聖金曜日と復活祭が近づいています。私たちは、西暦30年にエルサレムで、イエスが私たちのために十字架上で死に、岩の洞窟に葬られたが、三日目に墓か
らよみがえられたことを思い起こします。イエスは、私たちに肉体の復活への道と、天の栄光への道を開いてくださいました。私たちの救いは、歴史的な事実に
基づいています。
イエスの受難の奥義は、計り知れないほど深遠です。
その深みに少しでも踏み込むたびに、心は一方では恐怖に満たされます。まさに私自身の恐ろしい罪が、主の苦しみの原因だったのです。そして他方では、喜び
に満たされます。イエスの愛は、まさに私に対してさえ、計り知れないほど大きいのです。イエスが耐え忍ばれたすべての苦しみは、私のためにあったのです。
たとえこの地上に他の人が一人もいなくとも、それでも主は、その愛ゆえに、私のために同じことをなさったでしょう。
上記の聖書の箇所で、私の注意は最初の言葉に引かれ
ました。「イエスは、すべてがすでに成し遂げられたことを知ると、『私は渇いている』と言われた。」私たちは知っているし、聞いたことがありますが、渇き
とは、人間が経験しうる肉体の苦痛の中で最も恐ろしいものであると。イエスにとってもそれは恐ろしいものでした。なぜなら、喉の渇きを訴えることこそが、
十字架の上で、ご自身の肉体の凄まじい苦しみを表す唯一の言葉だったからです。しかし、最も重要なのは、イエスがこの痛みと渇きを、すべてがすでに成し遂
げられたと知った後に初めて表されたということです。
では、イエスが実際にまだ死んでいないうちに、一体
何がすでに成就していたのでしょうか。旧約聖書の預言でしょうか?
いいえ、それらはまだではありません。たとえ三日目の朝に、それらも最終的な「アーメン」、すなわち成就を迎えることになっていたとしても。

では、何がすでに成就されてい
たのでしょうか。私とすべての人間の罪のために、神の律法が要求するすべての懲罰の裁きが、最後の一滴に至るまで、完全に成就されていたのです。罪の報酬
は死ですが、それは肉体的な死というよりは――最終的にはそれも含まれますが――永遠の死、すなわち地獄の火のことです。それは、命の源である神からの完
全な分離を意味し、神に見捨てられ、神の怒りの下に置かれた、果てしなく絶望的な苦痛を意味します。まさにこの地獄の炎の苦しみこそを、イエスは私の罪の
罰として、神に見捨てられた者として、ゴルゴタの十字架に架けられ、十字架に懸けられていた6時間の間に、その魂の中で味わわなければならなかったので
す。
暗闇が支配しており、私たちの理解では、その暗闇の
向こう側にあるイエスの苦痛の大きさを決して測り知ることはできません。しかし、やがて罰が最後まで耐え抜かれた瞬間が訪れ、イエスはそれを知り、感じ取
られました。その後に初めて、肉体の苦痛が彼の意識に押し寄せた。魂の苦しみはそれほど計り知れないものであったため、私たちの贖いがすでに成し遂げられ
るまでは、イエスは人間としての肉体の苦痛の中でも最も恐ろしいものを、まるで気づいていなかったかのようであったのです。
そう、私の罪はそれほど恐ろしく、私の存在はそれほど汚れているため、私の罪に対する神がイエスへ向けた裁きは正当なものでした。しかし今や、その裁きは
すでに完全に受け尽くされました。イエスは私のために、自発的にそれを成し遂げられたのです。罪を取り除くことができるのは罰だけであり、まさにそれをイ
エスは成し遂げられたのです。神は、その大きな愛によって、御子イエスに私の代わりに苦しみを受けさせられました。私は今、イエスのゆえに罰から解放さ
れ、自分の罪の裁きから解放されています。私の救い主であり、私の赦し主である方、私が罪を委ねることができたその方が、それらを背負ってくださいまし
た。その御名が賛美されますように!

イエスはまた、肉体的な復活によって死の支配を打ち破られました。彼は、私を縛っていたあらゆる闇の勢力の支配に対しても勝利を収められました。私は自
由です、私は神の子です!何という恵みでしょう!
これは、あなたのためにもなされたことです。この奇
跡を通して与えられる赦しを受け入れることこそが、私たちの救いです。生ける神との交わりへと至る他の救いの道はありませんが、イエス・キリストに助けを
求めて叫ぶすべての人にとって、この一つの道は十分なのです。