疲れたあなたへ

「あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」マルコ6:31

 あなたは疲れを覚えていらっさいませんか。若い時に一晩の深い眠りで一生懸命でやった結果として生まれた疲れから解放されて、新しいファイトで働き出せました。しかし、この頃はもうそうはいかなくなりました。特に夏が近付くとどこかに行って、毎日の働きから解放されて休みたい気持ちが出て来ます。しかし時には休んでも休んでも疲れが取れない現実にもぶつかった事があります。

疲れ
 疲れそのものは罪ではありません。罪のないイエス様さえ疲れを覚えられました。だから私達の体験も十分理解して下さいます。自分のベストを出さないで、疲れきった経験のない人は働きや人生の諸問題に十分取り組んだ事がないと言ってもいいでしょう。
 しかし、暑さや仕事の量で疲れるのは未だ軽い方と思います。職場や家庭などの人間関係が巧く行かなくなると大した働きがなくても凄く疲れます。無意味な事がさせられると益々疲れます。働きが評価されない時も疲れます。恐れ、心配事、罪責感で疲れます。生き別れにせよ、死別れにせよ、だれでも疲れます。しかし自分の心の本当の問題や神様の愛の招きを逃げる程疲れをさせる作業がありません。

癒す対策
 疲れを癒す為の対策は様々です。寝込んだり、テレビを見たり、飲んだり食べたりする事で案外疲れから解放されないで、かえって空しさを感じて疲れが増える場合もあります。多くの人は旅行に行ったり、文化活動を楽しんだり、新しい趣味を始めたり、運動したり、刺激を与える新しい人間関係を求めたりして疲れからの解放を求めます。一時的な効果があっても、最も根本的な人生の疲れには余り効果がありません。

解放への招き
 ですからイエス様の最も有名な言葉の一つはやはり原因を問わず全ての疲れた人に対する招きです:
  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
  クリスチャンであれなかれ、全ての人が疲れます。ですから神様が一週間の内に一日を休みの日に定められました。神様との交わりで心のバッテリーを充電して、罪が赦される平安が与えられて、神様に愛されている確認をします。新しい力が出ます。その所から一週間の仕事にリフレッシュされて臨む事が出来ます。疲れからの根本的な解放はイエス・キリスト様の交わりを経験する事です。

イエス様の弟子達の疲れ
 上記の聖書の引用の場面は次の通りでした。伝道旅行から帰って来た弟子達も疲れていた。精一杯働いて、神様の国の福音を述べ伝えて、また主の名によって癒しの御業を経験してきた。しかし余りにも大勢の人々の必要に応えようとして、食べる暇も十分なかったので、疲れてしまいました。 いくら意味のある仕事があっても、疲れたら休まないととうとう耐えられなくなってしまいます。
  弟子達の疲れにはもう一つの否定的な原因もありました。バプテスマのヨハネの広い活動が悲劇的に終わったばかりだったからです。ヘロデ王に悔い改めを責めた結果ヨハネが殺されました。弟子達の心に不安が入り込みました。イエス様と彼らの活動は人々の敵対の中にどうなるのかと言う不安でした。心配と緊張した人間関係で誰でも疲れるでしょう。

心を開く祈り
  疲れた弟子達は先ず、すべてした事と教えた事をことごとくイエス様に報告しました。疲れからの解放の第一歩は祈りです。その中に体験した嬉しい事や悲しい事を主イエス・キリスト様にありのままに語ります。しかしそれだけでは未だ十分ではなかったのです。イエス様は彼らに言われました:
  「あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」
  主イエス様と一緒に静かな時を過ごして、その大きな愛と恵によって心が癒されます。しかし、主は清いお方ですから、先ず自分の罪を告白して、十字架の血潮によって罪が赦さなければなりません。そして罪が赦された所に主との交わりが何ともいえない憩いの場になります。旧約聖書の一こまでその体験が描写されます:
  「イスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。」(出エジプト24:9-11)
  神様の御臨在の所で、キリストの十字架の贖いの故に罪が赦された人は緊張しなくてもいいのです。神様の愛のみもとで飲み食いする楽しみは疲れからの解放の道です。

新しい挑戦へ
  しかし休みの後は新しい信仰の挑戦が弟子達を待っていました。私達も毎日の働きに帰らなければなりません。又イエス様の福音を全ての人々に述べ伝える大きな使命が待っています。しかし神様の休みから始まる働きから又同じ休むところへの戻る道が開いています。それだけではなく、働きそのものの最中にも主イエス様が共におられるから、働きの重荷に耐えられます。

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