広島、岡山、愛媛などで集中豪雨で本当に多くの犠牲者が出たことを聞いて見て、心を痛めています。大変暑い中でボランティアーが頑張っているそうです。こちらフィンランドも異常気候で5月から6月の半ばまで雨が全然降らなくて農産物は大きな損害を受けています。
個人的に今年の前半は多くの知り合いや友達が天に召されて葬儀の連続のような時期でした。5月に次男の姑さん(70)は13年間4つの違う癌で戦って主の御許に召されました。彼女は癌にかかった事でイエス様を求め始めて、主を信じて救われました。しかし、教会の礼拝や交わりに参加できなくて、キリスト教放送で霊的に整えられて、闘病生活をそのご主人の献身的な支援で明るくて過ごしました。
6月に突然S.バンスカ先生(70)が天に召されました。2014年から血液の癌にかかっていましたがそれは完全に一年前に癒されました。それから非常に活発に活動して、亡くなる前の習慣も5つの集会に参加したり、その孫さんの堅信礼に出席していました。日曜日の礼拝の後でゴルフを楽しんだ中で動脈封鎖で倒れて、水曜日に召されました。手術の前の最後の言葉は「これから天の宴会に出かけます」と。そう言って先に主の元に招かれました。20年間も日本で共に伝道をして来た事もあって、私の心にこの出来事は深く響きました。いつでも主の前に出なければならない準備が出来ているかどうか問われました。葬儀に380名の方々が集まって、主のご臨在を感じて、主に対する感謝で満たされた時でした。
7月15日に家内の幼い時からの友人が家内と同じ年齢(77)で癌で召されました。ターミナルケア―は1か月半かかって、家内は一日おきに病院を訪れて霊的なケアーをしました。私たち自身の召される当番はそれほど遠くはないと思いますから、天国へ出発する準備を進める必要があります。病気の痛みや疲れの中に死の準備は難しいですから、今まだ割と元気な時に備えて行きましょう。
死後に何が起こるか、上のみ言葉ではっきり分かります。実はすべての人がその良心の攻めでそれが分かっていますから、死が怖いのです。清い神様の裁きの座の前にどう立てるでしょうか。汚れた心のままでは恐ろしい場面ですが、私たちの罪の身代わりとして死んで、三日目に蘇ったイエス様が私たちの側に弁明をして下さると安心できます。地上で罪を認めて、イエス様を信じ受け入れると、赦された者として神様の裁きの御座の前で立てます。栄光の主に出会う時は赦された人にとって希望であり、喜びです。主の恵みのゆえに私たちに備えられた素晴らしい住まいを考えて、喜んで期待する事が出来ます。
死の備えとして残される人々との和解も大切ですが、最も大切な事は主イエス・キリスト様との交わりを保つことです。それは主のみ言葉と祈りと礼拝の交わりと聖餐式の恵みで保てます。その準備が出来ていたら、全身で今日と言う日の使命を全うしましょう。私たちの召される日を主ご自身が決めますから、その日までフルで主から頂いた働きを続けましょう。
主の御許では今の人生の悩み、苦しみ、悲しみがないから、早く主の栄光に行きたい気持ちもあれば、他方で愛する人々の為に愛の奉仕を続ける使命もあります。パウロは主のもとへ行くか、地上の使命を続けるべきかと言う板挟みで悩んだ事をピリピ人への手紙の1章で次のように描きます:
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。(ピリピ1:21-25)
キリスト者同士は死別れの時にいつも「又会いましょう」と言う挨拶が出来ます。イエス様はそのからだの復活で私たちに再会を備えて下さいました。ですから今日は主と共に歩みましょう。