Jorma & Lea Pihkala
J.&L.ピヒカラ
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2014年8月5日


暑中お見舞い申し上げます。

 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示録6:9~11)
 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒の働き7:59~60)

二人の殉教者

 ベルギーで開かれた「ヨーロッパキリスト者の集い2014」に家内と一緒に参加して、恵みを沢山頂いて、フィンランドに帰りましたが、今年のテーマは伝道でした。伝道と言う言葉は「道を伝える」と言う字で出来ているから誤解しやすいかと思います。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちです」と言われたから、伝道はイエス・キリスト様を伝えることです。「イエス様が十字架の上で死なれて、私たちの罪の身代わりとしてすべての罰を引き受けて、三日目に復活して、今生きておられて、主を頼りにする人々に罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さる」と言うよい知らせを伝えるのは伝道です。

 私の高校時代の友達がある時にこう言いました。私もイエス様を信じたいのですが、あなたみたいに人にイエス様の話をするのは僕に無理だから、クリスチャンになれません。数ヶ月後で彼がイエス様に出会って、輝いた顔で人々にイエス様の話をしたから、私が聞きました「だって今あなたが伝道しているのではないか」と。すると本人が「伝えずにはおられません、余りにも大きな喜びや平安を主から頂いたからです」と。

 福音を伝えるのは主の愛を経験した上に重荷ではありません。喜びです。又人生の中で最も大切な使命です。なぜなら、イエス様の救い以外に誰も永遠のみ国に入ることが出来ないからです。イエス様の愛を人に紹介するのはその人に対して最も大きな愛の表れ方です。イエス様はすべての人の救いを願っておられるからです。
その愛を具体的な医療手段で示すために私たちの二人の友達、フィンランドルーテル宣教会の宣教師が1998年ごろアフガニスタンに派遣されました。そこで忠実に愛の行いを通してイエス・キリスト様の恵みを伝えました。しかし、7月24日に彼女らは殺されました。タクシーで買い物に行く途中でバイクの二人組みのテロリストに銃撃されまして、即死しました。

 二人の片方は前の晩にメールで「ここで奉仕が出来るのはとても嬉しい」とフィンランドの本部に伝えました。今主の御前で殉教の冠を受けて、救い主の賛美をなさるに間違いありません。昨日同じミッションで働いてきたお姉さまに会って、妹さんが受けた栄光の冠を誇りとしていると言いました。

 主の愛を伝えるのは地上のいのちよりも大切です。何故かと言うと永遠のいのちが福音によって与えられるからです。最も優れた愛は自分の命を相手のために捧げることです。
二人の殉教の事を聞いた時に何人かの日本人と一緒に次の通りにお祈りを捧げました:
「主よ、この二人に殉教者として栄光の冠を与えて下さった事を感謝致します。残された遺族の方々に慰めを与えて下さい。彼らを殺した犯人たちが福音に触れて、自分の罪に気づいて、悔い改めて、主の十字架の故に赦されて、二人と同じ天国に行けるようにして下さい」と。

 天国の殉教者たちは神様の正義が行われる事を祈りますが、地上で殉教の前に第一の殉教者であるステパノは赦しを祈りました。主の御心はすべての人の救いです。テロリストも含まれています。しかし、悔い改めないなら、最後の裁きの時に正しく行いによって裁かれます。神様の愛は最終的に正義をもたらせますから。

 主の恵みの時が今日続きますから、赦しと永遠のいのちの福音を自分で信じて、他の人々に伝えましょう。

淡路教会の奉仕

 淡路福音ルーテル教会の7ヶ月の臨時牧会者の奉仕は3月31日に終えましたが、その前の日はとても嬉しいお祝いでした。新会堂での始めての礼拝で4人の方々が洗礼を受けて、又東福山福音ルーテル教会のハンナ・ゴスペルが素晴らしい賛美のプレゼントを提供しました。 洗礼を受けた一人の洗礼の証をここで引用させて頂きます:

洗礼の証

 私、清國智子は、2013年(去年)の6月1日、新聞で紹介されていたゴスペルコンサートに興味を持ち行ってみました。そのコンサートは、予想以上に楽しく、又、心に響くものでした。神様のみ言葉を少し聴けたように思いました。家に帰ってそのコンサートがいかに感動的だったかを主人に伝えました。「いつか教会へ行ってみようか」と主人に言うと、「うん!明日行こう。」と言うではありませんか!

 「明日!」という言葉に私はとても驚きましたが、嬉しかったことを覚えています。

 6月2日、初めて教会を訪ねました。牧師さん、教会の皆さんがとても温かい笑顔で私たち二人を迎えてくださいました。初めて聞くヌンメラ先生の説教の中に「許す」ということについてのお話がありました。

 「許すということが、難しい時、自分で許さなくてもいいのです。神様にゆだねればよいのです」ということを聞いた時には心底驚き、そして心がすっと軽くなるのを感じました。その頃私には病気になるほど、心が折れ、許せないと思う人間関係が生まれて初めて生じました。その日の先生の「神様にゆだねる」という言葉は、まさに私への神様からのみ言葉のようでした。自分ひとりで何とかしようとしていた私への、優しい救いのプレゼントでした。キリスト教は、何と優しい教えをしてくださるかと思いました。救われようと思って教会に行ったわけではありませんでしたが、こんなに心が軽くなるとは、思ってもいませんでした。それ以来、主人と二人で教会へ来ることが、貴重な時間になっています。

 ヌンメラ先生ご一家がフィンランドに帰国中は、淋しい気持ちでしたが、いろいろ素晴らしい先生方の説教を聞くことができ、そして9月からのピヒカラ先生に大変多くのことを教えていただきました。聖書について、又、先生ご自身の生き方に、私たちは多くのことを学ばせていただきました。

 180度人生観がかわったように思います。人のために何かをすることが嬉しいことだと思うようになりました。それまでの私は何かあると「自分に責任があっただろうか」とか、「自分に悪いところがあっただろうか」と自分を責めることはあっても、自分が罪人であるとは思っていなかったのです。どこかでじぶんは「善」だと思うところがあったのだと思います。でも私は自分が罪人であることをこの教会へ来て知りました。その私の罪でさえ、イエス様が十字架につけられ、贖って下さったことを深く感謝するようになりました。

 まだまだ心が定まらない日、悩むこともありますが、その度に神様に祈り、助けを求めることで、心が平安になるように感じます。神様のみ心にそえる生き方をしたいと思うようになり、早く洗礼を受けたいと思っていました。でもその反面、洗礼式が近づくにつれ、恐れも出て来ました。それでもやはり私はとても「嬉しい」のです。それが今の気持ちです。感謝と恐れもあります。

 これから、ずっとこの喜び、感謝、恐れを持ち続け、神様のみ心にそう生き方をし、学んで行けるようにと願います。

徳島伝道へ

 フィンランドに帰ってミッションは次の日本での伝道の決定をして、9月の初めから徳島市にある東徳島福音ルーテル教会の協力宣教師として奉仕する事になりました。淡路教会と阿南教会でも少し手伝う事も含めます。住まいは徳島市のHerran Huoneになって、その中の家庭集会にも参加できる事を感謝します。毎火曜日に神戸ルーテル聖書学院の授業にも行く予定です。今回はヘブル人への手紙の学びです。8月22日に来日する予定です。家内は11月の後半に来日する予定です。

 

 

何時もお祈りの中に覚えて頂いて心から感謝致します。

暑い中に主の豊かな御祝福を皆様の上に心からお祈り致します。

J. & L. ピヒカラ