「人間は祈る動物」とよく言われます。実際人間は動物ではありません。すべての動物と違って人は天地を創造なさった神様の形として創造されました。私たちの体は土からとられて、又土に戻ると聖書に書いてある面では人間は動物と類似点は沢山あります。限られた存在で、神様の創造された自然界に依存して生きるのです。しかし、神様が人間に永遠に存在する魂を吹き込んで、神様と交わりの出来る人格に創造なさいました。だからこそ人間は祈る存在です。すべての人が、もっとも固い無神論者もいざになると祈ります。祈らずにはおられません。
しかし一般的な宗教心から生まれる祈りは自分に必要なものを得るための手段で、祈りの対象よりも祈りの応えをポイントにします。しかし、聖書の中の祈りはコミュニケーションです。相手と会話して、相手を深く知る手段で、相手の心、意思、考えを聞きながら自分の心をありのままに開いて、何もかもイエス・キリスト様に語ることです。ですから、一方的に神様に語るだけではなく、主が語って下さる事に耳を傾ける必要があります。主のみ声は聖書の中に記されているから、聖書を開いたままに祈る事は大切です。み言葉が語った内容をそのまま主に語るのも祈りです。
祈りの基本的な出発点は助けを必要とする姿勢です。それは、手伝うと言う意味の助けではなく、自分では何も出来ないと言う状態を意味します。自分で半分ぐらい出来て、後は神様に頼むのはクリスチャンの祈りではありません。霊的ないのちも、肉体的ないのちも、100%主の恵みによるものですから、神様の働きがなかったら、何も出来ないところから純粋な祈りが生まれます。小さい子供の特徴は自分が出来ないから何もかも親に頼むと言う姿勢です。ですから、イエス様は私たちに小さい子供を信仰の模範において下さいました。
聖書は熱心な祈りを求めますから、多くの方々は熱心さを祈りが聞かれる資格のように錯覚しますが、聖書が求めている熱心さは小さな助けのない子供の叫び声の熱心さです。親が答えなかったら、生きられない必死の叫びの熱心さであって、資格ではないのです。祈りの答えは100%の恵みに過ぎないから、祈ること自体は神様の御前で功績ではありません。祈りの大きな力は祈りそのものではなく、祈りを聞いてくださる神様の力です。ですから、無力感の中に祈る人の祈りも不思議な力があります。
上記の箇所に少なくとも三つの祈りの条件が書いてあります。その条件が満たされると神様の不思議なみ業を見ることができます。 先ず信仰が挙げられています。信仰は自分で出来ない事を出来る相手に頼んで任せる姿勢です。その反対は自分の力で頑張る姿勢です。自分に頼る人も限界にぶつかる時にそれなりに祈りますが、神様の助けを求めても、神様に任せないで、あくまでも自分で物事を決めるなら、信仰の祈りではありません。信仰は相手に決定権を任せます。
次の条件は罪を悔い改めて、赦しを願うことです。罪を告白する人にイエス・キリスト様の十字架の恵みのゆえにすべて、どんな罪でも赦されます。罪赦された人はイエス・キリスト様の義をプレゼントとしてもらいますから、義人です。ですから、祈りの始めにクリスチャンは先ず神様の赦しを願って、又それを感謝して頂きます。それで主と心が自由に通じ合う事になります。
三番目に祈りは個人的なものだけではなく、キリスト者同士の互いのものです。そのような祈りに対して大きな約束があります。主ご自身はそのような祈りの中におられます。
祈りの力について親友のJohannes Lampinenさん(写真の方、68)の実例を語りましょう。彼はやく4年前にリンパ腺の癌にかかりました。発見は遅かったから末期のままで痛み止めを飲む以外にもう何も出来ないと言われて、病院から家に帰されたのです。ある木曜日に胃の痛みがあまりにも酷く、苦しみの中に一つの事を思い出しました。エストニアの首都タリンでその晩彼の属している子供伝道の支援者の祈り会が午後7時から始まることでした。その指導者に電話して痛みが和らげるように祈って欲しいと伝えました。そして150キロ離れた自分の家の中に急に7時半痛みが完全に終わって、そして夜の間癌で膨らんでいた胃がもとの状態に戻って、完全に癒されました。急いで病院に行って検査してもらって癒されたと分かりました。それから熱心に伝道に力を注いで現在も元気です。
しかし、場合によって主の応えは違います。主がかなり若い時にも方々を天のみ国に招いて下さいます。ある40歳くらいの女医に会いました。ある集会で証をなさいました。5年前から胸の癌にかかって、3年前に膵臓に広がって、お会いした時に又広がり出して、もう駄目と言われたそうです。しかし、その中に神様との祈りによる交わりが素晴らしい恵みになったそうです。癒しより癒し主が全てでした。祈りの答えより主との交わりは祈りのポイントです。