試練を乗り越える希望
2002.4.19 料理教室メッセージ
片井淑子

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

(ペテロの手紙第一1:3〜9)

 水曜日の晩にレア先生から、今日のメッセージをしてください、と言われました。そんな急に無理なとは思ったんですが、なぜか「はい」と応えてしまいました。そしてレア先生をお宅までお送りし、その帰り道で、メッセージの最初の言葉だけができあがりました。それはこうです。
 わたし達は先月3月31日にイエスさまの復活をお祝いしました。
これだけです。   
 それでその続きを今日、みなさんと共に学びたいと思います。

3節
イエス様がわたし達の、罪のあがないのために十字架にかかって死んでくださったことはもう何度も聞ているとおりですが、復活がわたし達にどのようにかかわってくるかが、ここでよくわかります。
『神は豊かな憐れみにより、わたし達を新たに生まれさせ』とありますが、これは本来十字架にかかるのはわたし達であり、それゆえにこそイエス様が身代わりになり、十字架にかかって死んでくださって、一切の罪をあがなわれ、新たなものとして頂いたわたし達は、復活されたイエスさまにより、『生き生きとした希望』、無効にはならない、無期限に有効な希望を持つことが許されており

4節 
『朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました』財産を受け継ぐものというのはほとんどの場合子どもでしょう。わたし達は、イエスさまと等しい、子どもとしての身分まで与えられているということなのです。どうしてこんなことがあり得るのでしょう。わたし達クリスチャンは祈るとき、「イエスさまのお名前によってお祈りします」といいます。どういうことでしょう?わたし達の生活の中でもよくあるでしょう?「・・・さんのご紹介で」あるいは「・・・さんに紹介していただいたんですけど」と人に訪ねられたり、訪ねたりということが。そういうときどうですか?たいてい「ああ、・・・さんの・・・。どうぞお入りください」となるでしょう。お子さんをお持ちの方なら経験されるかと思いますが、自分の子どもの留守に、その子のお友達が訪ねてきたら、「あら、・・・ちゃん、いらっしゃい。あの子、もうすぐ帰ってくると思うから上がって待ってる?美味しいケーキがあるからいっしょに食べよ」なんてこと、あるでしょ。うちの子でもないのに、うちの子と同じように家に入れて、おやつまであげて、うちの子と同じ扱いですね。それはその子が、うちの子のお友達だからですね。わたしの大切な子どものお友達だ、という理由だけですね。同様に神様は、神様のお独り子イエスさまの友達という、たったそれだけのことで、イエス様と等しく、わたし達を子どもとして扱ってくださるのです。もう少し違う角度から考えてみましょう。・・・さんのご紹介と言われても、普段からあまり親密なお付合いをしていなければ、玄関先で話しを聞くだけでお引き取りいただくこともあるわけで、「上がって待ってて、ケーキ食べよ」なんてのは、うちの子が可愛ければこそですよね。その大切な、大切ないとしい子を、神さまはわたし達の罪を赦すため、子と等しく罪のないものとするため、十字架にかけてくださった。そしてイエスさまはよみがえられました。

5節
そうまでして救いを準備してくださっている神様は、一人も漏れることのないようにと、神様から与えられる信仰により、わたし達を守りつづけていてくださいます。

6,7節
それゆえ、わたし達は心から喜んでいるのです。絶対に朽ちることの無い、裏切られることの無い、失望に終わることが無い神様から与えられる信仰ゆえに、神様が守っていてくださるゆえに喜べるのです。『今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、(新改訳ではさまざまの試練の中で悲しまなければならないのですが)あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され』とありますね。いろいろな試練、この事は私自身でも悲しみ、苦しみに耐えがたいと思うほどの、こと、時、もありますし、その時にこそ、さきほどから聴いている神様の希望の光を見つめつづけることによって、乗り越えさせていただける、いつもそのようにして乗り越えさせていただいてきたのです。けれども、本当のところ、その光を見るのに顔を上げるほどの力さえ湧いてこない、つらいつらい試練の、そのような中に落ち込むときだってあるでしょう。そのようなとき、どうぞ、泣いて泣いて泣きつかれたら、静かに耳をすませてください。神様の息使いが聞こえるでしょう。あなたのかたわらに同じようにしゃがみこんで、あなたとともに涙を流し、「わたしの友よ」と、肩を抱き寄せ、なぐさめてあげたいと待っておられるイエスさまに、気づくことができるのですから。

8節
そして、そのようにしてイエス様を確かに友とわかった時、『あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。(新改訳では栄えに満ちた喜びにおどっています)』この世の喜びではなく神様の栄光に輝く喜びに満たされているのです。たとえ、わたし達の状況が、泣いていたときと、なんら変わらなくても、イエスさまがわたしの永遠に変わらぬ友とわかった時から、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れるのです。

9節
『それは、あなたがたが信仰の実りとしての魂の救いを受けているからです。』神様から与えられる信仰こそが、わたし達の魂の救いとなりうるのです。

今日、わたしはこの個所を、集われるだろうお一人おひとりのお顔を思い浮かべながら準備させていただきました。そして、今悲しみの、驚きの、あるいは不安の中におられる方たちのために、特に神様からの慰め、癒し、平安が届きますようにと祈りながら準備させていただきました。わたしが教会に行き始めたころクリスチャンの特権ってなんですかという問いに「祈れることです」と答えた方がありましたが、今、わたしもそうと思います。どうぞ、日々イエス様にむかって祈ってください。楽しいことうれしいこと、心配なこと、困ったこと、なんでも、お友達に、あるいはお母さんに話すようにイエスさまに言ってください。それがお祈りのはじまり。そしたらきっと、あなたも栄えに満ちた喜びにおどるようになるでしょう。おしまい。ありがとうございました。

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