Jorma & Lea Pihkala
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2019のイースター


   キリストはまことに蘇られました。イースタおめでとうございます。

  わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)

  世から永遠に移ると、あまりにも早く過ぎ去った自分の人生とこれからの眠る(亡くなる)事を考えなければなりません。最近長女のハンナのご主人のお父様 Leo Iisakki Kiviniemi (90) が天に召されました。彼は私たちのために良く祈って下さって、励ます愛の持ち主でした。

 聖書はキリスト者の死について主に「眠る」と言う表現を使います。死は元々罪の結果でしたが、イエス・キリスト様は十字架の上ですべての罪の処罰を身代わりとして受けて下さいましたから、キリスト者の肉体的な死にも何の罰もありません。イエス・キリスト様を受け入れていない人は別です。その死に依然として罰の意味があるし、死後に裁きも受けなければなりません。にも関わらずキリスト者の「眠る」前に病気や痛みが大いにあり得るのです。ノンクリスチャンの場合にそれらの苦しみは神様からの救いの招きです。最後の最後まで主イエス・キリスト様は人が罪を悔い改めて、イエス・キリスト様を信じ受け入れる事を愛と忍耐で待っていますからです。

 キリスト者の場合にそのような痛みと苦しみは神様が清めを与える働きに当たります。主の者があらゆる自己義認から解放されるためです。苦しい中にキリスト者に残るのはイエス・キリスト様にある神様の恵み以外何もないのです。自己から抜かれて「眠る」キリスト者に新しい、罪のない復活の体が与えられます。それは信仰生活の目的です。その新しい体に救われた人々は太陽のように輝くと聖書が約束します。パウロは第2コリント人への手紙でこのプロセスを次のように描写します:

 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。(1-5)

 あるキリスト者はその教会の牧師に質問しました: 「私の信仰深い父は何故亡くなる前に3ヵ月間も大きな痛みを経験しなければならなかったのですか。」 牧師の答えで驚きました:「神様は彼が本当に死なければならないと信じさせたからです。」

 誰だって自分が死なければならないと知っていますが、それを本当に信じる人は希です。死は何時起こるかは分かりません。もし信じるならその準備としてすべての罪を悔い改めて、他の人に対して何かがあったら和解するはずです。

 普通の家庭で育てられた日本人に死後何処へ行きたいのですかと聞いたら、多くの方は「母のいる所へ」と答えるそうです。つまり愛をもって受けられるところへ。

 十字架に付けられる前の晩にイエス様は弟子たちに場所を備えるために父なる神様のところへ行かれると約束なさいました。それはイエス様はその者に父なる神様の家へ道を開いて下さいました。そこにイエス様ご自身もおられます。イエス様の道は死と墓と復活を通して天に昇天するまで開かれています。十字架の上でイエス様は私たちの罪を贖って、赦された者に永遠の命を与えて下さいます。その復活によって死に打ち勝って、悪魔からの解放を備えて下さいました。主に従う人々はイエス様が歩まれたと同じ道を通ります:眠って、墓を通して体の復活に預かって準備された父なる神様の住まいに行けます。

 「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と主が弟子たちに約束しました。イエス様は三日後その蘇りの時に弟子たちの所に戻って、又50日後でペンテコステの日に聖霊様として戻って来ました。イエス様を信じるすべての人をその「眠る」瞬間に迎えます。最終的にイエス様は再臨の時に全世界の人が見える輝く形で地上に戻ってその者を迎えます。その保証はイースターの素晴らしい出来事です。それはイエス様の復活です。

 大祭司としての祈りの中にイエス様はこう言われました:

 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。

 イエス様が私たちを迎える時に、私たちは主の栄光を見るようになります。その愛や良さや清さや美しさや憐みや聖さ、力、尊厳を仰ぎ見て、賛美し褒めたたえるようになります。顔と顔を合わせて主を仰ぎ見る以上に素晴らしいものがありません。屠られた子羊である主の手と足と脇腹にある傷跡を見ながらその永遠の愛を崇めます。新しい天と新しい地の光の中に彼を賛美します。その光の源は父なる神様とイエス・キリスト様です。いつまでも主と共におられるのは私たちの幸せです。主ご自身も私たちと共におられるのを喜んで下さいます。

 この地上で我らの目が閉じると主を見ます。この世の中のまだ色々の戦いがありますが、私たちに希望と安心があります。最後まで道が開かれています。例外なくすべて主の十字架の恵みに頼る人を主が迎えて下さいます。

冬から春へ

 家内と一緒に普通の定年退職者の生活をおくっています。礼拝はEspoo Kotikirkko で守って、家で聖書研究会を開いたり、孫たちとの交わりを楽しんだり、肉体的な健康を守ろうとしています。未だ年の割に元気です。レアは今年78才、私は75才を迎えます。4月13日に私たちの50番目の結婚記念日でした。

 力が許す限り友達と接触したり福音伝道に参加したりします。家内は日曜日学校の奉仕、病気の方々の見舞い、婦人集会のメッセージなどをやっています。私(ヨルマ)は月一回程度で礼拝メッセージをします。ミッションの聖書学院でも教えたり、すこし巡回伝道も致します。

 一つ大きめのプロジェクトとして「イスルン物語」と言うファンタシー小説の第一部と第二部「預言された王」をフィンランド語に翻訳しています。それは主に弟子ペテロの目から見たイエス様の物語です。他の弟子たちの背後や信じる戦いも興味深く描く本です。700ページの翻訳作業は暫く続きます。是非Amazonから手に入れて読んで頂きたいのです。

https://jeshurun.net

 私たちの心は毎日日本に行っています。祈りは日本まで届きます。又メールやSkypeで交わりが出来る事を嬉しく思います。主にある交わりを心から感謝いたします。

イースタの喜びと主の豊かな祝福をあなた様と愛する一人ひとりの上にお祈り致します。

  J. & L. ピヒカラ