1995年8月8日に東京で働いている娘から電話がありました。「私は今月23日に合同結婚式のためソウルへ行きます。すみませんが、結婚資金としてお金を下さい。祝福費用に140万円、旅費その他に30万、合計170万円大至急送って下さい」。
その時から私たち夫婦の苦悩が始まりました。
暗闇に突き落とされたような、訳の分からない恐怖で一杯でした。テレビでよく知っている統一協会でしたが、まさか自分達もテレビで泣き叫んでいる親と同じ境遇になろうとは思ってもみませんでした。私とは無関係の遠いテレビの世界だと思っていたのです。
説得牧師を知り、脱会へ向けての準備が始まりました。一度は失敗に終わり、更に二度目の説得へと挑戦しましたが、二度も逃げられてしまいました。
私はなす術もなく、毎日空しく、眠る事も、食べることもできないような絶望の底へと落下していくようでした。暗い暗い闇の中にズンズンと落ちていく自分の姿が寝ても覚めても脳裏の中に映像として流れてきました。そのような時、統一協会脱会又母の会の副会長さんがいつも言われていた言葉を思い出し、神様にお願いしようと思い、蒜山ひかり保育園の園長先生に「祈ることを教えて下さい」とお願いしました。園長先生はバッケ先生とおっしゃいました。その日から聖書の学びが始まり、教会へも礼拝に出席するようになりました。
それから三年後のある日、礼拝の時賛美歌525番「恵み深き主のほかだれが我をなぐさめん…」歌うときに、主のなぐさめ歌詞に涙がポロポロポロポロこぼれ、なかなかとまりませんでした。私は礼拝後に宿野先生の前に立ち、「洗礼を授けて下さい」と言っていました。この時が賛美歌の中でイエス様と出逢えた瞬間だったのではないでしょうか。自分の思いではなく、自然に動いた私です。1999年12月26日に受洗しました。
娘との隔たりは前進はなく、後退もなく、平行線にたどっていました。そのような娘も、1997年2月24日に韓国へ行きました。韓国で半年間韓国文化・料理を学び、結婚費用を親が出さないので働き、それで支払ったと言っていましたが、娘がいなくなった東京の貸金融から高額の請求の電話が頻繁にありました。ほとんどヤクザのような脅しでした。牧師先生に相談すると「ほっときなさい。支払ってはいけません。支払ったら又次の大きな負債が請求されるでしょう。そこが統一協会のねらいです。」と言われました。私たちは先生の教えを守ろうとしましたが、一件だけ金融員に泣きつかれ、毎日の電話に主人が負けてしまい、30万円支払いました。それは統一協会関係とは違ったのか、それより電話がありませんでした。
韓国へ行って半年後、8月に合同結婚の相手の農家の長男と結婚式をあげたのです。順調な結婚生活の中に、長男、次男と二人の男の子に恵まれました。次男の一才の誕生祝いの後で、私も友達に韓国まで連れて行ってもらい、ソウルからは韓国のクリスチャンでいらっしゃるリーサレ先生に娘の家まで連れて行ってもらいました。山の中の山、石ごろ道の貧しい農家でした。
娘の夫は2005年11月に農作業中作業機に巻き込まれて即死しました。娘はかたくなに日本へ帰る事を拒み、一人で農業をやり続けています。韓国の親は現在義父87才、義母82才です。娘の長男は中学2年、次男は小学5年生です。
2010年1月3日に、突然息子が首つり自殺をしました。
息子にも色々悩みがあったようには思っていましたが、まさか自殺をするなどとは考えることなどできませんでした。この時に息子の長男は小学6年、次男は小学2年、長女は幼稚園年長組でした。息子の死の苦しさは娘の時の絶望感とは違い、いいようのない悲しさであり、底知れぬ恐怖感であり、腹わたがちぎれるような、そして心が凍りつくような痛さでした。
一人でいることができないので、いつも主人の側に引っ付いていました。
1月7日に朝、牛舎で搾乳をしっている時、ふと気づいたら、賛美歌436番「十字架の血に救いあれば…」と口づさんでいる自分がいました。そう思ったとたん、頭の中に真赤な場面が現れ、イエス様の十字架の姿を想い浮かべました。そして聖書にあるように、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた場面が現れました。そのとたん、私は我にかえりました。私の心はとても平安に満たされていました。真暗闇の私の心に青空が広がったように、それまでの恐怖心、心の痛み等々が、吹き飛んでいました。その時電話が鳴りました。トータルカウンセリングの青木福代先生からでした。私は今、この時起こった不思議な体験を話しました。すると先生は「亀山さん、それはイエス様のみ業です。あなたの息子さんは一粒の麦となられたのです」と慰め励ましてくださいました。この事が第二のイエス様との出逢いであったと、今でもその時頭に浮かんだ映像を思い出します。イエス様の愛により落ち込むことなく元気に生活できるようになりました。
息子の死におり、もう二度と帰ってくることはないと思っていた娘が2人の孫を連れて息子の墓参りに帰ってきました。「たとえ、お父さん、お母さんが死んだとしても絶対に蒜山には帰らない。もし又拉致監禁されたら私は徹底して親が信じられなくなる」と言っていた娘が帰ってきたのです。
娘の声を聞こうとも、手紙を読もうともしなかった夫の心が変わり、米子空港へ娘親子を迎えに行って、帰ってきた時にはすっかり孫になつかれて、冷ややかな心が穏やかになって、娘ともよく話をしていました。
その時ルカ書15章32節の放蕩息子の父親の言葉が思い出されました。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
娘は2010年、2011年と続けて帰ってきました。少しは娘との距離が縮まったのかなとも思える今日この頃です。娘の事も自分の力ではなく、神様にゆだねて、ひたすらにお願いし祈るばかりです。
粉々に砕かれてしまってもしがたのなかった、弱い私を生かして下さったのはただただ主の恵みなのです。主よ、感謝します。アーメン。