伊藤栄一先生の証集
フィンランドで巡回伝道をする時にかなり多くの所で私の恩人の伊藤栄一先生の生涯をパワーポイントで紹介する機会がありました。又この秋に彼は20年前にテープに吹き込んだ証集をフィンランド語に翻訳して来ました。それで彼の伝道生涯の初期の一つの証をここに引用させて頂きます。その中に主イエス様を心の中に受け入れる、本物のクリスマスの恵みを感じました。
町元青年の証
主イエス様に出会って、キリストの救い預かる事はどのような素晴らしい命を持つか、聖書には死をも征服する力と書いてあります。
大阪伝道の、まだ若い神学校を出立ての頃、私の大きな感動を与えた青年の事を覚えます。それは昭和5年(1930年)夏の事です。
ある日町元君と言う青年のお母さんから電話がありました。「先生、息子が今大火傷をして外科病院に収容されました。危篤の状態ですが、どうぞ祈って下さい」と。飛んで病院に行きました。
この町元君と言う青年は鹿児島の方でした。お兄さんが大阪に出て、機械の修理工場のような所を経営していました。彼も勉強したかったが、家はそれほど豊かではなかったので、やがてお兄さんの修理工場で働きながら夜間の学校で勉強すると言う立場でした。
彼のお母さんから電話がかかった日にもその工場で修理をしていたら、偶々そこにあったガソリンに火花が入ったかで爆発事故が起きて、彼は全身大火傷になったのです。
私は病院に入って見ましたら、全身裸で包帯で体中ぐるぐる巻きに巻きられて、もう病室に入った途端に、「大変だな、これはどうなることか」と感じました。未だ伝道の初めの頃ですから、心を騒いで、どういうふうに慰められたらよいかと思って彼の傍に行きました。
お母さんはクリスチャンではありませんが、彼が教会に来て、すでに洗礼を受けて、青年会員として熱心であった事をご存知ですから、電話を下さったのですが、私が病室に入ったら、お母さんは彼の耳元で「伊藤先生が来て下さったよ」と知らして下さったのです。
その時彼は全身包帯のぐる巻きの中から、目が開いていたが、もう重体で見えないような状態から、「先生、お見舞いに来て下さってありがとうございます。」と言いました。「大変だったな」と言いましたら、「先生、ハレルヤを歌って下さい。」と言いました。
ハレルヤと言う言葉は神様の恵みを賛美する、褒め称えるという意味です。私は未だ伝道早々でこんな事に出会ったのは始めての事でしたので、びっくりしました。こんな不幸な状態の中でどうして神様の恵みを賛美出来るか、神様を呪ってもいいような状態の中に、神様の恵みを褒め称える歌を歌えと言うのです。これはキリストに出会った者の素晴らしさです。
私はハレルヤと言う歌をどういう歌を歌ったらよいのかと思ったら、なかなか思い出せませんでした。しかし、当時教会の夜の伝道集会で時々聖歌を使っていました。その中に使っていたのをふと思い出しました:
われ主にありて楽しい
御前に歩みて足れり
ハレルヤ、ハレルヤ
御前に歩みて足れり
彼の耳元で大きな声で歌いました。私はイエス様にあって嬉しい、喜びです。人の前ではなく、神様の前に生活する事によって十分満足し立っています。ハレルヤ、神様の恵みを賛美します。
これを歌いだしましたら、私の心が燃えて来ました。そして彼の唇を見ると、彼も唇を開いて私と一緒に歌っているのではないのですか。あのもう死にかけている大火傷の中で「われ主にありて楽しい、御前に歩みて足れり、ハレルヤ、ハレルヤ、御前に歩みて足れり」と歌っているのではありませんか。あの歌の4節は:
導きの手は硬し
やがて主の国に住まわん
ハレルヤ、ハレルヤ
やがて主の国に住まわん
地上の生涯はどうあろうと、やがて天のみ国に凱旋し、み国の民になります。ハレルヤ、ハレルヤ。
彼が私と一緒に歌った事で感動しました。歌が終わって、私が黙れば、彼は又すぐに「先生、主に任せと歌って下さい」と言うのではありませんか。驚きました。
キリスト信仰の姿勢のもっとも素晴らしいのは「まず神様のみ名を崇めて賛美する、その次生涯のすべてを思い煩わないで主に委ねる」事です。ここにキリストにつける一番大きな勝利があります。それで賛美歌285番を歌いました。
主よ御手もて
引かせ給え
ただわが主の 道を歩まん
いかに暗く 険しくとも
御旨ならば われいとわじ
イエス様、どうか私の弱い足を一足一足引っ張って下さい。私は自分の道でなく、ただあなたが導く道を歩みます。それがどんなに暗くても、険しくても、悲惨なものであっても、それはみ旨であれば、私はいといません。
主よ飲むべき わが杯
選び取りて
授け給え
喜びをも 悲しみをも
満たし給う ままにぞ受けん
甘い杯であろうと苦い杯であろうと備えて下さるままに引き受けると言う歌を賛美しました。
この歌も彼は口を開いて私と一緒に歌ったのではありませんか。驚くべき事でした。
医学的にあれほどの大火傷をする人は殆ど助かりませんが、彼は不思議にやがて癒されて、退院して家に帰りました。しかし、左の手と左足が動かなくなった障碍者として帰って来ました。しかし、彼が教会に戻って、賛美をし、祈る時に自分が障碍者になった事に対して恨むような、悲しむような事を訴える事は一切ありませんでした。何時でも感謝していました。
何年か後で主のみ下に招かれました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)