Jorma Lea  Pihkala
ヨルマ & レア・ピヒカラ
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2008年7月18


暑中お見舞い申し上げます。

 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:15〜16)

 「人間は祈る動物」とよく言われます。実際人間は動物ではありません。すべての動物と違って人は天地を創造なさった神様の形として創造されました。私たちの体は土からとられて、又土に戻ると聖書に書いてある面では人間は動物と類似点は沢山あります。限られた存在で、神様の創造された自然界に依存して生きるのです。しかし、神様が人間に永遠に存在する魂を吹き込んで、神様と交わりの出来る人格に創造なさいました。だからこそ人間は祈る存在です。すべての人が、もっとも固い無神論者もいざになると祈ります。祈らずにはおられません。

 しかし一般的な宗教心から生まれる祈りは自分に必要なものを得るための手段で、祈りの対象よりも祈りの応えをポイントにします。しかし、聖書の中の祈りはコミュニケーションです。相手と会話して、相手を深く知る手段で、相手の心、意思、考えを聞きながら自分の心をありのままに開いて、何もかもイエス・キリスト様に語ることです。ですから、一方的に神様に語るだけではなく、主が語って下さる事に耳を傾ける必要があります。主のみ声は聖書の中に記されているから、聖書を開いたままに祈る事は大切です。み言葉が語った内容をそのまま主に語るのも祈りです。

 祈りの基本的な出発点は助けを必要とする姿勢です。それは、手伝うと言う意味の助けではなく、自分では何も出来ないと言う状態を意味します。自分で半分ぐらい出来て、後は神様に頼むのはクリスチャンの祈りではありません。霊的ないのちも、肉体的ないのちも、100%主の恵みによるものですから、神様の働きがなかったら、何も出来ないところから純粋な祈りが生まれます。小さい子供の特徴は自分が出来ないから何もかも親に頼むと言う姿勢です。ですから、イエス様は私たちに小さい子供を信仰の模範において下さいました。

  聖書は熱心な祈りを求めますから、多くの方々は熱心さを祈りが聞かれる資格のように錯覚しますが、聖書が求めている熱心さは小さな助けのない子供の叫び声の熱心さです。親が答えなかったら、生きられない必死の叫びの熱心さであって、資格ではないのです。祈りの答えは100%の恵みに過ぎないから、祈ること自体は神様の御前で功績ではありません。祈りの大きな力は祈りそのものではなく、祈りを聞いてくださる神様の力です。ですから、無力感の中に祈る人の祈りも不思議な力があります。

 上記の箇所に少なくとも三つの祈りの条件が書いてあります。その条件が満たされると神様の不思議なみ業を見ることができます。 先ず信仰が挙げられています。信仰は自分で出来ない事を出来る相手に頼んで任せる姿勢です。その反対は自分の力で頑張る姿勢です。自分に頼る人も限界にぶつかる時にそれなりに祈りますが、神様の助けを求めても、神様に任せないで、あくまでも自分で物事を決めるなら、信仰の祈りではありません。信仰は相手に決定権を任せます。

  次の条件は罪を悔い改めて、赦しを願うことです。罪を告白する人にイエス・キリスト様の十字架の恵みのゆえにすべて、どんな罪でも赦されます。罪赦された人はイエス・キリスト様の義をプレゼントとしてもらいますから、義人です。ですから、祈りの始めにクリスチャンは先ず神様の赦しを願って、又それを感謝して頂きます。それで主と心が自由に通じ合う事になります。

  三番目に祈りは個人的なものだけではなく、キリスト者同士の互いのものです。そのような祈りに対して大きな約束があります。主ご自身はそのような祈りの中におられます。

  祈りの力について親友のJohannes Lampinenさん(写真の方、68)の実例を語りましょう。彼はやく4年前にリンパ腺の癌にかかりました。発見は遅かったから末期のままで痛み止めを飲む以外にもう何も出来ないと言われて、病院から家に帰されたのです。ある木曜日に胃の痛みがあまりにも酷く、苦しみの中に一つの事を思い出しました。エストニアの首都タリンでその晩彼の属している子供伝道の支援者の祈り会が午後7時から始まることでした。その指導者に電話して痛みが和らげるように祈って欲しいと伝えました。そして150キロ離れた自分の家の中に急に7時半痛みが完全に終わって、そして夜の間癌で膨らんでいた胃がもとの状態に戻って、完全に癒されました。急いで病院に行って検査してもらって癒されたと分かりました。それから熱心に伝道に力を注いで現在も元気です。

 しかし、場合によって主の応えは違います。主がかなり若い時にも方々を天のみ国に招いて下さいます。ある40歳くらいの女医に会いました。ある集会で証をなさいました。5年前から胸の癌にかかって、3年前に膵臓に広がって、お会いした時に又広がり出して、もう駄目と言われたそうです。しかし、その中に神様との祈りによる交わりが素晴らしい恵みになったそうです。癒しより癒し主が全てでした。祈りの答えより主との交わりは祈りのポイントです。

HAT神戸

去年の9月から始まったHAT神戸キリスト教会の歩みは祈りの答えの連続のようなものです。主は祈りながら導きを与えて下さると強く思わされました。3ヶ月しか借りる事が出来ないと言われた職業訓練センターの会議室で7ヶ月間も小さい礼拝を守ることが出来て、又主のみ言葉の祝福を頂きました。しかし、長期的な場所が与えられるまで、主が何回も祈りにこたえて下さいました。開いた店を公団の中から借ろうと願って、とうとう宗教活動や政治活動はだめである事を丁寧に私たちに伝えるためにわざわざ大阪から来られた職員の方の心に主が働きかけて、クリスチャン文化センターと言う形で個人名義で借りる道を開いて、又活動内容も認める運びになって、3月に5年契約を結ぶことが出来ました。 

 店の空間を暖かい感じの教会に変えた内装工事が3月で完成しました。フィンランドから3人のミッションフレンドが工事の手伝いに来て、素敵な家具も作って下さいました。

 新しい所の初めの礼拝は4月5日に行われて、そしてイースターの12日に2人の方の洗礼式も出来て感謝しています。

 4月から全面的な教会活動に進むことが出来て、礼拝の他に聖書研究会、HATキッズの教会学校、料理教室、英語、フィンランド語、韓国語グループが始まって、また青年伝道の試みもキヴィランタ先生のおかげで出来ました。秋に向かってコンサートも開こうと願っています。

 スタッフの中に吉田ご一家と先生ご夫妻の他に日本語学校でまだ麻学んでいるペンドリンさんも加わって、多くの方々が祈りの中に私たちの小さな働きを支えて下さる事を深く感じて、経済的な必要も驚くほど多くの方々からの献金で満たされています。

 主はHAT神戸の多くの方々を愛して、その永遠の救いを願っておられる事を感謝しております。開拓伝道は険しい道で、これからのお祈りもよろしくお願い致します。

青谷村

 神戸ルーテル聖書学院の59期生は2月末に卒業して、4月に60期生の入学式が行われました。聖書学院は今年60年の記念する年ですが、レギュラー学生の数が少ない中に今年は聴講生の数が随分増えています。又秋から新しいレギュラーの学生も与えられることで喜んでおります。今年度も新約聖書入門の担当を続けさせていただいております。その他にコンピューターと英語のアフタースクールもやっております。

 青谷村の大きなお祝いは青谷教会の新会堂の献堂式でした。家内は依然として青谷教会の料理教室を続けています。神学校に新しい学生が4人入って、神学校の新校長に正木牧人先生が任命されました。

 何時もお祈りの中に覚えて頂いて心から感謝致します。

 

暑い中に主の豊かな御祝福を皆様の上に心からお祈り致します。

J. & L. ピヒカラ