10月20日に何人かの婦人たちが神戸でみ言葉と祈りの為に集まった時に、家内が証をした。それを西村康子さんが文章に纏めたから、部分的にここで引用致します。
私ピヒカラ・レアはフィンランドのヘルシンキで、1941年に生まれました。その時、第二次世界大戦が続きました。日本とフィンランドは戦争の時、物不足でまた貧乏で、本当に苦しいこともたくさんありました。私は5人兄弟です。父は一生懸命働いて、そして何とか日々の糧を私たちに与えてくれました。やっぱり厳しかった。
私は近くの教会の日曜学校に5年間毎日曜日に通いました。どうしてか分からないけれど、私は間違って話を受け入れました。私はイエス様が良い人のために、この世にいらっしゃったと誤解しました。私のためではない、それが、たいへん痛い事でした。罪人であるものは天国に入ることはできません。私はだれにも、この事は言えませんでした。ずっと心に置いてあったし、悲しかったけれど、まあ、しょうがない、私は神様が正しい、だから私のようなものが天国に入ったら、もう、天国が地獄になるようです。私はずっと地獄行き人間だったと思いました。
私は話がオープンで、たくさん友だちもできましたし、スポーツも出来ました。そういう意味で外から見たら、みなさんは私をHappyの女の子と思っていたけれども、心の中の悩みがありました。天国っていう事を考えましたけれども、私のためではないって間違って思いました。そして、22歳までほとんど教会に行ってなかった。そこに私に何の望み、希望がありませんでしたので、そこに行きませんでした。
ある土曜日の夜の事で、私は友だちと一緒に遊びたくなかった。ヘルシンキの真ん中をイタリア製の赤いモータバイクで走って、ちょうどその時は大きい教会のベルが響き渡って、夕礼拝を知らせた。何かあるかなあと考えて、そしてどうしてかはわかりませんけども、教会に入りました。他の人はもう話を聞いていた。私はだれも周りの人を知らずに、一番後ろに座って、ちょうどその瞬間に牧師先生は「イエス様は罪人のために、この世にいらっしゃいました。」とおっしやいました。「えー私のためにも」と心の中に考えた。私にも今、望み、希望があります。私のようなもののためにも、イエス様がこの世にいらっしゃいました。」心に溢れるくらい、神様の愛が入って下さった。「これは素晴らしい事、今、私は天国行き人間になった。私も信じる」と。信仰があったら、悔い改めたら、本当に天国に入れる。清い心を頂いて、大喜びで教会から、だれにも何も言わずに出ました。同じ瞬間に宣教師になりたい!この素晴らしいニュースを、この世の終わりまで、どこかへ行って述べ伝えたい、証人になりたいと思いました。
そこから6kmのところに、父と母の家があって、そこにまだ住んでいました。喜んで家まで走って、玄関で大声で叫んだ。「お母さん、私は救われた!イエス様が罪人のために、この世にいらっしゃった。」そして母は「えーお父さん早く来て!レアさんは、ちょっと頭がくるくる回っている、何か起こった」とお母さんはビックリした。私は大笑いで、「本当よ、お母さん、私は本当そうです。幸せな人になった!」と。そして、母はお父さんを呼んでいました。お父さんは、私を見て母に、「大丈夫」って言いました。
その当時、地図を作っている会社で働いていました。たぶん、宣教会は、そんな仕事をするような人はいらないと思いました。学校の先生、医者、看護師などを、必要としているとある友達が説明して、看護師になりたいと思いました。そして、看護師学校に入学して、3年半勉強しました。
その時、ヘルシンキでリバイバル運動がありました。たくさんの若い人が救われました。そして学生の中にヨルマがいて、私たちは出会いました。私たちは路傍で伝道をしたり、病院で歌を歌ったり、刑務所にも行って勉強もしながら伝道しました。いろんなところに証人として、大喜びで行きました。ヨルマと交際始めました。彼は大学で数学専門課程を、私は看護師学校を、同じ春に卒業しました。
しかし、ヨルマは、軍隊に入った時に心臓の病気にかかったので、宣教師になる事はできないと思いました。私は、どうしようかなあと悩みました。どうしても宣教師になりたい!その時、まだヨルマとは婚約もないけれど、もしヨルマの健康の理由で、私と一緒に行くことができないのなら、私は婚約と結婚もしませんと神様にお祈りしました。そういう風な大変苦しい葛藤がありましたけれども、後から少しずつヨルマの心臓は元気になって、お医者さんからは、「もし、軽い仕事なら熱帯地域でもできます」と言われました。アフリカに行くつもりでしたが、ヨルマの健康の理由で日本に行くことになりました。私たちは婚約して、その2年後に結婚しました。そしてミッション学校の訓練、またイギリスでの英語の勉強と色々な勉強が沢山ありました。
1972年のクリスマスに初めて日本にまいりました。その時に、双子シニカとヘレナは1才半、長女ハンナは3才で、小さい子ども3人を連れて、何も知らずに日本にまいりました。言葉も一つも出来ずに、神戸の日本語学校で2年間勉強しました。その後、何処で伝道をしたらよいかと知っている人に色々聞いて、四国に教会が少ないと分かりました。1975年お正月に徳島に引っ越しました。
あの当時、四国は道も悪かったし、家も狭かった。四国は割合貧乏な島だった。だから、私たち幸いに、43平方メートルの小さい家を借りて、そこに6畳の部屋、6畳の台所、それを一緒にしたので広く見えました。そして4畳半とお風呂とトイレがありました。間もなく1975年6月に2番目の双子トミオとアサコが生まれました。
41年前の古い話ですが、その畳の部屋に何も置いていなかった。座布団だけ、何の道具もなかった。要らなかったです。2人の赤ちゃん、3才半の双子、5歳のハンナ、私と主人、7人家族で何とかそこに寝た。冬になったら、厚い布団の中で、赤ちゃんたちが動いた。朝起きたら、もう、どこに行ったか、空気が足りたかと心配でしたので、赤ちゃんを守るために、ベッドが必要だと判断しました。そして赤ちゃんのトミオとアサコのために、ベッドを買いました。
昼は、その畳の部屋でよその子どもがよく1日中遊んだり、奥さん達も入ったりしました。夜もある人は窓から入った。私はぜんぜん気にしませんでした。草履か何かをそのまま置いて入って、また出た。精神障害者の女性2人は、毎日来た。その精神障害者の母親たちは私に聞いた。「うちの娘たちがお宅に毎日来てもいいですか?」と。私は、「あーそーまあ来てもよろしい」と言いました。そして畳の部屋に、あの2人がずっと1年半座って、毎朝来て、そして夕方になって、自分の家に帰りました。家の子どももたくさんいたし、奥さんたちもいたし、その精神障害者の2人もいたし、割合、賑やかだった。
日曜学校もその6畳でやりました。一番多い時に30人の子どもが来ました。子どもは小さいから、6畳部屋に入れました。婦人集会、料理教室も台所と6畳の部屋でしました。そこで私は料理を作って、教えました。その当時、婦人たちはあまり外で働いていなかったので、よく暇がありました。大体10人の子どもたちも、その婦人集会に来ました。今は違うでしょう。いろんなクラブもありますし、子どもたちはたいへん忙しくなりました。そのような家で私たちの開拓伝道を始まりました。主人は必死に聖書を教えました。
開拓伝道が始まってから、3年で小さい吉野川教会を建てることができました。安くて小さい教会でした。この間、四国に行って私たちが建てた吉野川教会を見てきました。今は全部壊してしまって、何もありません。残っているのは、砂利だけでした。何か、ちょっと涙が出た。けれど、今は別の所に良い教会が建てられました。
今は四国・淡路地区に4つの教会が牧会されています。私たちが吉野川教会で伝道をしていた時、やっぱり神様が祝福して下さって、人々は少しずつ来ました。初めに5つのクリスチャン家族が礼拝を守りました。そして、子どもの教育もやって、うちの子どもは日本の学校にも入ったし、その後は大津にあるフィンランド学校にも通いました。今は娘のアサコは主人と子ども3人で西宮の教会で10年以上働いています。一番末娘のカーリナも5年間家族と一緒に宣教師として働きました。今はフィンランドにいます。そういう意味でも祝福がありました。
色々難しい時も沢山ありました。子どもが重い病気になったりしました。何回か、時には一か月間、時には3か月間徳島の病院で世話になったりしました。2人の子供が死にそうになりましたから、簡単ではなかったけれど、何とか7人の子どもの世話をして、みんなが今、生きているということは幸いです。
忙しい時があった。たとえばトミオとアサコ2番目の双子が生まれた。母乳を飲ます時間もありませんでした。人々は行ったり入ったり、行ったり入ったり、そして子どもは走ってまた誰かトイレに入って「お母さん、お母さん」と呼んでいた。けれど、一変も私はフィンランドに帰りたいと思わなかった。子どもが思い病気になっても、これらの事も神様から頂いたものだと確信しました。初めの17年間四国で働いた時は、2回だけフィンランドに休暇で帰ったことがありました。
私にとって日本伝道の中に最も痛い体験は教会の中の分裂でした。愛する兄弟姉妹に誤解されたりする時でした。30年の日本伝道で挫折や霊的な戦いも多かったです。今はもう、40年以上も経ちました。そして今は子どもが7人、孫が14人います。私は古いお婆さんですけれど、今でも私は、よく走り回ります。神様から頂いた人生だから、苦しい事と、悩みの時、困難な時、いろいろありました。ずっと神様が共におられた。だから暗いな事も、神様のみ手から頂いて参りました。