初めのクリスマスにお生まれになって、30歳で公の活動を始められたイエス・キリスト様は、ご自分が天の栄光の御国から人間として来られた理由を上に書いた通りに言い表しました。それは神様ご自身の聖霊様を注ぎ、最高のプレゼントとして、燃える火を救われる人々に与えるためでした。
その火は心を清めて、罪の赦しの確信を与えて、救われた人がいかに神様に愛されているのかを明確にする火です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)
聖霊様に満たされて、救われた人は主イエス・キリスト様がいかに大きな愛と恵みをもって私たちを包んでおられるかを、天国の前触れとして、体験出来ます。なんとも言えない喜びに満たされるのです。そのように聖霊様によって主イエス・キリスト様の栄光を一回だけでも経験した人は、それを一生忘れる事がありません。
主の愛の確かさを聖霊によって体験すると、イエス様の救いと恵みを他の人々にも伝える力が与えられます。それは確信による力です。主イエス・キリスト様はいつまでも共におられて、父なる神様のみ手は最後まで守って下さるからです。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
聖霊をいただいた人に、主が聖書を通して語って下さいます。それぞれの人生の場面で、み言葉で導いて下さるのです。そして、その声を他の人にも聞かせる使命を与えて下さいます。
しかし、この神様の命に預かる恵みの前提は、イエス様の十字架の苦しい道でした。イエス様が私たちの過去の罪、現在の罪、将来の罪の処罰を最後まで十字架の上で経験しなければなりませんでした。そこに神様の愛が明らかにされています。十字架の御業にとって、私たちに天国の喜び、イエス様に滅びの苦しみが与えられました。なんと恵みの交換でしょう。イエス様は私たちの代わりに罰を受け、私たちはイエス様の代わりに天国の栄光を受けます。
十字架の死が終わって、三日目に墓から復活したイエス様は、今聖霊による永遠の命を与えて下さいます。それはすべて心を開く人々に与えようとしておられます。主を必要とする人に、自分の罪を認める人に、主の恵みの支配に自分を任せようとする人に与えられます。例外はありません。イエス様はこう招いておられます:「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
このような恵みに預かるために何をしたらよいでしょうか。一つの具体例を見ましょう。
ヨハネは…イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「先生。今どこにお泊まりですか。」 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。 (ヨハネ1:36-40)
イエス・キリスト様はあなたの罪も取り除く救い主だと聞いたら、聖書を読みながら祈ってイエス様を求めて見なさい。そうするとあなたの事を完全に知っておられるイエス様は、あなたに向かって質問なさいます:「あなたは何を求めていますか。」あなたの心の最も深い求めは何ですか。正直に答えて下さい。二人弟子の答えの意味は「私たちを救う事が出来るあなたのところに留まりたいのです。」もし、あなたの願いも同じなら、主はご自分が、どのようなお方であるかをあなたに示して下さいます。そして主のみ声を聖書を通して聴きながら、罪赦されて聖霊の命に預かります。主イエス・キリスト様の御顔を仰ぎながら、喜びに満たされます。その時にあなたの心も、み使いたちの賛美と一緒に、主を褒めたたえるようになります:
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)