イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8;23-28)
東日本大震災から復興に向かっている中に、被害に遭われた方々の事を思いながら、恩師の故伊藤栄一先生の戦後間もなくの体験を思い起こしています。津波や台風や地震のような外面的な嵐は人生の意味と苦しみの意味を問う内面的な嵐にも繋がります。あらゆる嵐の中にクリスチャンは「この中に主イエス・キリスト様は私たちに何を語ろうとしておられるか、又どのような新しい使命に私たちを招いておられるか」と聞きます。すべては主の支配にありますから、何も偶然に起こることがありません。ここに伊藤先生の体験を引用させていただきます。
戦後間もないごろに普通の教会活動の他に日本の各地で伝道集会に招かれて福音を語っていました。ある日曜日の晩に和歌山港から四国に戻るために小さい船に乗りました。当時の天気予報は現在と違ってあまり信用出来なかったのです。それで船は途中で台風に遭いました。小さい船は凄い波で飛んだり沈んだりする有様でした。船長は乗客に生命道具をつける様に命令しました。絶望的な状態だったからです。
私は、倒れないように、ある階段の手すりを全力で握って立っていました。心の中に祈りの戦いが続きました。自分の救いについて疑いがありませんでした。主イエス様の十字架の血潮によって私の罪が赦されて、天のみ国の栄光に行ける確信がありました。しかし主に向かって心の心配を語りました。
「主よ。このような大変な時代に私の世話を失ったら家内と幼子の息子と年をとった母がどのように生きて行けるか」と。 主の聖霊様は静かに私の心に語って下さいました。戦争中の中国で海外伝道をしていた私たちを守って下さって、又無事に破壊された日本に戻して下さった主のみ業を思い起こして下さいました。「あなたの地上の人生が今終わっても、私はあなたの妻、息子、母の世話が出来ます」と。 私の心は言葉で表すことの出来ない深い平安に満たされて、口から次の賛美歌が出始めました。
1
主にあるたみみな みむねにいだかれ、
巣にあるひなにも まさりてやすけし。
2
みめぐみ満ちたる 主の手にまもられ、
みくにの子らみな そだちてやすけし。
3
生くるは主のため、死ぬるも主のため、
おそれはうせ去り こころはやすけし。
(賛美歌II 162)
それと同時に船のキャビンの方からヒステリックな乗客の叫びを聞いて、彼らを助けに行きました。驚いた事には船は沈没しないでなんとか小松島港に辿り着きました。
嵐の中に主はまず私たちを悔い改めに招きます。自分の今までの人生に神様の御心に逆らった事を認め、主イエス様の十字架のゆえに罪を赦して頂いて、主の恵みの安心出来る所に戻ることです。次に目を主に向けて、主とともに安心出来る所に留まる事です。そして、そこから他の人をも同じ安心出来る所に助ける使命が与えられます。