい体験と信仰を与えて下さる為であったに相違ありません。突撃を私にやらせたならば「へま」をやるでしょうし、又人を殺さねばならぬようになるので、御あわれみの故に、一寸突撃の気持だけを昧わせるだけでとどめて下さったのでした。

「たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」(ヘブル12:10)

 25.見えぬ敵機

「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください…彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシヤのまわりにあった」(王下6:17)

 1945年6月の事でした。戦争も末期の症状で、内地の兵備の充実が大切な問題となり、私の部隊からも優秀な幹部若干を帰国させることになり、漢口の江岸駅から出発するので見送りに出ていたときの事です。

 列車は、内地兵備充実要員の帰国組で超満員、江岸駅は見渡す限り黒山のような見送り人で埋まっています。突如パンパンパンと機関銃の音がすると思うと「敵機襲来」と叫ぶ声、列車からはどんどん飛び下り、見送り人と共に避難を始めた。私は敵の飛行機の襲撃の方向を見きわめてから避難しようと思って上空を見まわすけれども、飛行機の姿も見えなければ爆音もしない。ただパンパンパンと銃声が続いているのみ、飛行機でないと見きわめがついたので避難する人々の阿鼻叫喚の姿をながめた。この大群衆に対して少々の防空ごうは何にもならぬ。網の目のように広がった線路上をレールにつまづき枕木につまづき、無数の人々がこけつまろびつ、夢中になって避難所を見つけようとする様は、大へんな見ものであった。こんなとき、落ちついて身を処することの出来るような平安を与えて下さった神、大の馬火の車をもって我らを常に守り給う神を崇めずにはいられない。(後であの銃声だと思ったのは、支那人の魔除けに使う爆竹だった事が、これを見ていた日本人の口から聞かされると共に、その人は全員の逃げ惑う中に静かに空を見上げていた私を見て、不思議に思ったとの事で、主に在る者の「すべて人の思いに過ぐる神の平安」についてあかしした事であった。

 26.敗戦、主の御慰め

「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない」(詩112:7)

 遂に運命の8月15日が来た。ポツダム宣言受諾の勅書が換算せられ戦は敗れた。降伏の経験のない我部隊は、上から下まで大混乱である。しかし、主は敗れ給わない。主によりたのむ者には混乱はない。「その心エホバに依頼みて定まれり」である。鉄道司令官はその時しみじみ述懐された。「岩井君がうらやましい」と敗戦のこの大試練に際していよいよ教われた身の幸を感謝せずにはいられない。

 9月19日長沙へ移駐し、9目23日長沙の中国教会で礼拝を守った。了承 この教会が戦後はじめて集会を開いた当日であった。教会堂のガラスは殆んど全部がこわれ、椅子も一つもないただれん瓦を台にして板を並べただけのものであるが、信者の心は喜びに燃え、李牧師は主の愛に溢れて私を迎えてくれた。教会員との交わりもだんだん深くなり、楽しい信仰生活が続いた。

 11月下旬長慶から、中華基督教会全国総会幹事の余牧人牧師が長沙に帰って来ると李牧師と一緒に私の宿舎を愛によって訪問され、その際この会堂で日本人の礼拝を自由に守るようにと申出があった。何たる感謝、それで、12月2日からは部隊本部有志の集会を、この中国教会の礼拝の後で守ることになった。部隊本部の将校、下士官、兵の有志20名位でずっとこの集会が続けられた。

 12月24日、この教会でクリスマス祝会が聞かれた。そのプログラムは、

  益湘小学のページェント

  我が部隊有志の讃美歌二部合唱

          (もろびとこぞりて但し中国語)

  湘稚学院有志の讃美歌四重唱

 等であって、敵も味方もなく、唯主のみいます楽しい楽しい集会であった。

 旧正月も、教会で新年礼拝を守り、お雑煮を食べ、中国信者遠の家庭に招かれ、内地の人々に申し訳けのないような平安と感謝にみちた生活がつづくのであった。

 27.捕虜かお客か

 2月中旬からは衡陽を中心とした地区の鉄道修理を受け持つことになり、主として衡陽に居るようになり、衡陽でもまた、中国教会の信者方との親しい交わりが始まった。

 4月21日、復活節には、衡陽の三教会連合礼拝がこう外の復活山で挙行された。私は三枝兵長と一緒にこれに参加しようとして信者連と一緒に出かけた。市外に出る橋の所まで行くと、中国の衛兵に調べられ、びっくりして考えて見ると私は捕虜の身分であったと自分ながらおかしくなり、許可されないまま教会堂にもどり、そこで二人だけで復活節の礼拝を守った。

 この間中国側の鉄道局長の厚意で、鉄道部隊は衣食住方面でも格別優遇され、又連絡所長(当時私は三連隊余の指揮を命ぜられていた)用として住居も新築してもらったり、何としても捕虜という感じは全くなかったのである。

 このような教会生活は、後に上海で約半年抑留された時にもつづいた神の大いなるめぐみであった。

「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」(詩91:4)

 28.遂に帰還

 1946年5月5日衡陽出発、5月28日上海着、帰還の輸送は予想以上に順調で、6月下旬上海出帆で部隊一路帰国、残留者の大部分も11月15日出帆、19日佐世保上陸、23日品川駅に親しい者達に迎えられ、感謝に溢れつつ船橋に帰宅することができた。

 12月1日家族、親戚、知己32名船橋の我屋の狭い一室に集まって感謝家庭礼拝をもつことができ、量り知る事のできぬ神のめぐみを涙と共に証しつつ、軍人としての私の前半生をここに終わり、救われて以来絶えざる念願であった直接伝道の道に、神は私を追いやり給うたのである。

「あなたは…わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる、わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」 (詩篇23:5,6)

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岩井恭三牧師のその後

岡村松雄

 岩井恭三師は支那事変当初より第二次世界大戦の終了まで、第一線に活躍しながら、全能なる神の聖手に守られ奇蹟的に凡ての傷病をまぬがれ、中国、フィリッピソの現地人教会を助け、ゆく所において神の恵みを証しされました。

 1946年12月、復員まもなく、当時先生より一足先に北支より引揚げて鴨島に伝道な開始された義弟、伊藤栄一牧師と出会い、直ちに主のお召しを受け、翌年一月より筒井製糸株式会社の教育部長に就任されましたが、筒井社長はじめ会社の深い信頼と理解のもとに尊い御用に用いられ、数百の社員の教育と伝道に尽力されました。その年の4月には家族も船橋より鴨島に定住され、1949年1月脇町に移転して満21年この教会の牧会伝道に精魂を抜けて奉仕されました。

 当初、筒井工場の従業員を集めて開始されたこのへき地の伝道が今日会員160余名、クリスチャソホーム20をもつ有力な教会に成長して神の栄光を顕わすに至りましたことは、格別な主のみ恵みによるものでありますが、岩井先生が堅くみ言に立ち、主の御愛をもって一人一人の魂を極みまで愛し導かれた、敬けんな信仰と祈りに応え給うた主の大いなるみ業であると存じます。

 この間、伊藤牧師と協力して池田、貞光、半田、徳島、土佐高岡に開拓伝道を進め、各教会の基礎を据えられ、特に1950年以来連続15年に亘り故藤村社七先生をお招きして聖会を開き、その霊の恵みが鴨島教会をはじめ四国全土に及んで今日に至りました事は、先生の御生涯に特筆すべき事であります。

 更に、50歳を過ぎてから、日本キリスト教団の教師検定試験を受け、1955年11月正教師として按手礼を受けるとともに、単立の平塚福音教会をも兼牧されました。

 以来全国各地の聖会、特伝の講師として用いられ、往く所に主の臨在と栄光を拝されました。また、拓植光生の遺された「活水の群」基督伝道会のためには長年隠れたところに尽力され、その一致のために労されたことは、忘れることができません。

 1967年6月、五男満師の英国バックストソ神学校卒業式に列するため夫人と共に空路渡英、続いて米国に渡り、カナダ合同教会に奉仕される次男啓師を訪問、各地に恵みの福音を証しされました。この外遊の前に軽い脳出血がありましたが、主の御守りにより8月はじめ無事帰国されました。

 1970年2月10日天に癌の手術の間召されました。

 手術室に移る最後の時まで「わが事ふる万軍のエホバは活く」と感謝、さんび、こよなき平安のうちに勇ましい聖徒の生涯を全うされました。

 享年68歳。


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