牧会者の務め

フィンランド・ルーテル宣教会

2002

 

 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

 

 

            フィンランド・ルーテル宣教会のためのガイドライン

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牧会者の務め

目次

1. 入門

2. 女性牧師制度の短い歴史

3. 務めについての聖書の箇所

4. 教理と実施の関係

5. フィンランド・ルーテル宣教会のガイドライン

5.1. FLMの常議委員会の発言198667

5.2. 女性牧師制度がフィンランド福音ルーテル教会の中に認められた現状を踏まえて、実際的な対応への勧告 1988213

5.3. 教会の女性牧師制度のフィンランド・ルーテル宣教会に反映に関する勧告 1989215

6. 著書

  1. 入門

 私たちの教会は多くの変化や改革の時期を歩んできた。教会の転機の一つは教会の牧会者の務めについての概念に関する。牧会者の務めを女性にも開く事が認められた時に教会の中に幅広い神学的な論議が行われた。その際にそれぞれの立場を詳しく学ぶ事が出来る幾つかの本も出版された。

 

 教会の務めの問題は教理に関する神学的な課題として浮き彫りになった。それは特に聖書と聖書のテキストはどこまで基準として認めるべきかと言う概念に関係する。聖書を学ぶと我々は聖なる神様のみ言葉の前に立っている。私たちの運動の立場をフィンランド・ルーテル宣教会のミッションフレンドにはっきりさせるために、FLMの常議委員会は1986年にこの件に関する見解を発表した。具体的な場面の為にFLMの常議委員会は1989年に別の行為に関するガイドラインを決定した。これらは後で1992年に「牧会者の務めに関する文書」という小冊として発表された。FLMの神学部門は同じ事について新しい形で小冊を発表する事を決めた。以前は発行した小冊がその必要性を十分示したからだ。

 

  以前の文書の内容に続けて、この時代に神様のみ言葉の前に我々の責任を思い起こそうとする。このようなガイドラインは信仰と一致と健全な共同性を守るため、又保つために必要だ。信仰と生き方、真理と愛は最も密接的に互いに関係している事を認識しながら、これらの発言をする。我らの信仰は言葉だけではなく、あらゆる場面で行為としても現れる。

 

2. 女性牧師制度の短い歴史

 フィンランド福音ルーテル教会の中に神学校を卒業した女性向きの務めについて1930年代から論議されてきた。第二世界戦争の後、牧師職を女性にも開くべきだと言う論議が強まった。隣の国スェーデンで女性牧師制度が1958年認められた。教会間の話し合いにこの問題を導入したのは牧会者の務めをぜんぜん持っていないクウェーカーたちだった。  課題の神学的な取り組みの中に、この問題が信仰の土台と結びついていて、その土台からかけ離れて扱えない事が示された。教会はどのように改革すべきかというもっと広い問題と関係している。今実行された決定は何百年の教会歴史の中になかった、新しいものだ。社会やメディアが関心をもって見守ってきた教会の務めに関する議論は、男女平等論の一部としてみなされた事がこの議論に影響を及ぼしてきた。

 

フィンランドにおける牧会者務めに関する論議の主な段階は次の通りだ:

1963        教会総会は女性牧師制度を退けた。同時に女性の神学校卒業生のためにとく特別な「牧教師」(lector)と言う職務が認められた。

1968        教会総会は務めに関する委員会を設置した。その使命は「・・・牧師職を神学的な観点からも、教会の現代的な働きの観点からも研究すべきで、又女性の神学校卒業生が牧師職のそれぞれの働きが出来るように教会法の変更を吟味すべきだ」という事だった。委員会の三番目の使命は「牧教師」(lector)の務めをさらに発展する事を研究すべき事だった。

1976        牧師職は女性に開くのは神学的に可能かという意見調査がフィンランド福音ルーテル教会のすべての地方教会の役員会向きに行われた。教会総会は女性牧師制度を退けた: 66賛成-37反対 (4分の3の絶対多数を得なかったからだ。翻訳者のコメント)同時に教会総会は監督会(ビショップ会)にさらに準備を進める指示を与えた。

1980-1982   イルッコという所で二回にわたってこの問題についてセミナーが開催された:1980415日〜17日と1982114日に。 二番目のセミナーで最終決定を裏付ける意味で中心的な役割を果たした神学的な解釈モデルが提供された。それによると牧会者の務めは神様の定めだが、その務めを遂行する人の性別は時代によって変わり得る愛の「かご」(カテゴリー)に属する。

1984        教会総会は女性牧師制度を退けた。理由付け委員会の提案は73-32票で否決された。

1986        秋の教会総会は87-21票で牧師職を女性に開く事を可決した。同時に教会総会は次の法的に執行力のない意思表明を認めた。

「牧師職を女性に開く事に対して反対の立場を持つ教会の会員と職務を持っている人々にこれからも活動する自由とフィンランド福音ルーテル教会の色々の職務に按手礼を受けて任命される可能性を与えるべきだ。教会のすべての会員と職務者にはこの変化が及ぼす困難を互いの協力をもって、教会の一致を守って克服する責任がある。」

 フィンランド福音ルーテル教会の牧師連合会の中に衝突を避けるための具体的なガイドラインについて交渉が行われて、その結果は牧師連合会の機関紙に1987年の3号に掲載された。

1988        我らの教会で新しい制度による始めての按手礼が行われた。同時に監督職(ビショップ職)をも女性に開くべき提案がされた。

1990        教会総会は女性監督制度を認めた。

 

3.  牧会者の務めに関する聖書箇所

 牧会者の務めに関する議論の中に中心的な問題は、今日まで特別な牧会者の務めを女性から禁じると認められてきた聖書箇所なのだ。

 

このような箇所は特に次ぎだ:

a. 新約聖書の牧会者の務めについての指令 
   1テモテ2:815 1テモテ3:113

b. 新約聖書の語る事に対する禁止 
   1コリント14:3340   1テモテ2:12

c. 創造順序を指し示す聖書の箇所 

      1コリント11:116

d. 主の命令 1コリント14:37

 

a. 新約聖書の牧会者の務めについての指令

1テモテ2:815

新改訳聖書

 

8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、

 

10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。

新共同訳聖書

 

8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

 

9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。

10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。

11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。

13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。

 

14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。

11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。

12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。

13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。

14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。

15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

 

1テモテ3:113

新改訳聖書

 

1 「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、

3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、

新共同訳聖書

 

1 「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」

2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。

 

3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、

4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

 

5 ――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――

6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。

4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。

5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。

7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

 

 

8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、

 

9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。

 

7 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

8 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、

9 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。

10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。

 

11 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

 

12 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。

10 この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。

11 婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

12 奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。

13 というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

 

 パウロの第一テモテへの手紙は教会の牧会者がどのような性質の人であるべきか、又どのような資格をみたすべきかという事について指示を与える。特にリストの中に教える事ができる能力が強調される。この課題についてのテモテへの手紙の箇所の初めの部分は初代教会の中における女性の立場について触れる (:1115) が、その次に本格的に教会の牧会者の資格の分析に進む。(3:113)

 

 初代キリスト教会では牧会者の務めについての課題は未解決のままに残された訳ではなく、指示が与えられた。新約聖書の牧会者の務めはイエス様が選ばれた使徒の務めに基づく。使徒たちの指導で始めての地方教会の牧会者が選ばれた。(テトス1章)テモテへの手紙が書かれた時点でそれぞれの務めの構造はある程度まで固まっていた。同じような進み具合がピリピ人への手紙の中にも見られる。(ピリピ1:1) 教会の牧会者の選び方が特に使徒の働きの20章に描写される。それによると最終的に選びを執行されるのは聖霊様御自身だと言われる(使徒の働き20:28)

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」

 

 復活後に使徒たちに対するイエス様の言葉も同じ事を指し示す。ヨハネの福音書20:2023。牧会者の務めは新約聖書の中にただの組織化の問題だけではなく、三位一体の神様御自身に関する事だ。

 

 パウロの第一テモテへの手紙の指示は教会の牧会者が「ひとりの妻の夫でなければならない」という事です。パウロがこの箇所(2:12)で女性の教職を否定する事は論議を呼んでいる。ある人々はここでグノストシズムの危険性が示唆されていると見ている。グノストシズムは神様を  創造主として認めなかったから、女性の母としての使命、又子供を産む使命を否定的に見ていた。グノストシズムは聖書の初めに、たとえば創世記1:2728に出てくる創造の秩序を神様のよい創造のみ業として認めなかった。創造の秩序とは一つの人間性の中に二つの性の決定的な違い又二元性があると言う意味だ。創造の秩序によって結婚や家庭や子供の誕生が成り立っている。新約聖書の別の箇所に家族は神の家族と呼ばれるキリストの教会の描写として挙げられる。(エペソ2:1921)。 家族と教会は比べ合わされている。パウロは特にエペソ人への手紙の5章の中にキリストと教会と結婚の関連性を挙げる。

 

 牧会者の務めに関する指示はその務めの基礎の一部で、又務めの定めと関係して、使徒の務めと関連して、又パウロが挙げている創造の秩序にも関わっている。早期のキリスト教世界は完全な一致をもって、この箇所に基づいて、教会の牧会責任とそれに関する教える務めは男性のものだと理解してきた。

 

b. 新約聖書の語る事に対する禁止

第一コリント人への手紙14:3340

新改訳聖書

 

33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、

34 教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。

 

35 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。

新共同訳聖書

 

33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、

34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。

35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。

36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

37 自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

 

38 もしそれを認めないなら、その人は認められません。

36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。

 

37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。

38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。

39 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。

 

40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。

39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。

40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。

 

 これらの節の中にパウロは教会の集会の中に女性が「語る」(ギリシャ語でラレイン)事を禁じる。ここの語る(ラレイン)事でパウロは預言する(プロフェテウオ)事と同じ事を意味する訳ではない。なぜなら預言する事を女性に認めるが(1コリント11章)、語ることを禁ずる。語ることは教会の教師として働く意味だ。パウロが使っているギリシャ語の「ラレイン」という言葉は新約聖書の同じような場面で説教する、又教えるという意味だ。同じ動詞は新約聖書の他の箇所にも出る。たとえばマタイ9:18; 10:20; 12:46; ルカ 5:4; 9:11; ヨハネ8:12; 使徒行伝 4:1; 1コリント2:6,7

 

 パウロはこの関連で女性が教会の集会の中で質問する事を禁じる。古代ギリシャ・ローマ時代に質問応答方法は流行っていた。教会の集会の中にも同じような方法が使われたかもしれない。

 

 パウロの指示の理由付けは次の通りだ: 1. 全ての聖徒の教会の秩序  2. 律法が要求する従順 (創造の秩序, 1 テモテ2:1314) 3. 主の命令

 

 最後の事について例外的程強い言葉使いだ。一番目の根拠はこの箇所には地方教会だけではなく、もっと広い範囲の適用があると意味する。このやり方は教会で一般的だった。律法が要求する従順は、男性と女性の違いが創造の時に与えられた本質に基づく創造の秩序を指す。創造の秩序を指す事は男性と女性の違いを認める人間観を意味する。パウロは1テモテ2:1314で同じ事を指す。

 

 この箇所の解釈のポイントはそれがコリントの教会の倫理的な指示として見られるか、それとも全キリスト教会の永久的な命令として見られるかというところだ。後者の意味では箇所は普遍的で、「全ての聖徒の教会」に適用する教会組織における指示だ。牧会者の責任を女性に与える問題に、初代教会から現代の教会まで、異議なく牧会者の責任は男性に属すると理解してきた。この原則に反して女性が按手を受けて牧会者の務めに任命した例が新約聖書のどこの箇所にも見当たらない。

 

c. 創造順序を指し示す聖書の箇所

コリント人への第一手紙11:116

新改訳聖書

 

1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

 

2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

 

3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

新共同訳聖書

 

1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。

 

3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。

4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。

5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。

5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。

6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。

7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

 

8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、

9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。

8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、

 

9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。

 

12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。

10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。

 

11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。

 

12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。

13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

 

14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、

15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。

16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。

13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。

 

14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。

16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

 

 この箇所が1コリント14章と緊張関係にあると見られている。1コリント14章にはパウロは女性が語る事(ラレオ)を禁じるが、今は女性が預言する事(プロフェレウオ)に触れる。新約聖書の中に預言する事は広い意味の概念だ。パウロ自身の言葉を引用すれば「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」"(1コリント14:3)

 明確に初代教会はこのような預言する事と牧会者の務めに属する責任を区別した。

 

 第一コリント人への手紙2章は創造の秩序について語っている。創造の秩序とは神様が創造において人々にお与えになった、変わらない性質または状態を指す。それによると男性と女性は創造によって違っている、しかし価値において平等だ。創造による差は特に家族の中に明らかになる。男性と女性が同じ価値があっても、創造の方面から見る著しい違いを持つ。男性と女性は本質において、アイデンティティーにおいても違うし、部分的に使命においても違う。

 

 パウロは、牧会者の務めが男性に属する事の理由付けに、創造の秩序の問題を関係させる。( 1コリント11:710; 1コリント14:34; 1テモテ2: 1315 )。創造の秩序は神様が定めた本来の秩序だ。キリスト様がそれを撤廃するどころかそれを確定なさる。新約聖書には創造の秩序はケパレ構造だ:「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」1コリント11:3 ; エペソ 5:2223。 この創造の秩序は家族の中にも、神様の家族である教会にも実現すべきだ。

 

d. 主の命令

 パウロは牧会者の務めについて語る時に特別な主の命令を指す。主の命令に訴える事でパウロはこの問題がコリントの教会の判断範囲に任されていない事を思い起こす。主の命令は私たちの救い主の御心が何であるかを表す。

 

4. 教理と実施の関係

  宗教改革の第一原則は聖書を、キリスト教の教理と生活の、唯一の、真正な、誤りのない、適切無比な源泉、また、基準として告白する。キリスト教会の決定は、何よりも神様の聖なるみ言葉を基準に判断しなければならない。牧会者の務めについて聖書には明確な指示があるから、務めの問題は神学的な問題であり、特に聖書神学に関する問題なのだ。だから、先ず聖書が何を教えるか、聴くべきだ。聖書に何も付け加えてはいけないし、何も取り除いてもいけない。聖書のテキストの後ろから、明確なテキストの意味と違う意味を求めるのもとても問題だ。聖書の精神と聖書の文字を切り離す事は出来ない。我々は聖なるみ言葉のテキストと向き合うと神様の啓示による真理と関わっている。

 

 聖書においてもルーテル教会の信仰告白においてもキリスト教会の牧会者の務めと責任は信仰の全体から離れた、又は二次的な問題として見なされていない。牧会者の務めが、宣べ伝えるべき福音のメッセージと福音の基礎と、関係している箇所が新約聖書には多くある。(例えば、 ヨハネ20:1923; 使徒行伝20:28;  エペソ2:1921;  1テモテ4:1216)。私たちの使命は「だだ福音」を宣べ伝える事だけではなく、イエス様がまもらなければならないと命じた一切の事を教えるべき事でもある。(マタイ28:1820) 福音は信仰の全体と関係しいる:三位一体の神様の本質とその創造主としての働き、又贖い主としての働き、又聖め主としての働きと関係している。牧会者の務めといわゆる婦人牧師問題は福音そのもの問題ではなくても、時代によって違う対応が出来る良心の違う内容による選択の自由のきく問題でもないのだ。

 

  教理は一つの全体的なものだから、この点に私たちがどう行動するか、又どう聖書を解釈するかはどうでもよい問題ではない。一つの所で一つの方法で、別の所で別の方法で解釈する事は出来ない。もしこの時代の世論や私たち自身の経験が聖書解釈の方向を占めるようになるなら、私たちは神様の全体的なみ言葉を失って、共通の一つの真理を失う危険に曝される。

 

 真理を相対化しようとするか真理を互いに好き勝手に決めようとするこの時代にこそ、この事が大切だ。これから先に教理的にも倫理的にも難しい問題が待っている。危機的な時代に生きている。その危機の深さは後の時代が評価するだろう。だから、私たちの使命を全うするためには使徒によって与えられた、聖書に基づく明確で統一性のある神学的な基盤の意味と価値を理論的にも実施的にも強調すべきだ。  

 

 キリスト信仰では、教理は順序として先であり、生活と生き方はその結果だ。古い真実によると、もし教理と神学が実践を支配しななければ、実践は自分勝手な教理を作り出す。教師と実施を別々に切り離す事は出来ない。互いに密接に関係している。一つの事を信じて、別の事を実施するのは不可能だ。実際的な選択はいつも私たちの信念の表れであり、信仰の表現であり、だから教える使命の一部でもある。信仰は宣べ伝えられる御言葉からも、さまざまな場面にされた決定からも、明らかになる。だから、具体的な場面に聖書に基づく使徒的なはっきりした証しが出来るのは私たちにとても大事だ。

 

5. フィンランド・ルーテル宣教会のガイドライン

 

5.1. FLMの常議委員会の発言198667

 私たちのフィンランド福音ルーテル教会(国民教会)が近いうちに女性牧師制度を実現しようとするから、教会の中に働いているルーテル系の諸団体も女性牧師制度に対する姿勢を定義しなければならない。フィンランド福音ルーテル宣教会(FLM)のミッションフレンドが私たちの運動の姿勢が何であるか分かるため、FLMの常議委員会は198667日に満場一致で認めた女性牧師問題について次の見解を発表する。

 

1. 神様のみ言葉と宗教改革の「聖書のみ」原則によると聖書は教会の最高の基準だ。

2. 聖書によると男性と女性は神様の御前に同じ価値がある。しかし同じ性質ではない。その使命の部分的な違いは神様の創造とそれに基づく相違による。

3. キリスト教会での霊的な働きは神様の子供である事実と万人祭司制度の基礎の上に建てられる。万人祭司制度によると、神様から頂いた賜物によって全信徒に、自分と他の人々の神様との関係に対する祭司の務めの特権と義務が与えられている。万民祭司の務めにおいて男性と女性の間には何の差もない。

4. 新約聖書の中にキリストはその使徒によって万民祭司制度の他に、又万人祭司制度を実現させるために、特別なみ言葉の奉仕の務め(牧会者の務め)を定められた。

5. 聖書によると、教会の牧会者の務めとそれに属する牧師と教えの務めは、その務めに招かれて、任命された男性のものだ。だからフィンランド・ルーテル宣教会は教会のほぼ2000年間続いた実施にとどまる。だから、女性牧師制度を認めないし、又女性牧師を雇わない。それと同時に私たちと共にキリストの教会に使える用意のある神学的な教育を受けた女性を働き関係に招きたいのだ。

6. もし教会総会が牧会者の務めを女性に開いて、又牧教師(神学校卒業した女性、lector)の務めを廃止するなら、その決定で、教会の中で経験と実力によって進んで、男性の牧師と同じ月給が与えられる、女性のための聖書的な務めを作る事をも、またそのような女性の務めを発展する可能性をも妨げる。

7. もし教会が女性牧師制度を実現させるなら、教会の中に聖書的で伝統的な立場に留まりたい牧師達のために、教会総会が良心の自由を守る決定も認めるべきだ。良心の自由を守る決定によって、伝統的な立場の牧師に、教会の中に他の牧師達と同じ権利を保障すべきだ。

 

5.2. 女性牧師制度がフィンランド福音ルーテル教会の中に認められた現状を踏まえて、実際的な対応への勧告 1988213

 我が教会の新しい現状でキリスト教主義の諸団体の助けに

 

女性牧師制度が認められた現状を踏まえて、実際的な対応への勧告

 

A. 新約聖書の中に牧会者の務めについての描写と指示は我が教会の牧師の務めに関わっている。だから牧師の務めが男性のものである事に十分な根拠があると同時に女性には教会の中に別の多面的な使命がある。牧会者も女性も出来る多くの仕事もある。


B. 牧会者の務めは福音と恵みに使える。だから務めもそれを持つ人も、福音とも務めの任命とも調和しなければならないし、個人的に救い主を信じなければならない。聖礼典の執行の中に教会は見える形で現れる。だから、聖礼典はその定めに相応しく執行し、受け入れなければならない。キリスト者も、地方教会も、また他の霊的な組織も、聖書的な秩序と使徒からの遺産が教会の中に保もたれて、強められるように勤めなければならないし、そのように活動しなければならない。


C. 我が教会の中に神学校を卒業された女性達は価値のある奉仕をしている。牧教師
lectorの務めはそのためによい基盤であり、よい可能性を与えている。だから牧教師lectorの務めは残さなければならないし、またそれを教会の三つの務め(監督、牧師、ディアコニア)の中に育成や教育やカウンセリングを中心としたディアコニアの具体的な務めとして改進しなければならない。牧教師lectorの働きの役割が地方教会や諸団体の中に量的にも質的にも意味のあるレベルで保たれるのは望ましい事だ。


D. 女性が牧師に任命されると現状が変わる。牧教師
lectorの務めは教会から間もなく姿を消す恐れがある。女性牧師を認めない教会の働き人と会員の一部は、その他の教理的所で協調な基盤があったら、礼拝以外の場面で女性牧師と協力する事が出来ても、女性牧師が執行する礼拝や式典に参加しない事になる。


E. 教会の中の諸団体は、管理的にも大部分経済的にも教会から独立かつ自立に活動しても、教会の信条の下で、教会の中に、また多くの場合地方教会と協力しながら活動している。女性牧師制度が実現した事によってこの協力関係が変わり、特にそれを困難にした。これら諸団体と地方教会の間に生まれる問題を和らげるために、女性牧師制度を承認した教会総会が認めた
法的に執行力のない意思表明が実際に実行して欲しいのだ:


「牧師職を女性に開く事に対して反対の立場を持つ教会の会員と職務を持っている人々にこれからも活動する自由とフィンランド福音ルーテル教会の色々の職務に按手礼を受けて任命される可能性を与えるべきだ。教会のすべての会員と職務者にはこの変化が及ぼす困難を互いの協力をもって、教会の一致を守って克服する責任がある。」

 

 女性が牧師任命を受けた後で、書名した諸団体の指導者の我々は、使徒達の遺産に従おうとする方々に、次の実際的な対応を個人的に勧告する。

 

1. 団体は女性牧師を雇わない。団体に雇われている牧教師lectorか他の神学校を卒業した女性は団体の承認がなかったら牧師の任命式を受けてはならない。なぜなら、牧師として団体に雇われていないからだ。


2. 団体の働き人は女性が牧師按手礼を受ける場合、又は按手礼を執り行う時に補助者として女性が参加する場合、牧師按手礼に補助者として参加しない。我が教会に男性だけの按手礼が認めて欲しいのだ。(実際に現在認めていない。)


3. 団体は自分が持っている活動の場では(教会、祈りの家、集会場、学校、キャンプ場、一時的に借りた一般の集会場など)礼拝や式典活動で女性牧師を用いない。


4. 地方教会の礼拝に関して主任牧師が責任を持つ。だから、教会を訪問する諸団体の働き人がどのように礼拝活動に参加するかにも責任がある。だから、諸団体の働き人が地方教会の礼拝に参加する時に前もって互いに認め合える合意をえて欲しいのだ。この点において上記の教会総会の認めた
法的に執行力のない意思表明と全国牧師連盟の勧告を指す。


5. もし尋ねられるなら、我々は諸団体かつその地方団体のメンバーにも協力者にもこれらの一般原則を個人としても適用する事を勧告する。


6. 牧教師
lectorの務めが保たれるためにも改進するためにも働く決意をする。


Leevi Niemistö & Alpo J. Ahola & Unto Virtanen

Leevi Merikallio

Folke Helenius

Mauno Vuollo

Matti Väisänen & Heimo Karhapää

Reijo Arkkila & Aimo Kymäläinen

Raimo Mäkelä

Erkki Heino & Juhani Forma

Elis Ahonen & Eljas Waltari

 

5.3. 教会の女性牧師制度のフィンランド・ルーテル宣教会に反映に関する勧告 1989215


1. フィンランド・ルーテル宣教会の常議員会の基本姿勢

 フィンランド・ルーテル宣教会の常議員会は198667日に満場一で認めた発言では女性牧師制度を認めない事を明らかにした。その中に「フィンランド・ルーテル宣教会は女性牧師制度を認めないし、又女性牧師を雇わない」と発表された。

 

2. フィンランド・ルーテル宣教会の常議員会の一般勧告

 上記の発表の他にフィンランド・ルーテル宣教会の常議員会は1988213日に満場一で「女性牧師制度がフィンランド福音ルーテル教会の中に認められた現状を踏まえて、実際的な対応への勧告」と言う文書を自分の勧告として認めた。その中に次のような事が記されている:

 

2.1. 団体は女性牧師を雇わない。団体に雇われている牧教師か他の神学校を卒業した女性は団体の承認がなかったら牧師の任命式を受けてはならない。なぜなら、牧師として団体に雇われていないからだ。


2.2. 団体の働き人は女性が牧師按手礼を受ける場合、又は按手礼を執り行う時に補助者として女性が参加する場合、牧師按手礼に補助者として参加しない。我が教会に男性だけの按手礼が認めて欲しいのだ。(実際に現在認めていない。)


2.3. 団体は自分が持っている活動の場では(教会、祈りの家、集会場、学校、キャンプ場、一時的に借りた一般の集会場など)礼拝や式典活動で女性牧師を用いない。


2.4. 地方教会の礼拝に関して主任牧師が責任を持つ。だから、教会を訪問する諸団体の働き人がどのように礼拝活動に参加するかにも責任がある。だから、諸団体の働き人が地方教会の礼拝に参加する時に前もって互いに認め合える合意をえて欲しいのだ。この点において上記の教会総会の認めた
法的に執行力のない意思表明と全国牧師連盟の勧告を指す。


2.5. もし尋ねられるなら、我々は諸団体かつその地方団体のメンバーにも協力者にもこれらの一般原則を個人としても適用する事を勧告する。


2.6. 牧教師
lectorの務めが保たれるためにも改進するためにも働く決意をする。

 

 上記に勧告が与えられた場面以外にも女性牧師問題を直面する。だからこの問題をもう一度原則としても実施問題としても考えなければならない。

 

3.聖書的な理由付け


 救い主イエス・キリストを信じる全ての信者はキリストの「王である祭司」(1ペレロ2:9)に属しているし、神様の救いのみ業を宣べ伝える招きを受けている。だから全ての信仰者、男性も女性も、この「王である祭司」の中に入る。キリストの教会の中に男性にも女性にもたくさんの使命と働きがある。

 

 神様はそのみ言葉の中に同時に特別な教会の牧師(ギリシャ語でポイメン)つまり教師(ディダスコロス)(エペソ4:11)つまり牧会者(オピスコポス)つまり長老(プレスビテロス)(1テモテ3:1、テトス1:57)の奉仕すなわち務めを定められた。その務めはその為に十分な賜物を持って、召命されて、任命された男性だけのものだ。教会の牧会者あるいは長老は同じ地方教会に数人(使徒20:171テモテ4:14,5:17、テトス1:5など)いて、彼らの一番大切な使命は教会の霊的な指導である。すなわち「みことばと教えのためにほねおっている」(1テモテ5:17)事だ。上記はパウロの教会秩序に関する指示から明らかだ。この小冊の初めの方に載っている次の新約聖書の箇所を参照にして下さい:1コリント11:26、ガラテヤ3:28、ローマ16:71テモテ2:11151コリント14:3338

 

4. 聖書的な理由付けと福音ルーテル教会の牧師の務めの関係


  聖書が描写する牧会者(ギリシャ語でポイメン、ラテン語でパストル)つまり長老(ギリシャ語でプレスビテロス、英語でpriest)の奉仕と務めはフィンランド福音ルーテル教会の牧師の務めより広いものとして理解すべきだ。しかしフィンランド福音ルーテル教会の牧師の務めも聖書が描写する牧会者の務めに属す。それは聖書が描写する牧会者の務めの中に入る。フィンランド福音ルーテル教会の牧師の使命もみ言葉によって教会を指導し、牧会し、又見えるみ言葉すなわち聖礼典の執行の責任を負う事だ。アウグスブルグ信条はこの務めについて「説教の務め」(ドイツ語でPredigtamt)と言って、それを「福音を教える、又礼典執行の務め」として定義する(アウグスブルグ信条5条)。だから牧師の務めにそれに相応しい男性だけを選ばなければならない。

 

5. 聖書的な理由付けとフィンランド・ルーテル宣教会の諸務めの関係


 聖書が描写する牧会者の務めはフィンランド福音ルーテル教会の牧師の務めより広いものとして理解すべきだから、聖書的な理由付けはフィンランド・ルーテル宣教会の諸務めとも関係している。神様の教会は本質的に「聖徒の交わり」(ラテン語でcongregatio sanctorum)すなわち「信仰者の共同体」(ドイツ語でVersamlung aller Gläubigen)である(アウグスブルグ信条7条)。だから、例えばフィンランド・ルーテル宣教会の地域主事の奉仕つまり務めも聖書が描写する牧会者の務めの中に入る。同じようにフィンランド・ルーテル宣教会が主催する集会も地方教会内の霊的な活動の中に入る。

 

 フィンランド・ルーテル宣教会はフィンランド福音ルーテル教会の一部だ。聖書のみ言葉と矛盾しないかぎり、我らは教会法と教会秩序に従う。フィンランド福音ルーテル教会の総会は1987年の秋に牧師職を女性にも開く事を可決した。もしこの決定は厳しく教会法の変更の文字に従って実施するならば、それで事実上教会のほぼ2000年の理解と実施が我が教会の中で間違った、禁じられたものとして宣言される事になる。

 

 フィンランド福音ルーテル教会が女性牧師制度で聖書的な教会秩序を捨てたからこそ、フィンランド・ルーテル宣教会の中に牧会者の務めを明確に保たなければならない。だからフィンランド・ルーテル宣教会は教会と地方教会の中に保たれている聖書的で、ルーテル教会の信条に従う牧会者の務めの実施を支援したい。こうして我々は使徒的な教会秩序にとどまる証しを立てる。「あなたがたは、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:1920

 

6. 牧師按手礼を受けた女性に対する態度


 聖書によると福音ルーテル教会の牧会者の務めはそれに相応しくて、召命されて、任命された男性だけのものだ。だから、我々は牧師按手礼を受けた女性を教会の牧師すなわち牧会者として認めない。

 

 一方では牧師按手礼は女性を牧会者にする事も出来ない。しかしその反面には按手礼はキリストを信じる信仰を持つ彼女から万人祭司としての祭司職を奪う事も出来ない。牧会者の務めに関わる問題で彼女が間違っていても、もしイエス・キリストをその救い主として信じているなら、主にあって姉妹だ。

 

  この両面を視野に入れながら、女性牧師に対する態度を考えるべきだ。それは、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:15

 

7. 女性牧師と協力する事に対する態度

 

7.1. 礼拝

 新約聖書によると牧会者の務めにだけ属する働きを女性牧師がする時に、女性牧師と協力しない事を勧告する。なぜかと言うとそのように我々が使徒的な教会秩序にとどまる証しを立てるからだ。具体的に言えば、1)我々は女性牧師が説教する時に、すなわち神様のみ言葉によって教会を牧会する時に、2)あるいは礼拝の司会者として勤める時に礼拝協力はしない。又たとえ女性牧師がディアコニアの務めをもつ者としても、万人祭司としても、聖餐補助として奉仕することが出来ても、女性牧師が聖餐補助として奉仕する事に対して否定的な態度をとる。なぜなら、牧会者の務めのしるしを持ちながら、その場面で言葉がなくても使徒的な教会秩序と矛盾する事を伝えるからだ。3)だから、女性牧師が聖餐補助として奉仕する時にも協力しない事を勧告する。ただし牧教師lectorが聖餐補助として奉仕するには何の神学的な差し支えもないと見ておる。

 

7.2. 教会の式典

 FLMは宣教師按手礼に女性牧師を使わない。又宣教師送別の祝福式にも使わない事を勧告する。女性牧師が洗礼式や結婚式や葬式を執り行うときにはFLMの働き人として協力問題に直面しない。なぜかと言うと執行するのは普通に一人しかいないからだ。この点において「新しい現状の中の使徒的な道」と言う文書(ヘルシンキ1988112日)を参照にする。その中にこう書いてある:

「使徒の信仰に基づく教会生活と秩序に従うキリスト者は、恵みの手段である御言葉と聖礼典がキリストの定めによって執行される礼拝や教会の式典を探し求める。」

 

7.3 その他の場面

 我々は全体教会レベルでも地方教会レベルでも牧師按手礼を受けた女性と働きに関する話し合いや色々の組織化などのような働きでは協力出来る。キリストを信じる信仰を持つ女性から牧師按手礼は万人祭司としての祭司職を奪わないから、FLMと地方教会の共催の集会において女性牧師は地方教会の代表者として話をする事も他のプログラムを執り行う事も認める。ただし、FLMだけの主催の集会には、すなわちFLMだけがプログラム責任が持つ集会には、女性牧師を使わない。なぜなら、FLMは女性牧師制度が聖書的ではないと見ているから、女性が牧師按手礼を受けるのはFLMの立場に反する神学的な立場表明であるからだ。

 

7.4. フィンランド・ルーテル宣教会の管理、諸委員会、常議員会など

 FLMは牧会者の務め問題にFLMの公式立場と矛盾するから、女性牧師を管理や諸委員会などには用いない。

 

8. FLMの働き人の良心の自由


 一般会員は言うまでもないが、FLMの働き人の中にも、女性牧師達との協力に上記に示された方針と違った態度をとっている人もいる。だから、皆それぞれには協力に関する問題では神様の御言葉と良心の前で正しいと思われる方法で行動する権利があると言っておく。と同時に原則的な理由と実際的な理由でやり方が出来るだけ一貫したものであってほしい。一貫した線で具体的な場面でいやな混乱や混迷を避けることが出来る。

 

9. これから先に

 

 我が教会は聖書によってではなく聖書から離れて改革する事で大きな原則を捨てたのだ。福音の自由は律法の奴隷状態や人間的な規律からの素晴らしい自由であるが、信仰がつかんでいる神様の御言葉からの自由ではないのだ。聖書の文字から離れる宗教心は最終的にキリストからも離れてしまう。

 

 我らは神様の御言葉を信じるキリスト者として使徒的な教会秩序にとどまる証しを具体的にも立てたい。と同時に我々フィンランド・ルーテル宣教会は牧教師lectorの務めを支えて、改進して、用いようとする。又信仰の女性達を神様が招いて下さった務めや奉仕や教会責任に励ましたいのだ。

 

 女性牧師制度が聖書的でなくて、我が教会のそれに関する決定が間違いであると見ているから、女性牧師の務めを教えてはいけないし、弁明してもいけない。しかし、按手礼を受けた教会の女性である働き人との協力問題においてフィンランド・ルーテル宣教会の内に多くの違うやり方があり得る。

 

 この発生した新しい教会の現状の中に我々は、自分の方から前もって、やり方について相談して、対立を避けたいのだ。出来るだけ一貫した線を求めて、又無駄な衝突から守られるためにFLMの地方組織が分からない場合に全国組織と一々交渉すべきだ。我々フィンランド・ルーテル宣教会は違う立場をとる人々との接触の中に配慮のある愛の態度をもって言動しようとするが、聖書的な立場とは妥協しない。

 

 最後に:すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる神様が私たちの本質的な使命に、すなわち魂を永遠の救いに導く為の福音伝道に、力を下さるように。(2ペテロ3:9

 

備考:

 フィンランド・ルーテル宣教会の常議員会はスタッフに姉妹諸団体と一緒に教会の牧教師lectorの務めが改革されて改進するための提案を準備する指示をした。

 

 6. 著書


Granhagen, Egil

1991                   Kvinners tjeneste i den troende forsamling. En utredning for NLMs hovedstyre av Egil Grandha­gen Godkjent av hovedstyret i m(o)te 15.2.91.

Frökjär-Jensen, Flemming

1985                   Positivt nej til kvinnliga präster. Kyrkila Fösbundets Bokförlag.

Hauke, Manfred

1991                   Die Problematik um das Frauenpriestertum vor dem Hintergrund der Schöpfung- und Erlösungsordnung. Paderborn.

Kelter, Gert

                            Soll Frauen das Amt der Kirche übertragen werden? Lutherischen Buchhandlung.

          

Imberg, Rune

1999                  Tillsammans - Gud till ära och människor till tjänst. Om man och kvinna i den kristna kyrkan. Örkelljunga: BV-förlaget.

Slenczka, Reinhard

1992                  Die Ordination von Frauen zum Amt der Kir­che. -Diakrisis 1/14-24. Tanskaksi: Ordination af kvin­der til kirkens embede. Den­mark 1992.

1994                  Amt-Ehe-Frau. Verlag der Lutherischen Buchhandlung Heirich Harms.

Women and the ministry

1985                  Women and the ministry. A Study on women and the office of the public ministry. Australia: Lutheran Church of Australia.

Women in the Church

1985                  Women in the Church. Scriptural principles and the ecclesial practise. A Report of the Commission on Theology and Church relations of the Lutheran Church Missouri Synod. U.S.A.

Lockwood, Greg

 The Women's Ordination Debate in the Lutheran Church of Australia

                       http://www.confessionallutherans.org/papers/lockwood.html