「1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:1〜11)
人の姿
大変長い聖書の引用ですが、特に初心者の聖書研究の時に、それを教える時に、私自身の心が踊ります。なぜなら、神様が私たちの為に用意して下さった救いが如何に一方的な恵みによるものか、余りにも明確にする聖書の箇所です。又大きな個人的な試練の時(死にそうになって病気で苦しんだ時)に、8節の言葉で凄く慰められた経験もあるからです。
先ず、救いはどんな人の為に用意されたでしょうか。第一に弱い人のためです。この言葉はとても広い意味があります。これは社会的に弱い人々も含めば、精神的にも弱い人も、霊的に弱い人も含めます。しかし、一番の弱さは、私たちが自分の罪深い性質に住み着いている罪の力に対して弱いのです。その弱さについてパウロは同じローマ人への手紙の7章の中に次のように嘆いています:
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
自分の感情や思いをどうしてもコントロール出来ない私、又誘惑に負ける私、何と言う惨めな弱さを持っているでしょう。それに、その自分の弱さを自分からも、他の人からも強気の姿勢で隠そうとする臆病の弱さも加わっています。しかし、イエス様はちょうどこのような弱い人のために十字架の上で死んで下さいました。何という愛でしょう。
第二に不敬虔な人です。この言葉のもともとのギリシャ語の単語は神様の事や聖なる事を全く無視する生き方を意味します。神様の求めるどころか神様を自分の人生から取り除こうとする人のためにイエス様が死んで下さいました。
第三に罪人のためです。罪人は当然社会的な罪を犯した人々を含めますが、聖書の中に最も深い意味で、神様が定めた、愛を要求する律法を無視して、その完全に正しい律法によって有罪になった人を指します。自分の過去の罪の裁きをどこにも逃げられない、罪責感、罪悪感で悩まされている人です。それだけではなく、その心を頑なにして、罪の裁きを逃げようとする人々も含まれます。
第四に敵である人のためです。人間は罪を愛して、自分勝手な生き方をしている内に、その間違った道の結果を思い起こそうとする神様に対して反発や敵意さえ抱いています。愛である正しい神様を憎んでいる人のためにイエス様が血潮を流して死んで下さいました。
第五に私たちは神様の清い怒りのもとにある罪人です。しかし、当然私たちが受けるべき処罰をイエス様が身代わりとして受けて下さって、私たちを赦して、救って下さいます。又御自分の義と正しさを私たちにプレゼントして下さいました。
十字架の血潮による救い
弱くて、不敬虔で、罪人、敵、神様の怒りの子らのためにイエス様は死んで下さって、救いを一方的に与えて下さいます。そして、それは私たちがイエス様を求めた時からではなく、まだ尻尾を神様に向けた時でした。しかし、それだけではなく、この救いは強くて、敬虔で、正しい人、神様を大切にして来た人々と全く関係がありません。イエス様はいい人を救うために来た訳ではありません。ただ罪人を救うためだけです。
それで、救いの唯一の条件は自分が悪くて罪人である事を認めることです。別に罪人になる必要はありません。人間は皆生まれ付きの罪人だからです。その事実を認めるだけです。事実を直面するだけです。そしてイエス様が完全に備えて下さった救いをプレゼントとして受け入れるだけです。
神様との新しい関係
救いはイエス・キリストの十字架の赦しによる新しい神様の関係です。その新しい関係について上記の箇所は次の事を語ります:
先ず第一に、神との平和です。もともとの言葉は外面的な平和と内面的な平安を含みます。神様との対立が終わって、心に罪が赦された平安が与えられています。
第二に、神の栄光を望んでいる希望です。これからの先行きは天のみ国の栄光ですが、それは素晴らしい環境の栄光ではなく、神様ご自身の栄光であって、私たちに与えられた恵みです。
第三に、神様の愛が私たちの心まで聖霊によって注がれます。それは、十字架の上で示された神様の愛を自分自身に対する赦しや新しい価値を付け加える、体験としての愛を含みます。しかし、それはあくまでも、神様との愛で、神様との人格的な触れ合いの中に経験する愛です。
第四に神様との和解です。神様と親しく仲良く出来る恵みです。主を尊敬しながらも、子供がその父親に対して示す同じ親しみがイエス様の十字架の死によって成り立った和解にあります。
第五に、神を大いに喜んでいることです。救いの喜びは、単なるほっとした体験の一時的な喜びだけではなく、相手でおられる神様との親しい交わりの中に、愛する相手そのもの存在が最高の喜びです。
しかし、驚くべき事には、これらの祝福、平和、希望、愛、和解、喜びはみな、弱くて、不敬虔で、罪人、敵である私たちに与えられます。これらは私たちにとって無代価のプレゼントです。何故かと言うと、その代価をイエス・キリストご自身が十字架の上で完全に払って下さったからです。
救いは何という恵みでしょう。あなたもこの恵みを自由に受け入れてもよいのです。それは信仰なのです。
東福山教会
2003年の前半は思ったより活動が忙しい半年でした。いつもの年と違って、伝道だけではなく、幾つかの神学的な課題の学びで案外時間と努力が問われました。その中に牧師と長老の資格についての西日本福音ルーテル教会レベルの論議もあれば、結婚式の聖書的な根拠とやり方に関する我が教会の課題もありました。時たまに頭を使う聖書の学びは悪くはないと思います。
結婚式が前半に三回も行なわれた事が後者の課題をホットにした一面でした。
カウンセリングゼミなー
今年の春も伝道の春でした。フィンランドからカンガスニエミ精神科医とカウンセラー夫妻が見えて、改めてカウンセリングの必要性とそのための学びの大切さが示されました。彼らの講義のOHPフィルムはホームページに載せましたから、インターネットに接続の方々におすすめ致します:
http://www.pihkala.net/Kalvot/KirisutokyouKaunselingu.html
バザー
今年のバザーは春に行なわれて、天候に恵まれて、大勢の方々に訪れて頂きました。
青年特伝
スウェーデンとフィンランドからの若者たちの素晴らしいパントマイムやドラマは多くの人の注目を浴びました。彼らは駅前やショッピングセンターや公園でもパントマイムや賛美や証ししました。子供集会にも大勢の子供が集まりました。
青年向きの伝道集会に驚くほど遠いところからも若者が集まって、米子教会、大田教会、津山教会、玉島教会や近くの諸教会から若者が集まって、伊木先生の素晴らしいメッセージやチームの証しに触れました。これからの山陽地区の青年伝道に明るい展望になりました。
夏のキャンプ
これを書く時に、玉島教会と東福山教会の共催で夏のキャンプの準備が急ピッチで進んでいるところです。参加する子供は37名で、教会が小さすぎるかと嬉しい悲鳴です。色々な意味で荒れている子供と若者たちの中に神様を求めるうねりが与えられるように祈りましょう。
交わり
しかし、教会は活動のために存在する訳ではありません。主との交わり、又兄弟姉妹との交わりはポイントです。ですから、今年は特に祈りに重点を置いてやって参りました。そして、主は本当に祈りに答えて下さるお方だと再確認しました。兄弟姉妹と求道者の中に病気と経済的な困難などの様々な問題で戦っている方がいますから、互いの重荷を背負い合って歩む共同体として成長して行きたいものです。
主イエス・キリスト様の豊かな祝福を皆様の上にお祈りいたします。
J.& L.ピヒカラ
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