家内と一緒にルマニアへヨーロッパのキリスト者の集いに行って来ました。大体220名の日本人キリスト者が集めっていました。沢山のみ言葉の説き明かしと
交わりに預かりました。集いのテーマは「解放された者として生きる」でした。ちょうどルマニアが共産政権から解放されて30年と言う事もあって、キリスト
を信じて多くのキリスト者が殉教さてた事も色々の方面から考えました。資本主義の自由は本当の幸福をもたらせるかと思うとそうでもありません。
マルテン・ルターはその著書『キリスト者の自由』の冒頭で次のように述べました。 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」
この二つの文章は全く矛盾するように見えますが、主イエス。キリスト様の十字架の愛によって罪赦され、神様の子供とされたキリスト者の姿そのものを的確に
描写しています。聖書の自由という概念と世界的にフランス革命以来主流になった人間中心主義(ヒューマニズム)の自由概念は基本的に違っています。後者は
人間をあらゆる外面的な束縛から解放して、自分の欲しい事を実施できる状態を指します。経済的にも、文化的にも、政治的にも、社会的にも、自立して、独立
になって、自分の夢を制限なしに行える状態を自由と言います。しかし、聖書的に言えば、その「自由」は何の自由でもなく、自分の中にある欲望や好き勝手な
感情の奴隷状態に過ぎません。いやもっとも酷い自分の中に住み着いている肉(神様から離れた罪深い性質)の奴隷状態です。極端なところではこの「自由」は
人間を他の人の束縛からだけではなく、神様との関係からも解放しようとします。その結果として皮肉な事には悪魔の奴隷になってしまいます。
聖書が謳っている自由はこの現代的な迷いの正反対と言っても言い過ぎではないのです。本当の自由は物理的な制限や社会的な束縛などから解放する必要はあ
りません。神様が与えて下さる自由は心の中に住み着いている罪からの自由です。それは何々からの自由より何々への自由です。神様の御言葉が心の鎖を真理の
力で明るみに出して、イエス・キリスト様の十字架の愛の力で解放されて、罪赦されて、神様との関係が回復して、初めて人々や外面的な環境の制限の中にあっ
ても神様との交わりの自由を経験して、外面的な束縛を越えて、人に対する愛の奉仕が可能になります。
ある時に何人かのキリスト者と一緒に刑務所伝道に行って、グループの一人はその前に刑務所から釈放されたばかりでした。囚人としていた時にイエス・キリ
スト様に出会って、救われたと言う事でした。彼は次のように証ししました:「イエス・キリスト様は刑務所の中で私を自由にしました。ここで救われました。
釈放されて今は二重に自由です。」 彼は刑務所の中に神様のみ前で罪を告白したそうです。自分が神様に背を向けて、自分勝手な生き方で来た事を正直に彼を
創造なさった神様に向かって告白して、赦しを願ったそうです。その求めに対して神様は聖書のみ言葉を通してこう答えられたそうです:「私の愛する御子イエ
ス様はあなたのすべての罪の処罰をあなたに代わって十字架の上に受けましたから、あなたの罪の借金は払い済みです。あなたを赦しました。安心して、私と一
緒に歩んで下さい。」 その時に彼の自由が始まりました。それは刑務所の中での心の自由でした。それは一方的な神様の恵みと愛によるプレゼントでした。釈
放されてから彼はその本当の自由を多くの方々に語りだしました。主の愛は彼の心で働きだしたからです。
神様からの自由を得るために何の頑張りも要りません。ただ神様のみ前で正直に自分の奴隷状態を認めて、イエス様の十字架による赦しを願い求めるだけで
す。「主のみ名を求めるものは誰でも救われます」と聖書は約束します。罪の赦しを頂く事は死への恐れからも私たちを解放します。なぜかと言うと、死後の裁
きの時に「あなたのすべての罪が支払い済み」と言う証明書を持っているからです。もしあなたがまだこの自由に預かっていないならば、是非罪の告白の祈りの
中に主イエス・キリスト様のみ名を求めなさい。イエス様はあなたを愛しておられるからです。
ヨーロッパのキリスト者の集いの中に、賜物として頂いた自由を保つためにキリスト者の群れの中に入る事はとても大切だと強調されました。良い羊飼いでおら
れるイエス様はキリスト者を群れの中に牧会して、守って、繰り返して罪から解放して下さいますから。詩篇23篇の約束の通りに主は死の影の谷を通る時にも
その者を守って、永遠の宴会まで連れて下さいます。キリスト者の自由はイエス様と共におられる恵みによるからです。