見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言
い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。イザ42章1〜3節)
10月に来日した時に多くの方々のお世話になって、又山ほど色々の土産
を頂いて感謝で一杯です。土産の中に勝浦良明さんの証し集が入ってい
ました。読んで感動して、以下にその中から一部を紹介致します。
徳島生まれ育ちの勝浦良明さんは
2021年66歳で天に召されました。20歳の時に病気になって、医療ミスで36年間首から完全麻痺で人口呼吸器を頼る生活を送りました。その中に特別な
措置を使ってパスコンを操作して1万数千曲の各種キリスト教讃美歌の伴奏データを作成しました。以下は彼の2005年の証しを引用させて頂きます。
HAT神戸教会の礼拝
イエスがいるから 明日は怖くない
イエスが
いるから 恐れは消え
イエスが
いるから 人生は素晴らしい
彼に全てを委ねた今は
私はこの病院(徳島大学病院)に入院して、ちょうど二十年になりました。すなわち人工
呼吸器の装着歴も二十年になります。人工呼吸器が発明されてまだ八十年ほどだから、私は長期間の生存例かも知れません。最近、毎年のように人工呼吸器の医
療事故で死者が出ているし、先日の新潟県中越地震で入院中の患者の人工呼吸器が外れて、亡くなったことも記憶に新しいところです。その意味では、私たち人
工呼吸器の使用者は、生と死の狭間にいるといえます。私もつい最近外出中に、酸素ボンベの残量がゼロになって、窒息の寸前で、一歩違いで死に至っていたか
もわからないといった経験をしました。
HAT神戸の教会の聖書研究会
さて、この二十年間の前半と後半の違いについて振り返ってみます。それは聖書
を知る前と知ってからに分かれます。最初の十年間は何もするべきことかありませんでした。ただ新聞やテレビを漫然と眺めているだけで、退屈で死を考えるだ
けの文字通り死んだも同然の毎日でした。気管切開のために発声ができなくて、一日中押し黙ったまま、家族も含め誰とも意志の疎通もできなくて、心は嵐が吹
きまくっていました。友達も少なく、半年間誰も訪ねてくれる人もないということもありました。向上心も知識欲もなく、本を読みたいとか、何かを学びたいと
か、糧になるものを探すということもなかったのです。暇で、淋しくて、孤独でしたが、ペッドに寝たままで、逃げて行くことはできません。声が出ないため
に、淋しいということすら表現できませんでした。まさに生ける屍でした。
それと比べて後の十年は生活がからっと変わりました。入院して十年も経つと自
然と考え方も変えられて当たり前です。このままではいけないと思うようになりました。遅すぎたくらいですが、十年もかかってやっと自分自身の障害を受容で
きたのです。それが何によってかをこれから書きたいと思います。
あお教会の祈祷会
手紙を書きたいと思ったのがきっかけで、自分で使えるパソコンを探しました。
首から下が完全に麻庫しているので、私に見合う装置を見つけ出すのには骨が折れましたが、なんとか見つかりました。そんな時だまたまパソコン用のCD-
ROMを使って聖書が読めることを知りました。でもまだその頃はソフトが少なくて、読みたくても読めるCD-ROMは聖書しかなかったのです。暇にまかせ
て貪るように聖書を読みました。旧約聖書と新約聖書の違いも、カトリックとプロテスタントの違いも何もわからないままにです。むしろ私にとっては、キリス
ト教に対する知識が全然なかったことが幸いでした。聖書は文学書の一つであり、イエス・キリストはキリスト教の教祖だとしか思っていませんでした。
ある時、ここの病院にご主人が入院していたクリスチャンの奥様と知り合い、病
室を訪問してくれるようになり、また別の女性から、彼女が会員である徳島聖書キリスト集会代表を紹介されました。
障害者になって失ったことも多かったかわりに得たことも多いのです。ここでは全てを書き切れませんが、その最たるものは、多くの友です。それはイエス様
に招かれた友による友の紹介によるものです。
その人だちからいろんな話を聞かせてもらううちに、私のキリスト教への認識が
変化し始めました。イエス様は私の重い罪のために、十字架に付けられて死んで下さったこと、三日目に墓から蘇ったこと、クリスチャンはこの世の生を終えた
後、キリストと同じ完全な形に変えられ、永遠の命を与えられること、など、福音が伝わってきました。
北鈴蘭台教会の礼拝
私のような重度の障害者でもひとりひとりが神様から愛されていて、悲観して生
きることはないとわかるようになりました。それまでの、「自分は生きていく価値のない者だ」という人生観が百八十度変わりました。私が病気をしたのはただ
単に運が悪かっただけのことだと考えていましたが、それがそうではなく神様の必然だと思えるようになりました。
神様の計画のうちに、私を病気や障害者にさせる必要があったと理解できまし
た。私が生きているうちには、その理由はわからないでしょうが、私が御国に行ってイエス様と相まみえた時に、「ああ、こういうことだったのか」とやっと理
解ができることでしょう。その希望もこの世をこれから生きる糧になります。
そのために、イエス様を中心とした生活がしたいし、神様に喜ばれることをした
いのです。イエス様にすがりついて行きたいし、もっとイエス様のことを知りたいというのが今の正直な気持ちです。
パソコンで讃美歌の楽譜の入力を八年以上続けているのも、それを実現する一環
です。私に才能があるとか、知識に優れていることでは全然ないのです。神様はそのご計画のためには、使える者は何でも用いようとする御業の現れだと思いま
す。
この仕事を与えて下さった神様が素晴らしいのです。私のような小さな弱い弱い
者でも、残された体の機能を使おうと、神様が考えられた結果なのです。
私の信仰が篤いとかいうことでもありません。イエス様の説いた福音を信じるか
信じないかということだけです。
これから生きて行く中で、多くの悩み、思い煩い、苦難、艱難などが、私(た
ち)にはたくさん待ち受けていることでしょう。そんなただ中で、多くの信仰の友とともに祈り合いながら、日々を過ごして行くのだと思っています。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 (ヨブ記 1:21)
神戸ルーテル聖書学院の学生
Espoon Kotikirkko
エスポーホーム教会
エスポーホーム教会では、
私は今でも毎月説教者として奉仕をしています。
今回はテサロニケ人への手紙を学んでいます。
来年の春、エスポー教会が東ヘルシンキで新しい教会の開拓を開始する予定で、家内と私はそれを支援するよう招待されました。
私たちは、主が私たちに日々を与えて下されば一年間そのプロジェクトに取り組むと約束しました。
日本の旅
10月の日本旅行は家内にとってスケジュールが厳しすぎたので、私は一人で行ってきました。
多くの親愛なる友人の皆様に会い、彼らに別れを告げることができました。なぜなら、この旅行が、私たちが30年間主に仕えてきた日本への最後の旅行だった
と思うからです。 いろんな感情が湧き出てきました。 前回からすでに5年が経ち、その間に何人かが主イエス様の御許に召されました。
旅の途中で驚くべき出会いもありました。
北島町で伝道開始の時に1975年から1976年にかけて、ご両親にネグレクトされた4歳の少女マミちゃんが毎日のように家に遊びに来ていました。50年
ぶるに彼女に出会いました。彼女はその仲間グループで、自分自身が子供の頃に私たちから世話を受けていたように、今ではネグレクトされている子供たちの世
話をしていると聞いて驚きました。
今回は私は150人以上の方々に会い、教会の礼拝、家庭集会、聖書学院、個人的な出会いなどで慰めの福音とイエス様の再臨のメッセージを宣べ伝えること
ができました。会いたくても会えなかった方々がスケジュール上沢山いましたが、フィンランドにおいで下さったら是非会いたいのですが、地上で会えなかった
ら、せめてイエス様を信じて主の御許で会いましょう。
東京では、夏に引っ越してきた次男の家族に会いました。子供たちはクリスチャンアカデミージャパンに通って、英語で勉強しています。
神戸では、パルム朝子とパルムラウリに会いました。秋から今度は北鈴蘭台教会で新しい奉仕任期をスタートしました。
吉野川教会の集い
家族ニュース
この秋も家内と
共に年齢の割に良い状態で過ごさせて頂いて来ました。
ただし、家内は11月と12月に2回日帰り訂正手術を受けたため、その活動範囲を少し狭まれました。
末っ子の夫であ
り、元日本宣教師、ミッションの国内伝道のコーディネーターとして働いて来たA.サボネンの仕事が終了しました。ミッションの経済的な危機でその他にも
12名の宣教師やスタッフが減らされました。解雇された一人一人の再就職は懸念材料です。
内のミッションと他の聖書信仰に立っている団体がリベラルの教会と社会の方からかなり
の攻撃を受けています。私たちの祈りは、それらの団体が今の暗い時代においてより多くの支持者を得ること、そして主に背を向けたフィンランド国民に主が改
めて霊的な復活の恵みを与えてくださることです。
阿南教会の礼拝
あなたの友情を心から感謝致します。主の祝福をお祈りいたします。
主イエス・キリスト様のご降誕を心より喜び申し上げます。主の恵みの2022年をお迎え
下さい。