幸福の条件

「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(聖書)

 人間だれでも幸福になりたいのです。その求め方は様々でしょうが、聖書を見てみると永久の幸せは私達を御創りになった父なる神様からしか得られません。神様の愛の人格的な交わりの中に心が満たされるからです。

 神様からの祝福を受けるには、主イエス様の清くて恵み深い御前にひざまずいて、上からの恵みを頂く姿勢が問われます。跪く事は謙遜を意味します。「主よ、あなたの助けがなければ、私達はやって行けません」と言う姿勢です。跪くのは悔い改めの姿勢でもあります。

 現代の人間は人と人との間の愛にあまりにも大きな期待をかけます。しかし世界一幸せな結婚も人を幸せにする事が出来ない事は現実です。人はもう一人の人を幸福にする事が不可能です。いくら頑張っても出来ません。人間の心の愛に対する飢え渇きはあまりにも大きいからです。その飢え渇きに答えることが出来るお方は主イエス・キリスト様以外に誰もいません。しかし、神様から頂いた幸福を互いに分かち合う事が可能ですから、そうすれば、結婚は天国の門のようなものにあり得ます。しかし、相手から幸せを要求する事によって、地獄の入り口のような所にもなり得ます。

 人が人を幸福にする事が出来る神話を飲み込んで、結婚生活の中に「私は間違った人と結婚してしまった」と悩んでいる人々は物凄く多いかと思います。互いに合う人は世界には何処にもいません。結婚は神様の恵みによって合わない人間同士を合わせる素晴らしい作業場です。しかし、それは相手を自分自身に合わせると言う意味ではありません。逆に相手をありのままに認めて、自分自身を相手に合わせようとする営みです。しかしそのために主イエス様の恵みを毎日の生活の中にたっぷり頂いて下さい。

 ところで、私達の求めている本当の幸福は一体何でしょうか。又その条件は何でしょうか。

 健康や経済的に安定した生活や意味のある仕事や円満な夫婦関係が幸せの基本条件のように見なされますが、それぞれよい事ですが、幸福の条件として物足りません。逆に長い間病気をして、経済的に困っている人の中に真の幸福を持つ人を知っております。

 幸福のなくてはならない条件は次の4つだと思います。心の平安、愛、喜び、希望です。その中から一つも抜けば不十分です。

 ところで、平安は一体何でしょうか。それはどんな場面でも冷静を保つ心の強さでしょうか。いいえ、そうではありません。平安は人間的な感情を殺すことではありません。平安の一番簡単な実例は2歳ぐらいの小さな子供でしょう。暗い時に庭に遊ばせようとしたら、一人で怖くて庭に出かけません。しかしお父さんかお母さんがその手を握ったら、何処でも安心出来ます。平安は頼りになる強い相手のある所です。相対的な意味で結婚において私達はそのような相手を求めますが、究極的な所で、人間は頼りになりません。死に打ち勝ったイエス・キリスト様以外に完全に安心出来る相手はありません。

 喜びとは何でしょうか。毎日の生活の喜びは二つのコーヒーカップだと私達はフィンランドで言います。東洋的に言えば喜びは二つの茶碗でしょう。その両側に人がいて、そして心にある事をことごとく話し合っています。結婚の一つ大きなポイントはよい理解者を得る事でしょうが、残念ながらコミュニケーションはそんなに簡単なものではありません。誤解も生じるし、どうしても自分の気持ちを言い表せない場面にもぶつかります。完全に私達を理解して下さる相手はイエス様です。ですから、お祈りは最高のコミュニケーションの場です。

 とは私に大切なものを与える相手の行為でしょう。又私が相手の必要を満たす行動でもあります。愛は相手次第です。私達は価値のある者をしか愛する事が出来ません。ですから私達の愛はすぐにも限界にぶつかります。しかし、主イエス様は価値のない人を愛して、その愛によってその人に何とも言えない素晴らしい値打を与えて下さいます。ご自分を私達の為に犠牲にして下さったその愛から私達も新しい愛を汲み取って、互いに分かち合いましょう。

 希望とは私達が将来にどのように成功するかと言うような所にはありません。希望は私達が将来を誰と一緒に過ごすことが出来る所にあります。結婚指輪は契約の印です。一種の鎖とも言えます。「あなたはこれから私の将来の相手だ」と言うシンボルです。しかし、結婚にも限界があります。それは相手の死を超えません。ですから本当の希望は永遠の相手である、十字架の上で私達の罪を赦す為に死んで下さって、又三日目に墓から甦ったイエス・キリスト様にあります。

 幸福のこの4つの条件の共通点は同じ相手です。安心出来る相手、分かち合える相手、愛し合える相手、将来の相手です。確か相対的な意味で私達は結婚の中にもそのような相手を求めますが、究極的にその相手はイエス・キリスト様です。

 このイエス様との交わりへの道は何処でしょうか。それは人間関係の回復に似ています。結婚の中に色々のズレと食い違いが生まれると、先ず自分自身の責任を認めて、赦しを願う事でしょう。そこから和解が成立します。同じようにイエス様の御前に自分の本当の姿を認めて、赦しを願って、交わりが始まります。イエス様はその十字架に示した無条件の愛によって過去を赦して、恵みによって平安や喜びや希望を心に注いで下さいます。又それからその愛の中に入れて下さいます。イエス様と共にいる所に幸福があります。

 「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」

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