神様の愛を求めて

  主人と家庭を持ち、いろいろな紆余曲折もありましたが共に励まし助け合いながら今日まで歩んで来ました。二人の子供たちも成人した今、大きな問題もなく、幸せだと感じる反面、虚しく物足りなく、満たされないものを感じていました。何かを忘れて生きて来たのではないか、もっと大切な何かがある様な気がする。この心の空白の部分を満たしてくれるのはキリストにあるのでは、とこんな気持ちを持ちつつ主人と粟生教会を訪ねました。

 
まず、入り口正面の十字架を見上げた時、重苦しい、厳しい、悲しい、言葉に形容しがたい何かを感じました.十字架から私に向かってビンビンと伝わってくるものがあるのです。神様と直結している。そんな感じです。今の私にはこの厳しさが必要なのかもしれない、もっと自分を律して生きて見よう。そんな不思議な感情が湧き出てきたのです。

 それからは、日曜礼拝に出席し、また、祈祷会と入門講座は主人にくっついて恐る恐る参加しました。まず聞きなれない聖書の言葉に戸惑い、賛美歌に涙し,十字架の持つ意味も少しずつ理解できるようになりました。そうしている内に臆病で自分に自身がなく、劣等感に打ちひしがれた。いじけた自分や、それを正当化するために、ひねくれた考え方をし、自分を慰めている私が神様に背を向け、身をかがめ、縮こまっている様が、私の心にだんだんと浮き彫りになってきました。すると、心の奥底にあった、忘れていた罪、しまいこんでいた罪、認めたくない罪が現れてくるのです。辛く、悲しく、自己嫌悪に陥りました。でも、そんな私にも聖書は、慰めと励ましと勇気を与えてくれました。

 神の愛に包まれたい。聖霊を受け入れたい.みこころに沿える者になりたい。みこころを行う喜びを知る者になりたい。全く新しい、自分に造り替えていただきたい。と強く願う様になり、洗礼を受けようと決心しました。

 神様、これからは、共に生かされている喜びに感謝し、賛美と祈りを持って家庭に、職場に、教会生活に於いて、与えられた賜物があれば、それを用いていただき、揺るぎない信仰生活が送れます様、導いてください。

 また、六か月にわたり、聖書を教授くださった、ピヒカラ先生、洗礼のとりなしの祈りをしてくださった、レアさん、高橋さん、土江さん、市島さん、長谷川さん、シニカさん、教会の皆さん、ありがとうございました。今日ここに神様の恵みによる洗礼をいただくことになりました。

 最後に、主イエス様、私の罪のために十字架にかかって下さったにもかかわらず、愛を持って今日まで導いて下さったことを感謝いたします。

 天の父なる神様、今日ここに生まれ変わる私を、神様の手足としてお使いください。この時を感謝してお祈りいたします。アーメン。

(吉本ひろみ、洗礼式の証し2001年10月7日)

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