Jorma & Lea Pihkala
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2010年8月3日


暑中お見舞い申し上げます。

 「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。・・・あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:5,8)

ヨーロッパ・キリスト者の集い

 マドリッドで行われた7月28日〜8月1日に行われた「ヨーロッパ・キリスト者の集い」の今年のテーマはTransformation(救われた人の人生に行われる、きよめと呼ばれる変化)でした。240人の方々が集まって、主を賛美し、主のみ言葉を聴いて、深い交わりを経験した素晴らしい集いでした。40度ぐらいのスペインの太陽が照っても、山の方の施設で主の恵みの太陽が照っている感じでした。多くのボランティアーの奉仕で出来上がった集会でした。

 上記のイエス・キリスト様の言葉は何回か色々の角度から諸先生のメッセージの中に出ました。以下に私の話の一部を引用させていただきます。

聖化(きよめ)

  かなり多くのクリスチャンは聖めについて誤解を抱いているようです。救いは十字架の恵みによって与えられた自由なプレゼントですが、聖めは自分の頑張り次第で、言葉そのものも疲れを起こすぐらいです。救いは恵みですが、聖めは律法を必死に守る事です。頑張ることは非常に深く日本文化の中に入っていますから、聖めについての正しい教えを聞いても、受け止める方の心にそれは立法的な要求にしか聞こえない場合が多いかと思います。

  しかし、救いも、聖めも、両方とも神様の恵みのみ業です。又共通して、どちらも私たちの人格を無視して、自動的に、ロボット的に行われるものではありません。救いは十字架の下で罪深い人間が主イエス・キリスト様に出会う事です。その出会いの中に主の赦し、和解、交わりが成立して、神様の子供の特権が与えられます。しかし、その全ては主と共にいる時に、主ご自身を人格的な信頼と触れ合いの中に行われます。主と離れた所で、いくら正しい教えがあっても救いがありません。

  それと全く同じように聖めは主との人格的な交わりの中にしかおこりません。救いを出産に比べると、お母さんがなかったら、出産は不可能ですが、赤ちゃんの成長もそれからお母さん(またはお母さん代わりのお方)がずっと一緒にいなければ不可能です。同様に聖霊によって新しく生まれた神様の子供の成長、聖めは、主イエス・キリスト様と共に歩む事によって初めて可能です。主の人格的なみ言葉の糧を頂きながら、成長と力が増えて行きます。主の言葉に信仰と従う事で答えるのは律法による業ではありません。主がそのみ言葉と共に力を与えてくださるからです。たとえば、お母さんがその子供に美味しい食事によって、又愛情によって肉体的力と精神的な力を注ぐと、子供がお母さんの頼みに心から応答することが出来ます。

  同様に聖めに含まれる、聞き従うことは決して律法ではありません。主は先に十字架の血潮によって全ての罪と汚れをきよめて、そして、み言葉を通してご自分の心、考え、愛を示して、この世の人々に対する救いの思いなどを示して、そしてその愛の御心は私たちの目にも最高の事の様に分かってから、初めて「あなたはこの事をして下さい」と言われます。主の御心が私たちの心にもなっている中に私たちは従う事が出来て、又その結果として主のみ業を見ることが出来ます。

 聖霊様による新しい命が人生に入ると、古い性質の罪深い肉が一変でなくなる訳ではありません。最終的に天国に着くと肉が完全になくなりますが、その時までは同じ人間の中に新しい性質と古い性質との戦いが行われます。イエス様の聖霊の新しい性質が支配を増やして行く過程は聖めか、聖化か、キリスト者の成長などの名前で呼ばれます。しかし、罪がクリスチャンに残っても、彼は義と認められているから、その罪のために最早裁きがありません。

進めの言葉と聖め

  聖書の中に沢山の勧めがあります。例えばパウロの手紙に初めに素晴らしい恵みのメッセージが一杯ありますが、後半に沢山の命令形を使う勧めが出ます。しかし、命令形だからと言って、それは私たちの頑張りにしなければならない律法ではありません。

 イエス・キリスト様の所に4人の人が中風の人を運んで連れて来た話を皆様がよく覚えているでしょう。(マルコ2章)イエス・キリスト様がその方に一番最初に言われた言葉は「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪が赦された」とでした。素晴らしい一方的な恵みの言葉でした。その瞬間にその方の心の中に大きな変化が起こりました。罪赦された喜びと平安、神様との交わりといのちが心を満たしたに違いあちません。しかし、イエス・キリスト様のその中風の方に対する次の言葉は命令形に変わりました。「起きなさい、床を畳んで、家に帰りなさい」とです。

 もしこれは律法なら、歩けない人に全く無理な要求です。しかし、そのイエス・キリスト様の言葉に癒す力が含まれていました。その言葉に従った瞬間に奇跡が起こりました。立つ事が出来るようになりました。聖書の諸勧めは聖霊を頂いたクリスチャンにとって力のついている恵みの言葉です。しかし、私たちはその主のみ言葉に全人格で応答する必要があります。力はその時に始めて働きます。

 しかし、主のみ言葉に従う事を妨げようとする力も私たちの罪深い性質に残っていますから、聖めに、聞き従う事には戦いも付き物です。ですから、私たちはよく失敗して、主のみ声より自分の肉に任せてしまいます。そして、言い訳として、「私は未だ未だ弱いものです。」しかし、この言い訳は全くポイントはずれです。確かに私たちは弱いものです。しかし聖めは私たちの力によりません。主が弱くはありません。ですから、毎回失敗すると私たちはもう一度主の十字架の下に悔い改めて戻って、主の愛の力を頂く必要があります。

聖めの目的

 救われた瞬間に私たちは天国の世継です。そして十字架の恵みがずっと有効ですから、必ず天国に行けます。聖めは救いの結果であり、そのプロセスの過程で最終的に救われた人は復活したイエス・キリスト様と同じような姿に変えられます。体の復活も聖めの一部です。しかし、きよめは救われるためではありません。きよめは私たちが多くの愛の実を結んで、神様に用いられて、多くの人に福音を伝えて、神様に栄光を与えるためです。

HAT神戸

 HAT神戸キリスト教会はもうすぐ2年になります。少しづつ町の人々に親しまれる感じがします。クリスマス会と7月4日のベバリー・リバス様のゴスペルコンサートに小さい会堂が溢れるほど一杯に人々が集まりました。毎週の礼拝や他の集会にも定期的に出席する方々が増えて来ました。その半面に霊的な戦いも増えて来ました。戦いはやはり主が働いておられる証拠です。魂の敵もそのような時に攻撃をし始めます。

 イースターの前に洗礼式と転入式が行われました。同時に3月30日にフィンランドに帰国した家内とシニッカの送別会も行われました。すぐその後でハットキッズのスプリングキャンプが六甲山で行われました。小さくて、とても楽しいキャンプでした。春だったにも拘らず雪が降ったり、太陽が照ったりする中で、ゲーム、賛美練習、み言葉のタイムがありました。

 

  6月13日に二人のお方の洗礼式がありました。

 2月1日からU.ペンドリン先生はHAT神戸キリスト教会の宣教師として働き出して、7月1日にHAT神戸キリスト教会の責任牧師に永田令先生が任命され、姜根培先生が協力宣教師として働き出して、J.ピヒカラ宣教師は7月5日にフィンランドに帰国しました。11月15日に又来日して協力宣教師として復帰する運びになりました。

青谷村

 神戸ルーテル聖書学院の60期生は2月末に卒業して、4月に61期生の入学式が行われました。9月から久しぶりに二年生の講座も再開出来る事を喜んでおります。又新しいレギュラーの学生も与えられることを期待しております。今年度も新約聖書入門の担当を続けさせていただいておりました。その他にコンピューターと英語のアフタースクールもやっておりました。3学期から又働きに戻る予定です。

 学院デーなどの関係で大阪港教会東鳴尾教会西宮南教会でお世話になって、よい交わりに預かった事を感謝しております。

ヨーロッパでの奉仕

 4ヶ月間主にフィンランドの支援教会やミッションの本部でメッセージや教える奉仕になっています。その他にパリと上海の日本語教会をも訪れる予定です。

 何時もお祈りの中に覚えて頂いて心から感謝致します。

 

暑い中に主の豊かな御祝福を皆様の上に心からお祈り致します。

J. & L. ピヒカラ