Jorma & Lea Pihkala
Punkankuja 6 as 4
12310 Ryttyla, Finland
メール:jormapihkala@gmail.com
HP: www.pihkala.net
電話 +358-45-1857 511   
Skype: jormapihkala

2016のクリスマス


 クリスマスおめでとうございます。

 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10:13)

10月20日に何人かの婦人たちが神戸でみ言葉と祈りの為に集まった時に、家内が証をした。それを西村康子さんが文章に纏めたから、部分的にここで引用致します。

 私ピヒカラ・レアはフィンランドのヘルシンキで、1941年に生まれました。その時、第二次世界大戦が続きました。日本とフィンランドは戦争の時、物不足でまた貧乏で、本当に苦しいこともたくさんありました。私は5人兄弟です。父は一生懸命働いて、そして何とか日々の糧を私たちに与えてくれました。やっぱり厳しかった。

 私は近くの教会の日曜学校に5年間毎日曜日に通いました。どうしてか分からないけれど、私は間違って話を受け入れました。私はイエス様が良い人のために、この世にいらっしゃったと誤解しました。私のためではない、それが、たいへん痛い事でした。罪人であるものは天国に入ることはできません。私はだれにも、この事は言えませんでした。ずっと心に置いてあったし、悲しかったけれど、まあ、しょうがない、私は神様が正しい、だから私のようなものが天国に入ったら、もう、天国が地獄になるようです。私はずっと地獄行き人間だったと思いました。

 私は話がオープンで、たくさん友だちもできましたし、スポーツも出来ました。そういう意味で外から見たら、みなさんは私をHappyの女の子と思っていたけれども、心の中の悩みがありました。天国っていう事を考えましたけれども、私のためではないって間違って思いました。そして、22歳までほとんど教会に行ってなかった。そこに私に何の望み、希望がありませんでしたので、そこに行きませんでした。

 ある土曜日の夜の事で、私は友だちと一緒に遊びたくなかった。ヘルシンキの真ん中をイタリア製の赤いモータバイクで走って、ちょうどその時は大きい教会のベルが響き渡って、夕礼拝を知らせた。何かあるかなあと考えて、そしてどうしてかはわかりませんけども、教会に入りました。他の人はもう話を聞いていた。私はだれも周りの人を知らずに、一番後ろに座って、ちょうどその瞬間に牧師先生は「イエス様は罪人のために、この世にいらっしゃいました。」とおっしやいました。「えー私のためにも」と心の中に考えた。私にも今、望み、希望があります。私のようなもののためにも、イエス様がこの世にいらっしゃいました。」心に溢れるくらい、神様の愛が入って下さった。「これは素晴らしい事、今、私は天国行き人間になった。私も信じる」と。信仰があったら、悔い改めたら、本当に天国に入れる。清い心を頂いて、大喜びで教会から、だれにも何も言わずに出ました。同じ瞬間に宣教師になりたい!この素晴らしいニュースを、この世の終わりまで、どこかへ行って述べ伝えたい、証人になりたいと思いました。


 そこから6kmのところに、父と母の家があって、そこにまだ住んでいました。喜んで家まで走って、玄関で大声で叫んだ。「お母さん、私は救われた!イエス様が罪人のために、この世にいらっしゃった。」そして母は「えーお父さん早く来て!レアさんは、ちょっと頭がくるくる回っている、何か起こった」とお母さんはビックリした。私は大笑いで、「本当よ、お母さん、私は本当そうです。幸せな人になった!」と。そして、母はお父さんを呼んでいました。お父さんは、私を見て母に、「大丈夫」って言いました。

 その当時、地図を作っている会社で働いていました。たぶん、宣教会は、そんな仕事をするような人はいらないと思いました。学校の先生、医者、看護師などを、必要としているとある友達が説明して、看護師になりたいと思いました。そして、看護師学校に入学して、3年半勉強しました。
その時、ヘルシンキでリバイバル運動がありました。たくさんの若い人が救われました。そして学生の中にヨルマがいて、私たちは出会いました。私たちは路傍で伝道をしたり、病院で歌を歌ったり、刑務所にも行って勉強もしながら伝道しました。いろんなところに証人として、大喜びで行きました。ヨルマと交際始めました。彼は大学で数学専門課程を、私は看護師学校を、同じ春に卒業しました。

 しかし、ヨルマは、軍隊に入った時に心臓の病気にかかったので、宣教師になる事はできないと思いました。私は、どうしようかなあと悩みました。どうしても宣教師になりたい!その時、まだヨルマとは婚約もないけれど、もしヨルマの健康の理由で、私と一緒に行くことができないのなら、私は婚約と結婚もしませんと神様にお祈りしました。そういう風な大変苦しい葛藤がありましたけれども、後から少しずつヨルマの心臓は元気になって、お医者さんからは、「もし、軽い仕事なら熱帯地域でもできます」と言われました。アフリカに行くつもりでしたが、ヨルマの健康の理由で日本に行くことになりました。私たちは婚約して、その2年後に結婚しました。そしてミッション学校の訓練、またイギリスでの英語の勉強と色々な勉強が沢山ありました。

 1972年のクリスマスに初めて日本にまいりました。その時に、双子シニカとヘレナは1才半、長女ハンナは3才で、小さい子ども3人を連れて、何も知らずに日本にまいりました。言葉も一つも出来ずに、神戸の日本語学校で2年間勉強しました。その後、何処で伝道をしたらよいかと知っている人に色々聞いて、四国に教会が少ないと分かりました。1975年お正月に徳島に引っ越しました。

 あの当時、四国は道も悪かったし、家も狭かった。四国は割合貧乏な島だった。だから、私たち幸いに、43平方メートルの小さい家を借りて、そこに6畳の部屋、6畳の台所、それを一緒にしたので広く見えました。そして4畳半とお風呂とトイレがありました。間もなく1975年6月に2番目の双子トミオとアサコが生まれました。


 41年前の古い話ですが、その畳の部屋に何も置いていなかった。座布団だけ、何の道具もなかった。要らなかったです。2人の赤ちゃん、3才半の双子、5歳のハンナ、私と主人、7人家族で何とかそこに寝た。冬になったら、厚い布団の中で、赤ちゃんたちが動いた。朝起きたら、もう、どこに行ったか、空気が足りたかと心配でしたので、赤ちゃんを守るために、ベッドが必要だと判断しました。そして赤ちゃんのトミオとアサコのために、ベッドを買いました。

 昼は、その畳の部屋でよその子どもがよく1日中遊んだり、奥さん達も入ったりしました。夜もある人は窓から入った。私はぜんぜん気にしませんでした。草履か何かをそのまま置いて入って、また出た。精神障害者の女性2人は、毎日来た。その精神障害者の母親たちは私に聞いた。「うちの娘たちがお宅に毎日来てもいいですか?」と。私は、「あーそーまあ来てもよろしい」と言いました。そして畳の部屋に、あの2人がずっと1年半座って、毎朝来て、そして夕方になって、自分の家に帰りました。家の子どももたくさんいたし、奥さんたちもいたし、その精神障害者の2人もいたし、割合、賑やかだった。


 日曜学校もその6畳でやりました。一番多い時に30人の子どもが来ました。子どもは小さいから、6畳部屋に入れました。婦人集会、料理教室も台所と6畳の部屋でしました。そこで私は料理を作って、教えました。その当時、婦人たちはあまり外で働いていなかったので、よく暇がありました。大体10人の子どもたちも、その婦人集会に来ました。今は違うでしょう。いろんなクラブもありますし、子どもたちはたいへん忙しくなりました。そのような家で私たちの開拓伝道を始まりました。主人は必死に聖書を教えました。

 開拓伝道が始まってから、3年で小さい吉野川教会を建てることができました。安くて小さい教会でした。この間、四国に行って私たちが建てた吉野川教会を見てきました。今は全部壊してしまって、何もありません。残っているのは、砂利だけでした。何か、ちょっと涙が出た。けれど、今は別の所に良い教会が建てられました。

 今は四国・淡路地区に4つの教会が牧会されています。私たちが吉野川教会で伝道をしていた時、やっぱり神様が祝福して下さって、人々は少しずつ来ました。初めに5つのクリスチャン家族が礼拝を守りました。そして、子どもの教育もやって、うちの子どもは日本の学校にも入ったし、その後は大津にあるフィンランド学校にも通いました。今は娘のアサコは主人と子ども3人で西宮の教会で10年以上働いています。一番末娘のカーリナも5年間家族と一緒に宣教師として働きました。今はフィンランドにいます。そういう意味でも祝福がありました。

 色々難しい時も沢山ありました。子どもが重い病気になったりしました。何回か、時には一か月間、時には3か月間徳島の病院で世話になったりしました。2人の子供が死にそうになりましたから、簡単ではなかったけれど、何とか7人の子どもの世話をして、みんなが今、生きているということは幸いです。


 忙しい時があった。たとえばトミオとアサコ2番目の双子が生まれた。母乳を飲ます時間もありませんでした。人々は行ったり入ったり、行ったり入ったり、そして子どもは走ってまた誰かトイレに入って「お母さん、お母さん」と呼んでいた。けれど、一変も私はフィンランドに帰りたいと思わなかった。子どもが思い病気になっても、これらの事も神様から頂いたものだと確信しました。初めの17年間四国で働いた時は、2回だけフィンランドに休暇で帰ったことがありました。

 私にとって日本伝道の中に最も痛い体験は教会の中の分裂でした。愛する兄弟姉妹に誤解されたりする時でした。30年の日本伝道で挫折や霊的な戦いも多かったです。今はもう、40年以上も経ちました。そして今は子どもが7人、孫が14人います。私は古いお婆さんですけれど、今でも私は、よく走り回ります。神様から頂いた人生だから、苦しい事と、悩みの時、困難な時、いろいろありました。ずっと神様が共におられた。だから暗いな事も、神様のみ手から頂いて参りました。

 

4ヵ月間の日本滞在

 スイス日本語教会の主催で南ドイツで行われた33回目のヨーロッパ・キリスト者の集いに家内と末娘のカーリナと一緒に参加して、イエス・キリスト様の再臨について中川健一先生の徹底的な講義や素晴らしいメッセージや賛美に預かった事で恵まれました(詳しく http://www.europetsudoi.net を参考に)。帰りで飛行機が飛ばなくて、家に帰ったのは一日遅れでした。次の日から日本に向かいました。


 8月のあまりにも熱い時を西宮南教会で過ごしました。フィンランドから来た二人の神学生に2週間日本を紹介しながら、西宮教会と阿南教会で奉仕を致しました。11月21日にフィンランドに帰るまで、今まで働いて来た7つの教会で礼拝説教が出来て、懐かしい方々と交わりが出来た事を主に感謝します。又例えば西宮教会のフィンランド語のクラスで新しい友達も出来て嬉しかったです。

 家内が10月一杯来日して、一緒に多くの方々を訪問する事が出来たり、素晴らしい食事の交わりに預かったりして、皆様の大きな愛に触れて、とても大きな恵みを頂きました。横浜、岐阜、四国からもわざわざ私たちを訪問するために神戸まで来ていただいた方もいらっしゃって、素晴らしい思い出になりました。

聖書学院での奉仕

 神戸ルーテル聖書学院で第二学期を過ごして、ヘブル人への手紙とローマ人への手紙を20名ぐらいの方々に教える事が出来ました。その内容は録音されて次のHPから聞くことが出来ます:
http://wjelc.sekl.fi/KLBI/jugyoutekisuto.htm
フィンランドに帰る前に「召命」について公開j授業にも参加出来て嬉しかったです。

ここで学院生の岡利明さんの証をご紹介致します:

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)
これは私が33歳の時、お手伝いさせていただいていた心理カウンセラーの先生の事務所に飾ってあった御言葉です。その時から、私はこの御言葉に動かされています。

 教会に通い始めたのは33歳の時です。それまで1年間ほど受講していた心理学セミナーの先生が話されたことがきっかけです。「カウンセリングをしていると、もうこれ以上続けられないと思うことが何度もあります。実際に、自分の力だけではとても続けられなかったでしょう。私がこれまでこの仕事を続けてこられたのは、神様から力をいただいているからです。神様が最高です。」と言われました。

 その話を間いて、私は「先生のカウンセリングをしてくださる方とは、どのようなものだろう?」と思いました。そして、「大学時代は仏教に興味があったけど、キリスト教もいいかもしれない。出口の見えない苦しみを解決するヒントが得られるかもしれない。」と考えました。

 23歳で大学を卒業してから、私は3年間引きこもっていました。寝るかゲームするかの逃避生活でした。考えることが辛くて、当時のことはほとんど覚えていません。ただ、社会に適応できないことに怒りを持っていました。あまりの自分の無価値さに「消えたい」と思っていました。
26歳を過ぎてから、就職を諦め、開き直りました。そして、外出はできるようになりました。運動やNHK高校講座などをやってみたいと思ってやりました。がんばることは楽しいと思いましたが、7割以上は虚しいと思う時間を過ごしました。

 29歳になって、不登校や引きこもりの居場所ボランティアを始めました。他人との関係を持つのは6年ぶりです。最初の1年は教えてもらう姿勢だったので人間関係は悪くなかったのですが、運営について筋道の通った説明がなく、少しずつスタッフに不信感を持つようになりました。

 32歳で不登校・引きこもりの居場所を去りました。居場所はお互いの干渉を嫌い、自由で楽な反面、無闇心なように感じました。これでは、私のようなタイプの悩みを解決することは難しいと思いました。私のようなタイプの悩みとは、「人生の意味を見出す」という悩みのことです。

 そして、33歳の時に教会につながり、35歳で洗礼を受け、36歳現在、聖書学院に導かれています。私は、一般の社会で働くことができません。そのことを、私は「社会的にゼロ点」と思わざるを得ません。そう思ってしまうことは、自分でもコントロールできません。「人と比較しない人生を歩みなさい」と言われても、そうはできないのです。

 社会的にゼロ点の私は、基本的なセルフイメージが否定的です。「私はオッケーでない」という世界に生きています。一方で、「他人はオッケー(僕とはちがって正しい)」という世界も同時に持っています。この2つの世界が組み合わさると、他人を恐れる引きこもり気質へとつながります。

 社会的にゼロ点の私は、神様の目から見たらなおさらゼロ点であるだろうと思います。しかし、神様は情に厚く、信じる者にはお優しいお方です。自分の罪を認めて信じる者を義とされ、神様の目からは100点にさえしてくださいます。罪を認めることは、どちみち無価値な私にとっては自然なことです。

 私は相変わらず、社会的にはゼロ点ですが、神様が100点をくださるので、人生を良いものと考えることができます。セルフイメージの訓練で、鏡の前に立ち「あなたは愛されています」と言う、虚しい思いをしなくてもよくなりました。社会的にゼロ点でも全く気にならないというふうにはなりませんが、人生の意味と価値を神様が与えてくださることは善いことだと感じています。

 「神の国と義を求めなさい」という御言葉に従って歩めることは幸せだと思います。さらに、神様は私が信仰の道を歩めるように備えてくださっています。聖書学院を牧師夫妻に勧められたことも、勧められて自然に受け入れる心に整えていただいていることも、学院の生活が合っていると感じることも、神様の働きだと思います。

 自分の力によって歩こうとすれば、たちまち虚しい思いに潰されてしまう私は、神様を求めて歩む人生が必要です。神様に100点をもらって生きることが必要です。聖書学院の学びの中で、特に教理的な部分は難しく感じますが、福音の理解が正しくできるように希望します。そして、救いの確信と明確な石膏とを与えられるように願っています。

日本伝道会議

 9月の最後の週に2100人の牧師、伝道師、長老、信徒リーダ、宣教師と一緒に6回目の日本伝道会議に参加しました。1974年の一回目に出席した事を思いながら、日本伝道の大きなチャレンジをまた感じました。新しい開拓教会を開発しない限り、日本の大きな国民は主にあって救われるチャンスを失います。新しいリバイバル、新しい働き人、又人々の救いに対する重荷が必要です。会議の後に全世界で働いている日本語教会の働き人やその支援者のセミナーにも出席して、ヨーロッパに住んでいる日本人の魂の救いの為にも新たな挑戦を受けました。

 西日本福音ルーテル教会の教職者と共に働いた長年を主に感謝します。

過ぎ去った一年の間に、色々お世話になり、祈りの内に覚えて頂いて、交わりの場が与えられて心から感謝致します。

主イエス・キリスト様の降誕を心より喜び申し上げます。

主の恵みの2017年をお迎え下さい。

J. & L.  ピヒカラ